第277話 また来るために

 ロゼの実家に着いてから4日目の午後、オレは心地良い風の吹く野原に腰を下ろしていた。


 隣にはロゼが座り、2人で見つめる先には楽しそうに走り回るリーゼの姿がある。


 リーゼはアナと追いかけ合うように走り、タローが時折遠くに行かないように進路を塞いでいた。

 少し離れてデュークさんとロザリーさんが微笑みながらリーゼを追っている。


「リーゼは元気だねえ」


「ふふ、良いことだ」


 2人でのんびりと言葉を交わす。特に意味のない、全く気を張らないやり取りだった。


 青い空を見上げてみる。上空は風が凪いでいるのか、雲はゆっくりと流れていた。時間までのんびりとしているような穏やかな午後だ。


「平和だねえ」


「うむ。平和だな」


 こんな穏やかな日に家族三世代で遊べることを幸せというのかもしれない。家族全員じゃないところがあれだけど。


「デリスさんにはちょっと申し訳ないね」


「お兄様は領地の仕事があるからな。さすがに気軽に外出は難しいものだ」


 ロゼの言葉通りデリスさんは仕事だ。領地の運営、魔境の管理、町や村からの陳情の処理、その他色々、と領主の仕事は多い。


 オレも午前中は手伝ったが、午後に休める量の仕事じゃなかった。

 次期当主として一人で判断を行うことがデリスさんの課題らしいから、しばらく忙しいのは仕方ないんだろう。


「ロゼは午前中どうしてた?」


「今日はモリーから掃除について一から叩き込まれたな。うむ、学ぶことは多かった。家に帰ったら実践してみるつもりだ」


「へえ、家がもっと綺麗になるね。期待してる。やり方はオレにも教えてね」


「ふふ、モリー式で教えるなら厳しいぞ?」


「お手柔らかにー」


 他愛ない話を続けていると、遊び回っていたリーゼとアナがこっちに走って来た。


「ママー! おみずー!」


 喉が渇いたみたいだ。涼しい気温だが、柔らかい黒髪が額に張り付くほど汗をかいている。

 全力で走り回ったようだ。


「リーゼちゃん、ちょっと汗を拭きましょうね~」


 追い掛けて来たロザリーさんがハンカチを出してリーゼの顔を拭き始める。

 ロゼがその間に水筒からコップに水を注いだ。


 リーゼに渡す。


「リーゼ、ゆっくりと飲むのだぞ?」


「うん!」


 小さな両手でコップを受け取ったリーゼが、コクコクと水を飲み始める。ゆっくりかどうかは微妙なラインだった。


 ロゼは少し笑いながらタローとアナにも水を与える。アナは尻尾を振りながらぴちゃぴちゃと水を飲んでいく。こちらも喉が渇いていたようだ。


 タローとアナより先に、リーゼがぷはっ、と水を飲み終わる。


「アナ、いこっ」


 まだ水を飲み足りないアナが困った目でリーゼを見た。デュークさんが笑いながらリーゼの頭を撫でる。


「リーゼ、アナはまだ飲み終わっていないだろう? 待ってあげないと駄目だよ。それと、また遊びに行く前に少しおやつにしないかい?」


「おやつ!」


 反応は速かった。リーゼは遊ぶのと同じくらい食べることが好きなのだ。


 今の時刻はオレの体内時計で3時前くらい。走り回ったリーゼのエネルギー補給におやつは必要だろう。


 おやつという言葉に目を輝かせるリーゼを見て、ロザリーさんとロゼが微笑みながら準備を始めた。


 持って来たおやつはスイートポテトに似た料理だ。この領地の郷土料理らしい。

 甘味の強い芋を蒸して潰し、他の材料を混ぜてから焼いたもの。魔境を探索する兵士たちも携帯食として持って行ったりする伝統料理だ。


 さて、オレは食べる前にリーゼの手を拭いておこうか。


「リーゼ、おいで。おやつの前に手を綺麗にしようね」


「うん」


 歩いて来たリーゼの手を取り、濡らした手拭いで指先まで拭いていく。手、ちっちゃいな~。


「これでよし。ママからおやつをもらっておいで」


「うん! ママおやつ!」


 待ち切れない様子でリーゼがロゼに突撃する。ロゼは微笑みながらスイートポテトもどきをリーゼに手渡した。


 リーゼは輝く笑顔で小さな口を開く。


「いただきます!」


 パクリと頬張る。膨らんだ頬が幸せそうにモクモクと動いた。


「ん~~っ」


 嬉しそうに唸っている。リーゼの好みに合ったようだ。“美味しい”を絵に描いたような表情をしている。

 うちの娘は本当に美味しそうに食べるなあ。作った人に顔を見せてあげたいよ。


「はい、コウにも」


 笑顔のリーゼを見つめていたら、いつの間にかロゼがオレに手を伸ばしていた。


「ありがとう」


 リーゼと同じ物を受け取る。美味しそうに焼き色が照っている。甘い香りがした。


「いただきますっと」


 一口齧る。


 香ばしい外側と、しっとりとした食感の内側。芋の自然な甘さに頬が緩む。


「うん、美味い」


「うむ、美味しいな」


 ロゼも隣で目を細めていた。デュークさんとロザリーさんも同じような表情だが、これはどちらかと言えばリーゼを見ての表情かもしれいない。


 タローとアナも美味しそうに食べている。タローとアナも魔物なので、たまに甘い物を食べるくらいなら体に影響はない。

 機嫌良さそうに2本の尻尾が揺れていた。


「平和だなあ……」


 同じ感想を口にしながらもう一口食べた――ところで、タローがピクリと頭を上げた。耳が忙しなく動く。


「タロー、何か来た?」


「ヴォフ」


 タローの目に警戒の色はなし。となると魔物じゃないな。知ってる人か。


「ふむ、来たのはミザのようだな」


 ロゼが目を細めて遠くを見る。見晴らしの良い平原には、確かに小さくミザさんらしき人が見えた。


 デュークさんが立ちあがる。


「何かあったようだね。随分と急いでいる」


 デュークさんの言う通りミザさんは全力で走っているようだ。見る見るうちに近づいてくる。


 不思議そうな顔をするリーゼをロゼが抱き上げたところで、息を弾ませたミザさんが到着した。あんまり良い予感はしない。


「デューク様、緊急事態です」


「聞かせてくれ」


 ミザさんが一瞬で呼吸を整える。


「魔境で大きな動きがありました。魔物の動きから、デリス様は特級の接近によるものと推定されています」


 デュークさんの表情が曇る。隣に立つロザリーさんは静かな顔で聞いていた。


「この時期に、か……? 近くにいる特級の魔物は、人を襲いに来るような性格ではないはずだが……。ともかく分かった。すぐに戻る。ロザリー、私は先に行く」


「はい、あなた。気を付けてくださいね」


「ああ、もちろんだとも。コーサク君、ロゼッタ、まだ詳しい状況が分からない。念のためにリーゼを連れて屋敷に戻ってくれ」


「分かりました」


「はい、お父様」


 オレとロゼが頷くのを見て、デュークさんは身体強化を発動した。現役の当主が持つ強大な魔力が、周囲の風すら押し退ける。


 最後に優しくリーゼを撫で、デュークさんは駆け出した。潤沢な魔力が生む脚力は、人をたった数歩で最高速度まで押し上げる。

 後ろ姿はあっという間に見えなくなった。


「私たちも屋敷に向かいましょうか」


 ロザリーさんが普段と変わらない表情で言った。さすが、魔境を管理する領地の夫人。周囲を安心させるような振る舞いだ。


 リーゼを連れて、オレたちも屋敷へと歩き出した。





 屋敷に戻る途中では伝令と思われる兵士たちと何度かすれ違った。

 到着すると、すぐにモリーさんに執務室へと通される。リーゼをモリーさんに預け、大人3人で中へと入った。


 部屋の中ではデュークさんが珍しく怒りの表情を浮かべて何かの手紙を読んでいた。


 オレたちの姿を見て少し表情を和らげる。温厚なデュークさんを怒らせるとは、いったい何があったのか。


「ああ、3人とも戻って来たかい。今はデリスに前線での指揮を任せたところだよ。やはり特級の魔物が接近しているようだ。混乱した他の魔物たちが蒼壁まで来ている。それだけならこの地では珍しい話ではないが――今回は原因が異なる」


 すっとデュークさんの目が怒りに細まる。手に持っていた手紙がオレたちに掲げられた。


「隣のシェルブルス家からの手紙だ。特級の魔物を鎮めて欲しければリーゼを渡せと書いてある。特級を刺激したのもシェルブルス家だろう」


 ――。


 思考が一瞬白く染まった。特級の魔物というのは化け物だ。軽く暴れるだけで町など簡単に滅びる。動いた余波だけで他の魔物が逃げ、恐慌した魔物は人を襲う。


 そんな特級の魔物を利用して、オレたちを脅し、そんな領地にリーゼを寄越せと。


「……」


「コウ、気持ちは分かるが少し落ち着け。怒りに染まっては選択を間違えるぞ」


 ロゼがオレの顔に手を伸ばしてくる。指先で眉間を揉まれた。気付かない内に力が入っていたようだ。


「……ありがとう、ロゼ」


 深呼吸して怒りを脇に寄せ、物騒な想像も止める。


 オレがやるべきことは何か。隣の領地はリーゼを得るために特級の魔物すら利用しようとしている。

 つまり、オレたち家族のせいでこの領地は特級の魔物に襲われることになったのだ。


 オレたちが原因になったことは動かしようのない事実。それに対する責任は取らなければならない。


「デュークさん、隣の領地はどうやって特級の魔物を止めるつもりでしょうか」


「手紙には“魔払いの香”をリーゼと引き換えに渡すと書いてあった。これは魔境の奥で極僅かに採れる植物から作られるもので、魔物を落ち着かせ、さらに退けることができる」


 ……聞いたことはある。あまりにも希少でオレも情報しか知らないが。実在したのか。


「……確か、対になる“魔寄せの香”というものがありますよね」


「ああ、シェルブルス家は今回それを使ったのだろう。金を積んでも容易に手に入るものではない。私の思った以上にあちらは追い詰められていたようだ。こんな手を強行するとはね。……すまない2人とも。ここまでとは予想できなかった」


「いえ……他の領地のことを全て知るのは無理ですから。むしろ、謝るのはオレたちです。巻き込んでしまって申し訳ありません」


 オレとロゼが自力で封石を入手するか、リーゼの暴走を止めることができれば発生しなかった事態だ。


 だから解決はオレとロゼがしなければならない。この領地の兵士は強いが、特級の魔物に犠牲なしで挑めるほどじゃない。


 罪のない人々を傷付けないように、リーゼがまたいつでも笑って遊びに来られるように、オレたちが戦う必要がある。


 ロゼと一瞬目を合わせた。考えは一緒だ。


「――デュークさん、特級の魔物はオレとロゼで止めます」

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