緋き死神と亡国の英雄
水瀬紫音
第一章 放浪
第1話 酒場にて
酒場の喧騒が耳に障る。こんな日は、特に。
空になった杯を傾けると、からりと澄んだ音をさせ、氷が崩れた。
手元を注視する。空になったグラス。そこに今まで入っていたのは果実水。酒が嫌なことを忘れさせてくれる訳ではないと知ったのはいつの時だったか。
はぁ、と1つ溜息をついて、目を閉じる。
ここは旅人が多く立ち寄る街だ。故に、この街の収入の多くは商業、特に、旅人を相手にしたものだった。
日持ちのする干し肉や干し果物のような旅食を売る店。
旅の資金源となる換金所。
武器や道具を売る店。
疲れた体を休める為の宿屋。
そして、食事処や酒場。
特に酒場は情報収集の場としては重宝されている。旅人や店を閉めた店主たちが、一日の疲れを吹き飛ばすためにこぞって酒場を訪れる。
ここも、そんな酒場の一つだった。
昼間は食事処として機能しているため、他の酒場に比べると少しばかり広く、食事のメニューも多い。そんな店自慢の手料理に舌鼓を打ちつつ、酒に酔った人々が我先にと自慢話を繰り広げている。
大声で話す男たち。店内に下卑た笑いが響く。屈強な男たちや腕自慢の旅人の多い酒場では、小競り合いなんて日常茶飯事。それさえも肴に飲み明かす。
この喧噪も、嫌いじゃないと思っていた時があった。
――それは、彼がいたから。
彼を慕って集った仲間がいたから……。
彼等と軽口を叩き合い、ふざけ合って、手を叩き肩を抱き、笑い合った。
彼等には常に笑顔があった。
例え、どれほど辛くとも。
悲しくて、苦しくて、先の見えない暗闇の中に身を置こうとも、彼等は笑っていた。
そこには、光があったから……
彼は、その眩いばかりの光で皆を、自分を照らし続けていたから――
ぐっとグラスを握りしめる。
やがてそのか弱いグラスは、圧力に耐え切れずにみしみしと音を立て始めた。
「……~って……~が……さ……」
ふと会話が耳に入ってきた。何か、引っかかる単語が混じっていたような気がする。
視線のみを動かし、声の主を探る。
「……~なんだよ!!」
得意げに語るその男は、どうやらこの店の主らしい。豊かな髭に、恰幅のいい体躯。少し酒を口にしたのか、その顔は僅かに赤らみ、舌の回りも良いようだった。
気のない振りをして、その会話に耳を傾ける。
店主は大声で得意げに語っているので、特に聞き耳を立てずともその内容は耳に入ってきた。
しかしその会話に登場する単語の一つ一つは己の神経を逆なでするには充分で。
ただでさえ苛立っていた心が、更に荒れ狂っていくのを感じる。
「本当さ。俺の親戚が王城で働いていたんだからな。本人から聞いたんだ!間違いないさ!!」
「へぇ~!!じゃあ本当に子供だったってのかい?」
「俺は大男だって聞いたけどな」
「女みてぇな餓鬼だろ?」
盛り上がる衆人を満足そうに眺めた後、店主はもったいぶって答える。
「噂に偽りはねぇよ。すっげえ真っ赤な髪をした、10歳くれぇのガキだってんだよ」
へぇぇと驚きの声を上げる聴衆に優越感を抱き、更に調子に乗って話し続ける。
その行為が、誰かの気に障るなどということは考えもしないまま。
「見た目はどこの美少女かってぐれぇお綺麗な顔をしてるらしいんだな。でも人は見た目によらねぇってか。己の身の丈ぐらいはあるような剣を軽々と振り回し、自分の何倍もあるような大男をばったばったとなぎ倒し……」
おおっ、と再び歓声が上がる。
「いやぁ、不思議な光景だったね。絶世の美少女が剣を振り回し、大の男を軽々とぶっ倒していくんだから……」
調子に乗った店主は、最早「聞いた話」ではなく、己の眼で見てきたかの様な話方になっていることにも気付いていない。
「血を浴びて赤く変色したってのも強ち間違いじゃないと思うぜ。あれはまさに血の色。きっと、帝国の奴らをぶっ殺しすぎて奴らの血が髪にしみ込んだんだよ」
ぎゃははと下卑た笑いがあたりを包み込む。
この様子だと、重要な情報など手に入りはしない。ならば長居は無用とばかりに席を立つ。
何より、これ以上この場にいたくなかった。
しかし、次に発せられた一言が足を止めさせる。
「王子もまたお綺麗な顔をしていたらしいしな」
「オウサマとかオキゾクサマってのは、そんなもんじゃねぇの?」
「ばっか。全員がそうなわけねぇだろ。お前さんも知ってんだろぉ?ほら、あそこの……」
げらげらと品のない笑い声が響く。
彼らは会話に夢中になり、背後から近づく気配には気付いていないようだった。
「じゃあ、本物を見たのか?」
「ああ。青い瞳に金色の髪。年は……15・6だったか?綺麗な顔で優男だったから、死神と並ぶとなんかもう美男美女のカップルみてぇっつか……」
得意げに話していた店主は、ようやく目の前に立つ人影に気づいた。
その人影はフードを目深に被っており、全身を外套で隠していたため、男か女かすらも分からなかった。しかし薄汚れた旅装から旅人と予測した店主は、即座に営業用の顔に切り替える。
「いらっしゃいませ。お食事ですか?うちは安くて……」
機嫌よく慣れた文言を口にし始めるが、それ以上続けることはできなかった。目の前に、白銀に光る鋭利な刃が突きつけられていたからだ。
店主も周りの男たちも、何が起こったのか分からず、ただ茫然としていた。旅人が、いつ刃を抜いたのかすら、理解できなかった。
ただの小競り合いならともかく、争いとは無縁の平和な世界に生きた店主には、一生を使ったところで理解できないだろう。旅人は一瞬の内に間合いに入り、眼にもとまらぬ速さで刃を抜き放った。神速で抜き放った刃を、店主を傷つけることなく、目の前で止めた。
その熟練の技は、誰にでも出来る訳ではない。それが、鍛え抜かれた肉体と卓越した技術によるものであり、目の前の人間が、その辺の軍人などより余程腕ききであることも。
ただ茫然とする店主と客を一瞥し、旅人は口を開く。
「己の言動には責任をもて」
その声は低く、男のものであることがわかった。しかし低いながらも僅かな高さを含んでおり、それは旅人が成熟した男ではなく、まだ少年であることを示していた。
「ひとつ、忠告をしてやろう」
その怜悧な声はその場にいた人間の背筋を凍らせてしまうには充分で。
「俺が帝国の者であれば、貴様を生かしてはおかない。反乱軍の連中の顔を知っている人間であれば、喩えどんな非道な拷問にかけてでも吐かせるからな」
拷問……それは死を意味していた。帝国の非道さは誰もが知っていること。
「俺がクレイスの人間でも……やはり生かしてはおかない。自分の情報が敵に漏れてしまっては厄介だからな」
その前に、始末する。
そう言うと、店主の首筋に突きつけていた刃を引いて、鞘に収める。
未だ呆然としている男たちを一瞥し、懐に手を入れ数枚の硬貨を取り出した。
「……代金だ。釣りはいらん。迷惑料に取っておけ」
そう言って、顎をしゃくって一つのテーブルを示す。そこは今まで旅人が座っていたテーブルで、食事を終えた皿やグラスが置いてあった。
食事代の3倍はあろうかという硬貨を台の上に落とす。
「邪魔したな……」
そう呟き、踵を返す。
店主たちは、旅人がドアを潜って出て行ったあともしばらく呆と立ち尽くし、やがて腰が抜けたかのようにぺたりと座りこんだ。
※
酒場を後にし、旅人は歩いていた。このまま宿屋に戻る気は起きない。
喩え戻ったところで、今の精神状態ではきっと休むことなど出来やしない。ならば部屋で鬱々と考え込むよりは、外の空気でも吸って頭を冷やした方が幾分かましだ。
ざく、と砂利を踏む音が響く。地面を踏む感触が変わったことを、どこか他人事の様に感じていた。
――体の奥底から湧き上がる感情。
怒り、憎しみ、苦しみ、悲しみ――
ありとあらゆる負の感情が湧き上がる。それらは飽和状態となっており、喩えどれか一つでも増えてしまえば溢れ出てしまいそうなほど。
しかしそれらの感情は絶妙なバランスで保たれており、未だ均衡は失われていない。
ふつふつと未だに湧き続ける感情。
しかしそれらは虚無に覆われ、やがては姿を隠してしまう。
後に残るのは、底無しの闇と、虚無。
ざくざくと音を立てて進む。その音が以外と大きく響いたことで、随分と街の外れまで来てしまったことに気付く。酒場の明かりは見えず、月明かりだけが道を、辺りを照らす。
ざわりと木々が揺れる。
街の喧騒から離れ、自然の中に身を置くことで、少しばかり冷静さが戻る。
あまり離れ過ぎても戻るのが面倒だ。その場に腰を下ろし、木々のざわめきに耳を傾ける。
自分らしくない。あんな風にかっとなってしまうなんて。
苛立ちを抑えられないと分かっていたからこそ、早くあの場を去ろうとしていたのに――
気がついたら、手を出してしまっていた。
――あの瞬間まで、本気だった。
頭が真っ白になり、本気で店主を殺そうとしていた。寸前で正気に戻ったのは幸運だった。
楽しそうに笑う店主。
楽しそうに笑う男たち。
下卑た笑いを浮かべながら、噂話を肴に呑んでいた。
酒の肴
(――そんなものか。民の意識というものは……)
自嘲気味に嗤う。
自分たちが、彼が命を懸けてしてきたことは何だったのか――
底無しの闇が襲いかかる。
光一つない、真の暗闇。
強く頭を振り、思考を追いやる。
明日は早い。もう、休まなければ。
すっと立ち上がると、己を照らす月を見上げる。
太陽のような圧倒的な光ではなく、優しく闇夜を照らす月光。
その光は意外に強く、こんな街灯一つない暗い夜道でも、辺りを見回すことが出来る。
――なら、照らしてくれ
この、終わることのない暗闇を――
こんなささやかな光では、夜道を照らすことは出来ても、自分に光を与えてくれはしない。
風が吹き、フードが背中に落ちる。
月光が、旅人の髪を照らす。
色素の薄い髪が、月の光を浴びて輝いていた。
しばしの間瞑目すると、フードを被り、歩き出す。そろそろ休まなければ、明日に差し支える。
彼は宿屋へと足を向ける。
眠れはしないとわかっていながら――
歩みを進めるたび、彼は虚無を纏ってゆく。
その瞳は闇く、光を映してはいなかった。
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