月歌来舞
宮杜 有天
佳乃と紅葉
一夜 こんなに月が綺麗なんですもの
今夜も冴えた銀色の光が夜の世界を満たしていた。街灯のない場所ですら世界を見れる夜。ぼんやりと浮き出る景色はいつもと違う顔を見せる隣人のようだった。
そんな夜だからだろうか。塾帰り、佳乃は気まぐれを起こしていつもと違う道を歩いた。自宅のある住宅街への通り道を早めに曲がる。この辺りは区画整備されている。だからよほど奇妙なコースを辿らない限り迷うことはない。
佳乃にとって本当にちょっとした気まぐれだった。
ふと、彼女の足が公園の前で止まった。中規模のよく整備された公園。二年前に改装されて以来、そこそこ広く綺麗な公園は利用者も多かった。税金の使い道としてはまあまあの部類だろう。
そんな公園の中央に人がひとり立っていた。ほっそりとしたシルエットは少女のものだ。両手を広げて、顔は夜空の方向を向いている。腰まであろうかという髪が風に揺れた。
不思議な光景だった。静寂の中、まるで月光をその身に集めているかのようだ。少なくとも佳乃にはそう思えた。
「……
佳乃はずり落ち気味の眼鏡を押し上げて目を凝らす。人影に――特に長い黒髪に、なんとなく見覚えがあったのだ。
少女の姿は同じクラスの
「!」
呟きが聞こえたのだろうか。少女が驚いたように佳乃の方を向いた。その瞳が一瞬、赤く輝いているような気がして佳乃は思わず息をのむ。
「えっと、あの――」
「なんだ。
呼ばれたのが自分の名前だと、佳乃は最初気づかなかった。数舜の間をおいて慌てたようにうなづく。
「そ、そう。えっと秋さん……だよね?」
「そうよ。びっくりした。誰かと思った」
そう言って少女――
長身だが、痩躯で電柱と揶揄されたことのある佳乃としては少し羨ましい。
すぐそばまでやって来た彼女の顔には屈託のない笑顔が浮かんでいた。紅葉の浮かべた笑顔は、佳乃にとって意外なものだった。
紅葉は今年の春に佳乃の通う高校に転校してきた帰国子女だった。どこか冷めた雰囲気を持った美人で、教室では他の生徒たちと自ら一線を引いているような様子があった。まるで回りのことに関心がないかのように。
だから佳乃は自分の名前を紅葉が知っているのが意外だったし、自分に対し先程のような笑顔を浮かべるなど想像できなかった。
「制服でおでかけ? 夏休みなのに真面目ね」
佳乃たちの通う学校はミッション系の女子校でそこそこの進学校だった。校則も厳しく、休みの日にも外出時は制服の着用を義務づけている。だが、それを律儀に守る生徒はいない。
「……秋さん。うちの学校って夏休みが始まっても、しばらく補習があるって知ってた?」
本気で感心した様子の紅葉を見て佳乃は呆れたように言う。そう言えば補習が始まって十日以上経つのに、紅葉の姿を教室で見かけたことがない。
「補習……そんなのもあったわね。すっかり忘れてた」
そう言って、紅葉はくすりと笑う。教室で見る彼女から受ける印象とは違った自然な笑み。今の紅葉に冷たい雰囲気など微塵もない。どこにでもいる同年代の少女と同じ。紅葉はまるで旧来の友人にでも会ったかのように、佳乃に話しかけてくる。
「どうしたの?」
紅葉が訊いた。佳乃の戸惑いが顔にでたらしい。
「え? あ、秋さんってなんだかイメージしてたのと違うなって。もっとキツイかと思っ……あ」
言ってから、しまったという表情になる。いくらなんでも失礼だ。親しいわけではないのだから。
「そう? そうね。確かに違うかも。だって今夜はこんなに月が綺麗なんですもの」
だが、紅葉は佳乃の言葉を気にした様子もない。口元には淡い笑みすら浮かんでいる。それが随分と艶めいたものに見えて、同性と判っていながらも佳乃は一瞬どきりとした。そしてなにより佳乃の心臓を強く打たせたのは紅葉の「月が綺麗」という言葉だった。
「あ、秋さんって……月が、好きなんだ?」
掠れたような声が出る。うまく言葉が繋がらない。
「好きよ」
囁き。それは恋人に言葉を紡ぐような甘さを持った囁きだった。紅葉は夜空を見上げる。どことなくうっとりとした様子で彼女は月を見ていた。
まるで待ち人を前にした乙女のように。
「……あたしも、好きなんだ」
佳乃の声に力がこもった。少しだけ挑戦的な表情で紅葉を見る。月を好きなのはあなただけじゃない。月を見上げる紅葉の表情に佳乃は嫉妬していた。自分より〝月という存在〟の近くにいるように見えた彼女に。
紅葉が佳乃を見る。口元に浮かぶのはあの淡い笑み。それは余裕の笑み。艶やかな女の笑み。佳乃を嫉妬させる笑み。
「知ってた」
「え?」
予想外の言葉に佳乃は思わず言葉を失う。知っていた? 自分が月を好きだと言うことを?
でも、同級生の誰にも言ったことがない。かぐや姫の話を聞いていつか自分も月に帰るのだと、小学生の頃まで佳乃は本気で信じていた。しかしそれを友達に話して笑われて以来、佳乃は月の話を人前でしなくなった。
「染井さんは、わたしと同じだから」
「……同じ?」
「月に捕らわれてる」
「月に……捕らわれてる?」
月に捕らわれている。その言葉に、佳乃の鼓動がひときわ大きく打った。夜空を見上げる。十三夜を迎える月が空に浮かんでいた。月を見るたびに心が締め付けられる。その思いは月が満ちるほどに強くなるのだ。
そう――自分は月に捕らわれているのかもしれない。
「でも、まだ」そんな佳乃の考えを断ち切るような紅葉の声。「染井さんは完全に捕らわれてるわけじゃない」
「…………」
「怒った?」
「別に……」
そう言っても、佳乃は紅葉を睨まずにはいられない。彼女は遠回しに言ったのだ。自分の方が佳乃よりも月の近くにいるのだと。
「わたしがさっき、何をしていたか判る?」
「……月を見ていたんでしょ?」
佳乃の言い方はどこか投げやりだ。そんな彼女を見て紅葉はくすりと笑った。
「月の歌を聴いていたのよ」
「月の……歌?」
「そう。月はね、歌ってるの」
「うそ」
その言葉に込められた佳乃の本心は半分だけだった。紅葉の言葉を否定する気持ちは本当。だがそれは紅葉に感じる嫉妬から来た言葉に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。
「嘘じゃないの。染井さん〝
「……知らない」
自分の知らないことを訊かれて佳乃は面白くない。その気持ちが口調に出るし、紅葉を見つめる瞳にも出る。だがそれ以上に紅葉の言葉に惹かれる自分がいるのも事実だ。
だから素直に答えてしまう。
「月はね、振動してるの。昔からずっと震えているの。それが〝月震〟」
そこで紅葉は言葉を止める。佳乃は何も言わず、だだじっと紅葉を見つめている。
「そして〝月震〟が生んだ波動が月光にのって地球に届くのよ。それが月の歌」
「そんなの……秋さんの作り話でしょ?」
佳乃の語調は弱かった。相手の言葉を否定しながらも惹かれている。それが自覚できるだけに悔しかった。
「そんなことはないわ。〝月震〟はNASAがアポロ計画の時に行った実験によって証明されてるわ。moon quake って単語もあるのよ。ただ、その原因については色々いわれてるけどね」
「だからって……」
「月が歌ってるって証拠にならない? じゃあなんで、染井さんは月を見ると不思議な気持ちになるの?」
「そんなこと……ない」
「誤魔化してもだめ。月を見ると胸が締め付けられるような気持ちになるでしょ? それも月が満ちるほどに強くなる」
「なん…で……それを」
言葉がうまく出ない。なぜ紅葉は知っているのか。誰にも話したことのない、自分の秘密を。
「やっぱりそう」紅葉は微笑む。「あたしも同じだったの」
「秋さんも?」
「最初に言ったでしょ。染井さんはわたしと同じ。違うのは月の歌を聴けるかどうかだけ。
月の光は特別なのよ。昔から月には色々な言い伝えがあったわ。太陽の光を反射するだけなのになぜだと思う? それは月の光が〝月震〟の波動を――月の歌を地球に届けているからなのよ」
「…………」
紅葉の言葉を素直に認めたい自分がいる。そして否定したい自分がいる。彼女の顔をまともに見れない。見ればすぐにでも紅葉の言葉を認めてしまうだろう。
佳乃は俯いた。
「ねえ、染井さんも月の歌を聴けるようになりたいと思わない?」
囁き。その言葉は佳乃の耳元で聞こえた。いつの間にか、紅葉は佳乃のすぐ横に立っていた。軽くつま先立ちで佳乃に囁いている。
「!」
驚いて、佳乃は後ずさった。そんな佳乃を見て紅葉はまた、くすりと笑った。
「聴きたくない?」
そして再び囁く。二人の距離は離れたはずなのに囁きははっきりと聞きとれた。
佳乃は紅葉を見つめる。
紅葉も佳乃を見つめる。
もう、佳乃は目を逸らすことはできなかった。見つめてくるのは期待を込めた紅葉の視線。そして伺うような視線。
「……あたしも、聴けるようになるの?」
紅葉の表情がひどく和らいだものになる。佳乃にはそれが安堵の表情に見えた。
しかしその表情を見せたのはほんの一瞬だった。紅葉の口元にはすぐにあの淡い笑みが浮かぶ。
「なれるわ」
「どうやって?」
「あたしに任せて。すぐに終わるから」
紅葉が近づいて来る。彼女の瞳が佳乃を捕らえる。紅葉の瞳は赤い光を帯びていた。
だが、佳乃はそれを疑問に思わない。思考はなく、無表情に紅葉の瞳を見つめるのみだ。何も考えられない。何も思いつかない。
紅葉の手が伸びてくる。白く、細く、長い綺麗な指が佳乃の頬に触れた。それは愛おしそうで、優しくて、冷たくて――
「! いや!」
紅葉の手の冷たさに驚き、佳乃に意志が戻った。弾かれたように紅葉の手を払いのける。
「秋さん、何をしたの!?」
紅葉は答えない。佳乃の行動にショックを受けているようだった。彼女の顔には驚き、そして哀しみ。瞳の赤は消えていた。
「あなたなら――――のに」
紅葉は俯く。呟きが、口から漏れた。だがそれは先程の囁きとは違い完全な形で佳乃の耳には届かなかった。
「秋さん?」
「ごめんなさい。今までの話、忘れて。その方がいいのよ」
言葉の最後はまるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。すぐに背を向けて、紅葉は歩き出した。
「ちょ、ちょっと! 秋さん!?」
紅葉は応えない。佳乃には彼女の小さな背中が全てを拒絶しているように思えた。そして泣いているように見えた。だから――
佳乃はそれ以上言葉をかけることができなかった。
「……なんなのよ」
紅葉の姿が見えなくなるまで、佳乃は公園に立ちつくしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます