第6話  Over the Rainbow

音沢 おと

第6話  Over the Rainbow

                               音沢 おと 


 

 母が亡くなったのは、八月の終わりだった。


 入道雲が空に広がり、夕立ちが降り出した。熱くなっていたアスファルトが雨のしずくで、もあっと匂い立っていた。

 綾乃はテニス部の帰りに、雨宿りと称し、舞とシェーキを飲んでいた。

「部活、もうすぐ引退じゃん。なんかさ、中三になって、やっと一番上なのにさ、悔しくない?」

「だよねー」

 舞の言葉に、綾乃は頷きながら、シェーキを吸った。

 ずずずと音がした。

「綾乃、うるさーい」

 舞は笑う。

 綾乃も、あはっと笑ってみせる。

 こういう音、母は嫌いだった。

 きちんと、正しく、上品に。

 母はいつもそうあるべきだと守っていた。

 まるで「清く正しく美しく」の宝塚のみたいだ。母の名前は清美だし。もっとも、母は宝塚の舞台を観たこともない。

 あの人には、楽しみとか余裕とかない。中学三年の綾乃にも分かるのだ。

 大学病院の医師である父はとても忙しい。診療以外に、ややこしい力関係や派閥みたいなものがあるらしい。深夜勤務もあるし、帰ってきても、疲れ切っている。

 母は一人娘の綾乃のことや、最近体の弱ってきた、父の父母の面倒などで手一杯だった。祖父母も、近くに住む母を頼り切っている。

 だけどさ。もう少し、ゆるーく生きればいいのに。

 馬鹿みたい。

 綾乃は思う。

 朝、そんなことを言って、喧嘩になった。

 ずずず。

 綾乃は、もう一度、音を立てた。ほんの少し、口の中にシェーキの残りが入ってきた。


 その日の夕方、家に帰ると母はいなかった。いつも、必ず家にいるのに、電気はついておらず、夕飯の支度の匂いもしなかった。

 スマホが鳴った。珍しく父からの電話だった。

「病院にきてくれ。すぐに」

 理由は告げられなかった。

 病院に行くと、母が死んでいた。霊安室、という簡素な小部屋のベッドの上にいた。

「事故だったんだ」

 父が呟いた。

 買い物の帰りに、自分で運転していて、電柱に激突した。即死だったらしい。

 綾乃は、父の一歩後ろから、母の遺体を見ていた。

 眠っているみたいだった。

 朝、母に投げかけた「馬鹿みたい」が、最後の言葉だったんだ。

 そう思いついた。


 葬儀の後、父の姉の陽子伯母さんがこっそり、祖父母と話していた。

「清美さん、シートベルト、していなかったんだって」

 どういう意味だろう。

 控室の扉の陰になって、綾乃がいることに気づかない伯母さんは、さらに付け加えた。

「まさか、自殺?」


「綾乃ー、秋の試合、最後だなんて、早くない?」

 舞が、部活の帰り道に言った。コンビニで買ったばかりのアイスを舐める。

 二人は、同じ高校に進み、また同じようにテニス部で過ごした。

「あー、高校は部活、二年が最後だなんて、やだよー。進学校だなんて、もうこの先、受験勉強ばっかりじゃん」

 綾乃も同じように、アイスを食べる。

 勉強なんて面倒だ。

 それに、帰ったらすぐに夕飯、作らなきゃ。風呂場も朝、洗いそびれちゃったし、やんなきゃ。そういえば、祖母が足をひねったとか言ってたし。ヨーグルト、買いに行って、と頼まれてたっけ。祖父の注文は、好きな雑誌だった。なんだっけ、山の雑誌。行きもしないのに、昔、山が好きだったからか、今でも記事を読みたがる。

 ほんと、面倒だ。

 だけど。

 綾乃はアイスにかぶりつく。食べきる。冷たい。ああ、冷たい。歯がきーん、とする。

「綾乃、一口、でかっ」

 舞が笑う。

 綾乃も笑う。だけど、冷たくて、顔が強張る。でも、これ、アイスのせい?

「あ、やだっ。雨」

 舞が言い終わらないうちに、大粒の雨が降り落ちる。

「うわっ」

 綾乃と舞が走り出す。

 雨のしずくが音を立てて、道路を打ち付ける。

 慌てて、二人で、近くの店先に逃げ込む。

 雨で道路が霞む。

 もあっとする。アスファルトの匂いが立ち上る。

 ……夏の、この匂い。

 母さん!

 綾乃は、二年前のあの日を思い出す。

 あの日も、夕立が降った。家に戻ると母さんはいなかった。死んだのだ。シートベルトを外して運転して、電柱に激突して。きちんと、正しく、上品に生きてきた母が死んだ。

 もちろん、アルコールも検出されなかった。

 どう自分の中で消化して、昇華させていいか、分からないまま、時が過ぎた。

 忙しさだけで、毎日、余裕なんてなくて。もっとゆるく生きたいのに。

 ゆるく生きればいいのに。そう私が怒鳴りつけた母は、いない。

 雨が、顔を濡らす。夏の雨は温かい。なんだか、しょっぱい。

「……綾乃、どうしたの?」

 舞が顔を覗き込んでいる。

「うわっ」

 綾乃が驚いて、顔を引く。

「ごめん、何度呼んでも、聞こえないんだもん」

 雨が降り続けている。道路はあっという間に、水浸しだった。

「あ、そうなんだ」

 綾乃は言い、顔を拭う。

 泣いていたんだ。

 そう気づいたとき、綾乃は声を上げた。嗚咽した。

「ど、どうした?」

 舞が肩に手を掛ける。綾乃は、うんうんと何度も頷きながら、泣いた。

 声をかき消してくれる雨が止むまで、綾乃は泣き続けた。二年分。


 雨が上がった。

 黒く分厚い雲は、遠くへと去っていき、空が明るくなる。

「ねえ、綾乃、綺麗だよ」

 舞の声に、綾乃は顔を上げる。

 町の向こうに、ずっと向こうに、虹が掛かっていた。

「綾乃、あの虹、二重じゃない?」

「あ、ほんとだ」

 濃い虹の下に、薄い虹がある。七色プラス七色。グラデーションが淡く、幻のように映る。

 舞は、声を弾ませて言った。

「ラッキー。幼稚園のころに読んだ絵本でさ、こんなのあった。濃い虹、薄い虹の順に二重の虹って、天国とつながっているんだって。そのとき、虹を渡って、亡くなった誰かが会いに来てくれるってさ。大切な人を見守りに」

「なにそれ」

 綾乃は、くすりと笑う。

「私、めっちゃ、おばあちゃん子だったし。そんな虹が出たら、おばあちゃんが守ってくれてるって、思ってた」

 舞は照れ臭く笑う。遠くに掛かる虹を見つめる。

「ふうん」

 綾乃も虹を見つめる。

 大切な人を見守りに。

 母がどういう理由で亡くなったかは、本当のところは分からない。

 だけど。

 多分、私が悲しみ続けるのは喜ばない。後悔し続けるのは、喜ばない。そう、きっと。

 舞は、「まだ虹、出ているねー」と声を上げる。

 そう。舞は、ずっと私の側にいた。

 あの日だって。

「ありがとう、舞」

 綾乃の言葉に、「え、何?」と舞が振り返った。

                                                                         了

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第6話  Over the Rainbow 音沢 おと @otosawa7

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