第4話 逃げるは恥だが…

「今日は警察、回ってこないですね」

 営業部の人間にそう言われ、横川は「いや、この先の公園の近くにいるようだよ。また、なにかあったのかな」と、聞いたばかりの噂を落ち着いて答えた。

 昨日は突然の来社に肝が冷えたが、今日になったらようやく、少し冷静な気分でいることができる。気温の低いせいもあるのだろう。

 昨日は暖かい気候だったのに、今朝はまた一昨日のように冷え込んだ。寒の戻りなのだろうか。最低気温は、あの日を下回っているかもしれない。手が冷たく感じるほどだった。

 しかたなく、あの日着ていた中厚手の背広をまた着る羽目になったが、昨晩は疲労感が激しく、シワの手入れはおざなりだった。体調が悪いから冷えを感じるのか、それとも睡眠が浅いせいかもしれない。

 いつになれば、ペースが元にもどるのだろうと横川は思った。はやく落ち着いて、前のように気楽な気分でロードバイクを走らせたいものだ。いや、疫病神は去ったのだから、久しぶりに新車を手に入れる計画を、検討してもいい。


 それに今日、背広についてあれこれ思い悩むのは、単なる杞憂に過ぎない。

 八柏周辺では誰にも見とがめられていないし、服自体がチャコールグレーのありきたりも極まったような色柄だし、ああ、なにを心配しているのか、俺は。

 それでもワイシャツだけはあの日とはがらっと変えて、白地に紺のストライプ柄を選んだ。与える印象はかなり違う。

 まず、加藤彩の転落そのものが知られていない。あれから念入りに新聞やテレビを確かめてはいるが、いまだどこにも事件として取り上げられていない。

 事件ではなく、ありがちな事故として処理されたと思うことにした。

 ずっとあとになってから、誰かが彩を死んだことにして、OLの幽霊が出る怪談話に作り替え、学生の間に広めるぐらいだろう。


 また同僚の中には、彩の件とはまた別に、このところ「ながらスマホ」に対する敵対行為が目立つため、例の体当たり魔を含む当たり屋への監視を警察が強化するとの噂を口にする者がいた。それを耳にした横川は、

(無事逃げきってくれよ、師匠)と内心でつぶやいた。(それで、万が一の時は、あんたが全部の罪を被ってくれ)

 

 ずっとなかった横川の食欲も、今朝あたりから、ようやく出てきた気がする。寒さがぶり返したので、始業後の早い時間から、今日は暖かい麺類を食べたいと思い続けていた。

 しかし、よく昼食をとる駅前の手打ちうどん屋が休みなのはわかっていた。 一方、部長が好むケータリングの弁当屋は麺類も扱っているのだが、横川は生理的に好かないため、決して買わない。

 7、8分も歩けば大手スーパーがあって、食料品売り場は開いているはずだ。イートインコーナーはだめでも買って帰ることはできるし、寒さを我慢すれば公園で食べられる。

 しかし十二時五分を過ぎ、待ち兼ねたように上着をはおって、オフィスビルの裏口から出て歩き出した横川は、目を疑った。

 どこからか、黒ずくめの上下に灰色のマスクをした大男が、ゆったりと姿を表したのだ。 

 偶然だろうか、近くに通行人は誰もいない。黄色い猫だけが一匹、とぼとぼと歩いていた。


 空は青く晴れ、冷たい風の吹きつける昼間のオフィス街の裏通りに、非日常的な黒いカカシのような姿がポツンと突っ立っているのは、十分すぎるほど異様な光景だった。

 原始的な恐怖に駆られて、小さくくぐもった声を横川はあげてしまった。

 すると黒い怪人は、親しげに片手をあげて見せた。

「やあ、横川課長。今日のお昼は、どこでお食べになりますか」

 見ると昨日来た、珍しい名をした警察の男だった。

 「へっ、なにか」我ながら間抜けな返事が出た。

「いえ、昨日は食欲がなかったようなので、とても気になりまして」

「い、いったいなんですか」

「いいえ、別に」

 

 相手の態度がおだやかなので、横川にも少し余裕が出てきた。

「ご用はなんですか、よろしければ事務所でお聞きします」

「それが、ないんです」

「えっ、ないんですか」

「気になった方を、定点観察するのがわたしのやり方でして。それでいろいろ刺激を受けたり与えたり」

「そんなこと。警察の方に用もないのに来られると」彼は背を伸ばして言った。「私も正直なところ気分が悪いし、迷惑でもありますよ」

「すみませんねえ、少々捜査に行き詰まっていて、それで打開策を求めて歩き回っているところなんです。不要不急というわけではない」

「そんな奇行を、あちこちでされているんですか。どういうつもりですか、気持ちの悪い」

「コロンボの再放送を見たせいかもしれません」

 一瞬意味を考え、また横川は言った。

「いや、ほんと、刑事さん、用がないんだったらからかうのは、やめてほしいな。こんなこと言いたくはないが、正式に苦情申したてをしてもいいんですよ」

 そう言いつつ横川は歩き始めたが、恐ろしいことに宇藤木がついてくる。足が微かに震えはじめている。


「あ、お聞きになっていませんか。私は、嘱託捜査員とでもいうべき人間でして、厳密に言えば刑事じゃない。安心なさってください、逮捕権はありません。そのかわり」

 一歩、彼の前に立ちはだかるように宇藤木は距離をつめた。目の前に黒い服があった。近寄るとますます相手の巨体が恐ろしく感じられた。

「一般的な警察の取り決めにも、縛られない部分がありましてね」

 今や横川は、完全に高みから見下ろされていた。

 いつの間にか昨日の女性の相棒が、横川の後方にいた。裏口の方からきたのだ。振り返って動揺した顔を見せる横川に、小さく頭を下げた。


「昨日とはうって変わって、今日は寒いですな。こんなによく晴れているのに」と、宇藤木が明るい口調で言った。「あなたのお召し物もまた、昨日とがらりと違う。その生地ならシワに強いのかな。ダークな背広とストライプのワイシャツが決まっていらっしゃること」

「え、ええ、どうも」

 称賛を口にしながら宇藤木は彼を見下ろしている。口元は見えないが、やけに優美な目元をしているだけに、黙っていられても迫力があった。

 どうせ、証拠はないはずだ。おれの昨日の態度が悪かっただけだ。具体的な話はなにも言わないということは、ただの脅しであり、ほかの捜査がうまくいかない憂さ晴らしかもしれない。だいたい、早すぎる。

 横川は自分にそう言い聞かせて、身体を転じて逃れようとした。すると、

「おや」

 重々しい、地底から響いてくるような声がした。


 見上げると、大男の視線は横川の胸元にあった。

 足を向けている先に何人もの人影が見えた。横川に、抵抗する勇気が湧いた。「もう、いい加減にしてください」彼はわざと周囲に聞こえるような声を出した。彼にしては珍しく思い切った行為だ。

「あまり失礼なことばかりだと」

「そういえば」全部話を聞かずに宇藤木は言った。「お外におでかけになるのに、マスクはしておられない」


 機先を制され、慌てて口元に手をやった。ない。

(そうだ)と横川は思い出した。

 さっきからなにかおかしい、忘れていると感じていたが、マスクをしてくるのを忘れたのだ。オフィスの机に置いたままだったろうか、それとも家からか。

 焦ってしまい、うまく思い出せない。

「あらためて拝見すると、横川さんは意外にお髭が濃い。男らしいですね。いや失敬」

 また高みから、楽しげな声がした。

「いまから薬局に行って、か、買ってきます、マスクを。そこを退いてください」

「あるといいですな。このごろ本当に品薄で、困る困る。でも」

 大男は白くて長い指を一本差し出し、優雅に横川の左胸のあたりを指差した。


 黒衣の大男がもったいぶった仕草で指さす姿は、

(悪魔が、契約者の心臓のありかを指し示してるみたい)と、思いながらみずるは手を出さずに二人を見ていた。横川はすっかり顔色が変わっている。

(ちょっと気の毒かも)

 宇藤木は、当人が自覚しているより、はるかに威圧感があるのだ。


「あなたがそこに持っておられるのは、もしや」宇藤木は悪魔というより幸せな童子のように微笑んだ。「マスクでは、ありませんか」

「マスク」思わず指摘されるまま、自分の背広の胸ポケットに目線を送った。たしかに白いひものようなものの端っこが、小さくのぞいている。

 なんだあるじゃないか、と安心したのも束の間、横川は全身の汗腺から冷や汗が滲み出ていくのをまざまざと感じた。

(どうしよう)

 間違いない。一昨日の夜、加藤彩を突き落とした時にしていたマスクだ。変装を解除する最中、仮に突っ込んだまま、すっかり処分を忘れていた。落ち着いていたつもりだったのに、やはり見落としていた。

 横川を戦慄させたのはそのことより、白いマスクにあった小さな染みだった。

 それは黒っぽく、わずかに赤みを帯びていた。暗褐色とでもいうべきか。

(血だ。血の跡が残っている)


 倒れた加藤を探った後、手についた血はぬぐったつもりだったのに、ポケットからのぞくマスクの耳紐には、小さいが黒く色の変わった部分が残っている。

(いつの間に)(どうしよう)(捨てないと)

 横川は戦慄した。かたわらの宇藤木は血痕についてなにも言わなかった。しかし彼の虹彩の薄い、外光を反射して赤っぽく光る目は、すべてを知って、知らないフリをしているように思えてならない。

 宇藤木は長い首を軽くかしげ、横川の動きをじっと観察していた。いままさに失敗を待っているのだ。


(とにかく、どこかに捨てよう)(逆に、これを捨ててしまえば、もうこっちの勝ちだ)

 そう決断して一度、後ろに目をやったが、あの和気という女刑事がこっちを見ている。

 女刑事はとても色が白かった。顔の大半を覆っている白いマスクと合わせると、のっぺらぼうが、眼鏡だけかけているようにしか見えない。

 さっき出てきた裏口へ戻る手筈を真剣に考えたが、すでに不自然さが隠せないほど距離ができてしまっている。戻る理由を必死で思いつこうとするが、後ろの女刑事が気になって考えがまとまらない。

 

 それにこの女も、身こそ薄いものの、決して小柄ではなかった。押し通るのは腕力に自信のない横川には難しい。むろん、黒い大男は蹴飛ばしても動くかどうかわからない。だいいち警察官を押して逃げるなんて、彼の常識を超えていた。繰り返し振り向く横川に対し、みずるからもリアクションがあった。目元にシワがよった。マスクに口元は覆われているが、笑ったらしい。

 

 女は就職運動中の学生を思わせるスーツに白っぽいスプリングコート姿だった。コートの裾が風にはためいた。白い顔に白い服を着て風と歩く女刑事の姿が、横川にあるものを思い起こさせた。

(雪女じゃないか) 

 ぞっとして前方に目線を戻すと、どこに消えたのか、さっきの黒づくめの大男がいなくなっていた。

 しかし、大男より雪女のほうが不気味に感じはじめた横川は、安堵する暇もなく、他の人間に紛れる機会を狙ったが、それほど多くの人が歩いてはいない。

 ついこの前まで、食事どきの人の多さにへきえきしていたのに、今日はそれが恋しく思えた。人にまぎれてマスクを捨てるのは諦めざるをえない。

 

 それでもどこかにゴミ箱でもあればと、あたりを見回す。最近、街でゴミ箱をみない。テロ対策のなごりなのだろうか。こんなゴミ箱不足のところにマスクを放り捨てたら、大喜びで見つけ出されて、DNA鑑定をされかねない。いや、こいつらなら、ぜったいする。

 

 横川の額に汗が流れだしていた。手近な店に入って、視線の途切れた隙を見つけて捨てることも考えたが、

(くそ、休みばっかりだ)通りに面した店は、半数以上が閉まっている。

 会社の裏をしばらく行くと、ゆるい坂道になっている。(そうだ、坂を登り切ったら公園があった。あそこにはゴミ箱もあったし、トイレがある)

 希望の光が灯ったように思えて、進もうとした目の前に、ふたたびあの黒い大男が立っていた。

 小さく手を振る。なにか言っている。口の動きは見えずとも、声は耳に届いた。

 そのマスク、つかわないんですかー、このご時世じゃ再利用はめずらしくない。なんなら、抗菌スプレーでもお貸しましょうかー、と言っている。

 よく通る大男の声に、貴重な通行人が振り向き、薄気味悪そうに逃げてしまった。

  

 バチがあたったんだ。

 横川は、亡くなった祖母の口癖を思い出した。

 祖母のように彼を無条件にかばってくれる人は、もういない。

 早く落ち着いて、おばあちゃんを喜ばせたかったのに。

 なんでこんなことになったのだろう。怖くて、不安で、仕方がない。

 俺があんな悪いことをしたから、化物に魅入られてしまった。前に黒い大男、後ろに白い雪女。

 歩き続ける横川は、ますます追い詰められたような気分になる。

 どうして、マスクを忘れていたのだろう。それより、なぜ階段から突き落とすなんて馬鹿なことをしたんだろう。次から次へと後悔が襲ってくる。 


 だが、騒がしい音に気がついて、横川はわずかに生気をとりもどした。坂の上に人が集まっている。遠くに停車中のパトカーも見えた。

 ありがたい。少し歩くと、いっぺんに周囲が賑やかになったように感じた。点々と人もいて、マスク越しに憶測を語り合っている。

 

 漏れ聞こえてくる会話によると、公園の斜め向いにある医療機器商社のオフィスに対し、また脅迫があったらしい。昼前に聞いた、あれか。

 坂道を登りきると、通りの向こうに公園が見えた。その手前で制服の警察官が、

「集まらないでくださーい」と、声をかけている。

(いや、集まらせてくれよ)と横川は心で叫ぶ。やけくそになってそっちに駆け込もうとしたが、黒い影は巧妙にポジショニングし、野次馬と横川の間へと入りこみ、やあ、という感じで手を上げた。そして公園のすみにおかれた金網で作られたゴミ箱を指さした。

 マスクを捨てるのを、待っているとでもいいたげだ。

 血走った目で逃げ道を探していると、「あった」思わず声が出た。公衆トイレだ。急な腹痛で苦しんだ時より、さらにうれしかった。

 雨風にさらされた、うっすらと汚れたトイレが、この上なく魅力的な場所に思えてならない。腹部をおさえ、腹痛のふりをして急ぎ足になる。

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