番外編二 告白 ―― 逃避行 ――

「駆け落ちをしたんです」


 消え入るような声でほとんど泣きそうな声で、手元の真っ白いハンカチを真っ白になった手できつく握りしめながら声を振り絞る。惠美は絶句するしかなかった。一方で得心のいった顔をする槇子。


「一目惚れです。向こうもそうだったようです。

 そして、浮かれ切った私はその相手と2人で遊びに行きました、娘を置いて。2人で愛し合いました、娘を置いて。私は初めて恋をしました。愛を知りました。悦びを知りました。そ、その相手は……娘の保育園の………保育士、で……26歳の、年下の……結子と言う女性でした。わ、私は、わたしはっ、わ、わたしはっ、どっ同性愛者なんですっ! 夫がありながら! 夫と言うものがありながら! それもっ、好きになった人のためになら娘をないがしろにするような女なんですっ! 異性の夫の求めを拒むくせに、同性の女性には私から進んでっ! 進んで求めるようなっ!」


 吐き出すように、半ば叫ぶように、おそらく自身でも激しく嫌悪しているであろう事実を吐露する紗子。きちんと正座した膝の上できつく握りしめた手の甲に涙が一粒二粒滴る。つられた惠美は思わずこの告白とも懺悔とも慟哭ともつかない呻きにその身全体が押しつぶされそうだった。


「ある時密かに愛し合った後、結子が

『このまま二人で逃げちゃおっか、何もかも捨てちゃってさ』

 と疲れたような、それでいて悪戯っぽいような眼で言いました。二人で暮らす。愛する人と二人で暮らす。こんなに、こんなに嬉しい事があるでしょうか。しかし私には夫があります。子供が、そう、何よりも可愛い娘がいます。この愛情は私が同性愛者だろうと何だろうと関係ありません。私には私の務めがあります。私の問題で娘に何がしかの影響を与えたくありません」


 紗子はふうっ、とため息をつく。その表情には自嘲以上の、自らを激しく軽蔑する笑みが浮かんでいた。


「でも、でももう限界でした。夫からの求めを拒み続けるのには疲れ果てていました。周囲からの期待をかわすのにも疲れ切っていました。もういっその事夫からも多喜からも、父母、親族友人仕事全てから憎まれてもなんでもいいから全部捨ててしまおうかなって…… もう私には背負えるものなんて何もないんだ、私みたいな身勝手な女には権利なんて何もないんだ、って捨ててしまいました。全部」


「二人で香川まで逃げました。

 小さなぼろぼろの貸家を見つけてささやかな仕事でやっとのことで食いつなぎました。それがこんなに幸せなことだとは。大きな幸運にも恵まれて、ちっぽけな上にさっぱり繁盛していない喫茶店なんだけれどもと、そこのオーナーから二人で切り盛りしないか、と誘われました。……ふふっ、こんな逃げるしか能のない卑怯者の私たちにはあまりにも不釣り合いな幸せじゃありませんか、好きな人と二人でお店をやって生活していくなんて。実際本当に幸せでした。幸せの絶頂でした。しかし、貧しかったのは変わらなくて栄養状態が悪かったんだと思います。二人ともよく体調を崩しました。私が倒れた時はいつも結子が看病してくれて、地元でよく食べられるおみみさんっておじやを作ってくれたことを覚えています。暖かくて優しい味がしました。彼女が寝込んだ時は逆に私が同じことをしてやりました。悪寒で震える彼女を抱いて寝ました。寒い冬でした。

 それでもしばらく経つと多喜の夢を時折見るようになりました。逃げ出したときは本当に可愛い盛りでした。そんな時だけ逃げてきたことをひどく後悔しながら布団の中でこっそり泣きました。結子に聞こえないように背を向けながら」



【次回】

番外編二 告白 ―― 夢の終わり ――

5月23日 21:00 公開予定

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る