第283話 洪水の後
びしょびしょだ。頭からつま先までずぶ濡れだ。
領主の娘、思春期真っ只中に見えたジュリアによる反抗的な全力の魔術。溢れた大量の水によって、広間は悲惨な状態になった。
家具は流されて破損し、窓は水の勢いで内側から破れ、大きな穴を晒している。床は当然のように水浸しだ。
絨毯が敷かれていなかったのは不幸中の幸いだろうか。まだ片付けやすい。
魔術が発動する寸前、オレの頭には魔術妨害の選択肢が過ったが、最初から切り札を晒したくないので止めておいた。
代わりにオレがやったことと言えば、デリスさんの隣まで走って、球形の『防壁』でデリスさんを包む動作だ。
おかげでデリスさんは飛沫ひとつ浴びていない。服まで含めて無事だ。護衛役としては中々の反応だったと思う。
……その分、オレは至近距離で洪水に巻き込まれたけど。
まあ、護衛なんてそんなもんだろう。
結局、突然のジュリアの暴挙で無事だったのはデリスさん一人だけ。領主ザークショットも漏れなくずぶ濡れになった。
そして当のジュリアと言えば、割れた窓からさっさと逃げた。ドレス姿とは思えないくらいの逃亡ぶりだった。たぶん常習犯だなアレ。
で、娘に大切な交渉の場を破壊し尽された領主ザークショットは……怒りの表情でも見せるかと思ったのだが、そんなこともなく数秒目を閉じただけだった。
目を開けたザークショットは、娘の行為への謝罪と、交渉の席を明日の朝に伸ばして欲しいという頼み事を口にした。
広間の惨状を見たデリスさんは交渉日の変更を了承し、オレたち一行は屋敷の客室へと案内された……と、いうのが今の状況だ。
こんなに早く出番があるとは思わなかった着替えに袖を通し、オレはデリスさんの部屋を向かう。
部屋に入ると、デリスさんは興味深そうに窓から海を眺めていた。
「海を見るのは人生で2度目なんだ。……どこまでも続く水平線は美しいけれど、同時に底知れない恐ろしさも感じるね」
魔物のいるこの世界では、観光旅行という概念が一般的じゃない。
この国の人間を調べれば、海を見たことがない者の方が圧倒的に多いだろう。
……リーゼがもう少し成長したら、比較的安全な海岸にでも連れて行こうか。
そんなことを脳内のメモに書き留めて、オレはデリスさんの隣に並んだ。
「実際、海は怖いですよ。風も波も人の都合なんて関係ないですし、信じられないくらいに大きな魔物がたくさんいますから」
「そういえば、コーサク君は船に乗ったことがあるのだったね」
「ええ。リーゼが産まれる前ですね。今なら頼まれても乗らないと思います」
海の旅は、陸に大切なモノがある人間にとっては危険が多すぎる。
今のオレは、昔と違って死ねない理由がいっぱいだ。
無茶した記憶を仕舞い込み、デリスさんの横顔を見る。さて、
「デリスさん、さっきは本気で斬るつもりでした?」
領主ザークショットを殺すつもりか否か。大事な質問だ。
こちらから見れば今回の騒動は10割ザークショットが悪いのだが、領主を殺された領民にとってそんな理屈は関係ないだろう。
ザークショットの首を獲ればこの場は敵地に変わる。デリスさんの護衛として、もしそうするのであればオレも覚悟が必要だ。
「ああ……」と、デリスさんは苦笑した。
「切るつもりだったよ。……ただ、殺す気はなかった。他家の領地で特級の魔物を暴れさせるなんて、本来は領主の首が飛んで然るべきだけれどね。幸いなことに、今回こちらの被害は一切ない。そうなると、領主の首は
デリスさんは困り顔で笑いながら、「まあ、全て水に流れてしまったけれど」と肩をすくめた。
「そうですか……」
それならまあ、オレの出番も少ないだろうか。
少し気を抜いたオレを、デリスさんは若干不思議そうな顔で見る。
「コーサク君は思ったより落ち着いているね」
「……はい?」
そりゃ護衛が慌ててたら仕事になりませんが。
「ふむ……リーゼロッタを狙う指示を出した張本人に出会ったのだから、もう少し何かあるかと……具体的に言えば、コーサク君がザークショットに手を出す可能性もあるだろうと考えていたんだ」
デリスさんから見たオレは狂犬かなんかなの?
「護衛の身なんで、そんな非常識なことはしませんよ」
「そうかい? 君の実績を考えれば、あり得ない話ではないと思ったのだけど」
「いやいや、そんなわけ――」
……あれ、否定できないぞ……?
「コーサク君は身内を守るためなら無茶をすると、ロゼッタからも聞いていたからね。そういった様子を全く見せないのは、少し意外だったよ」
「……確かに、昔のオレなら既にザークショットは無事じゃなかったかもしれないですね」
「ふむ、子供もできて丸くなったのかな?」
「丸く……」
なったのだろうか。……なったか。昔のオレなら、一度敵対した人間に容赦はしなかったはずだ。交渉しようなんて発想もなかっただろう。
いつの間にか、オレもけっこう変わっているらしい。
「余裕ができたからかもしれませんね」
「うん?」
「今のオレはそこそこ強いですから」
昔のオレは誰かを守るには弱すぎて、危険を放置するような余裕がなかった。
だから敵は全て積極的に潰してきた。オレと仲間に手を出せば、必ず怪我をすると見せつけるように。
……だけど今は違う。直接的な力があり、ある程度の金があり、色々な伝手がある。
飢えた獣のように歯を剥き出し、怯えて噛み付かなくても、大事なモノは守り切れる。その自負がある。
まあ……暴力だけに頼る必要はなくなった、ということだろうか。
「手を汚す覚悟はいつでもありますが、交渉で決着がつくならそれでいいと、今のオレはそう思いますよ。……ああ、それと――」
先ほど見たザークショットの姿を思い出す。
「うちのリーゼを狙った敵も、実際に会ってみれば思春期の娘と上手く意思疎通ができない、ただの駄目な父親みたいでしたからね。ちょっとやる気が減りました」
肩をすくめると、デリスさんは零れるように笑ってくれた。
「ザークショットはあれでも強大な貴族なのだけどね。コーサク君にかかれば不器用な父親か。ははは、明日の交渉は、僕も気を楽にできそうだよ」
「それなら良かったです」
そこまで話したところで、部屋の扉がノックされた。着替えたデリスさんの部下がやってきたようだ。
これから仕切り直しとなった交渉に向けての打ち合わせだろう。
「デリスさん、オレは少し町の様子を見学してきますよ」
「ああ、気を付けて。何か気になる情報があったら、後で教えてくれると助かるよ」
「ええ」
入室してくる部下たちと入れ違うように廊下へ出た。
歩きながらデリスさんとの会話を反芻する。どうやらオレは鈍ったようだ。昔ほどの鋭さはたぶんない。
だけどまあいいか、と思う。
昔は自分の弱さが大嫌いだったが、今のオレは自分の甘さが嫌いじゃない。
という訳で、ぶらりと高台の下にある町まで来てみた。
「磯の匂いがすごいなあ……」
常夏の爽やかな匂いではなく、漁師町のキツイ匂いがする。あちこちで魚を捌いたり干したりしているから当然だろう。
慣れれば平気なので別に気にはしない。それよりも魚の味が気になった。美味しそうな干物があれば、ロゼのお土産にしたいんだけど。
キョロキョロと周囲を見渡しながら歩く。
すぐそこが海なので、町の中は潮風が通っていた。海水を含んだ湿った風が頬に当たる。涼しいが、髪はギシギシになりそうだ。
さて、まずは誰に話しかけるか。いつものことながらオレはよく目立っている。
さっきからジロジロと見られているので、話す相手には困らなそうだ。
と、思ったところで、後ろから声が聞こえた。
「にいちゃん、どっからきたの?」
舌足らずな声に振り向けば、小さな男の子が立っていた。やんちゃそうな顔立ちだ。遊んでいる最中なのか、鼻に泥がついている。
「う~ん、かなり遠くから?」
取り出したハンカチで男の子の鼻を拭いながら答えた。
「んぐ、ありがと。こんなヘンピなところによくきたね」
「ちょっとお仕事で、って、辺鄙なんて言葉よく知ってるね」
「みんなよくいってるよ?」
地元民の自虐的な? 外から来たオレが言ったら普通に怒られるな。
「へえ~……オレはいい所だと思うけどなあ、魚美味しそうだし」
「にいちゃん、さかなさがしてんの?」
「うん、まあね」
「どんなやつ?」
この子物怖じしないなあ。
「ええと、干した魚かな。すぐに食べなくても大丈夫なやつ……分かる?」
「かたいのってこと?」
硬いの……。表現が不思議だけど、まあ、干物は生魚より硬いか。
「うん、そうだね」
「わかった! じゃあこっち!」
「うおっと!」
オレの袖を引っ張って男の子が走り出す。身長差があるので中腰でオレも走った。
周りの視線が痛いが、少なくとも誘拐には見えないだろう。
……もし捕まったら、頑張って弁明しよう。
言い訳を色々と考えている間に町の端の方まで来た。
男の子が止まったのは一軒の家の横。そこには何故か大きな“木片”が並んで干されていて……、
「いやこれ、カツオ節――!!」
思わず叫んだ。
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