第25話 ふたり
車が本社前に到着する。火災はほぼ鎮火し本社ビル前では一、二台の消防車が散発的に放水しているばかりとなっていた。辺りにはゴムやプラスチックやその他なにやらよく分からない物の燃える強い臭気が充満している。槇子の服も髪もその火災特有の複雑な臭いが染みついている。ざわざわと話したり動いたりしている社員と消防隊員の緊張感も薄らいでいて、事態はだいぶ沈静化しているのが傍から見ても分かる。負傷者はもう出てこないと判断されたのか、救急隊員の姿ほとんどいない。連絡の取れない人ももういなくなったのだろう。惠美と言葉を交わした隊員もいなかった。できれば会ってお礼を言いたかった。
槇子はさすがに少し疲れた表情だ。それでも消防隊員と真剣な表情で話をしたり社員にきびきびと指示をする姿が惠美には新鮮で凛々しく見える。
紀恵が車を槇子の近くまで寄せてクラクションを鳴らすと、それに気づいた槇子は車内の惠美に対してぱっと明るい笑顔を浮かべる。本当になんなんだろうこの可愛さは、三十過ぎなのに、と思わずドキッとしながら惠美も笑顔で小さく手を振る。
紀恵は車を降り槇子と一言二言交わし、そのまま自分の車に向かうので、ここで別れることになった。
「紀恵さん、本当にありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。今日は色々、楽しかったね」
紀恵がまたぞろ悪い笑顔を浮かべ惠美をからかう。こういったことに慣れていない惠美はまた顔を真っ赤にして大声を出す。
「だからっ! そういう言い方しないで下さい! 誤解されるじゃないですか! セクハラっ!」
「あははっ。かっわいー。ごめんごめん冗談。じゃあね。」
「ふふふっ、いいのよ。大丈夫。この子いつもこんな調子だから」
槇子は全く意に介さない風で笑って受け流す。
「係長も、また明日。明日から大変だろうけどねえ……」
「相当大変よねぇ。想像したくない… よろしくね主任。じゃあおやすみなさい」
「おやすみ!」
おどけて槇子にウィンクをする紀恵。惠美がもの凄い目つきで紀恵を睨むと、紀恵はなんだか楽しそうな顔で惠美を見ていた。ウィンクをされた当の槇子はそれについても完全に無視する。
だが槇子にはそんなことより紀恵に対し強く申し渡さねばならぬ事項があった。
「そうだ、ちょっと。ねえ、何度も言ったけどこの車で煙草吸わないで。ホントにイヤなんだから」
「はーい」
「全っ然気持ちが伝わってこない!」
惠美が初めて聞く槇子の怒った声だった。可愛かった。
「はいっ!」
少し大げさにびしっと敬礼する紀恵。
「もう絶対よ? じゃあね」
槇子が車を発車させると敬礼したままの紀恵が今度は惠美にウィンクを送る。キッと睨み返す惠美にそのままおどけた笑顔を見せる。さすがに惠美も少し苦笑してしまった。どこまでもふざけた人だ…… 惠美は紀恵を尊敬しそうになったことをほんの少しだけ後悔した。
「面白い子でしょう? 紀恵って」
火災現場での緊張感から一転、いつもの、いやいつもより少しうきうきした感のある槇子の声。
「はい、何だかとっても面白くて、槇子さんとは全然違うタイプの方でちょっと驚きました。古くからのお友達と聞きましたが」
「うん、腐れ縁かなぁ…… ものの見方が色々違うので話してると色々な発見があるのよね」
「ああ、わかります」
発見があるというより、飽きが来ないというべきかもしれないな、と惠美は思った。
「今日は、いや今夜はもう遅くなっちゃったからこのまま家まで送るね。今日は本当に嬉しかった。ありがとう」
やはり今までとは声が違う。顔も違う。何かに満たされたような声と表情の槇子。でも惠美はその奥の、見えないところに槇子の苦悩が渦巻いているのを知っている。
「……」
「……?」
物思いに耽り無言の惠美が槇子には不思議に思えた。惠美はようやく一声発する。
「私の方こそ、逢えてよかった……です」
惠美はかつて槇子を拒んだことが申し訳なく、済んだこととは言えそれを思い出すと自然と口が重くなってしまう。
「わたし…… 私ね、正直な話もう君とは逢えないと思っていたんだ。はっきり言われちゃってたし」
今想いが叶った喜びに満たされている槇子だからこそ口にできる言葉だ。軽く冗談めかす槇子。
「すいません。あれから今まで辛い思いをさせてしまったのは私のせいです。ごめんなさい。でもニュースを見たらいても立ってもいられなくなって…… 逢いたくて逢いたくて仕方なくなったんです…… 本当は槇子さんに逢いたい気持ちが止まらない自分に気が付いたんです。」
「……うん」
「すいません、よろしかったら少しだけ車、停めてもらえますか」
動悸が止まらない。そっと右手を覗き見ると、頬を染め真剣な表情できつく口元を閉じた槇子の顔。きっと槇子の心臓も私と同じように早鐘を打っているに違いない、と惠美は思う。本当にそうだといいのだが……
【次回】
第26話 罪
5月15日 21:00 公開予定
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