五十一夜 虎児と佳乃 其ノ三

「えっと、部屋着はこれを使って。紅葉くれはには大きいかもしれないけど……」


 そう言って、佳乃よしのが三段チェストからライトグリーンのTシャツと、同色のショートパンツを取り出した。紅葉はそれを受け取る。


「下着はちゃんとあるわ」


 さらに何か言いかけた佳乃を見て、紅葉が言う。佳乃は少しホッとしたように頷いた。

 二人は佳乃の住むアパートにいた。六畳の部屋を持つ1Kで、家具はベッドとローテーブル。三段チェストとカラーボックスがあるだけのシンプルな部屋だった。

 綺麗に片付いており、生活感はあるが案外ものが少ない。


「お風呂、入れそう? 無理なら体を拭く用にタオルを用意するけど」

「大丈夫。ありがとう。シャワーだけ浴びてくる」


 そう言って、紅葉は浴室へと向かった。

 佳乃はスタンドミラーとドライヤーをローテーブルの上に置く。それからキッチンに立つと、棚からドリッパーとペーパーフィルター。そして透明なプラスティック容器を取り出した。容器には挽かれたコーヒー豆が入っている。コーヒー豆はバイト先で分けて貰ったものだ。


 ステンレス製の小型ケトルにペットボトルから水を入れて、コンロにかける。湯が沸くのを待っていると、紅葉が浴室から出てきた。

 長かった髪は頭に巻いたタオルの中におさめている。白いうなじが露わになっていた。

 佳乃にはピッタリでも、紅葉が着るとTシャツはややオーバーサイズになっている。丈が長くショートパンツはほぼ隠れていた。上下が同色なのも手伝って、一見すると素肌にTシャツ一枚のように錯覚する。加えて紅葉は小柄ながら女性としての曲線美も充分備えており、佳乃から見ても魅力的に見えた。

 同じ服を着たときの、我が身との差に思わずため息がでる。


「どうしたの?」

「ううん、なんでもない。テーブルの上にドライヤーがあるから使ってね」

「ありがとう」


 紅葉はローテーブルのそばに座り、頭のタオルを解いた。まだ湿り気を帯びた黒髪が流れ落ちる。彼女はドライヤーを手に取ると丁寧に乾かし始めた。

 佳乃はドライヤーの音を聞きながら、お湯の沸いたケトルを使ってコーヒーをれる。甘い香りが溢れ出した。


「なんかいい香り」


 髪を乾かす手を止めて紅葉が言う。


「フレーバーコーヒーっていうの。勝手に淹れちゃったけど、紅葉はコーヒー大丈夫だった?」


 佳乃がマグカップを二つ持ってやって来る。ローテーブルの上にそっと置いてまたキッチンに戻る。そして再び部屋に戻ってきた時には、手にスティックシュガーとコーヒーフレッシュ。スプーンを各一つずつ持っていた。

 それを紅葉の方に近いマグカップのそばに置く。


「あー。コーヒーはちょっと苦手なんだけど……せっかく淹れてくれたんだし、飲んでみるわ」

「ごめん。香りは甘いけど無糖だから、必要なら砂糖を入れてね」

「わかったわ。髪乾かすから、ちょっと待って」


 そう言って紅葉は、再び髪を乾かし始めた。佳乃は自分用のマグカップを持って、コーヒーの香りを堪能する。佳乃が淹れたのはお気に入りのキャラメルにバニラを混ぜたフレーバーだ。

 口に含むとキャラメルの香りが広がる。味はコーヒー本来のものだが、後味にキャラメルが残る。


「んー」


 思わず声が出る。これを最初に飲んだ時は感動したものだった。


「美味しそうに飲むのね」


 髪を乾かし終えた紅葉が微笑みながら言う。シャワーを浴びて落ち着いたのか、紅葉の顔からは、再会した時のような疲れは感じられない。

 紅葉は恐る恐るといった様子で両手でマグカップを持つと、佳乃がやったように鼻に近づけた。


「これは……キャラメル?」

「そう。キャラメルのフレーバー。あとバニラも入ってるわ」


 佳乃の言葉を聞きながら、紅葉はそっとカップに口をつける。


「味はちゃんとコーヒーなのね。でも、フレーバーって言うんだっけ? そのおかげなのか苦みも抑えらてる。これなら飲めそう。っていうか、好きかも」


 そう言って紅葉は、佳乃に笑顔を向ける。


「気に入ってもらえたようで良かった」


 佳乃も笑顔を返した。そして何かを思い出したかのように更に笑う。


「?」


 それを紅葉が不思議そうに見る。


「この前、知り合いにフレーバーコーヒーを飲ませた時のことを思い出したの。そいつも『味はコーヒーなんやな』って言ってたから」


 楽しそうに話す佳乃を見る紅葉の顔には、淡い笑みが浮かんでいた。


「いいお友達がいるのね」

「友達っていうか、幼なじみなんだけどね。腐れ縁よ」


 虎児の顔を思い出しながら佳乃が言う。

 ――――。

 ふと、佳乃は声が聞こえたような気がした。紅葉とは違う、女性の声。どこか遠くから聞こえて来るような、か細く、高く、澄んだ声。

 声のした方へ視線を向ける。そこにはローテーブルに置かれたペンダントがあった。佳乃のものではないペンダント。


 まず、大きめのしずく型の石が目についた。細い方を下にして銀細工で囲ってある。その下に、ふた回りほど小さいしずく型の石が、細い方を上にしてぶら下がっていた。同じように銀細工で囲まれている。相似の組み合わせだ。

 石はどちらも、白いが透明度が高く部屋の明かりを反射してまるで七色の色彩を放っているように見えた。

 ――――。

 また、声が聞こえた気がした。それは、まるで呼ばれているような――


染井そめいさん?」


 動きの止まった佳乃に、紅葉が声をかける。それが合図だったかのように、佳乃はマグカップを置いて思わずペンダントに手を伸ばした。


「だめ!」


 それを見て、紅葉が強い調子で言う。声の大きさに驚いて佳乃は思わず手を止めた。そして申し訳なさそうに紅葉を見る。


「勝手に触ろうとしてごめんなさい」

「そうじゃないの。月長石ムーンストーンに触れると、あなたまで完全に捕らわれてしまうかもしれないから……」

「完全に……捕らわれる?」

「そう。月に完全に捕らわれてしまうとね、わたしみたいに〝人〟じゃなくなるのよ……ってこれは昔言ったっけ」


 その言葉に、二年前の記憶が佳乃の脳裏に甦る。夜の公園で見た紅葉と、彼女を追ってきた神父。神父は自らを〝月を喰らいし者エクリプス〟だと語った。

 その時に何があったのか、佳乃ははっきりとは覚えていない。しかし紅葉が見せた泣き顔だけはいまでも覚えている。


「その〝人〟でなくなるってなんなの?」


 佳乃の言葉に紅葉は一瞬、表情を曇らせる。そして覚悟を決めたように佳乃を見つめた。


「〝人〟でなくなることの意味は二つあるわ。一つは〝月の贈り物ギフト〟」


 そう言って紅葉はペンダントを手に取ると、自らの首につけた。


「見ていて」


 紅葉はペンダントの月長石ムーンストーンを包むように、両手を当てた。刹那、大きい月長石ムーンストーンが光り始めた。それは柔らかく、優しく包み込むような光。まるで月光のようだ。

 紅葉はその光を両手に乗せるようにして、佳乃に見せる。最初は玉のような光だったが、やがて姿を変え、気づくと紅葉の手のひらには蝶の形をした光があった。


「これは……?」

「わたしの〝月の贈り物ギフト〟は月の光を物質化できるの。触ってみて」

「触れるの?」


 恐る恐るといった様子で、佳乃が指を伸ばす。紅葉の手の上にある蝶に触れると、ガラスを触った時のような硬質な感触が返ってきた。


「あっ!?」


 光の蝶がその形を変え、今度は小さな鳥へになる。


「ある程度わたしの望む形にできるわ」


 そう言って紅葉は笑ってみせた。その瞳が赤くなっていることに気づいて、佳乃は一瞬息をのむ。

 佳乃の変化を敏感に感じ取ったのか、紅葉が表情を強ばらせた。同時に光の鳥が消え、彼女の瞳の赤も消えていた。


「ごめんなさい。驚かせてしまったわね」


 少し寂しそうな紅葉の声。


「そんな……」


 佳乃は紅葉に何か言いたくて、でも何も言えなくて口をつぐんでしまう。


「気遣ってくれてありがとう。大丈夫よ。

 それでね。どんな〝月の贈り物ギフト〟が貰えるかは人それぞれだけど、共通して発現するものもあるの。それが〝人〟でなくなるもう一つの理由。不老よ」

「不老?」

「月に完全に捕らわれてしまったら、〝人〟としての成長は止まるの。あなたを巻き込みたくない一番の理由が、それよ」

「〝人〟としての成長?」

「見た目の年齢が変わらなくなるの。それは〝人〟の時間では生きらなくなることを意味するわ。いつまでも歳をとらないなんて、不気味でしょ?」

「まさか紅葉も……?」


 紅葉は淡く笑い、頷いてみせた。


「わたしが〝月の贈り物〟を受け取ったのは三年くらい前かな。日本に戻ってくる前よ。だからまだ、見た目と歳はそう離れてないわ。

 でも……佳乃がおばあちゃんになっても、多分わたしはこの姿のままね」


 誇るでもなく、さげすむでもなく、淡々と紅葉は言う。その様子は彼女がわざと感情を押し殺しているように見えた。


「それは……少し寂しいね」

「寂しい?」


 佳乃の言葉に紅葉は意表を突かれたような顔をする。


「そう。友達に見た目や年齢は関係ないと思う。だからわたしがおばあちゃんになっても、紅葉は友達よ。でも、紅葉は一人で生きていくつもりなんでしょ? 〝人〟の時間を捨て一人で。それってやっぱり寂しいってわたしは思う。

 紅葉もそう思うから、二年前に月の歌のことを話してくれたんでしょ?」

「それは……」

「わたしね、紅葉に会えてよかったよ。それまでは月の話なんて他の人にしようなんて思えなかった。小学生の頃、自分はかぐや姫みたいに月に帰るんだって本気で思ってた。だから同級生に話したことがあったの」


 そこで佳乃は一度、言葉を止めた。


「そしたらね、みんなに笑われたわ。そしてしばらくからかわれた。一人だけ、庇ってくれたヤツはいたけど……そいつも月が好きなのだけは分かってくれなかったな」


 佳乃は当時のことを思い出して苦笑する。庇ってくれたのは、近所に引っ越してきたばかりの少年だった。関西弁の、いつも大人に生意気なことを言っていた少年。

 集団でからかわれた時、守るように佳乃の前に立ってくれた少年。その小さな背中を佳乃はいまでも覚えている。


「だから、わたしは月の話を人にするのをやめた。でもずっと、誰かと話したいと思ってた。そんな時に紅葉に会ったのよ。最初はね、悔しかった。わたしより月に近いあなたに、嫉妬してた。でも、同時に嬉しかったのよ。

 わたしはいまでも、紅葉は友達だと思ってる」

「……染井さん」


 驚いたような紅葉の表情と声。


「あと、それ。やめて」

「え?」

「その〝染井さん〟っていうの。メールくれた時みたいに、佳乃って呼んで。友達なんだから」


 そう言って佳乃は笑顔で紅葉を見つめる。紅葉は不意を突かれたように言葉を失った。それを佳乃は笑顔で圧力をかける。


「……よ、佳乃」


 目を伏せ、俯きながら紅葉が言う。


「なに、紅葉?」


 佳乃はそれを下から覗き込むように見て言った。メガネ越しに佳乃と目があう。その瞳には悪戯っぽい光が浮かんでいた。


「あ、あなたが呼べって言ったんじゃない」


 そう言って、紅葉はそっぽを向く。彼女の頬は僅かに紅潮していた。


「ごめん、ごめん。冗談よ」佳乃は紅葉の左手に自分の両手を重ねる。「わたしね。小さい頃、自分の名前が嫌いだったの」

「嫌い……だったの?」


 意外と言った表情で紅葉が佳乃を見る。


「染井で佳乃でしょ? 桜と同じ名前。桜って毎年同じ時期に、同じ場所で咲くじゃない? ずっと地球にいないといけない気がして、嫌いだったの。月に帰れないじゃいって」

「なにそれ」


 紅葉が笑う。それは再会して初めてみせた、自然な笑いだった。佳乃も嬉しくなって笑顔になる。


「いまはもちろん違うわよ。小学校の時の話よ」

「わたしは、〝ソメイヨシノ〟って名前好きよ」

「ありがとう。そう言ってくれたのはあなたで二人目ね」

「一人目は?」

「さっき言ってた幼なじみ。そうだ、紅葉。わたしね月の歌が、少しだけど聞こえるようになったのよ」


 嬉しそうに佳乃が言う。きっと紅葉は喜んでくれる、そう思っていた。しかし紅葉は笑みを浮かべたままだ。そしてその笑みは、先ほどとは違い淡く儚いものへと変わっていた。


「佳乃、あなたはやっぱり月の側こちらがわに来るべきじゃない。わたし、明日にはこの街を出るわ」

「なんで!?」


 佳乃は、紅葉の手を離さないとでもいうように両手に力を込めた。


「あなたには家族も、友達だっているでしょ? わたしとは違う」


 紅葉は捕まれていない方の手で、そっと佳乃の手を外す。


「でも、月の話ができるのは紅葉とだけだよ?」

「気持ちは嬉しいけど、ね?」

「……ならせめて、明日出て行くなんて言わないで」

「でも、このままだと佳乃に迷惑がかかるわ」

「そうだ! さっき言ってた知り合いね。警察官なの。まだ新米だけど、相談に乗ってもらいましょう。上手くいけば紅葉もこの街で暮らせるかもしれないわ」


 一人盛り上がる佳乃を、紅葉は困ったように見つめるのだった。

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