第23話 亡き者に囚われるな、去りし時に惑うな

 さっきまでよりは少し真面目そうな表情で惠美を覗きこむ紀恵。惠美は膝に置いた手に力が入り視線を落とす。あの頃の記憶が惠美の心臓の鼓動を早める。背中に冷たいものを感じる。

 つばを飲み込み、一言ごとに息を強く吐き出すように話す。


「実は私と槇子さんには共通点があるんです。ごく簡単にお話しします。

 以前、私は同じ学年で付き合っている子がいて…… 槇子さんもその子のことが好きで」


 それだけで充分に槇子には辛い恋だろう。アラサーと現役高校生では勝負になるまい。いささか同情的なため息が紀恵の口から洩れる。


「……三角関係」


 惠美は膝の上に置いた手をタイツごと強く握る。俯いた顔が更に俯く。瞳から生気が消えていく。


「その子は………… 去年、自殺しました」


「!!…… なんてこった…… 自殺……」


 少し大げさに呻いた紀恵はシートに深く身を預け直し、脚を組む。おそらく全くの無意識のうちにスーツのポケットから細い煙草を取り出し、小洒落たガスライターで点火する。


「そりゃ…… くそ……」


 どこか遠くを眺めながら紀恵は一服二服深く紫煙を吸いこみ吐き出す。鉛のように重い沈黙と煙草の臭いが車内を満たす。


「ですから…… 私たち、彼女に置いて行かれた…… 取り残された者なんです。そういう意味では似た者同士なのかも、知れません……」


 惠美はフロントグラス越しに見える車と打放うちっぱなしコンクリートの壁を無表情に眺め、青ざめた顔で呟いた。


 眼鏡を直し紀恵がようやく口を開く。今までと違った重たい口調で。やはりフロントグラスの向こうの車と壁を眺めながら。


「三角関係に悩んでたの? その彼女さん」


「私は槇子さんの存在も知りませんでしたし、彼女も――多喜という名前なんですが、そんな素振りは見せてませんでした。槇子さんも多喜が誰かと付き合ってることさえ知らなかったそうです。それに、槇子さんの話だと慎重に自分の気持ちを隠し通せていたと断言していたので、多喜は槇子さんの気持ちに気付いていなかったんじゃないかなって。多喜は三角関係に気付いていなかったと私は思ってます」


「しかしあいつはしょっちゅう心の声をだだ漏らしにするから、あてになるかな。でも、それを知らなかったとしたら…… だとしたら、じゃなんで……」


「わかりません。遺書らしきものも何もなかったそうで…… 私にも槇子さんにも何のメッセージもなく……」


 紀恵が咥え煙草のまま脚を組み直して腕を組み、なんだかつまらなさそうな、かつ物思いに耽っているような顔で呟く。


「『夜中に屋敷をぬけだして、山奥へ失踪したことがあったそうだ。急に死ぬ方が綺麗のような気がしたからだと言ったそうだよ。』」


「?」


「坂口安吾の『木々の精』。若い子は時に死にたくなるから死ぬんだって。ほんとかどうかわかんないけど思い出した」


「そっちはまぁいいや。彼女さんの気持ちは結局誰にもわからず仕舞いかな。もう亡くなっている以上何も聞けないし。だったら生きてる人間の話をしよう。」


 あ、と惠美が小さな声を上げたが紀恵はそれに気づかない。この紀恵の一言に惠美は大きな衝撃を受けていた。


 煙草の火を消して惠美の方を向く。


「それで、槇子の事なんだけどね。失恋、それも大失恋したのは明らかで、これはその多喜ちゃんって子の自殺だったんだろうね。その後も何だか浮き沈みがあって…… それは多分君とのことなんだと思う。それが最近またひどく落ち込んでて…… そして今日やっとこの天使ちゃんと進展があって舞い上がってる。ってことくらいはあたしにもわかってた。分かってたけど……」


 紀恵は少し唇を噛んで頭の中を整理した。そしてまた少し重みのある声で続ける。


「でもまだあいつ、引きずってる。君も分かってると思うけど。かなり前の、多分その多喜ちゃんって君の彼女さんが亡くなったんじゃないかな、って頃はさ、見てらんなくてねホントに。しょっちゅう会社のトイレで一人で泣いてたりしたからね。あたしはレズじゃないからうーん…… どう慰めればいいのかいまいちよくわかんなくて。まぁ、腫れ物に触るようになっちゃって悪いことしたかも」


 また煙草に火をつけ、物思いに耽るかのように運転席に身を沈めた。


「今の君の話聞いて分かったよ。あいつどんだけ参ってたのか。いやもう、それは、そんな関係でそんな死なれ方されたら…… そらきっついわ…… おかしくもなるわ……」


 運転席にかけたまま惠美の方を向く紀恵は惠美を労うような、慰めるような表情をしていた。


「でも、槇子だけじゃなくて、君も大変だったね。すごく辛かったよね」


 槇子もそうだがこの紀恵といいどうしてこうもいい人たちばかりなんだろう。と、思った瞬間、惠美は一瞬胸が詰まる。


「たい、へん…でしたけど、大変でしたけど、今は槇子さんがいるので。それに蓮実さ――」



 紀恵が惠美の言葉を訂正させる。


「あ、はい、紀恵さんにも色々教えていただいたので本当に良かったです…」


 特に思い当たる節もないので、紀恵はごく当たり前に受け流した。惠美が何を指してそう言っているのか、紀恵には思い当たる節がない。


「や、何も別に」


 不思議と惠美が久しぶりにかすかな光を取り戻した瞳をみせる。


「それが、さっき、『もう亡くなっている以上……』とか『だったら生きてる人間の話をしよう』とか……」


「あ! 気に触ったらごめん。傷つけちゃった?」


「違うんです。私に足りない物が何かはs紀恵さんの言葉で今やっとはっきり分かったんです」


「うまく言えないかもですが、なんて言うか『思い切りの良さ』と言えば良いのか『切り替えの良さ』と言うのか『割り切る』と言えばいいのか…… そんな簡単な言葉で済ますのは違うとは思うんですけれど。」


「紀恵さんが私たちにできることとできないことって何か、竹を割ったように明確に示して下さったので今ちょっと目が覚めたような感じなんです私」


「私にもわかります。私の心の中に多喜は確かにいるんです。今だって心から愛しています。でもそれは…もういない人、その……死んでしまった人の記憶で…… それを、その過去の自分の内側にしかない記憶や愛を大切にしすぎて、生きている、目の前に現実として存在している、槇子さんを蔑ろにしちゃいけなかったんだって。さっき槇子さんと、その、あ、だ…… 抱き合った時を思い出して『だったら生きている人の話をしよう』ってこういう事だと思ったんです。今生きている人とちゃんと向き合わなくちゃいけないって」


「もし私が一人で同じ結論に達したとしても、きっと煮え切らないまま何も変えられなかったと思います。本当にお話しできてよかったです。」


 紀恵が4本目の煙草を吸いながら苦笑する。


【次回】

 第24話 しるべ

 5月13日 21:00 公開予定

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