四十九夜 虎児と佳乃 其ノ一
八月の下旬。まだ残暑の厳しい昼下がりに、
頭には旭日章のついた帽子を被り、腰までの長さの活動服を着ている。腰に巻いたベルトには通信機をはじめ、警棒や拳銃などが装備されていた。
そして手にはB6判くらいの大きさの分厚いファイルを持っていた。
「次は……ここやな」
虎児はファイルをめくり、中にあるカードを見てから、表の看板にある店名を確認する。そして入り口のドアを開けて入って行った。
「いらっしゃいませ」
ドアに掛けられた来客用のベルに反応して、若い女性の声が聞こえた。
虎児は店内を見回す。昼下がりのせいもあってか、店内は営業回りのサラリーマンが一人だけだった。すぐにカウンターへと向かう。
カウンター横には挨拶をしてきた女性が立っていた。
背の高い二十歳くらいの女性だった。白のTシャツにデニムジーンズ。腰には茶色のショートエプロンを巻いている。
伸ばした髪を後ろで纏め、縁なしのメガネから除く瞳は虎児を見て驚いているようだった。
「えろうすんまへん。ちぃと確認した……
「虎児?」
ほぼ同時に、二人はお互いの名前を呼ぶ。
「なんでお前がここにおんねん」
「それはこっちのセリフ。警察官になったって本当だったのね」
女性――佳乃は笑顔を浮かべて言う。
「おう。この近くの交番勤務や。それよりなんでここにおんねん」
「バイト。いま大学に通ってるの」
そう言って、佳乃はこの街にある県立の総合大学の名を言った。
「
「今年の春からようやくこっちで一人暮らしよ。同じ県内だからって、家から通うのは、ちょっとね。新幹線通学なんて、もう
「一人暮らしいうて、ようおじさんが許したな」
虎児は佳乃の父親を思い浮かべた。幼なじみの二人は近所と言うこともあり家族ぐるみの付き合いがあった。虎児の記憶にある佳乃の父親は、二人いる娘のどちらも溺愛していた。
「一年かけて説得したわ。朝早く出て、帰りも遅くなるし、さすがに不憫に思ってくれたみたい。頻繁に電話かけてくるけどね」
そう言って佳乃は肩を竦めてみせる。
「そら、おじさんかて心配やろ」
「心配してくれるのはありがたいんだけど……そだ、虎児に会ったこと言えば少しは安心してくれるかも」
「は? な、なんでや」
少し焦ったように虎児は言う。
「だって警察官でしょ? 知り合いの警察官が近くにいてくれるんなら、お父さんも安心してくれるわよ、きっと」
「ほ、ほうか」
拍子抜けしたような、安心したような声と表情で虎児は言う。
「しかし平日の昼間からバイトいうて、講義はええんか?」
「いまは夏休みよ」
「学生さんはええなぁ」
「大学生の特権よ……それよりも虎児、仕事で来たんでしょ?」
「せや。この店の大将は?」
「大将って……マスターね」
佳乃は苦笑を浮かべ、カウンターの奥に目を向けた。視線の先には黒のカフェベストにネクタイと白のワイシャツを着た、小綺麗な印象の中年男性が立っていた。
「えろうすんまへん。ちょっとご協力ください」
虎児は男性の方へ向かって歩いて行った。
☆
「なんでまた、
翌日、喫茶店のカウンターに座っている虎児を見て、佳乃が言った。店内には虎児以外の客はいない。
「そんなん、コーヒー飲みに来たに決まっとるやろ」
「そりゃそうだけど……仕事は?」
「今日は非番。勤務明けや」
虎児は、着丈の短いデニムジャケットの下に白のTシャツ。黒のパンツという私服だった。手元には二つ折りの携帯電話。それを手慰みに開閉を繰り返している。
「交番から直接来たの?」
「は? 交番から?」
「違うの?」
「あ、いや。そ、そうや」何故か慌てたように虎児が言う。「そないなことより、あれや。ここの名物とかないんか?」
「名物?」
「なんかあるやろ。タマゴサンドとかナポリタンとか、カレーとか」
「なにそれ、あんたお腹減ってんの? 食べのもじゃなくていいんなら……」佳乃は両腕を胸の前で組んで、首を傾げた。「やっぱフレーバーコーヒーかな」
「レバーコーヒー? なんや、その
「〝フレーバー〟コーヒー。ホント、食べ物しか頭にないのね」
佳乃は呆れたように言う。しかしその目はどこか笑っていた。
「香り付きのコーヒーって言えばいいかな。アップルティーとかあるでしょ? あれのコーヒー版かな」
「アップルコーヒーとかあるんか?」
「うちにはないけど、探せばあるかもね」
そう言って佳乃はメニューを開き、虎児に見せる。
「バニラ? キャラメルにバニラマカダミア。チョコレート……なんや、甘いんか? ちゅうかスタバにありそうなメニューやな」
「香りは甘いけど、無糖よ。甘い香りが苦手なら、ヘーゼルナッツとかチョコレートもカカオの香りだから甘くはないかな」
「
「あたしはバニラかキャラメルだけど……虎児は甘いのは嫌なんでしょ?」
「嫌やないけど、砂糖は自分で入れたい」
「だから無糖だって。とりあえず、ヘーゼルナッツを
「任せる……ちゅうかお前が作るんか?」
虎児はメニューから顔を上げ、驚いたように佳乃を見る。
「いま教えてもらってるのよ。お願い練習させて」
佳乃は顔の前で両手を合わせ、片目を瞑って伺うように虎児を見た。
「まぁ、ええけどな」
「ありがと」
そう言って、佳乃はカウンターの中へと入る。そしてマスターに向かってひと言ふた言話した。マスターが虎児の方を見る。
「かまいまへん」
虎児は破顔して頷いて見せた。それを見て、マスターが佳乃に頷く。
佳乃は嬉しそうに作業を始めた。細長い注ぎ口のケトルに水を入れコンロにかける。それを虎児は黙って見つめている。
次に背後にある棚から
容器から計量スプーンを使って豆をすくい出し、ミルに入れて豆を
挽き終わると同時に沸き上がったのか、ケトルを使ってドリップサーバーとコーヒーカップに湯を注いだ。カップは何故か三つ用意してあった。
今度は、紙のない金魚すくいのポイのようなものに布をはめる。そしてドリップサーバーのお湯を捨て、先ほどの布をセットし、その中に挽いた豆を入れた。
佳乃の後ろでは、喫茶店のマスターが厳しい表情で見つめている。
佳乃は緊張した様子で、ケトルから湯を注いだ。マスターが何か言っているのに合わせ、佳乃が「はい」と返事をするのが聞こえる。
注いではしばらく置き、また湯を注ぐ。これを五回くらい繰り返しただろうか。サーバーにはコーヒーが溜まっていた。
コーヒーカップの湯を捨て、サーバーを揺らしながら三つのカップに均等に注ぐ。それからカップの一つを持って、虎児の前にやってきた。
カウンター越しに佳乃がカップを目の前に置く。
「なんや、ええ匂いがするな」
「匂いって、あんたねぇ。香りって言ってよ」
虎児の言葉に佳乃が眉をしかめてみせる。虎児はカウンターに置いてあるシュガーポットから砂糖をすくって入れようとした。
「あ、待って」
「なんや?」
虎児が手を止めて佳乃を見る。
「あ、えーと。まずそのままひと口だけ飲んでみて。そっから砂糖やミルクを入れるか決めるといいわ」
虎児はカップを口に運び、僅かな量を口に含んだ。そして少し時間をおいてから飲み込む。
「どう?」
虎児が佳乃を見る。佳乃は真剣な表情で虎児を見ている。
「……味はコーヒーなんやな」
「当たり前でしょ。あんたに期待したわたしが莫迦だったわ」
「けど口に入れる時と後味にナッツの香ばしい味がする。ワイは嫌いやないで」
「……虎児、そういうのわかるんだ。意外」
「なんでやねん」
佳乃が少し驚いたように虎児を見た。そして彼女はマスターの方を見る。マスターはコーヒーカップを手に持ったまま、佳乃に頷いてみせた。
「よしっ」
佳乃は小さくガッツポーズをとってみせる。それから自分もコーヒーカップを持って来て、虎児の前で飲み始めた。
「うーん。マスターの域にはほど遠いわね」
佳乃が誰にともなく呟く。
「しかしお前、そないコーヒー好きやったか?」
そんな佳乃を見て、虎児が不思議そうに言った。虎児の知っている佳乃は、コーヒーを好んで飲んだりはしてなかったはずだ。
もっとも二人は幼なじみとはいっても、頻繁に合っていたのは中学まで。佳乃はミッション系の女子校。虎児は普通の高校に通っていた。
その間に好みの変化があったのなら、虎児が知らなくても不思議はない。
「ここに来るまでは全然。去年かな。たまたま立ち寄ったここで、フレーバーコーヒーって知ったの。初めて飲んだ時は衝撃だったわ」
その時のことを思い出しているのだろうか。佳乃の口元が綻んでいる。
「なんや楽しそうやな」
「そうね。コーヒー淹れるのは楽しいかな」
「月……見るんよりもか?」
少し躊躇うように虎児が言う。佳乃の動きが止まった。
「なに、それ。月は……関係ないでしょ」
佳乃の声は固く、掠れていた。
「ほうか。すまんかった」
「別に……謝ることなんてないでしょ」
それ以上、どちらも話さない。二人の間に気まずい空気が流れた。
――カランカラン。
来客を告げるベルの音が空気を変える。
「いらっしゃいませ」
佳乃が入り口を見る。入って来たのはスーツを着た男性だった。
七三分けのオールバックにした髪。目尻の下がった細い目で店内を見回している。年齢は四十前後だろうか。手には黒い、大きなアタッシュケースを持っている。
「空いてる席にお座り下さい」
佳乃が男性に向かって言う。男性は窓際のテーブル席へと座った。
佳乃は水を持って、新しいお客の方へと向かう。
「ごちそうさんです」
虎児は会計を済ませると、佳乃に話しかけることなく店を後にした。
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