ユーカイ
ワタリヅキ
本編
『ユーカイ』
僕が初めて彼女と出会ったのは、小さな神社の前だった。時刻は午後十一時。人通りのない夜道の、鳥居の端で彼女は体操座りをしていた。顔を膝に埋めるようにして、傍目からは眠っているようにも見えた。
「こんなところで寝ていると危ないぞ」
僕が声を掛けても彼女は反応しなかった。ピクリともせず、生きているのか心配になったけれど、よく見ると肩が小刻みに震えている。季節は初冬を迎え、風は冷たくなり始めていた。
「風邪を引くぞ」
余計なお世話だとは思いながらも、そう声をかけて去ろうとした。見た目からしておそらく十代後半か二十歳くらいか、いずれにしても僕のような成人男性が夜中に声をかけていたら不審者と思われかねない。
再び歩き始めた時、
「おじさん」
と、背後から微風のようなか細い声が聞こえた。
振り返ると、俯いていた彼女の顔が僕を見ていた。瞳が何かを訴えかけているようだった。彼女は僕が立ち止まったのを確認すると「お願い」と言った。
「私をユーカイして」
それが、誘拐だと脳内で変換されるのに時間が掛かった。そして変換された後も僕はしばらくの間、何の返事も出来なかった。
「誘拐?」
やっとのことで同じ言葉を繰り返し確認すると、彼女は立ち上がりゆっくりと僕に近づいてくる。
「ちょっと、おい」僕が何かを言う前に、彼女は僕に抱きついていた。
「私を、誘拐して」
彼女を引き離そうとするが、彼女は必死に抵抗して離れようとしない。「何を考えているんだ」
そう言うと、僕の胸に埋めた彼女の顔から、静かにすすり泣く声が聞こえてきた。
「……何があったのかは知らないけど、君を誘拐することは出来ない」彼女の肩にそっと手をあてて僕は言った。「君は帰るべき場所に帰るべきだ。心配している人が必ずいるし、僕に誘拐されたと知ったら悲しむ人がいるはずだ」
その言葉に、彼女がゆっくりと頷いた。僕から離れると「そうですよね、あなたの言う通りですね。ごめんなさい、変なこと言って」と言って頭を下げた。
僕は「タクシーを呼ぶか」と聞いたが、彼女はううん、と首を横に振った。タクシー代がないのか、と聞こうかと思ったが、いや聞くまでもないかと思い、そっと財布からお札を数枚取り出して彼女に渡した。「どこに住んでいるか知らないが、これで足りるだろ」
それが僕にできる精一杯の優しさだった。
彼女は「本当に、ありがとうございます」と言って深く頭を下げてそれを受け取った。
「じゃあ、気をつけて」
そう言うと、僕は彼女に背を向けた。歩き始めた時、「私を誘拐して」と言った彼女の声が静かにリフレインした。「仕方ないな」と言って、彼女を連れて帰っていたら一体どうなったんだろうな。様々な想像が脳内を駆け巡る。
ふと、気になってもう一度振り返ってみた。
――しかし、そこに彼女の姿は無かった。
地面には僕が渡した数枚のお札が落ちていて、風に吹かれ落ち葉のごとく道を彷徨っていた。
「えっ」辺りを見回しても、どこにも彼女の姿はない。この僅かの間にどこへ行ってしまったのだろう。嫌な予感が脳裏を過ぎった。
その時、耳元で「ついて行きたかったのに」と彼女の声がした。
慌てて僕は叫び声を上げて走り出した。「君は帰るべき場所に帰るべきだ!」さっき言った言葉をもう一度繰り返し、一目散に家路を急ぐ。もう二度と振り返ることはしなかった。
「仕方ないな」と言って、彼女を連れて帰っていたらどうなっていたのだろう。
やはり、誘拐などするべきではない。
了。
ユーカイ ワタリヅキ @Watariduki
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