第21話 歪み
浩太くんから電話がかかってきたのは、その日の夜のことだった。
『今日はごめん』
開口一番、彼にそう謝られたとき、私は一瞬何のことかわからなかった。
きょとんとして、なにが、と聞き返そうとしたら
『なんかきつい言い方になった気がするから』
浩太くんが続けた言葉に、ようやく思い当たる。途端、いろいろあったせいですっかり頭から抜け落ちていた衝撃が急によみがえってきて、思わず受話器を握る手に力を込めた。
「う、ううん」
電話の向こうにいる浩太くんには見えないのに、つい首をぶんぶんと横に振る。それから
「大丈夫だよ、全然気にしてないよ」
できるだけ明るい口調になるよう努めて答えた。
けれど浩太くんは硬い声のまま
『ほんとごめん。なんかちょっと、余裕なくて』
と困ったように続けた。たしかにそうみたいだったな、と放課後の浩太くんの姿を思い出しながら、曖昧に相槌を打つ。それからふと心配になって
「……なにかあったの?」
おずおずと尋ねてみれば、浩太くんは少し黙ったあとで、いや、と静かに返した。
『別になにも。歩美は気にしなくていいから』
きっぱりとした口調でそう言われると、それ以上はなにも言えなくなってしまう。仕方なく私は、うん、と小さく頷いた。それから話題を変えるように
「あ、鈴ちゃんの具合は、どうだった?」
尋ねると、ああ、と浩太くんもちょっと明るい口調になって口を開いた。
『全然大丈夫そうだった。月曜には学校行けそうって』
返ってきた答えに、そっか、と私はほっとして相槌を打つ。
「それならよかった。やっぱり風邪だったの?」
『うん、ただの風邪。全然たいしたことなくて、もう今日の夕方にはほとんど治ってたみたいだったけど』
「そっか」
よかった、と私はもう一度呟いた。うん、と浩太くんも穏やかな調子で頷く。なにか言葉が続くかと思ったけれど、それから浩太くんはまた黙り込んだ。なにかを考え込んでいるような沈黙だった。
私は電話の横に置かれたメモ帳を意味もなく眺めながら、彼が喋り出すのを待っていたけれど、沈黙があまりに長く続くのでさすがにちょっと困ってきたとき
『――歩美さ』
ふいに、静かな声で浩太くんが言った。私は、うん、と語尾を上げた調子の相槌を打つ。浩太くんはまた少し迷うような間が置いてから、『永原のこと』とどこか強張った声で続けた。
『永原のこと、どう思ってんの』
唐突に出てきた名前に、どきりとして一瞬息を止める。
え、と聞き返す声がかすかに上擦った。メモ帳を眺めていた視線を上げ、今度は暗い窓の外を見つめる。困惑して私が答えを返しあぐねている間に
『歩美は、鈴の気持ち、知ってるんだよな』
耳に押し当てた受話器からは、いやに静かな声が続いた。戸惑いながらも、私は、うん、と強く相槌を打つ。
「知ってるよ」
『応援してやってるんだよな』
表情の読めない声で、浩太くんがさらに重ねる。私は驚いて「もちろん」と大きく頷いた。浩太くんは、そっか、と静かに相槌を打つ。それから
『ならいいや。じゃあまた、月曜に』
どこかぼんやりとした口調でそれだけ告げると、通話を切りそうになったので
「あ、待って浩太くん」
私はあわてて声を投げた。
「あの、今度の月曜日は、私、遅めに行くことにしたから。だから、朝、迎えに来てくれなくていいよ」
唐突な言葉にも浩太くんはなにも聞き返すことなく、『わかった』とだけ言った。私は少し迷ったあとで、「あの」と慎重に言葉を継ぐ。
「浩太くんは、月曜日も朝練があるんだよね?」
『あるよ』
相変わらず、答えはなんのためらいもなく返される。迷いの色なんてまったく見えないその声に、また胸の中には困惑が降り積もってきて、私は強く眉を寄せた。
「浩太くんは」短く息を吸い、続ける。
「月曜日も、朝練に出るんだよね?」
『そりゃ出るよ』
今度も浩太くんは間を置くことなく答えた。
『もうすぐ大会なんだし』
そっか、と私は眉を寄せたまま相槌を打つ。
ふいに、知っているのだと言ってしまいたくなった。浩太くんが朝も放課後も部活に出ていないこと。全部知っているのだと告げて、どうして嘘をついたのかと問い詰めたい衝動が突き上げた。
けれどそんな衝動が湧いたのはほんの一瞬で、結局私はなにも言えなかった。問い詰めたあとに返ってくる言葉が怖かった。そして、そんなことを怖がっている自分にさらに困惑してしまった。
月曜日、登校時間を遅らせたのは、永原くんと二人だけで過ごす時間を作りたくなかったからだった。
今、他に誰もいない静まりかえった教室で永原くんと二人きりになったりしたら、それだけで、うまく呼吸ができずに窒息死してしまいそうだった。大袈裟ではなく、本気でそう思った。
だけど久しぶりにたくさんの学生であふれる通学路を歩いていると、こんなふうにあからさまに避けてしまったら永原くんを傷つけるのではないか、という考えが今更ながら過ぎった。そして、今までそんなことはまったく考えもしなかった自分にあきれてしまった。
相変わらず私は自分のことしか考えられていない。改めて実感し、沈んだ気持ちになりながら学校へ足を進める。
とりあえず、永原くんと顔を合わせたらいつもどおり笑顔で挨拶をしよう。間違っても逃げるように視線を逸らしたりしないように。教室に入る前にそれだけは心に決め、いったん足を止める。
そして、忙しなく鳴っている鼓動を落ち着けようと、ゆっくり息を吐いていたとき
「倉田」
急に後ろから声を掛けられ、落ち着きかけていた心臓が大きく跳ねた。
へっ、と間の抜けた声を上げながら勢いよく振り返る。するとすぐ後ろに永原くんが立っていて、さらに心臓が大きな音を立てた。
「あ、な、永原、くん」
思い切り上擦った声で呟いていると、永原くんはにっこりと笑い
「おはよう」
と柔らかな声で挨拶をした。
それはこれまでとなにも変わらない笑顔で、私は一瞬呆気にとられてしまう。
数秒の後、ようやく我に返ると、私もあわてて「う、うん、おはようっ」と挨拶を返した。笑顔も浮かべようとしたけれど、あまりうまくいかなかった。しかも、さっき心に決めたばかりだというのに、あっけなく気まずさに耐えかねて顔を伏せてしまい、直後、怒濤のごとく後悔が押し寄せる。
だけど永原くんのほうはとくに気を悪くした様子はなく
「あれ、八尋は一緒じゃなかったの?」
と不思議そうに訊いてきた。へ、と私がきょとんとして顔を上げると
「もしかして、八尋、今日も休み?」
永原くんは軽く首を傾げて質問を続けた。私はますますきょとんとしながら、「ううん」と首を振る。
「そんなことないと思うけど……風邪はもうほとんど治ったみたいだし、今日は学校来られそうだって言ってたから」
「でも、この前返しそびれたCD返そうと思ってさっき二組行ってきたんだけど、八尋、まだ来てなかったよ」
え、と私は驚いて壁に掛けられた時計へ目をやった。もうあと五分も経たないうちに始業時間になるところだった。
いつもの鈴ちゃんなら、間違いなくこれくらいの時間には登校している。もしかして、また風邪が悪化してしまったのだろうか。心配になりながら私も二組へ行ってみると、たしかに鈴ちゃんの姿は見あたらなかった。
「鈴なら、まだ来てないけど」
浩太くんに尋ねてみると、彼も心配そうな表情で教室を見渡しながら答えた。
「今日もお休みかな」
「どうだろう。でもこの前様子見に行ったときはすげえ元気そうだったし、今日は調理実習もあるから絶対学校行くって言ってたけど」
「浩太くんも、鈴ちゃんからなにも聞いてない?」
尋ねると、浩太くんは困ったような顔で頷いた。それから
「ああでも、もしかしたら遅刻してくるだけかも。あいつ、今までも何回かそういうことあったし」
思い出したようにそう付け加えた。たしかに鈴ちゃんは真面目なわりに結構寝坊が多くて、これまでも何度か遅刻をしてきたことがある。とくに月曜日は危ない日なのだと、前に彼女から聞いた。
そのことを思い出した私は、「そうだね」と納得して頷く。それからそこで始業時間を告げるチャイムが鳴ったので、あわてて一組の教室に戻った。
だけど結局、鈴ちゃんは放課後まで教室に姿を見せることはなかった。
下校する前に二組の教室を覗き、鈴ちゃんが来ていないことを確認すると、私はいよいよ本気で心配になってきた。
もともと鈴ちゃんは小学校の頃からずっと欠席が少なかった。体が丈夫で滅多に風邪を引かないというのもあったけれど、なにより鈴ちゃんは、ちょっとくらいの熱なら多少無理をしてでも学校に出てくる強情なところがあった。
こうして二日も学校を休むなんてことは、きっとこれまで一度もなかったはずだ。もしかして、よほどひどい風邪なのだろうか。それとも、風邪ではなくなにか深刻な病気だったりするのだろうか。この前、浩太くんがあんなに心配そうにしていたのも、ひょっとしてなにか心当たりがあったのではないのか。
考え始めると心配は尽きることなく湧いてきて、いてもたってもいられなくなる。
私は早足に廊下を歩き、下駄箱へ向かった。そしてスリッパを脱ごうと屈みかけたところで、何気なく鈴ちゃんの下駄箱を覗いてみる。そこでふっと動きを止めた。
「……あれ?」
驚いて、脱ぎかけたスリッパを履き直す。そして今度は半透明の扉を開け、じっと中を覗き込んだ。
改めて名前の書かれたプレートも確認してみる。間違いなく鈴ちゃんの下駄箱だ。そしてそこには、きちんと、スニーカーが二足並んで置かれている。
私は思わずそこに並ぶスニーカーをまじまじと見つめた。紺色の地にピンクの靴紐が結ばれた、見慣れたスニーカー。それが紛れもなく鈴ちゃんのスニーカーであることを確認すると、私は困惑しながら下駄箱を出た。そして先ほど下りた階段を、ふたたび駆け足に上る。
再度二組の教室を覗いてみたけれど、やはり鈴ちゃんの姿はなかった。
だけど下駄箱にあった彼女のスニーカーは、たしかに彼女が学校に来ていることを告げていた。
首を捻りながら、私は続いて一組の教室を覗いてみる。そしてそこにも鈴ちゃんがいないことを確認すると、今度は三組、四組と順に覗いていった。
だけど結局、どこの教室でも鈴ちゃんは見つからなかった。
少し考えたあとで、私は続いて特別教室の並ぶ北校舎へ移動する。月曜日だから鈴ちゃんの所属している被服部の活動はやっていないはずだけれど、他に心当たりもないのでとりあえず被服室へ行ってみることにして、廊下を進む。
平日の放課後なので、いくつかの特別教室は部活で使われているらしい。先日と違い、廊下には明るい話し声や笑い声が響いていた。その中でもとくに賑わっていた美術室の前を通り過ぎたときだった。
ふと廊下の奥からピアノの音色が聞こえてきた。
はっとして、思わず足を止める。音のしてくる方向へ目をやれば、やはりそこは第二音楽室だった。
途端、妙な確信が生まれて、私はそちらへ向かい早足に歩き出していた。
近づくにつれ、ピアノの紡ぐメロディーが聞き取れるようになる。聞き覚えのあるメロディーだった。きっと一生忘れることはない、先日間近で聞いたばかりの、物悲しく激しいメロディー。
けれどそれを弾いているのが永原くんではないことは、不思議なほどすぐに察することができた。
永原くんの音とは違う。その音は彼のものより幾分ぎこちなく、どこか危なっかしい。まだ慣れていないのか、時折音を探しながら弾いている気配がある。
私は音楽室の前まで辿り着くと、そっと戸を開けた。中を覗く。
ピアノの前、座っていたのは鈴ちゃんだった。
見知った幼なじみの顔を目に入れて、私は少しほっとする。なにも考えずに戸を開けてしまったけれど、これでもし知らない人が座っていたら結構気まずかった。
私は演奏の邪魔をしないよう静かに中に入り、戸を閉めた。
その間も音色が途切れることはなかった。鈴ちゃんはじっと手元に目を落としたまま、ピアノを弾き続けていた。私が入ってきたことにも気づいていないみたいだった。
声を掛けて演奏を止めてしまうのは憚られたので、私は入り口のところに突っ立ったまましばらく演奏に耳を傾けていた。
やはりまだ完璧ではないらしい。低音から高音へ急に飛ぶところや、鍵盤の端から端へ一気に駆け上るようなところで、つまずき、一瞬音が消える。それでも一生懸命さがよく伝わってくるその音色は、とても心地良かった。私は目を閉じて、彼女の紡ぐメロディーにじっと耳を傾ける。
速いテンポで高音へ向かい駆けようとした音色が、ふいにまた途切れる。しかし、いつもはすぐに再開されるメロディーが、今度はいつまで待っても始まらなかった。
ふと怪訝に思い目を開ける。直後、まっすぐにこちらを見つめる目と目が合い、一瞬どきりとした。
「――歩美ちゃん」
いつの間にか、鈴ちゃんが手元の鍵盤を追っていた視線を上げ、私の顔をじっと見ていた。そしてとくに驚いた様子も見せず、静かに私の名前を呼んだ。私がここにいたことは、ずっと前から気がついていたみたいに。
「あ……鈴ちゃん」
私も呆けたように彼女の名前を呟く。それからあわてて、「邪魔しちゃってごめんね」と謝ろうとしたけれど
「ね、知ってる? この曲」
それより先に、鈴ちゃんが続けた。
私が、え、と聞き返すと、鈴ちゃんは右手だけで簡単にメロディーをなぞったあとで
「この曲、なんて曲か知ってる? 歩美ちゃん」
と質問を繰り返した。
私は少し考えたあとで、うん、と頷く。先日教えてもらったばかりの曲名は、まだしっかりと記憶に残っていた。
「ブラームスの、ラプソディ、だよね」
馴染みのないその単語をぎこちなく口にすれば、鈴ちゃんはふっと目を伏せた。「そう」とひどく静かな声で頷く。
「やっぱり歩美ちゃん、知ってたんだ」
独り言のような調子で続いた彼女の声は、いやに平坦だった。
私はなんだか困惑してしまって、じっと鈴ちゃんの顔を見つめる。鈴ちゃんは鍵盤にぼうっとした視線を落としたまま
「この曲、すっごく難しいんだよ。最近練習し始めたんだけどね、まだ全然弾けないの。この調子だと、完璧に弾けるようになるには一年くらいかかっちゃいそうだよ」
そう言って、小さく声を立てて笑った。けれど少しして、その声は音飛びしたCDのようにぱたりと途切れる。それから、「ねえ歩美ちゃん」とどこか大人びた調子の声が続いた。
「永原くんって、この曲、上手だよね」
聞き慣れない彼女の声に少し戸惑いながらも、私は、うん、と頷く。
「鈴ちゃんも聞かせてもらったの? この曲」
何気なく尋ねてみると、鈴ちゃんは、あはは、と声を立てて笑った。しかしその笑い声もやはり、すぐに底をついたようにぷつりと切れた。
「わたしには聞かせてくれないよ、永原くんは」
妙にきっぱりと言い切られた言葉に、心臓が短く音を立てる。
私は思わず緊張して鈴ちゃんのほうを見た。けれど彼女は顔を伏せていて、その表情を読み取ることはできなかった。ただ口元が笑みの形を作っていることだけ、かすかに見えた。
「この曲は」声にも笑いを混じらせたまま、鈴ちゃんが続ける。
「歩美ちゃんのためにしか、弾いてくれないんだよ。永原くん」
私は相変わらずその場に突っ立ったまま、鈴ちゃんを見つめ続けていた。
そして唐突に気づいた。ピアノの上、本来は楽譜を立てるはずの場所に、一つの人形が置かれていた。
手のひらに載るくらいの、ふわふわした人形。しばらく見つめたあとで、ようやくそれが小さなテディベアであることに気づく。気づくのに時間がかかったのは、きっとそれがはっきりとしたクマの形をしていなかったせいだろう。
そのテディベアには、手足がなかった。ただ頭の下に、細長い胴体だけがつながっていた。
冷たい唾が喉に落ちる。
気づいた途端、私はその人形から目が離せなくなった。心臓の鼓動が硬く速くなる。
無造作に置かれた、未完成のテディベア。食い入るようにそれを見つめていると、ふいに鈴ちゃんが顔を上げた。私の顔を見つめ、続いて私の視線の先を辿る。それから、ああ、と明るい声を上げた。
「そういえばね」
言いながら、彼女はピアノの上のテディベアへ手を伸ばす。そしてまったく容赦のない力で、ぐしゃりと掴んだ。
ぎょっとして鈴ちゃんの顔を見る。鈴ちゃんもまっすぐに、私の顔を見ていた。にこりと笑う。
「歩美ちゃんに、渡したいものがあったんだ」
それはぞっとするほど、なんの感情も混じらない笑みだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます