第22話 焦燥
私は目が逸らせなかった。本当は逸らしたくて仕方がなかったけれど、視線は彼女の手元に縫いつけられたまま、動かなかった。
鈴ちゃんがおもむろにピアノの前から立ち上がる。それから、ゆっくりとした足取りでこちらへ歩いてきた。右手には手足のないテディベアを握ったまま。
近づくにつれ、そのテディベアには手足だけでなく顔もないことに気づく。本来なら黒い糸で刺繍がされているはずの頭部には、ただ平坦なベージュ色の地だけがある。元々あったものを剥ぎ取ったというわけではないらしい。手足も顔も、きっとこれから取り付けられなければならないのだろう。
私は相変わらず、困惑してその場に立ちつくしたまま動けなかった。ただじっと、彼女の持つ奇妙なテディベアを見つめていた。
やがて鈴ちゃんが私の前に立つ。そしてにっこりと笑った彼女は、当然のようにそのテディベアをこちらへ差し出してきた。
「はい、歩美ちゃん」
私は心の底から戸惑って、目の前にある鈴ちゃんの顔を見つめ返す。
鈴ちゃんは口角だけを無理矢理持ち上げたような不自然な笑顔で、まっすぐに私を見ていた。そしてその笑顔を少しも崩すことなく、言葉を継ぐ。
「誕生日プレゼント」
続いた言葉に、私はよりいっそう困惑して眉を寄せた。え、と小さな声がこぼれる。
「でも、私の誕生日って、まだ一ヶ月以上……」
「うん。でももうあげる」
鈴ちゃんははっきりとした声で言い切って、おもむろに私の手を掴んだ。その体温の低さにどきりとして、一瞬身体が強張る。鈴ちゃんは構うことなく私の手にテディベアを握らせると
「まだ完成してないんだけどね。もう作る気なくなっちゃった」
そう言って、口元だけでへらっと笑った。さらりと言い切られたその言葉は、ぞっとするほど冷たい響きがした。心臓が硬い鼓動を打つ。
渡されたテディベアは、たしかにまだ完成していない。これから手足を縫いつけ、鼻や口を刺繍するところだったのだろう。私は視線を上げ、鈴ちゃんの顔を見た。短く息を吸う。
「どう、して?」
恐る恐る口を開けば、途端、鈴ちゃんの顔からすっと笑みが消えた。目眩を覚えるほどの鮮やかさでそこから一切の表情が剥げ落ち、完璧な無表情に切り替わる。それから彼女は、「どうして?」と平淡に私の言葉を繰り返した。
「どうしてって、わかるでしょう」
あきれたような彼女の声に、思わず押し黙る。
「一つしかないじゃない。理由なんて」
鈴ちゃんの目には、隠すことのない怒りの色が見えた。彼女にそんな感情を向けられることは初めてで、私はそれだけで喉が締まりうまく呼吸ができなくなる。訊きたいことはたくさんあるのに、声が思うように喉を通ってくれない。
「わから、ないよ」私は縋るように彼女の顔を見つめたまま、小さく首を横に振った。
「鈴ちゃん、どうして」
「白々しいなあ」
心底あきれた調子で吐き捨てられた言葉に、びくっとして反射的に呼吸が止まる。鈴ちゃんは目を細めて私の顔をじっと見つめると
「心当たり、ちゃんとあるでしょう」
言葉を重ねるたび、彼女の声はより冷たさを帯びていく。憎しみの色すら滲むその声に、にわかに恐怖がこみ上げてきて、私は、「ごめんなさい」とわけがわからないまま口走っていた。
「本当に、わからないの。ねえ鈴ちゃん、私、鈴ちゃんになにを」
したの、と尋ねようとした声は、ふいに喉の奥でせき止められる。
私ははっとして目を見開いた。鈴ちゃんの顔を見る。鈴ちゃんは表情の消えた目で、じっと私を見つめ続けていた。
唐突に頭をよぎったその考えは、すぐに確信の色を帯びて頭を満たす。私は驚いて、「もしかして」と強張った声で口を開いた。
「永原くんのこと、なの?」
鈴ちゃんはなにも言わなかった。だけどそれで充分だった。彼女の目は、無言で私を非難していた。
彼女の怒りの理由を見つけたあとは、恐怖に代わり、困惑と焦燥が一気に胸を満たす。「あの、でも」私はあわてて声を上げた。
「私、永原くんとは、別になにも」
「応援してくれるって」
私の言葉を遮り、鈴ちゃんが言った。
「言ったよね。歩美ちゃん」
静かだけれどひどく鋭いその声に、よりいっそう喉が締め付けられ、息が苦しくなる。私は手の中のテディベアをぎゅっと握りしめ、強く相槌を打った。うん、となんとか声を絞り出す。
「言ったよ。今だって」
応援してる。続けようとした言葉は、また鈴ちゃんの冷たい声に遮られる。
「嘘ばっかり」
これ以上の反論は許さないほどきっぱりと言い切られた言葉に、私はしだいにわけがわからなくなってきた。
呆然として鈴ちゃんの顔を見つめる。鈴ちゃんは怒りや蔑みなんかよりずっと冷たい無表情で、私を見ていた。そこにはたしかに、はっきりと形を成した憎しみがあった。私はひどく困惑して、何度も大きくかぶりを振る。
「嘘じゃないよ」
なにか言葉を発するたび、彼女の目に宿る憎しみがよりいっそう強くなっていくのには気づいていた。それでも言わずにはいられなかった。
だって本当に嘘ではない。私は今でも鈴ちゃんを応援しているし、鈴ちゃんを裏切る気なんてみじんもない。それはちゃんと永原くんにも伝えた。すごく怖かったし、悲しくもなったけれど、あのときの私はちゃんと言えたはずだ。それだけは自信をもって言える。
だから私はまっすぐに鈴ちゃんの目を見据え、必死に言葉を投げた。
「私は鈴ちゃんを応援してるよ。今もずっと。嘘じゃないよ」
鈴ちゃんは少しも表情を変えることすらなかった。すっと目を細め、「だったら」と試すような口調で口を開く。
「永原くんと別れてくれるの」
私が、え、と聞き返せば、彼女は少し語気を強め
「縁を切ってくれるの。これからは一言も口利かないって、約束してくれるの」
放り出すようにそう言った、直後だった。
ふいに鈴ちゃんの表情が一転した。
硬く冷たい無表情が崩れ、小さな子どものようにぐしゃりと歪む。白い頬がゆっくりと上気し、肩が震える。かと思うと、すぐにその目からは涙があふれ出した。
私はびっくりして「鈴ちゃん?」と声を上げる。鈴ちゃんは手の甲で強く涙を拭いながら
「ごめん」
なんだか途方に暮れたように、ぽつんと呟いた。
そこからは、先ほどまでの強さはもう跡形もなく押し流されていた。ひどく不安定で、気弱な声だった。
「本当は、わかってるんだ、わたし」
私はどうすればいいのかわからず、その場に立ちつくしていた。
彼女の華奢な肩が揺れる。拭いきれなかった涙が次々に頬を伝い、床へ落ちていく。その光景を見ているうちに、身体の底にはぞっとするほどの冷たさが流れ込んできた。
真っ暗な恐怖が膨らむ。それは、冷たい目で睨まれ、きつい言葉を向けられていたさっきまでより、ずっと恐ろしい恐怖だった。
「歩美ちゃんが、悪いわけじゃ、ないって。だって、わたしが」
こみ上げる嗚咽に邪魔されながら、鈴ちゃんが続ける。私は指先一つ動かせないまま、そんな彼女の姿を見つめていた。
「歩美ちゃんに、応援してほしいって頼んだのだって、本当は、歩美ちゃんを牽制したかっただけかもしれないもん。ずるいんだ、わたし。嫌な子なの。でも歩美ちゃんは、いい子だから、優しいから」
鈴ちゃんが言葉を続けるたび、全身から熱が去り、足が震える。
「だから」彼女は上擦った声で言葉をつないだ。
「歩美ちゃんを責めるのはおかしいって、わかってるけど、でも」
これ以上、彼女の言葉を聞きたくなかった。だけど遮って声を上げることはできなかった。
いっそ、彼女の言葉が辛辣で、憎悪に満ちたものであればよかったのにと思う。それならまだ私は弁明することができた。さっきみたいに、どんなに素気なく撥ね付けられても、私はいくらでも返す言葉をもっていた。
けれど今の彼女の言葉はだめだった。そこに滲むのは、息が詰まるほど重たい、悲しみの色だった。
「だめなんだ。つらいんだもん。歩美ちゃんの顔見てると。多分、この先、ずっと」
そんなの理不尽だと、心の片隅が叫ぶ。だけど目の前で肩を震わせる鈴ちゃんのほうがずっと苦しそうな顔をしていたから、私はなにも言えなかった。
「ごめんね」と鈴ちゃんが顔をうつむかせて言う。なにを謝られたのかはよくわからなかった。ただそれが、今まで私たちの間にあった大切ななにかを失わせる言葉だということだけ、胸の奥に突き刺さるように響いた。
息が止まりそうなほどの焦燥が全身を駆ける。
なにか言いたかった。言わなければならないと思った。けれど久しぶりに目にする鈴ちゃんの泣き顔に息が詰まって、結局、なんの言葉も出てこなかった。
もしかしたら、久しぶりではなくて初めてなのかもしれない。
昔から、鈴ちゃんは全然泣かない子だった。転んで怪我をしても、同級生と喧嘩をしても。いつもけろっとした顔をしていて、なにかあるたびすぐに泣いていた私には、昔からそんな鈴ちゃんの姿がすごく眩しく映っていた。
そういう強いところだけではなくて、いつも笑顔を絶やさない明るさだとか、誰にでも分け隔て無い優しさだとか、鈴ちゃんは私にもっていないものをたくさんもっていて、ずっと、ずっと憧れだった。
だから、みじんも迷うことなんてなかったのだ。本当に。
鈴ちゃんが永原くんとうまくいってくれればいいと思った。鈴ちゃんに幸せになってほしかった。本当に心の底からそう思って、私はちゃんとそのための選択肢を選んできたはずなのに。どうしてこんなことになっているのだろう。
わけがわからなくて途方に暮れていると、ふいに目の奥が熱くなってきた。
だけど私がここで泣くのは違う気がしたから、必死に堪えた。
鈴ちゃんも、それ以上はなにも言わなかった。ふたたび視線を上げて私の顔を見ることもなく、私の横をすり抜け、音楽室を出て行った。
結局私は最後までなんの言葉も見つけることはできず、凍ったようにその場に立ちつくしたままだった。
ぎゅっと、手の中のテディベアを握りしめる。
ふわふわとしたファーの感触は、とても心地よかった。その奥に詰まった綿はしっかりとした弾力で手のひらを押し返してくる。ここまで、きっととても丁寧に作り込まれたものなのだろう。一ヶ月先の私の誕生日に間に合うよう、こんな早い時期から。
考えていくうちに堪らなくなって、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。
指先が震える。どうして。混乱する頭で何度も呟く。どうしてこうなってしまったのだろう。私が悪いのだろうか。どこかで間違えてしまったのだろうか。この前、永原くんと一緒に音楽室に行ってしまったから? あの曲を聴かせてもらったから?
だけどそれだけで、鈴ちゃんがあれほど傷ついたりするだろうか。
それに鈴ちゃんは、たしかに私に憎しみの感情を向けてきた。鈴ちゃんは永原くんの気持ちを知っているみたいだったけれど、だから私を憎むというのは、私の知っている鈴ちゃんからはあまり考えられない気がした。鈴ちゃんは優しいし、私なんかよりずっと大人だ。私に永原くんへの気持ちを打ち明けたとき、彼女はまず私の永原くんに対する気持ちを確認した。それで彼女は、本当にほっとした顔をしたのだ。
考えを巡らせていくうちに、ふいに先ほど聞いた鈴ちゃんの声が頭に響く。
――永原くんと、別れてくれるの。
「別れて、くれる」
呆けたように彼女の言葉を繰り返す。思えば奇妙な言葉だった。別れるというのは、すでに付き合っている相手に対して使う言葉ではないのか。
もしかして、とふいに思う。鈴ちゃんはなにか誤解をしているのではないだろうか。先日の出来事について、実際にあったこと以上のことまで考えすぎてしまっているのではないだろうか。
思い至った途端、私は弾かれたように立ち上がっていた。
それなら、と手の中のテディベアを強く握りしめる。誤解を解くことができれば、それでいいのかもしれない。また戻れるのかもしれない。今回のことは単なる口喧嘩として流して、これからもずっと友達でいられるのかもしれない。
考えていくうちにいてもたってもいられなくなり、私はいそいで音楽室を出た。あまりにいそいだせいで足がもつれて転びそうになったけれど、構わず廊下の先へ視線を飛ばす。
鈴ちゃんの背中は見えなかった。どうしてあんなに長いことしゃがみ込んでいたのだろう、と数分前の自分に苛立ちながら、私は全速力で廊下を走る。
そして階段を一気に一階まで駆け下りようとしたところで、ふと思い直し二階で足を止めた。下駄箱へ向かう前に二組の教室を覗いてみようと思い、いったん廊下に出る。それからまた、スリッパを履いているせいで走りにくい足を必死に動かし、教室まで走った。
一組の教室の前を通り過ぎようとしたときだった。ふと中に人影が見えて、足を止めた。その人のほうもこちらに気がついたようで、ロッカーを覗いていたらしい顔を上げ、こちらを振り返る。
目が合ったのは思いがけない人物で、私は驚いて声を上げた。
「浩太くん?」
彼のほうもちょっと驚いた様子で、「あれ、歩美」と呟く。
途端、なんとなくほっとして、強張っていた身体から力が抜けるのを感じた。小さく息を吐く。それから「こんなところでなにしてるの?」と何気なく尋ねながら教室に入った。直後だった。
心音が、一つ大きく響いた。
はっとして教室を見渡す。そこには一人のクラスメイトも残っていなかった。電気の消えた教室には、机が整然と並んでいるだけだ。鞄もまったく残されていない。すでに一組のクラスメイトたちは全員、下校したか部活へ出たあとらしい。
それを確認した途端、私は今し方自分の口にした言葉にどきりとする。――こんなところで、なにしてるの。
私はゆっくりと、浩太くんのほうへ視線を戻した。
心臓の鼓動が、じわじわと速度を速めていくのを感じた。
「……浩太、くん」
短く息を吸う。それから、絞り出すようにして、繰り返した。
「こんなところで、なにしてるの」
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