第12話 後悔

 六限目が始まる前の休み時間に、ふたたび鈴ちゃんが一組の教室にやって来た。

 しかし今度は私の席を素通りして、まっすぐに永原くんの席のほうへ歩いていく。どうやら借りていた資料集を返しに来たらしい。

 笑顔でお礼を言いつつ資料集を差し出す鈴ちゃんに、永原くんも笑顔で応えているのが遠目に見えた。


 そのまま鈴ちゃんはしばらく永原くんと話し込んでいた。会話の内容までは聞こえてこなかったけれど、とりあえず二人とも終始笑顔で楽しそうだった。

 私はそんな二人をぼんやり眺めながら、やっぱりお似合いだとあらためて思う。鈴ちゃんも永原くんもたいていいつでもにこやかだけれど、楽しそうに会話をする二人は、いつにも増してにこやかに見えた。とくに鈴ちゃんのほうはあからさまで、こうして見ているだけでも永原くんに寄せる好意がひしひしと伝わってくるようだ。


 永原くんは気づいているのだろうか、とふと考える。傍から見ていてもわかるくらいの好意をああしてまっすぐに受けているのだし、それでなくても永原くんはこういうことには鋭そうな人だ。もしかしたら、鈴ちゃんの気持ちにはもうとっくに気づいているのかもしれない。

 そして気づいていてあんなふうに笑っているのだとしたら、永原くんのほうもきっと満更ではないのだろう。少なくとも、鈴ちゃんの想いを迷惑だとは思っていないはずだ。もちろん永原くんは誰かをあからさまに邪険に扱ったりはしないだろうけれど、それにしても今の永原くんの笑顔はひどく穏やかだし、鈴ちゃんに悪い感情を抱いているとは思えない。

 考えていくと、確信はよりいっそう深まった。最初に鈴ちゃんから相談を受けたときから、きっと鈴ちゃんと永原くんはうまくいくだろうとは思っていたけれど、もしかしたらこの恋は予想よりずっと早く実るのかもしれない。そうなればいいな、と心から思った。


 二人はそのまま五分間ほど話し込んでいた。やがて鈴ちゃんが軽く手を振って永原くんの席を離れる。そして今度は私の席のほうへ歩いてきた。

 私の机の横に屈んだ鈴ちゃんは、「ね、歩美ちゃん」といつもより少し上機嫌に弾んだ声で口を開く。

「今日ね、わたし、部活があるんだ。だから今日も先に帰ってていいよ」

「あ、そっか。今日木曜日だもんね」

 思い出して呟く。それから「わかった、先に帰っとく」と答えようとして、ふと思い直した。

「……あの、鈴ちゃん」

「ん?」

「私、待っててもいい? 鈴ちゃんが部活終わるまで」

 尋ねると、鈴ちゃんはきょとんとした顔で私を見た。

「そりゃもちろん、いいけど」と首を傾げつつ頷いてから

「でも部活終わるのってけっこう遅くなるよ? いいの?」

「うん、大丈夫。宿題やったりしながら待ってる。どうせ今日は暇だから」

 言うと、鈴ちゃんは「そっか、わかった」とにっこり笑って頷いた。

「じゃあ待っててね。六時には終わると思うから。一緒に帰ろうね」

「うん」

 鈴ちゃんの言葉になんとなくほっとして頷く。

 彼女の用事はそれだけだったようで、鈴ちゃんは言い終えるなり立ち上がると、さっきと同じように軽く手を振ってから教室を出て行った。

 彼女の足取りは、出て行く際もどことなく弾んでいた。きっと永原くんとたくさん話すことができたからだろう。鈴ちゃんは本当に、永原くんのことになると小さなことでも目一杯に一喜一憂するみたいだった。

 可愛いなとぼんやり思う。そしてやっぱり、永原くんとうまくいってくれればいいなと強く思った。



 けっきょく、その日も放課後まで変わったことはなにも起こらなかった。注意を払っていたおかげか持ち物が消えることもなく、誰かに睨まれたり陰口を叩かれたりなんてことも、少なくとも私が気づいた範囲では一度もなかった。

 とりあえずはほっと胸をなで下ろす。そうして次々に下校していくクラスメイトたちを自分の席に座ったまま見送っていると

「倉田」

 ふと永原くんがこちらへ歩いてきて、私に声を掛けた。

 うん、と聞き返せば、彼はちょっと声を低くして

「今日、大丈夫だった? 何もなかった?」

 ずいぶん漠然とした質問だったけれど、永原くんの訊きたいことはよくわかった。

 私は小さく笑って頷くと

「大丈夫、何もなかったよ。ありがとう」

 そっか、と永原くんもほっとしたように笑顔を浮かべた。それから、私がまだまったく帰り支度をしていないのに気づいて少し首を傾げると

「倉田、まだ帰らないの?」

「うん、鈴ちゃんの部活が終わるまで待っていようと思って」

「じゃあ今日は八尋と一緒に帰るんだ」

 私が頷くと、そっか、と永原くんはどこか安心したように笑い、それから短い挨拶を交わして教室を出て行った。


 それから三十分も経たないうちに、教室に残るのは、私の他に五人ほどの女の子のグループだけになった。

 グループのほうも、私と同じでまだ当分帰るつもりはないようだった。教室の後方の席で、雑誌を囲んで会話に花を咲かせている。

 私は引き出しから英語の教科書とノートを取り出し、机の上に広げた。後ろからはしきりに高い笑い声が聞こえてくるけれど、騒がしい場所で勉強するのは慣れていたからとくに問題はなかった。

 辞書を片手に、黙々と英文を訳していっていると


「ねえねえ倉田さーん」

 ふいに大きな声で名前を呼ばれ、思わずびくりと肩を揺らしてしまった。

 へっ、と素っ頓狂な声を上げつつ後ろを振り返る。

 いたのはもちろん、雑誌を囲んだ女の子のグループだった。見れば、そのうちの一人がこちらを向いてにこにこと笑っている。明るく人懐っこい性格で、私にもよく話しかけてきてくれる子だった。

 彼女につられるようにグループの他の皆の視線もこちらへ集まったものだから、緊張で身体が強張る。「な、なに?」と聞き返す声も、かすかに上擦ってしまった。

「あのねー、お菓子があるんだけど」

 にこにことした笑顔を崩すことなく、その子はいつもの人懐っこい口調で言った。見ると、たしかに彼女たちが囲む机の上には、雑誌の他にスナック菓子の袋が広げられている。

「倉田さんもこっち来て、一緒に食べない?」

 びっくりして、え、と声を漏らす。そうして思わず彼女の顔を見つめ返してしまったら、彼女は万人に好かれそうな明るい笑顔を浮かべ、軽く首を傾げた。

 まったく思いも寄らないことで、驚きの次には混乱が押し寄せる。返す言葉を探しあぐねて口ごもってしまっていると、「そうだね、おいでよ」「一緒食べよ」と他の子たちも声を投げてきた。


 そこにいるみんなは、たしかに笑顔だった。同じ教室に私が一人でいたから、きっと気を遣ってくれたのだろう。わかってはいたけれど、言葉は考えるより先に口をついていた。

「い、いい。あの、お腹空いてない、から」

「遠慮しなくていいよー。いっぱいあるし、おいでおいで」

 言って、彼女はひらひらと手招きをする。途端ますます膨らんだ混乱に押されるように、私はほとんど間髪入れず首を振ってしまった。

「ほ、本当に、いいからっ」

 喉を通ったのは、思いのほか強い拒絶だった。

 耳に響いた自分の声にはっとする。しかしもう遅かった。

 人懐っこく笑っていたクラスメイトの顔が、一瞬真顔に戻る。直後、勢いよく流れ込んできた後悔に、指先がすうっと冷たくなる。

 彼女はすぐにまた笑顔を浮かべたけれど、その一瞬だけで充分だった。自分がなにかとんでもない間違いを犯してしまったという予感が、すでに打ち消しがたく胸を満たしていた。


 そっか、と呟いて、彼女はグループの他の皆のほうへ向き直る。他の子たちもそれ以上はなにも言わなかった。私から視線を外し、ふたたび机に広げられた雑誌へ目を落とす。それから何事もなかったように雑談を再開した。

 しかし空気は数分前とは変わっていた。微妙な、けれどたしかな変化だった。

 後悔はすでに全身を覆っていた。どうしよう、とふたたびその言葉が、今度はいくぶん力なく頭を巡る。

 昨日までの私は、みんなともう少しうまく接することができていたと思う。だけど今日はもう駄目だった。このクラスの全員が私に敵意を向けている気がして、どうしようもない。暖かな優しさすら、素直に受け取ることができなくなってしまった。こんなことを繰り返しているうちに、いつか本当にひとりぼっちになってしまいそうだ。


 項垂れ、手にしていたシャーペンをぎゅっと握りしめる。そして力なくため息をついたとき、開いた教室の戸から誰かがふっと顔を出した。

 気づいて顔を上げると同時に、名前を呼ばれる。

「歩美ちゃーん」

 鈴ちゃんだった。強張っていた身体からいくらか力が抜ける。

 彼女は早足にこちらへ歩いてくると、目の前に立つなりぱんっと顔の前で手を合わせた。それから「ごめん!」と出し抜けに声を上げる。

「やっぱり今日、先に帰ってて。どうしても帰りに寄らないといけないところができちゃったんだ」

「え、あ……そうなんだ」

 ショックを極力現さないよう努めたつもりだったけれど、声にはどうしても寂しげな色が滲んでしまった。鈴ちゃんが困ったように眉を寄せる。そして「本当にごめんね」と再度繰り返した。

「本当に、どうしても今日寄らなくちゃいけなくて……ごめん、ほんと。せっかく待っててもらったのに」

「そ、そんな、いいよ。大丈夫」

 心底申し訳なさそうに鈴ちゃんが頭を下げるので、私はあわてて首を振った。

「まだそんなに時間も経ってないし、気にしないで。用事があるなら仕方ないよ」

「ね、でも歩美ちゃん、何か相談事とかあったんじゃないの?」

「え?」

 唐突な鈴ちゃんの言葉に私がきょとんとしていると

「だって、歩美ちゃんが部活終わるまで待ってるなんて言うこと今までなかったじゃない。もしかして、今日、何かわたしに相談したいことでもあったんじゃないのかなって」

 鈴ちゃんは心配そうな表情で私をじっと見つめながら言った。

 私はびっくりして、「違うよ」と急いで首を振る。

「べつに何もないんだ。ただ、あの、一人で帰るのは寂しかっただけで……ね、本当に大丈夫だからもう気にしないで。本当にいいから」

 早口に言うと、鈴ちゃんはまだ申し訳なさそうな表情で小さく頷いた。

「本当にごめんね」と最後にもう一度繰り返してから、踵を返す。そうして今度は軽く駆け足で教室を出て行った。


 その背中を見送ったあとで、私は机の上に広げたノートや教科書をまとめた。鞄に入れる。代わりにスニーカーを入れた手提げ袋を取り出し、腕に掛けた。

 そして今日も引き出しの中の物すべてを詰め込み、けっこうな重たさになった鞄は、反対側の肩に掛ける。

 教室を出るとき、先ほど声を掛けてくれたクラスメイトが「ばいばい」と言ってくれた。私もあわてて振り向いて、「ばいばい」とできるだけ明るい声になるよう努めて返す。彼女が笑顔を浮かべていたことにほっとすると同時に、ふたたび真っ暗な後悔が胸に湧いた。

 やっぱり彼女は心から親切心で言葉を掛けてくれたのだ。素直に「ありがとう」と受け取るべきだった。態度には出さないだけで、むっとしていたのかもしれない。少なくとも良い気分にはならなかったはずだ。間違いなく。


 そんなことを考えて暗い気分になりながら、とぼとぼと下駄箱まで歩く。そしてスリッパを脱ごうとしゃがみかけたところで、ふと体操服を教室に忘れてきてしまったことに気づいた。

 はあ、と盛大なため息がこぼれる。脱ぎかけたスリッパをのろのろと履き直す。そして、途方もなく重たい足をふたたび教室へ向けた。

 またあの教室に戻るのはかなり気が重いけれど、仕方がない。体操服を置きっぱなしにしておくにはいかないし、それに今は、置いておけばまたなくなってしまうのではないかという不安もあった。

 ゆっくりとした足取りで、時間をかけて教室まで歩く。女の子のグループはまだ教室にいるようだった。近づいていくにつれ、彼女たちの明るい話し声が聞こえてくる。その内容まで聞き取れるほど近くまで行ったところで、私は足を止めた。

 ――身体の芯が、一気に冷えた。


「でもさあ、やっぱなんか感じ悪いよね」

 全身が強張る。

 不思議だった。最初に耳に届いたその一言だけで充分だった。どうしようもないほどはっきりと、察することができた。彼女たちが何について――誰について話しているのか。

「ね。こっちは親切にしてやってるつもりなのに」

 否定する間もなく、別の声が続く。今度は決定打だった。

「なんか逆に悪いことしちゃったみたいじゃんね」

「そうそう。ていうか今朝もさ、あたし倉田さんに挨拶したんだけど」

 はっきりと告げられた名前に、よりいっそう熱が引く。握りしめた右手が小刻みに震えた。ずるり、一歩後ろへ後ずさる。

 耳を塞いで、今すぐこの場から走り去りたかった。しかし自分のものではないかのように重たい足は、思うように動かせない。呆けたようにその場に立ちつくしている間に声は続き、容赦なく耳に響いた。

「返してもらえなかったんだよね、おはようって。けっこう傷ついたわ、あれも」

「え、なにそれ酷くない? 無視されたの?」

「無視っていうか、なんだろ、人見知りが激しいんだろうなってのはわかるんだけどさ」

「まあでも、あれじゃあね。自分からみんな遠ざけてる感じじゃん。自業自得っていうか」

 突き放すようなその口調は、ぞっとするほど冷たく鼓膜を打った。

 吸い込め損ねた息が喉で音を立てる。直後、私は弾かれたように踵を返していた。廊下を走り、階段を駆け下りる。幸い知った人とは誰もすれ違わなかった。下駄箱に着いたときにはひどく息が乱れていて、整えようと何度か肩を揺らして呼吸をする。


 五月の空気が、嘘みたいに冷たかった。背中をすっと震えが走る。

 悲しみというより、恐怖が全身を覆っていた。自業自得。その言葉が重たく腹の底に沈む。ぎゅっと目を瞑る。

 永原くん。縋るようなか細い声が、こぼれ落ちた。

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