第167話 海の化け物

 土砂降りの雨。白く煙る薄暗い視界。荒く揺れる水面。その中を、勢いよく船が突き進む。


 蛸の化け物に襲われている3番艦はもう目の前だ。それはつまり、蛸もすぐそこだということでもある。


「突っ込むぞ!!衝撃に備えろ!!落ちるなよ!!」


 誰かが張り上げた叫び声が、雨を押し退けて船上に響く。


 その声に、無理矢理笑みを作っていた顔が、さらに引きつるのを感じた。手すりを握り締める腕に力が籠る。


 船が走る。仲間を襲う魔物に向かって突撃する。もう近い。3番艦の船員の顔が見えた。焦りと負けん気を浮かべて動き回っている。

 船を掴む濃い色の触腕は太い。その腕の根本、黒い海の中で、巨大な影が蠢いているのが見える。


 体当たりの直前で、船の槍たる衝角が輝きを増した。体を襲うだろう衝撃に、歯を食いしばる……!!


「突撃ー!!」


 ドオォォッ!!


「ぐうっ……!!」


 重い、とても重い音が船に響き渡る。急に止まった前進に、船がギシギシと軋む。


 その中で、オレは必死に手すりにすがりつく。少しでも力を緩めれば、そのまま海に飛んで行きそうだった。

 体が浮き上がったせいで、腰骨付近に巻いたロープが絞まる。痛い。


「ぐ……。安全帯を巻く場所は大事だな……」


 腹に巻いてたら、きっと内臓が口から飛び出したと思う。


 そんな意味のない軽口を叩いて、戦うための精神を取り戻す。


 ああ、そうだ。戦いは終わっていない。蛸の魔力は健在。痛手は与えても、死んではいない。


 ――――ッ!!


 海中から声のない絶叫が上がる。


 それに対抗するように、カルロスさんが声を張り上げた。


「弩弓、撃て!!」


 雨と波の音に混じって、弦の鳴る音が連続して聞こえた。降り注ぐ雨を貫いて、太く長い矢が飛んで行く。


 幾本もの矢が海中に消え、その向こうで、黒い影が身をよじったのが見えた。たぶん、何本か当たったのだろう。それでも、3番艦に巻き付いた触腕が剥がれない。


 化け物を殺すか追い払うかするには、矢の威力が足りていない。海水に力が奪われている。


「俺が道を作る!!次弾用意!!」


 隻眼で海を睨み付け、カルロスさんが叫ぶ。


 その声に、疑問の声すら挟まず船員たちが動く。強靭な弦を引き絞り、矢を番える。


 そして、カルロスさんが詠唱する。


「――――――、――、――――」


 魔力が迸る。精霊へと祈る声が、雨音を弾き飛ばして海上へ広がる。カルロスさんは風と水の二重適性。船と共に生きる者への最上級の祝福だ。


 弩弓の装填が終わるのと、カルロスさんの詠唱の終わりは同時だった。


「――――『風よ。水よ。我が道を拓け!!』」


 風と水が渦を巻く。空と海に穴が開く。船から蛸までの空間が開いた。雨も海も押し退けて、蛸までの道がトンネルのように出現する。

 ぬめる暗褐色の巨体が姿を見せる。


 弩弓の先に、障害となる物はなくなった。矢を通すための、文字通りの道の出来上がり。


「撃てえ!!!」


「「「「おう!!!」」」」


 再度矢が飛んで行く。海に作られた道を一直前に進んでいく。今度は威力を落とす水はない。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と、蛸の強靭な筋肉に矢が突き刺さる。


 ――――――ッ!!!


 体表を気持ち悪く変色させながら、蛸がその身を震わせる。


 そして、ギョロリと、怒りに満ちた目がオレたちを見つめた。巨大な黒い瞳に宿る憎しみに、体が強張るのを感じる。


 その恐怖を生存本能で押し潰し、魔力を汲み上げる。意思と魔術が直結する。荒れ狂う戦場と魔力に思考が酔っていく。


 高揚した気分のままに叫びを上げる。


「ははっ!焼いて食ってやろうか、蛸野郎!!」


 狙いはそのデカい目ん玉だ。座標を指定。オレの魔力を世界にぶつける。さあ、たっぷり食らえ。


「『爆破ぁ!!』」


 ――――ッ!!


 赤い衝撃が光る。自身の目を潰した爆発に蛸が呻く。片目を潰された化け物が、出鱈目に体を揺らした。3番艦に巻き付いていた触腕が、ズルリと海に戻る。


「よし!これで逃げられ……」


 ゾクリと、背筋が泡立った。魔力の感覚が騒ぐ。下から気配を感じる。蛸に負けないほどの強力な魔力が、海の底から上昇してくる。馬鹿みたいに速い。


 ああ、やばい!


 オレにしか分からない危機感を、少しでも早く伝えるために喉を震わせる。


「っ!!もう1匹来る!!構え……」


 後半の声は大音量にかき消された。


 膨大な水飛沫が立ち上がる。滝を逆にしたみたいに水が空へと昇った。急な波に船が激しく揺れる。冷たい海水がオレの体を叩く。


 その飛んでくる水の向こう側で、オレの目に映ったのは巨大な顎。そこに並ぶギザギザの歯。不気味なほどに赤い口内。


 猛スピードで上昇して来た何かが、蛸に噛み付いていた。鋭い牙に切られた蛸の触腕が、こっちの船まで飛んで来る。

 誰かが慌てて避けたのが、視界の端で分かった。


 それを何と呼べばいいのか分からない。


 魚体ではあるのだろう。銀色に光る鱗は魚のものだ。鋭利な歯が並ぶ長い口。ワニとサメを合わせたような姿。

 ひたすら肉食を求めて進化したような化け物だった。


 それが、傷を負った蛸と絡み合っている。噛み付かれた蛸が、その触腕を銀色の魚体へ巻き付けて絞め殺そうとしていた。

 現実感がなくなるほどの、怪物同士の争いが目の前で繰り広げられる。


 あまりの迫力に、近くにいるものは皆、唖然とその光景を見つめてしまう。


 その衝撃から一番早く立ち直ったのは、やはりカルロスさんだった。


「今のうちに離脱する!!他の船にも伝えろ!!」


 その声に、我に返った船員たちが慌ただしく動く。他の船へも伝えるために、伝令役が笛を吹く。


 ピーー、ピー、ピー、ピー。


 この笛の意味は確か……前方へ全速前進だったか。


 指示通りに船が進む。襲われた3番艦も、急いで加速している。化け物たちの争いを置き去りに、オレ達は船を走らせた。



 全速力で進む船が雨を抜ける。振り返れば、雨の境界がはっきりと見える。カルロスさん曰くシャワーだ。陸のスコールを、海ではそう言うのだとか。


 まあ、とにかく雨を抜ければ、穏やかな晴模様だった。化け物同士の戦いも、もう見えない。無事に逃げ切ったと思う。


「あ~……疲れた」


 腰から命綱のロープを外しながら呟く。雨に濡れて緊張した体は重い。今日はぐっすりと眠りそうだ。

 その前に、何か食べたいけど。


「そういえば、蛸の触腕が飛んで来てたな」


 噛み千切られた勢いで飛んで来た触腕を探して甲板を歩く。目当ての物はすぐに見つかった。


 デカい。触腕の先の方の切れ端のようだが、それでも、オレが両手を回しても届かないくらいの太さだ。


 それが、ぐねぐねと、濡れた甲板の上で動いている。周りの船員たちは、気味悪そうに、その様子を眺めていた。


 触腕の断面は綺麗に白い。まだ動くくらいに新鮮なタコの足。食いでがありそうだ。


「……どうやって食べようかな?」


「え゛」


 喉につかえたような声に視線を向けると、ジャス君が立っていた。その顔は、『こいつ正気かよ』みたいな表情だった。


 著しくオレの評価が下がっている気がする。タコ、美味いのに。


「ジャス君も一緒に食べる?」


「い゛?」


 再び何か詰まったような音がジャス君の喉から漏れる。そんなに嫌かい?


 まあ、いいや。美味しそうだったら食べてくれるだろう。


 腹いっぱい食って、たっぷり眠って、まだまだ頑張ろう。

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