Vision of Future

 小さな頃、目の前を影がよぎった。

 誰かが死ぬんだ、と俺は母親に言った。何の根拠もないけど、そんな気がしたのだ。

 母親は眉をひそめて、そんな不吉なこと言っちゃいけません、と言った。

 その晩、電話が親戚の一人の死を告げた。

 そして俺は口を閉じた。



 その夏のイヴェントは「奥地」だった。

 俺達の前に出たバンドが「ワンダー**!」と叫んだのも最もだと思う。交通機関から見放されたような所である。終電ならぬ「終バス」がトリまで見られるかどうかの生命線らしい。

一体誰が最初に企画したのか、と思わずにはいられない。


「どう考えてもこの顔ぶれと炎天下って似合わないと思うが……」


 主催のラジオ局の人がぽつんとつぶやくのが聞こえた。

 まあ一年前だったらそうだろうな、と俺は思う。出てくる4バンド、どこもかしこも一応化粧系というかっこにはくくられるが、中味ときたら「もと」化粧系だったり「薄」化粧系だったり、あげくの果ては「にせ」化粧系までいる。さすがにその話を知り合いのライターから聞いた時は爆笑した。

 だが出身が出身ゆえ、さすがに皆暑さには弱いようで、日陰へ日陰へ、エアコンのある方へ、とひまわりの反対に顔を向けてしまうのは仕方あるまい。何と言っても今年の暑さは半端じゃなかった。35℃を越す日はざらだったし、実際この日もそうだった。

 とは言えうちのバンドのメンバーは元気だった。

 前日のリハーサルの隙間を縫って、プールではしゃぐ奴もいたし、のんびりと青い空を眺めながら転がってる奴もいた。

そして俺はと言えば、床にべたりと座り込んで、延々ドラムと付き合っていた。


「***元気だなー……」


 のんびりした口調でメンバーの一人が言う。今は長くまっすぐにしている髪を後ろで無造作に結び、大きめのサングラスを掛けている。

 出会った頃はソバージュで試行錯誤していたと思う。

 よっこいしょ、と声を立てて彼は座り込む。


「掛け声掛けて動くってのは老化の証明だってさ」

「どーせ俺はバンドのおじーちゃんですよー」


 形の良い眉をややコミカルに動かしてみせる。


「結構手こずってるん?」

「んー…… そういう訳じゃねーけど…… 野外だからちょっと余計に構ってやらねーといい鳴りしねーからなあ」

「広いよね」


 彼につられて俺はふっと空を見上げる。青い。


「よくさあ、大阪から東京へ移動する時の途中にこういう色の空が多いよな」

「へえ」

「高くてさあ。京都から名古屋に向かう…滋賀とか岐阜とか、あのあたり」

「新幹線じゃあなあ」

「昔はよく鈍行にも乗ったよ。夏とか安い切符買ってさ、適当に乗り継いでくんだ」

「あれ、あんたもやったの?」


 ああ、そういえばと俺は思い返す。こいつにも放浪癖あったっけ。


「やったやった。で最終逃すと、深夜の鈍行って東海道本線じゃ一本しかないからさ、すげえ眠いの我慢してじーっと待ってるの」

「あー判る判る。でも俺はどっちかというとその辺の連中とわいわいやってたくちかな」

「へー?」


 それにしても暑いね、と彼は言う。うん、と俺はうなづく。


「大気が重さを持ってるみたいだ」

「確かに重い」


 じゃん、と彼は薄オレンジと薄紫の裏表のうちわを取り出す。扇いであげよう、と俺にぱたぱたと風を送った。


「それいーなあ。一本置いてってくれ」

「やーだ。これは俺の」

「ケチ」

「その代わりこれをあげよう」


 何処に隠していたのやら。彼はじゃん、と再び同じうちわを取り出した。この夏の「営業」の際配りまくったものである。


「あんたの背中はドラえもんのポケットかよ」

「あれ、知らなかったの?」


 彼はげらげら、と笑った。



 思いきり張ったヘッドを叩いた時の音が好きだ。

 最初からその感じは変わらない。

 きっかけはもう忘れたが、その時の「その感じ」は今でも覚えている。

 友達と一緒だった。そこへあの「影」が通ったのだ。友達にはそれが見えない。

判ってはいた。

 子供の頃、最初に母親に告げた時からたびたびそれは俺の目の前に現れ、そしてそのたび誰かが死んだ。

 十くらいの時からぷっつり見えなくなった。そういうものだろう、と俺は思った。実際その頃周囲で病気やけがをする人も、老いて亡くなるような歳の人も少なくなっていた。

 だから、忘れかけていたのだ。

 それがその時「居た」。それもそれまでの何よりも鮮明に。

 影というより、それは別の次元の生き物のように俺には見えた。それがじわじわと近付いて来て、友達の手にまとわりつこうとするのも。

 俺は友達のもう片方の手をそのたびに取ってはその影から引き離そうとした。友達は何だよ暑苦しい、と言いながらも一応その影のいる場所から離れてくれた。

 だがその時の影はしつこかった。

 子供の頃見えていたそれは、もっとふわふわして、大気に流れてしまうようなものだったと記憶している。見えはするけれど、やがて消えゆくものではあった。

 だがその時のそれは、消える様子はなかった。そしていきなり膨れ上がった。

 俺は反射的にスティックを握りしめ、スネアドラムに思いきり叩き付けた。

 乾いた音が防音された窓の無い部屋中に響いた。


 ―――何だよ***、いきなり、驚いたじゃんか。


 友達は肩をすくめた。

 そして影の姿はそこには無かった。

 次に影が現れたのは、今のメンバーと知り合う少し前だった。

 その頃俺はほとんどスタジオミュージシャンよろしく、乞われるままに色々なバンドのサポートでドラムを叩いていた。

 それこそ何でもあり、だった。ハードロックからスラッシュ、勢い一発パンク、といったものからサンバやレゲエ、果てはジャズやフュージョン、テクニック手数王、と言ったものまで千差万別何てせもござれ、である。

 実際そういう生活は楽しかった。どんな音楽でも俺はそう好き嫌いはなく聞けたし、何よりもひっきりなしにドラムを叩いて居られたのだから。

 ドラムを叩いている時には絶対にあの影は現れなかった。

 ドラムの何が「それ」と折り合いが悪いのか、それは俺にも判らない。だがそれは確実だった。


 だから、その瞬間は油断していたに違いない。


 あるバンドがドラマーを捜している、と知り合いが話を持ってきた。もうじき今やっているドラマーが抜けるから、その後に、と。

 それはパーマネントなメンバーか、と俺は訊ねた。

 知り合いはそうだ、と答えた。

 すぐには答えられない、と俺は答えた。バンドをやるのは悪くないが、いろいろな事ができる現在の状況もそう悪いものではなかったからだ。それに話のあったバンドの本拠地は関西だった。根っからの関東人の俺としてはなかなかためらわれるものがある。


「ともかく一度見てみればいい」


 知り合いはそう言った。

 全国各地の先生も走る十二月。大阪のライヴハウスでそのバンドはライヴをやるという。現在のドラマーの最後のステージだと言う。

 わざわざ、そこまで出かけていったのには訳がある。

 オムニバスに入っていた曲は一応聞いた。変わった曲だと思った。掴み所がない音だと思った。表面上明るいのに、どうも何処かで不安が混じっている。それが何処から来るのか、その頃の俺には気付けなかった。

 だがその不安が何かに似ている気がしたんで、そのバンドの方にも内緒で、俺はその音を聴きたくなったのだ。

 結構待っている客が大人しい、と入った時思った。まあこういうものもあるだろう、と後ろの方でぼーっと始まるのを待っていた。

 やがて登場のSEが鳴って、客が騒ぎだす。

 ぱ、とライトが点く。


 え?


 俺は目を疑った。

 影が、ステージに覆い被さろうとしていた。それまでで一番大きな奴だった。

 それまで俺が見てきたのは、一番大きかったのでも、せいぜい人間の身体くらいなものだ。なのにこの時俺の目に映ったものは、ステージの上半分をまるで幕のように覆っていた。

 これは一体どういうことだ。

 一人一人メンバーが入ってくる。立てた髪がはまる奴とはまらない奴。特徴のある髪の奴。適当に結い上げただけ、というような奴。

 彼らは「影」の間をすり抜けて定位置についた。

 確かアレはドラムの音で消える筈だ。俺はそれを期待した。

 スフィンクスのような頭のドラマーがスティックを振り上げる。始まりを告げるハイハットの音。

 ……

 何故だ、と俺はつぶやいた。

 何故消えないんだ。

 うねうねとメロディアスなベースの音が空間に環を作る。割に背の高いギタリストがリズムを奏でる。

 俺はいつのまにか前の客のかたまりの中へ突っ込んでいた。揺れる。揺らされる。バスドラムの音。だが影は消えない。

 ゆっくりと小柄なヴォーカリストがマイクを手にする。日本人離れした端正な顔立ちの彼は、やや遠目では少女のようにも見える。緩やかな服をまとい、ゆったりと手を動かす。

 駄目だ。

 影がヴォーカリストに掛かろうとした。

 ……

 俺はえ、と耳を疑った。

 その声は、そのヴォーカリストから出ている。それを認識するのに意外なほど時間がかかった。

 いろいろなミュージシャンを、いろいろなヴォーカリストを見てきたけれど、これほど外見と声が一致しない奴は始めてだった。違和感が身体に走る。そしてその違和感が消える頃、俺はやっと彼の視線に気がついた。

 彼は影を見据えていた。



「それにしてもよくこんな暑い所でできるねー」

「んー?別に暑いのは好きじゃねーけどさ」


 差し入れ、と向こうからやってきたスタッフから缶コーラを受けとる。どれだけ急いで持ってきたとしても、瞬く間にそれは汗をかく。一気に飲む。すると汗が一気に吹き出す。


「気が知れない」

「俺だってあんたの気はそう知れたもんじゃないわ」

「へえ」


 くすくすと笑う。そういう所が知れないんだ、とはあえて言わない。だが彼は続けた。


「でも***は俺と絶対似てる部分あるんだよ?」

「何で」

「だってあれが見えるやん」

「あんたあれが何なのか知ってるのかよ?」

「別に。知ってるといや知ってるし違うといや違う」


 彼は口ごもる。


「でもあいまいなもんだし」


 あいまいねえ、と俺はつぶやく。


「今でも見える?」


 不意に訊ねる。え、と俺は問い返した。


「何」

「アレさあ」

「あんたは?」

「ちょっと前にひどくなかった?」

「まーね」


 ライヴハウス・ツアー。ひどく楽しくてひどく身体は疲れたこの春夏。だが頭の中はこれまでにないほどに切れていた。

 私生活で悪いことが無かったとは言い切れない。それに加えて移動移動の毎日と、毎日の歩きまくりと身体使いまくりのライヴ。私生活で思いだしたくない部分を思い出さないようにしていたのかもしれない。その時の俺に聞かない限り判らないが、とりあえず映画館は開店休業状態だった。

 「あれ」はその隙をついて出てきた。


「それで車別にしてた?」

「まあ原因の一つだよな」

「でも無駄だったかもな」

「だな」


 こいつにも見えてたのなら。

 喋ったせいか、頭を使ったせいか、喉の乾きを覚えて、俺はふと缶を取り上げる。勢い余ってアルミの赤い缶はぺこ、とへこむ。


「……げ、空……」

「さっき一気に飲んだやん」

「そーだった」


 くすくす、と笑って彼は缶を自分の頬に付ける。そしてまだ冷たいな、とつぶやくと一口含んだ。

 と。


 じゃあまた、と彼は立ち上がる。


「クーラーボックス詰めを注文しとくわ」


 ああ、と俺は答えた。

 ひどく冷たい舌だった。

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