デキる男はいつだって

海老原ジャコ

第1話 小便

 デキる男はいつだってデキるのだ。


 「課長、頼まれていた書類まとめておきました!」

 「ああ、目を通しておく」

 「課長、くだんの件で話が挙がった先方のアポイント取れました!」

 「ああ、ありがとう。対応しておく」


 ひとしきり用事が済むと部下たちは席につき仕事に戻る。

 タイピング音とコピー機の音だけがこの空間に鳴り続ける。静寂な空間。だが静かながらもそこには仕事に対する情熱がある。


 俺も素早く書類に目を通し、先方に電話をかけてこの先の話を進める。

 ある程度仕事に区切りがついたところで椅子の背に身を預ける。

 デスクのコーヒーを一口加え、


 「少し席を外す」


 「わかりました! コーヒー継ぎ足しておきますね!」、「こっちは課長の分も僕たちが頑張ります!」など部下たちの情熱を背に受けながらも俺は鷹揚に返事を返す。


 「やっぱり課長ってデキる男だよね~」

 「うん、なんか余裕ある態度が男らしいし、部下思いだしほんと課長が上司で良かったぁ」


 女性社員が囁く黄色い声が聞こえてくる。

 あくまでも俺は課長だ。こんなことに動じるようではこいつらの上司失格だ。

 俺は少し足早にオフィスをあとにした。



 「いやぁぁ! やっぱ俺デキる男だわ! 部下の女性社員にモテちゃうとかほっんと辛いわー!」


 誰もいないトイレに俺の声が響き渡る。

 部下たちがデスクを訪ねてきたあたりからもうトイレに行きたくてしょうがなかったのだ。

 だがそこで「やばいトイレトイレ、漏れるぅ」なんて言うわけにはいかない。

 なぜなら俺はデキる男だから。

 ごほん、と咳払いをする。


 「さて、用を足したら早く戻らないとな」


 チャックを下ろし我が息子がその中から現れる。

 俺は天井を仰ぎ、やがて我慢していた後特有の快感と共に渓流のせせらぎのような音が聞こえてくる。


 「ふぁぁぁぁ、俺はこのために生きているのかもしれない……」


 その時股間部に違和感を感じた。もっというと渓流の源泉だ。

 違和感を感じ取った時には既に遅し。


 「なんだ? ――って、おい! やめ、暴れるんじゃない! 暴れるのは夜だけでいいんだよ!」


 十年くらいご無沙汰な息子にそう語りかけるが、今は俺の性事情なんてどうでもいい。


 「うわ、マジかよ……」


 ライトグレーのスラックスには無秩序についたシミ。

 小便あるある、何の前触れもなく息子が暴れ小便が飛び散る。

 まさか気分を変えようとライトグレーのスーツを選んだ今日に限ってこんなことになるとは。


 これはまずい。このままではオフィスに戻れない。もし今戻ったら、


 「課長ってデキる男だと思ってたに小便もろくにできない人だったんですね……見損ないました」


 頭を振る。

 そんなこと絶対に避けなければならない。何としても俺のデキる男イメージを守り通さねば。

 とはいえごまかす方法が何も思い浮かばない。


 「マジどうしよ……」


 ずっと席を外すわけにもいかないから俺は渋々トイレを出た。

 幸い利用しているトイレ付近には人がいないからなんとか自分のオフィスの近くまでは誰ともすれ違わず戻ってこれた。


 さてここからが正念場。

 そう思った矢先、すぐ近くの会議室からお盆に湯呑をのせた女性社員が出てきた。

 新入社員なのだろう、慣れない会議室のお茶出しのせいか顔が強張っている。

 他部署であるが心の中でエールを送り、俺は自然を装い手のひらで股間部を覆う。


 女性社員はこちら側に向かって歩いてくる。

 果たして股間を手で覆う仕草が自然なのか疑問はあったが、悠然と歩いていれば多分大丈夫だろう。多分。


 第一関門は突破した、そう安堵した時、


 「あっ!!」


 女性社員は体勢を崩しお盆と湯呑が宙を舞う。

 俺は股間を覆っていた手を反射的に前に出し倒れる彼女を受け止めた。


 がちゃん。

 びちゃ。


 湯呑は割れてしまい、湯呑に少し残っていた茶は俺のスラックスにかかった。


 「あ、す、すみません!! 本当にすみません!! クリーニング代、いやスーツごと弁償しま――」

 「それより怪我はないか?」

 「あ、はい、それは大丈夫です。そんなことより本当に申し訳ございませんでした!」

 「いやむしろありがとう」


 深々と謝罪する女性社員は顔を上げ「えっ」と声を漏らした。

 俺は言葉を続ける。


 「顔を上げなさい。失敗は誰にだってあるもの。その失敗を経て君は成長するんだ。そうすれば会社全体に利益をもたらす。俺の給料も少し増えるかもしれない。だからありがとう、本当に」


 女性社員は目を潤ませ「わかりました」と嗄れ声で返事をした。

 それを聞いた俺はそれ以上何を言うでもなく立ち上がりまた歩き始めた。


 「あんなかっこいいデキる社会人になりたいな……」


 そんな声が聞こえたが俺は両手を規則正しく振りながら泰然とただオフィスに向かう。

 デキる男はいつだってデキるのだ。

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デキる男はいつだって 海老原ジャコ @akakara98

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