第22話 不機嫌な女

 車のウィンドグラスがしつこく何度も叩かれる。


 目が覚めてそちらに目を向けると眼鏡をかけた知らない女性が無表情、と言うよりやや不機嫌な面持ちで車の扉を開けるよう指で指し示している。きりっとしたきつい目つき。無造作に束ねたロングヘア。警戒する。槇子の知り合いなのか? 本当に?

 身を縮こまらせる惠美を見て惠美の懸念を理解したのか、その女性は社員証を取り出した。やはり不機嫌そうな顔写真が印刷されたそのカードには水産資源調査室主任蓮実紀恵と書かれている。


 惠美がロックを外すと不機嫌そうな顔でするりと運転席に滑り込む。


「加々島二係長から命じられて車を移動させに来ました。」


「移動……」


 惠美の方一顧だにせずシートベルトを締め発車させる。運転しながら眼鏡を直したその顔は無表情というよりやっぱり少し機嫌が悪そうに見える。


「火勢も弱まってかなり経ちましたし、直接指揮を要する事項もだいぶ片付いてきましたから、加々島二係長……いや、ああ、もういいかな。こんな形式ばった話は。槇子はもうすぐ帰れると思う。車でずっと待たせるのもアレなんで、そばのファミレスででも。」


 これが恐らく本来の彼女なのだろう、という感じが惠実にはした。ざっくばらんな口調になると不思議とその不愛想な表情も気にならなくなる。惠美は少し安心した。


「あたしは槇子とは個人的には友達。だからあたしが君の案内を任されたってわけ。友達っても直接な上下関係にあるんだけどね、職場では」


 不機嫌そうな顔が一転、惠美を横目で見てふふっと笑う。


「ほんとひっどい話なんだけどさ。あの火事でしっちゃかめっちゃかな中、ここ何か月もシュンってなってたあいつが、なんでか頬を赤らめて満面の笑みで帰ってきちゃうんだから。意味不明でしょ? みんなポカーンってなっちゃったのよ。もうホントに馬鹿じゃないかって」


 不機嫌そうなくせにどこか楽しそうに話す紀恵。運転しているのに手ぶりを交えてまで熱弁する。

 確かにそんな人だ、と思うと惠美も無言で少し苦笑いをする。


「そんなに火事が楽しいのかよ、って言ったらなんて言ったと思う? なんて言ったと思う? 『だってー、天使が迎えに来てくれたんですものー』だってさ! 知らんがな! もうホントのホントに馬っ鹿じゃないの? この修羅場にのろけに来たのかよって! あっははっ、あはははっ!」


 天使と聞いてバッと火が付いたように惠美の顔が火照る。さっき槇子から直接言われたのと違って猛烈に恥ずかしい。そんな柄じゃないのに、とそう思う。

 紀恵はにやにやクスクスが止まらない様子だ。ただ、馬鹿にして笑っているのではなくて何か安心したようでもあり嬉しそうでもある。さっきまでのわずかに不機嫌な無表情が剥がれて別人のように見える。でもこれがきっと槇子と紀恵の間での表情なのだろう。


 紀恵の話を聞いてふと頭に浮かんだことがある。惠美が槇子を拒絶した日以来、惠美自身も気になっていることだった。なんで槇子さんは私のようなだめな人間を気にかけてくれていたのか。そう思ったら初対面の紀恵なのについ言葉が口を突いて出てしまった。


「私、分からないんですけれど、なぜ槇子さんはそんなに私の事を…… その、思って下さるのか…… いや、ああ、気にかけて下さるのか、いや、その私の方もなんでその、そんなに槇子さんの事をき、き、気にするようになったのかわからないんですけれど、でもなんで槇子さんは…」


「多分そういうところ。母性をくすぐる…… いや手を差し伸べてあげたい…… うーん、女同士の恋愛はわかんないんだよなあ。でも多分そんなところ。そういうのがきっかけだったんじゃないかな。そして一生懸命に見える所かな。」


 そう聞くと惠美はすっかり恥じ入ってしまった。今の自分は何一つ一生懸命ではない、そう思ったからだ。 


「それが…… 今、今の私は何もできなくて…… 槇子さんに嫌な思いをさせてばかりでしたし、学校の事もこれからの事も何をどうしたらいいか全然分からなくて…… 本当に分からなくて…… 何にも一生懸命になれないんです」


 紀恵は飄々ひょうひょうとした表情と声で惠美を励ます。


「分かってるじゃない。分からないってことが。それに一生懸命じゃないってこともね。それだけ分かってれば半分は解決できているのとおんなじだって。それだけ真剣に考えて悩んでるって事だもの。あと必要なのは、ちょこちょこっと行動する元気と勇気かな。ああ、そこの駐車場に入れるから。上のお店で待ってよ。それとさっき槇子が何で君のことを好きになったかって予測は、ごめん多分外れてる。だからちゃんと自分で聞いてね」


 駐車場はいっぱいだったが幸運なことに一台分だけ空きがあった。紀恵はそこまで車を進める。

 紀恵の飄々とした声が怪訝そうで気遣った風にも聞こえる声になる。


「……って言うかなんか君たち似てるね。その不安げと言うか自信のなさ? もしかして似た者同士で同じ人に振られたって、ああ、いやごめん立ち入り過ぎた話だねごめんごめん」


 片手ハンドルで器用に車をバックさせ、駐車場に入れる紀恵。


「いえ。いいんです。構いません。似てると言えば似てるんです、私たちは。これは言っていいのか分からないんですが…… いえ、蓮実さんならとても信頼できるお友達だと思います。だから槇子さんのためにもこれは言っておいた方がいいと思うんです。槇子さんに何があったのか。きっと槇子さんの方から言い出せる話ではないと思うので。」


 突如深刻そうな口調になった惠美に慌てて制する紀恵。だが、どこかしら口調は冗談めいている。


「いやちょっと待った。そんな簡単に信じていいの君? ホントはゲス子かも知れないよ?あたし。実は隠れレズで槇子を狙ってるのかも知れないよ?」


 意外そうな顔で目を少し丸くする惠美。


「そうなんですか?」


 即答する紀恵。


「や、違う」


「ほら! 正直な方だと思いますよっ」


「ん?あれ? さぁ、どうかな? いやいやいや、こりゃなかなかな天使ちゃんだね」


「い、いえ、その、それはさておいてです。蓮実さんの話しぶりではとてもその、仲が、良い… ええ… 仲が良いお友達だと思ったので。それに本当のゲス子だったら自分から言わないですよ」


「うん、まぁそうなんだけれどね… うーん、まいいか。じゃあ君の信頼に応えてできる限り話は聞こっか。それで?」


 ハンドルにもたれ、不機嫌さの消えた気さくな表情で紀恵は惠美の方を見た。



【次回】

 第23話 亡き者に囚われるな、去りし時に惑うな

 5月12日 21:00 公開予定

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