第166話 困難の気配

 夜空を見上げて息を吐く。雲の薄い今日は、星の様子が良く見える。人の営みが狭いこの世界では、星々の輝きを押し退ける人工的な光はない。


「満点の星空って奴だな……」


 闇に沈む甲板の上で、船の手すりに背を預けながら1人呟く。


 頭上で瞬く星たちに、知った顔はいない。オレの記憶にある星座は、どう頑張っても当てはまらない。


「それでも、綺麗だな……」


 ああ、恐ろしいほどに美しい。


 ……少し前まで、星を見るのは好きじゃなかった。名も知らぬ星々が浮かぶ空は、ここがオレの故郷ではないことを突き付けてくるから。

 そのせいで、世界にここはお前の居場所じゃないと言われているように感じたから。


「こうして、星をただ綺麗だと思えるのは、ロゼのおかげだな」


 居場所を得た今は、恐れる心はなくなった。帰ったら、ロゼと一緒に見上げてみようか。何もしなくても、きっと楽しいと思う。


「はあ……。首が疲れた」


 視線を下ろす。暗がりで、飛魚の切身が揺れていた。それなりに大きな塊が吊るされている。


 船に乗ってきた飛魚は、ほとんどみんなで焼いて食べてしまったが、一部は干すために取っておいたのだ。


 せっかくのトビウオに似た魔物なのだ。ちょっと干してみたくなった。さすがに、2メートル近くあるものをそのまま干すのは無理なので、ざっくりと切った身を海水に漬けてから吊るしてある。


 作り方が合っているのかは、少し自信がないんだけど。まあ、船の上には潮風が良く吹き付ける。

 ちゃんと乾燥させれば、簡単に腐ることはないだろう。


 そんなことを考えながら、船の手すりに預けていた体を反転させる。船の下。暗い暗い海を眺める。


 昼間の青は消え失せて、ただ黒い波が揺れている。見通せない上澄みを見つめながら、その奥を想像する。


 深く。どこまでも続く海。光の届かない暗黒。感覚がおかしくなりそうなほどの広大さ。


 無意識に開いた魔力の感覚が、不安定に揺れる足場の下でうねる、途方もない力の流れを感じ取る。


 そして、その力の中を悠々と泳ぎまわる、幾多の生きた魔力。人を超える存在たちが、当たり前のようにその生を謳歌している。


 その事実に、あまりの自分の矮小さに、背中がゾクゾクする。


 ああ、人は矮小だ。この海は人の領域ではない。頑丈だと思えるこの船も、大海の点に過ぎない。

 逃げ場のない魔の領域。足の下にいる何か・・の気紛れで船は沈む。


 ああ、オレたちは無力で、何もできなくて、寒々しい空と海の間で独りきり――


「夜の海を、そう見つめるもんじゃないぜ、コーサク」


 ――。


 不意に掛けられた声に意識が戻る。見つめていた海の底から目を逸らし、振り返れば、カルロスさんが立っていた。


「夜の海は人を惑わす。あまり見つめていると飲まれるぞ」


「……ええ、そうみたいですね。助かりましたよ」


 ちょっと危なかった。あのまま思考を進めても、ロクなことにはならなかっただろう。


 黒い水面の揺れは、心も揺らしてしまうようだ。


 頭の中に残る暗がりを追い出すように細く息を吐いて、カルロスさんが出てきた理由を聞いてみる。


「カルロスさんはどうしたんですか?」


「少し星を見に、な」


 そう言って、カルロスさんが手に持った何かを掲げる。暗くて良く見えないが、分度器を複雑化させたようなシルエットをしている。


「測量、ですか?」


「ああ、今日は星が良く見えるからな」


 オレに答えながら、カルロスさんが星の位置を調べ始める。もう少しすれば、作り立ての海図に、現在の船の位置が記されるのだろう。


 その邪魔をしないように、黙って明るい夜空を見上げる。


 だけど、カルロスさんの方から口を開いた。


「眠れないのか?」


 端的なオレへの問いだ。


「ええ、少し魔力に敏感なものでして」


 オレも簡潔にそう答える。


 オレの魔力を察知する感覚は、無意識下でも働いている。いつもはその情報を無視しているだけだ。


 そして、オレの体は寝ているときに嫌な魔力を感じると、起きるように習慣付けられている。


 冒険者時代の名残だ。危険を感じると目が覚める。それができなければ、オレは何回か死んでいただろう。


 まあ、そんな訳で、体のずっと下で蠢く存在たちを感じて、あまり寝付けないのだ。


 気を張り続けているジャス君を笑えなくなってしまった。


 自嘲の笑みを浮かべるオレを見て、カルロスさんが目を細める。


「はは。船酔いじゃないなら大丈夫だろう」


 うん?


「はあ、確かに船酔いはしませんけど」


 元々、乗り物酔いというものをしたことがない。今も、頭が揺れている感触はあるが、気持ち悪くはない。

 オレの三半規管は、それなりに丈夫なんだと思う。


 だけど、何が大丈夫なんだろうか。


 曖昧なオレの言葉に、カルロスさんが口を開く。その隻眼は、闇の中で強く輝いていた。


「もうすぐ、魔物の襲来が激しくなる」


 確信を持った低い声が響く。


「戦って、走ってを繰り返す海域が来る。そうしたら、疲れて嫌でも眠りたくなるだろう」


 確かに、疲れてしまえば余計なことも感じられないだろう。だけど、嫌な未来予想だ。


「……眠れなくても、平和な方がいいですね」


 オレの言葉にカルロスさんが笑う。


「ははは。確かに、航海は平和な方がいい。だが、避けられない障害があるのなら、全力を尽くして乗り越えるしかない」


 カルロスさんが不敵な笑みを作る。この先の困難を理解して尚、その意思は燃えている。脅威を乗り切るための熱量が、闇の中で静かに光っている。


 その輝きを見て、カルロスさんと船員たちなら、この先の困難も越えて行けると、何となくそう思った。


 ……それでも、何事もない方がありがたいな。





 まあ、そんなに上手くはいかないものだ。


 土砂降りの雨が船とオレを叩く。口に入ってくる雨水が鬱陶しい。あまりにも雨が強すぎて、雨音が連続して聞こえる。


 その中で、いくつもの怒号が耳へと入る。


「3番艦が襲われている!!馬鹿でかい蛸だ!!」


「援護に向かう!!操作員は魔道具に着け!!」


「くそっ!!シャワーで様子が良く見えねえ!!」


「総員、配置着きました!!」


「行くぞ!!全速前進!!」


 帆を畳み、叩きつけるような雨を切り裂いて船が進む。


 その上で、ロープで体を固定しながら目を凝らす。


 雨で白く煙る先に、微かに光る船が見える。光の正体は船を守る防壁だ。その輝きを押し潰すように、ふざけた大きさの触腕が巻き付いている。


 遠くで感じる魔力は上級の魔物のもの。正しく化け物だ。


「戦闘員、弩弓用意!!手が空いている奴は衝角に魔力を籠めろ!!」


「「「おう!!」」」


 船の前方、突き出した角のような部位が輝き始める。どうやら、水面近くまで出張って来ている蛸に体当たりをするらしい。


 笑うしかないくらいの蛮行だ。実際に笑いながら叫んだ。


「ははは!!確かに、今日はよく眠れそうだなあ……!!」


 口角を吊り上げる。無理矢理でも気分を高揚させる。怯えた心では何も成せない。


 きっと、今日は夢も見ないくらいに、泥のように眠れるだろう。


 そう思いながら、オレは胸の奥から魔力を汲み出した。

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