第13話 思い出

  足が揺れるのに合わせて、鈍い金属音を立てながらブランコが動く。

 夕日に照らされた小さな児童公園には、私の他に三人の子どもたちがいた。

 男の子が一人に女の子が二人。近くの砂場で、服が汚れるのもかまわず、スコップで山を作って遊んでいる。

 私はブランコに揺られながら、そんな彼らの姿をぼうっと眺めていた。

 そのうち一人がふいに立ち上がり、水道のほうへ駆けていく。何をするのかと思えば、すぐにバケツに水を汲んで戻ってきた。どうやら山の下にトンネルを造っていたらしく、そこに汲んできた水を流し込んでいる。

 他の二人は、横からその様子を興味深そうに眺めていた。三人とも本当に楽しそうで、こちらまでしきりに明るい笑い声が響いてくる。


 その無邪気な笑い声を聞いているうちに、ふと意識が思い出の中に引き込まれた。

 昔、私もよくあんなふうに浩太くんと鈴ちゃんと三人で遊んでいたことを思い出す。小学三年生ぐらいまでは、ほぼ毎日。学校から帰るなりこの公園に集まっていた。

 今思えば、よく飽きなかったなあとちょっと感心する。住宅地の一角にある公園は狭く、砂場とブランコ、それに低い滑り台が置かれているだけだ。遊具は少ないし、走り回るにも十分な広さはない。それでもあの頃の私は、毎日ここで本当に楽しく遊んでいたように思う。

 きっと遊び相手がよかったのだろうな、と、久しぶりに乗ったブランコの懐かしい感覚と合わせて、急速にしんみりした気分が湧いてきたとき


「――歩美?」

 ふいに名前を呼ばれ、我に返った。

 顔を上げると、公園の入り口のところに浩太くんが立っていた。学校帰りらしく、制服姿で肩には見慣れたグレーの鞄を掛けている。

 彼はその場に足を止めたまま、「何してんだ、そんなとこで」と怪訝そうに声を投げてきた。

「浩太くん」

 私はほっとして呟くと、急いで立ち上がる。

 それから横に置いていた鞄を拾い、彼のもとへ歩いていこうとしたけれど、それより先に浩太くんがこちらへ歩いてきた。


「なに、一人でブランコ?」

 呆れたように訊いてくる浩太くんに、私は苦笑して首を振ると

「ここで待ってれば、浩太くんが通りかかるだろうと思って」

 少し考えたあとで、けっきょく正直にそう答えた。

 途端、浩太くんの顔がふっと真顔に戻る。それからしばし無言で私の顔を見つめた彼は

「何かあったのか」

 質問というより、ほぼ断定に近い語尾で訊いてきた。

 彼の口調がとても静かで、私は思わず言葉に詰まってしまう。

 曖昧な笑みだけ返して視線を足下へ落とせば、浩太くんはそれ以上なにも言わなかった。黙ってこちらへ手を伸ばすと、私の頭に触れる。そして何度か軽く撫でたあとで、さっきまで私が座っていたブランコの隣に腰掛けた。


「あの、べつにね、何かあったわけじゃないんだ」

 浩太くんに倣って私も再びブランコに腰掛けながら、おずおずと口を開く。

「ただ、最近浩太くんとあんまり話せてないし、ちょっと話したいなと思って……」

「お前さ、無理だよ」

 きっぱりとした口調でそう遮られ、へ、と驚いて浩太くんのほうを見れば

「隠しごと絶望的に下手だもん。すぐわかる。いいから、何かあったんだろ」

 有無を言わせぬ強い口調とは反して、こちらを見つめる彼の表情はちょっと戸惑ってしまうほど優しかった。

 ふいに鼻の奥がつんと熱くなる。私はあわてて顔を伏せると、小さく首を振った。

「……たいしたことじゃ、ないんだ」

 迷いながら口を開けば、うん、と浩太くんは静かに相槌を打った。それに促されるように、続ける。

「ただ、今日、ちょっとだけ」

 そこで言葉に詰まり、口を噤む。浩太くんはただ黙って続きを待っていた。

 短く息を吸う。それから、声が震えないよう気をつけて口を開いた。

「クラスで、嫌なことがあって」

「うん」

「本当に、たいしたことじゃ、ないんだけど」

 なんとかそこまで言い切ると、それ以上は言葉が続かずに黙り込んだ。まだ灰の汚れが残るスニーカーの爪先をじっと見つめたまま、唇を結ぶ。


 浩太くんもしばらく黙っていた。砂場からは、相変わらず子どもたちの明るい笑い声が聞こえてくる。

 ややあって、「なあ歩美」と浩太くんは穏やかな口調で口を開くと

「お前さ、何でもそうだけど、あんまり深刻に考えないほうがいいって。クラスには四十人もいるんだし、そりゃ一人くらい反りが合わないやつもいるだろ。そんなの俺だっているしさ」

 私は顔を上げ、浩太くんのほうを見た。「そうなの?」と聞き返せば、「そりゃいるだろ」と浩太くんはあっけらかんとした調子で頷いてみせる。それから

「だってほら、まず俺、永原には間違いなく嫌われてるし」

 再度そんなことを言い出した。

「……また言ってる」

 思わずぼそりと呟くと、浩太くんは真面目な顔のまま

「いや、これはマジで思うんだって。なにが気にくわないのかはよくわかんねえけどさ、絶対永原は俺のこと嫌ってるよ。とりあえず好かれてはいない。間違いなく」

 とやたら力を込めて続けた。私はふたたび視線を足下へ落とし、そうかなあ、と首を捻る。

「でも浩太くん、永原くんに嫌われるようなことした覚えはないんでしょう」

「うん、それはない。だからわかんねえんだよな。なんで嫌われてんだか」

 そこもきっぱりと答える浩太くんに、私はますます首を捻ると

「永原くんて、そんな、たいした理由もなく誰かを嫌ったりはしなさそうだけど……」

「意外とするんじゃねえの。ほら、たまーにいるじゃん。どうしてもウマが合わないというか、好きになれないって人。永原にとっての俺は、そうなのかも」

 どうやらこのことについてはやたらはっきりとした確信を抱いているらしい浩太くんに、そうかなあ、と私は困惑してふたたび首を捻る。

 永原くんがそんな理由で誰かを嫌うとはやっぱり考えられないし、浩太くんがそんなふうに誰かに嫌われるとも思えなかった。

 ちょっとぶっきらぼうで口が悪いところはあるけれど、基本的に浩太くんはすごく優しい。いつだって本当に言っちゃいけないことは言わないから、誰かを傷つけることなんてことは滅多にないと思う。


 どうしても納得できずに眉を寄せていると

「つーか、今は俺の話はいいだろ。お前の話だよ」

 と浩太くんがあっさり話題を戻した。

「まあ俺が最初に言い出したんだけど。ごめん」

「う、ううん。あの、でも私、もう大丈夫だよ。さっきの浩太くんの言葉で、だいぶ楽になった」

「そっか」

 ならいいけど、とだけ呟いて、浩太くんは宙を見上げた。そしてさっきの私と同じように足を軽く揺らし、ゆっくりとブランコを動かし始める。

 浩太くんに“クラスであった嫌なこと”の内容についてまで聞いてくる気はないようだった。多分、だいたい察しはついているのだろう。私は目を伏せ、無造作に地面に投げ出した両足をぼんやりと見つめた。


 またしばらく間があってから

「大丈夫なのか」

 浩太くんは静かな声で、短く質問を投げてきた。

 うん、と私は小さく笑って頷くと

「本当にね、ちょっと話したくなっただけなんだ。今日は鈴ちゃんと一緒に帰る約束してたんだけど、途中で帰れなくなっちゃって、それでなんだか寂しくなって……」

 ふうん、と相槌を打ったあとで、浩太くんはふとこちらを見た。

「帰れなくなったって、なんで?」

「あ、なんか、途中でどうしても寄らないといけない場所ができたって、鈴ちゃんが」

「寄らないといけない場所?」

「うん。どこかまでは聞かなかったけど」

 言うと、浩太くんがにわかに黙り込んだ。なにかを考え込むように、膝に置いた自分の手をじっと見つめる。

 ちょっと心配になって「どうしたの?」と尋ねれば、「ああ、いや」と彼はぼんやりとした表情で呟いた。それからまた少し間があって


「俺、ちょっと行ってくる」

 浩太くんは急に立ち上がり、そんなことを言った。

「へ?」と私がきょとんとして聞き返せば

「ごめん歩美。なんかちょっと気になるから、鈴を迎えに」

「え、浩太くん知ってるの? 鈴ちゃんがどこにいるのか」

 驚いて尋ねると、いや、と浩太くんはあっさり首を振った。しかしそのあとで、「ああ、いや」ともう一度首を振り

「いっこだけある、心当たり。そこ行ってみる」

 私は首を傾げたまま頷いた。空はまだ夕日の赤い光に照らされている。心配をしなければならないほど遅い時間とも思えない。

 だけど浩太くんはすでに鞄を肩に掛け、いてもたってもいられない様子で歩きだそうとしていた。そんな彼の姿を見ていると、私もふと心配になってきて

「あ、じゃあ、私も行く。鈴ちゃん迎えに」

「いや、いい」

 言葉が終わらないうちに、きっぱりとした浩太くんの声が返ってきた。

 それが思いのほかはっきりとした拒絶だったので、私が少し面食らっていると

「ごめん。悪いけど歩美はここで待って――あ、いや、遅くなりそうだったら先帰ってていいから。ほんとごめん、またあとで電話するから」

 浩太くんは早口にそれだけ言って、踵を返した。よくわからないながらも、「う、うん」と頷く。それからあわてて

「ちゃんとここで待ってるよ」

 と公園を出て行く彼の背中に向けて声を投げた。

 浩太くんは一度だけこちらを振り返り、おう、と答えると、あとは学校の方向へまっすぐに駆けていった。


 私は困惑しながらその背中を見送り、ふたたびブランコに腰掛ける。

 しばらくして遠くのほうから夕焼け小焼けの音楽が聞こえてくると、砂場で遊んでいた子どもたちが急いで片付けを始めた。名残惜しそうにスコップやバケツを拾い集め、砂場に作った山と川はそのままに公園を出て行く。

 子どもたちがいなくなると、公園は途端に静まりかえった。それに合わせるように夕日の柔らかな光も翳り、代わりに暗闇が空を覆い始める。


 三十分ほど経っただろうか。夜の気配がさらに濃くなり、しだいに風も冷たくなってきた頃、ようやく浩太くんが戻ってきた。

 今度は鈴ちゃんも一緒だった。公園を出て行くときのあわてた様子はどこへやら、楽しそうに雑談をしながら二人で歩いてくる。

 その様子を見ただけでとりあえず何事もなかったらしいことはわかり、私はほっと息を吐いた。


「ごめんね歩美ちゃん、待っててくれたんだよね」

 目の前まで歩いてきた鈴ちゃんは、そう言って心底申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。

「ううん、全然いいよ」と私があわてて首を振れば

「それと、今日一緒に帰れなくて、本当にごめんね」

 と再度謝ってきたので、私はもう一度首を振った。

 それでも鈴ちゃんはまだ申し訳なさそうな表情のまま

「なんかさっき歩美ちゃんがすごく泣きそうな顔してたって、浩太くんから聞いたけど」

 そう言って、じっと私の顔を覗き込んできた。隣の浩太くんも真顔で相槌を打っていたので、私はまた「もう大丈夫だよ」とあわてて首を振る。あながち嘘でもなかった。「それならよかった」と柔らかく笑う鈴ちゃんの笑顔を見ているうちに、学校を出た直後に比べ格段に気持ちが楽になっていることにふと気づいた。


 二人は、私がちゃんと家までたどり着けるか心配だから、と言ってわざわざ家まで送ってくれた。

 玄関の前でお礼を言ったあとで、私はふと浩太くんのほうを向き

「浩太くんは、明日も朝練があるの?」

 唐突に尋ねると、浩太くんはきょとんとして頷いた。

「あの、それなら」と私はおずおずと続ける。

「私も明日、浩太くんが学校行く時間に学校行くから、一緒に行ってもいい?」

 浩太くんはきょとんとした表情のまま「そりゃいいけど」と頷いた。

「でもけっこう早いぞ、朝。大丈夫か?」

「うん、大丈夫。私も、最近は朝早めに行くようにしてるんだ」

 言うと、浩太くんは「わかった」と頷いてから

「じゃあ明日の朝は、歩美の家まで迎えに来る」

 さらっとそんなことを言った。

「え、それはいいよ」と私はあわてて首を振ろうとしたけれど、それより先に鈴ちゃんが「あっ、それいいね。よろしく、こうちゃん!」と言って浩太くんの肩を叩いていた。


 浩太くんも鈴ちゃんも、けっきょく最後までなにも聞こうとはしなかった。別れる前にそれぞれ一度だけ私の頭を撫でてから、「じゃあまた明日」と明るい声を残し帰って行った。

 だけど私にはそれで充分だった。やっぱりよかったと思う。これできっと、私はちゃんと明日も学校へ行ける。

 小学生の頃、クラスメイトの一人と関係がこじれてしまって私が落ち込んでいたときも、二人はああして頭を撫でてくれたことを思い出した。その温もりは、今日も同じだった。なにも変わらず優しかった。


 大丈夫だともう一度強く思う。親切にしてやっているつもりだったのだと、あの子は言っていた。彼女たちの言葉を集める限り、おそらく彼女たちは私のスニーカーを焼却炉に捨てたりはしていない。私の愛想のなさに気を悪くしていただけだ。

 自業自得、たしかにそのとおりだった。でもきっとまだ大丈夫だ。頑張れば、これからいくらでも挽回できる。自分の態度のなにが悪かったのか、私は今ちゃんとわかっているから。

 明日顔を合わせたときに、頑張って私から挨拶をしてみよう。にっこり笑顔を浮かべるのも忘れずに。すごく怖いし、途方もなく勇気がいるけれど。


 考えると、少しだけ身体が震えた。振り払うように目を瞑る。そしてついさっき見た、浩太くんと鈴ちゃんの笑顔を思い浮かべた。

 大丈夫だと繰り返し言い聞かせる。二人が傍にいてくれる。それだけで充分すぎるほどだ。何も心配する必要はない。強く言い聞かせ、私は一度ゆっくりと深呼吸をした。

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