アヴィスの魔女 15th centuries
misura
最愛の人へ
この国には魔女がいる。
魔界から地上へと降りてくる魔女は、あらゆる魔術を使い熟し、人智を逸した彼女達の存在が彼らと友好を築くことはこれまでの歴史の中で一度も起こることはなかった。
赤髪の魔女もまた人を嫌う魔女だった。
しかしある人の死をきっかけに、黒のベールで素顔を隠した彼女は地上へと舞い降りた。白砂が入った小瓶と最小限の荷造りを済ませ、魔力を動力源に箒を自在に操る。
魔女は探し物のために、この大英帝国の地を訪れていた。
霧の街と謳われる都には、着飾った紳士淑女や兵士の馬車、ノルマンやチューダー朝様式の建造物、活気ある商店街には人々が蟻のように群がり、足跡の行き交いを繰り返している。
「うわああああ、魔女だ!」「こっちに来るな!」「早く逃げろ! 呪われるぞ!」「魔女なんか滅んでしまえ!」
どこへ行こうと人間の目がある。
こちらの格好を見るなり、人間は血相を変えて騒ぎ立てた。
数日前にスラムの街を訪れた時も、こんなことがあった。
「お前ら、何をやっている」
こちらに気づいた人間達は、一気に血の気が引いたような顔をしている。
スラムの街ではよくある光景だ。ゆすりに強盗、恐喝……犯罪はこの界隈に蔓延っている。
「なんで魔女が……」
「私の目の前でみっともない真似事をするならば燃やしてやろうか?」
右手に魔力を凝縮した炎を見せつければ、そいつらは互いの仲間を売るように一目散にスラムの街の奥へと引き返す。
そこに残された人間は、自身の身体を抱きしめいる。九死に一生を得た顔を眺めていれば、やがてその人間は再び顔を凍りつかせた。
「ひいいいっ! 殺さないでくれええええ!!」
自分の身の可愛さに、そいつは汚物が撒かれた土汚い地面の上で泣き崩れた。
これが弱者を助けたということになるなら、なんて愚かな行為だろうか。
――地上に蔓延る
魔女は早足に人の喧騒を離れ、風向きに頼って東の方角へ舵を切る。
街の東には広大な自然が広がっていた。
東西に流れる川のイーストエンドには、異彩を放つ石の煉瓦の城塞が建てられている。ロマネスク建築の城塞は四方を石の城壁に囲まれ、塔の最上階からは南西にある街を一望することができるだろう。
異質な雰囲気を纏うその場所に、彼女はこの国に来てから初めて惹かれるものを感じた。
人を寄せつけない異質なものが、彼女の中の期待をじわじわと膨らませる。
この一帯の冷めた空気と、辺りを飛び回る鴉の不気味な目をかい潜り、建物の西にある最上階を目指す。しかし塔の一角にある窓は開けられていた。人の痕跡がある。
「珍しい客人だ」
木製の古ぼけた椅子が軋んだ。声の主が部屋の奥から顔を出す。
突き刺すような視線を感じ、そいつの正体に隙を見せないよう目を配る。
「あんた、何者だ?」
最上階に位置するその塔の部屋は、あまり広いとは言えなかった。鬱蒼とした空気とガラクタのような物が乱雑に溢れている。
そこにいた人間は、黒いベールを被った彼女の異質な雰囲気に、警戒しているようだ。まさか普通の人間が箒に乗って空を飛んでいるはずがない。
「あんた……まさか魔女なのか?」
穏やかな声音とは裏腹に、その男の目は不可解なものを見るように困惑の色を見せている。
白衣を着た見るからに不健康そうな人間は、現状を把握しおもむろにこちらまで歩みを進めた。その動きに隙はない。
窓枠に身体をもたれると、青白い顔には不敵な笑みを浮かべていた。
「へえ、そうか。お美しい魔女様が、またどうしてこんな辺鄙なところに」
普通の人間ならからかい半分で口にすることではない。その反応は彼女には意外なものだった。
あまり太陽に当たっていない白い顔をまじまじと見つめる。寝癖で崩れたブロンドの髪に、青空のような双眸を宿している。そして、黒のベール越しにもよく映る人を小馬鹿にした読めない笑み。これまでの人間とはまったく違う反応だ。
「お前には関係ない」と、冷たい言葉をかけた。魔女を前にして余裕のある彼の態度は不可解なものだ。
「まあしかし、こんな湿っぽい場所でまさか本物の魔女にお目にかかれるなんて光栄だ。世界の神秘だな。法螺話だとこれまで聞く耳持たなかったが、馬鹿にはできない」
こちらが何も言わなければ、この男の独り言が止まらないようだ。不機嫌な視線を相手に向ければ、申し訳なく肩を竦める。
「ああ、すまない。こんなしけた場所に長く一人だと、人恋しくてな。仕事上仕方ないが、部屋に籠りっきりになることが多くて、誰かに会うとつい話しすぎてしまう。しかし、空から話し相手が降ってくるとは思わなかった」
よく喋る人間だ。それくらいにしか魔女は思わなかった。人間には興味はない。
「俺は、レオン・ジョゼフ。知り合いからはレオと呼ばれてる。あんたは?」
しかし、相手は違うようだ。
突然現れた物珍しい魔女にそいつは興味津々だった。
「人間に答える名などない」
「かてぇ〜! せっかく運命的な出会いをしたんだから、名前くらいダメなのか。せめてここにいる理由くらいはお聞かせ願いたい」
獲物を狙って離さない眼つきがこちらを見ている。魔女は言葉に渋る。
「……ちょっとした探し物だ」
「探し物?」
あまり深く詮索されるのも困るので、魔女は話をすり替える。この白衣の男に赤裸々に語る口は持ち合わせていない。
「ここはお前の家なのか」
「いや、俺はここに住まわせてもらってる立場だよ。これでも学者の端くれなんだ」
話を聞けば、この人間は部屋に籠もって薬の開発に没頭しているらしい。彼が言う通り、狭い部屋の棚には様々な背表紙の本や研究に使われる学書が並び、あちこちに植物や資料が散らかっている。仮眠用のベッドまで紙の束が散らばり、寝るどころではない状態だ。
こんな窮屈な環境で研究に没頭すると、煮詰まることが多い。変化のない日々に、こんなビックサプライズは彼の好奇心を大きくくすぐっただろう。
「この国は昔深刻な疫病に冒された。大切な人を亡くした人々もたくさんいるだろう。俺達の役目はそれに対抗する薬を開発して、少しでも悲しい死がなくなるようにすることだ」
夢物語のようだが、魔女にも彼の思いは理解できる。彼女にも大切な人がいた。そして失ったときの悲しみと絶望も……。
だから彼女は「アヴィス」を求めた。
それがあの人の望みだと知っているから。
遠くでは不吉な鴉の声が灰色の空に木霊している。
「やあ、今日も美しいね」
今日もそこに彼は一人で巣籠もりをしている。
気配を察すると、デスクの上に飾る写真立てをそっと伏せる。随分年季が入っている。
「今日はもう来ないかと思ったよ」
彼は魔女のご機嫌を伺いながら、黙々と作業を続ける。
デスクの真ん中に山積みにされた書物のページを、乾いた指先でまためくる。
先日彼が言っていた、そんな夢のような薬があれば奇跡は起きたのかもしれない。
部屋にひとつだけある窓枠に足をかけて、彼女はここに来てそんなことばかり考えていた。
寂しさを埋めるように、彼女はここに時々通っていた。
「お前は魔女を恐れないのか?」
「どうしてだ。こんなに美しいのに」
「顔も見てないくせに」
学者の端くれにしてはなかなかいい度胸をしている。自ら魔女に近づいてくる者など見たことがなかった。人間にとって魔女は不吉の象徴だとされている。
「じゃあ見せてくれるのか?」
「代わりに呪いで魂を引き抜かれるが」
「それは勘弁してほしいな」
そう言ってまた肩を竦める。
疑うことを知らないような眼差しには、惹きつけられるものがある。
「お前のような人間は初めてだよ。私には、お前が何を考えているかよくわからない」
魔女は遠慮など知らない。
だから素直な疑問をぶつけることしかできない。
「魔女に褒めていただくことは光栄だが、それはどうかな。俺は別に特別な人間じゃないし、あんたが買い被るような出来た奴じゃない」
無邪気な子供かと思えば、大人びたように謙遜をする。その目はどこか憂いを帯びていて、よそよそしく彼女から視線を逸らす。
その裏にある真意を、この時はまだ知ることはないだろう。
眼鏡をかけて調べ物をする彼に、時間が重なるにつれこの胸は少しずつ惹きつけられる。
「アイリーン」
名前は、魔女が誕生した証だ。
魔力を宿し、肉体を持ち、この世に存在することを赦されたということだ。
初めて会った日に彼に尋ねられたが、口にすることを渋っていた。魔女の生命だ。容易に口にすることは躊躇われた。
それでも彼は、愛おしそうに彼女の名前を口ずさんだ。
「アイリーン……いい名前だ」
彼は仕事の手を止める。
その碧眼に映るのはアイリーンだけだった。
「なあ、そのマスクの下はどうなってる?」
木製の窓枠がミシッと音を立てる。
そこに腰かける彼女に覆い被さる影が、アイリーンの胸を高鳴らせる。
「……いいのか?」
空の色は燻っている。
魔女は静かに目を伏せて、それに応じる。頬はほのかに赤いだろう。それでも懐かしいぬくもりを求めた。
頭から被る黒いベールを肩まで下ろし、二人はこの瞬間初めて顔を見合わせる。
琥珀よりも落ち着いた色味の眼差しがレオンを上目遣いで見上げ、その魔女の美貌に彼は衝撃を受けた。その美貌をベールの裏に隠してしまうことが惜しい。美しさという魔力に彼は魅了される。
微かに赤らんだ頬に右手を触れ、魔女の体温を確かめながら彼はそっと口づけを落とす。
触れるだけのキスだが、アイリーンの心の穴を埋めるにはそれだけでも十分だ。
惜しむように唇を離してレオンは言った。
「またいつでも来てくれ。待ってるよ」
優しい彼の言葉に、アイリーンは毒されてしまった。
前代未聞だ。人間の男に淡い恋心を持ってしまうなんて……。
アイリーンは自身でも信じられないほど動揺していた。彼女もこんな気持ちだったのだろうか。
アイリーンが帰った後の部屋は冷めきっていた。明かりもつけない薄暗い部屋には、男の影がポツンとあるだけだ。
写真の中の人物は、自分に微笑みかけてくれる。失ったものは大きかった。
ペトラ、と微かに呟いて彼は写真をもとに位置に戻した。その人のために育てた赤い実が、鉢植えの中で息を潜めている。
その実を調合して、彼は必ず完成させなければならなかった。時間はあまり残されていない。だから彼は、魔女さえも利用する。
赤髪の魔女は自惚れてはいなかった。
白砂は御守りだ。地上に来た目的ははっきりしていた。アヴィスを早く見つけなければ……。
しかしアヴィスを見つけることはなかなかできなかった。
数日が経ち、その間に何度かあの城塞に籠もる彼を訪れた。窓を叩けば白衣を着た彼は笑顔でアイリーンを迎えた。
あれ以降二人の間に何かが発展することはなかった。特に期待もしていなかった。アイリーンはいつもの位置から彼の姿を見ていたり、移りゆく遠くの景色を眺めることが多かった。
「この実はなんだ?」
彼のデスクの脇に転がっていた小さな赤い実が目に入る。以前はこんなものはなかったし、部屋を見回しても棚に飾られた植物の中に赤い実をつけた植物など飾られていない。
「――触るな!」
レオンは鋭い声で牽制した。
床に転がっているそれに手を伸ばそうとしたアイリーンの動きが止まる。
「薬品の調合に使う実だ。中にはかぶれるものもある。あまり触れない方がいい」
取り繕うようにレオンは言った。その声は焦っているように見える。
「前に言っていた探し物は見つかりそうか?」
「……お前には関係ない」
「あるさ」
きっとこの男も、何かを隠しているのだろう。人間も魔女もそれは同じだ。
「その探し物が見つかれば、お前はここに来なくなるんだろう?」
隠そうとするくせに、レンズ越しの碧眼は地上にある空の青のように澄んでいて、アイリーンは目を奪われる。求められることは素直に嬉しいことだ。
そんな人もいつしか彼女を置いていなくなってしまった。
「お前は……どうしてここに閉じ込められているんだ」
白衣の男は一瞬目を見張る。しかしすぐに平静を装う。アイリーンは無言で彼を見つめていた。
「……何のことだ」
「この部屋は外から鎖で縛られてお前の意思では開けられない。まるで牢獄だ。こんなところでお前は一体何を研究している」
この何日間か彼のもとを訪ねて、彼が自らこの部屋を出ることは一度もなかった。まるでこの城に彼の身柄は幽閉されているようだった。
「研究の中身には機密事項も含まれている。口外することはできない」
「その写真の女が関係しているのか?」
「……っ!」
隠しているつもりだったが、魔女の目は誤魔化せなかった。自分の考えは見透かされていたことにレオンは失笑する。
「……どこまで調べたんだ」
彼女も彼の事情のすべてを察したわけではない。彼の目を盗んでこの部屋でたまたま見つけた国外からの手紙の内容は、彼がここに幽閉されている理由が書かれていた。
その人の気持ちを推し量れないわけではなかった。だから彼の懸命な姿に自分を重ねたのかもしれない。
「私はアヴィスを探しに地上に降りた。アヴィスとは墓場だ。親のように育ててくれた魔女がかつて訪れたこの地に、埋葬するためだ」
その人は弟子のアイリーンを我が子のように育て、面倒を見てくれた。しかしその魔女も、不治の病に冒された。魔女の力を持ってしても、身体を蝕む病の前には無力だった。
衰弱する日々の中で魔女はアイリーンに大昔に地上に降りた頃の話を何度もしてくれた。アイリーンはその頃から地上に棲みつく人間を嫌悪していたが、その魔女が語る地上の話には惹かれるものがあった。
彼女から明かされた探し物の中身を知り、レオンは愕然としていた。
「魔女も、死ぬのか」
「物事にはすべて終わりがある。それは人も魔女も同じことだ」
永遠など夢物語だ。そうあってほしいと願う人々の幻想でしかない。
魔女は人間に比べれば400年余りの年月を生きることができるが、彼女達は不死ではない。死も破滅も避けることはできないことだ。
「……死ぬことはわかっていても、生きてほしいと思うことは罪か?」
もしも薬が完成していたら、彼女の大切な人はまだ生きることができたかもしれない。
「それが罪だとわかっていたとしても……私にはきっと止められないだろう」
心から愛する人を失って、どんな強力な魔力でもこの心の穴を埋めることはできなかった。
あなたならこの穴をぬくもりで埋めてくれるのだろうか?
ドアを塞ぐように置かれた
舌を重ねる行為も、大きな手で着衣の下をまさぐられることも初めてのことばかりで戸惑う。荒い吐息を漏らして敏感に感じる身体も指で掻き乱される痛みと快感も、魔女として生きる自分には無縁だとアイリーンは思っていた。
魔女は人間の細胞の突然変異によって誕生した。
15世紀に入りその事実を知るものはほとんどいなくなっていた。アイリーンは師匠の魔女からその事実を聞かされていた。
人体に含まれる一部のX染色体が異常を起こし、X染色体をより多く持つ女性が魔力を発動させるようになった。
そして魔女となった者達は外部から迫害を受けるようになった。魔女の脅威を恐れた人間による迫害運動は魔女裁判へと横行し、彼女達は地上を離れることを余儀なくされた。
魔界は魔女裁判を逃れるために魔女達の魔力を結集して創造した異世界の空間である。
それでもアイリーンの師匠の魔女は、地上への憧れを打ち消すことはできなかったという。だから彼女の弟子のアイリーンは、彼女が愛した地上を一度この目で見て、白砂と化した魔女の亡骸を眠らせることにした。
師匠もこんな風に人間と恋に落ちたことがあるのかと、彼女はふと考えた。生前にそんな話はしてくれなかった。
数日後に訪れた部屋には、ベッドの脇に白衣を赤く染めたレオンの死体が座り込んでいる。左胸に風穴が数発空いていた。
静かに目を閉じる彼のそばに、例の赤い実の鉢植えはなくなっていた。
「……完成させたのか」
この国はもうすぐ未知の脅威に侵される。
彼の手紙にはすべての真相が記されていた。病弱の妹、植物の研究、敵国の侵略――……。
彼女の治療費を賄うために、彼は敵国の監視下でこの城塞の牢獄に押し込まれていた。
治療費と引き換えに敵国が彼に作らせた代物は、この国の時代背景を考えれば大方見当はつく。
お前は愛する人のために、どんな罪も背負うのか。抱いた女も利用して、最後に別れの一言もなく消え去るのか。
なんて最低な男だ。冷たくなったその人の身体に縋りついた。
お前までいなくなるのか。私の前から……。
城塞の壁外は、混沌と恐怖に包まれた。
突如発生した皮膚の内出血や呼吸困難によって、次々と人が地面に倒れていく。
一世紀前の大英帝国でも見られた光景だ。二度目のパンデミックは再びこの国の国民を苦しめた。
逃げ惑う人々の前に、赤髪の魔女が現れる。
その魔女が通った後の街には、血の雨が降り続けた。
「……アヴィスの魔女」
魔女は彼らの脳裏に焼きつくように、魔力を込めてその名を唱える。
「今からこの国にいる人間を皆殺しにする魔女の名だ。憶えておけ」
最愛の人のためならば、どんな汚名もこの身に受け止めよう。どんな罰でも受け止めよう。
だからその前に、私は人も魔女も殺す災厄の魔女となろう。
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