第7話 教科書

 けっきょく美術室でも筆箱は見つからず、とぼとぼと教室へ戻ったときには、無人だった教室にもだいぶ人の姿が増え、騒がしくなっていた。


 中には永原くんの姿もあった。思わず、あ、と声を漏らしてしまったとき、ちょうど永原くんも顔を上げて目が合う。

 また一気に顔が熱くなってきて、急いで視線を逸らそうとしたけれど、それより先に永原くんが立ち上がり、こちらへ歩いてきた。

 ぽかんとしつつも、とりあえず自分の席の横に立ったまま彼を待つ。

 それから

「あの、さっきは、ごめんなさい」

 永原くんが目の前に立つなりあわてて頭を下げた。

 永原くんには、きょとんとした様子で「なにが?」と聞き返されたので

「盗み聞き、みたいなこと、してたから」

 永原くんの顔は見ることができないまま、もごもごと続ける。

 すると永原くんはすぐに、ああ、とあっけらかんとした調子で笑って

「いいよ。というか、むしろ聴いてもらえるのは嬉しいし」

「嬉しい?」

「うん。そりゃ一人で弾いてるだけより、誰か聴いてくれる人がいたほうがいいよ」

「えっ、それなら」

 穏やかな口調で言われた永原くんの言葉に、私は思わず意気込んで声を上げていた。

「また、聴いてもいい?」

 言ったあとで、私は自分の口にした言葉に驚いてしまった。

 すぐに後悔がこみ上げ、また顔に熱が集まりかける。けれどそれより早く、「いいよ、もちろん」と永原くんはにっこり笑って頷いてくれた。


「まあそんな、聴かせるほど上手くはないんだけど」

「じょ、上手だよ!」

 意気込んで口を開いたら、思いのほか大きな声が出てしまった。

 それで永原くんがちょっと驚いたような顔をしたから、私は恥ずかしくなってあわてて顔を伏せる。そうして床を睨んだまま、「あの、だって」と早口に続けた。

「さっき弾いてた曲、すごく難しそうだったのに、完璧に弾けてたし……」

「完璧じゃないよ」

 永原くんは笑いの混じる声であっさりと否定した。

「ただ楽譜のとおり、そのまま弾くだけでいっぱいいっぱいだし」

 続いた言葉に、私は少し首を傾げる。

 楽譜のとおりそのまま弾ければそれで充分なのではないだろうか、と思ったけれど、そういえば前に鈴ちゃんも同じようなことを言っていたな、とふと思い出した。音の強弱だとかテンポの変化だとか、そういう細かいところまできっちり気をつけて弾けるようにならなければ完璧ではないのだと、前にちらっと聞いた気がする。


「でも、上手だったよ」

 とりあえずそれだけは伝えたくて、力を込めてそう重ねれば、永原くんは照れたような笑顔で「ありがとう」と言った。

「まあ一応、小さい頃からやってきたから。それなりには弾けるようになったけど」

「今も習ってるの? ピアノ」

「いや、今はもうやめたよ。小学生まで習ってた」

 返ってきた言葉に、えっ、と私はまた大きな声を上げてしまった。

「どうして? あんなに上手なのにやめちゃうなんて、もったいない」

 今更そんなことを言ってもどうにもならないだろうに、心底残念に思ってついそう口走ってしまうと

「もともとピアノは始めたくて始めたわけじゃなかったんだよ。うちの母親がさ、何としても子どもにピアノだけは習わせるって決めてたらしくて、小さい頃から否応なしに習わされた感じで」

 私がちょっと首を傾げ、「なんでピアノ」と呟くと

「うちの母親、保育士なんだけど、大学で保育士の免許とるためにはピアノの授業が必修だったらしいんだよ。でも今までピアノなんて触ったことなかったもんだから、その授業に相当苦労したらしくて。で、そのときに決めたんだって。子どもが生まれたら、絶対小さい頃からピアノを習わせておくって。自分と同じような苦労をしないように」

 へえ、と私は感心して呟いた。

「いいお母さんだね」

「まあ今のところ、保育士になるつもりはないんだけどね」

 永原くんは笑いながらあっさりと言い切った。

 そんな会話を交わしている間に、教室にはますます人が増えていた。比例して大きくなる喧噪に、しだいに互いの声が聞き取りづらくなる。私は少し声量を上げてから

「いつも、朝、音楽室でピアノ弾いてるの?」

 そう尋ねると、まさか、と永原くんは笑った。

「今日はたまたま早く来すぎちゃったから。他にやることもなかったし、なんとなく」

 そっか、と私は少しがっかりして相槌を打つ。それにしても私が音楽室の側を通りがかったのは随分早い時間だったはずだけれど、とちょっと不思議に思って首を傾げていると


「ところで、倉田はなんであんな時間に音楽室に来たの?」

 思い出したように永原くんが尋ねてきた。

「あ、えっと、筆箱を探してたの。どこか移動教室のときに忘れてきたんじゃないかなと思って」

 答えると、永原くんはきょとんとした目で私の顔を見た。

「え、倉田、筆箱なくしたの?」

「う、うん。そうみたい」

 私は苦笑しながら頷いた。指先で軽く頬を掻く。

「昨日、鞄に入ってなかったから、家に忘れてきたと思ったんだけど、家を探してみても見つからなくて……」

 言うと、永原くんは少し眉を寄せた。なにか考え込むような表情で、ふっと視線を足下へ落とす。

 それから何か言わんと口を開きかけたのがわかったけれど、けっきょく思い直したように唇を結んだ。そして、ふうん、とだけ短く相槌を打った。


 彼の反応に私が少し首を傾げていると

「そういえば、八尋もピアノ弾けるんだよね」

 いくらか唐突に、永原くんはそんなことを言った。話題を強引に引き戻したような感じだった。

 私は出し抜けに出てきた鈴ちゃんの名前にちょっと面食らいつつ、うん、と頷く。

「鈴ちゃんもすごく上手なんだよ。今も習ってるし」

「うん、知ってる。前に聴かせてもらったことあるから」

「えっ、そうなの?」

 驚いて聞き返す私に、永原くんはあっけらかんとした調子で頷いて、「一年生のときに」と続けた。

「掃除場所が同じ音楽室だったから、そのときにちょっと聴かせてもらった」

 そうなんだ、と相槌を打ちながら、私は彼の言葉に深く納得していた。

 去年も鈴ちゃんと永原くんは違うクラスだったしあまり関わりはないようだったので、いつ仲良くなったのだろうと不思議に思っていたのだけれど、なるほど、掃除場所が同じだったのか。

 疑問が解け、心の中で何度も頷いていると


「そういや八尋って」

 ふと思い出したように、永原くんは続けた。

「やっぱり羽村と付き合ってるの?」

 これまでの会話とまったく同じ口調のままさらっと切り出された言葉に、私は、えっ、と思いきり身を乗り出してしまった。

「き、気になるっ?」

 意気込んで聞き返す私に、永原くんはちょっと驚いた様子で

「うん、まあ、気になるといえば気になるけど」

「あの、付き合ってないよ、全然! そういう気配もまったくないし、大丈夫!」

 力を込めてそう返す私を永原くんは不思議そうな目で眺めながら、そうなんだ、と相槌を打った。それからまた同じ口調のまま、じゃあ、と続けて口を開く。

「倉田と付き合ってるの?」

「へっ? 鈴ちゃんが?」

「いや、羽村が」

 思わず間抜けな聞き返しをしてしまった私に、永原くんが苦笑して答える。

 私は恥ずかしくなって、「あ、ああ、浩太くん」とあわてて口を開くと

「ううん、私とも付き合ってないよ」

 短く答えれば、ふうん、と今度は意外そうな相槌が返ってきた。

「そうなんだ。おれ、てっきり羽村は倉田か八尋のどっちかと付き合ってるんだと思ってたなあ。小さい頃から長く一緒にいると、そういう気持ちにはならないもんなの?」

 永原くんの質問に、うーん、と私は少し考えてから

「浩太くんはずっと、頼りになるお兄ちゃん、って感じだったから。そういう感じじゃない、かな」

 鈴ちゃんにはお父さんだなんて言われたけど、と苦笑して付け加えれば、永原くんは「なるほど」と妙に真面目な顔で呟いていた。

「あのっ、とりあえず」私は早口に重ねておく。

「鈴ちゃんは今のところ、誰とも付き合ってないから。特別仲良しな男の子とかも、いないし」

 言うと、永原くんはきょとんとした表情のまま、そっか、と相槌を打った。

 うん、と私は大きく頷いてから、ふと壁に掛けられた時計へ目をやる。

 いつの間にかあと五分ほどで一限目が始まる時間になっていた。今日の一限目て何だったっけ、と教室の後ろに貼られた時間割表を確認しようとしたとき


「あ、そういえば今日の一限、移動だった」

 つられるように時計へ目をやった永原くんが、少しだけあわてた口調で呟いた。

「えっ、そうだったっけ」

「うん。次の国語はパソコン使うから情報処理室だって」

 早口に言ってから、永原くんは自分の席へ戻った。

 気づけば、教室に残っているクラスメイトは私たちの他に四人だけになっていた。私もいそいで机の横に提げていた鞄を机の上に置き、中からシャーペンと消しゴム、赤ペンだけをゴムで束ねた質素な筆記用具を取り出す。

 それから国語の教科書を探し始めたけれど、永原くんが自分の教科書と筆箱を手に私の席のところへ戻ってきたときにも、私はまだ教科書を見つけられずにいた。


「どうしたの? 教科書ないの?」

 いつまでも鞄を探っている私に、永原くんが訊いてくる。

「う、うん」と私は鞄を覗き込んだまま頷くと

「また忘れちゃったみたい……」

 力無く呟いてから、仕方なく筆記用具だけを手に立ち上がった。それから永原くんのほうを見ると、彼はなんだかひどく困惑した顔をしていた。

「私、二組に行って教科書借りてくる。あの、遅れちゃうから、永原くんは先に行ってていいよ」

 今回は永原くんに貸してもらうわけにはいかなかったので、早口にそう告げてから二組の教室まで走った。幸い先生はまだ来ていなかった。

 教科書を忘れたから貸してほしいと頼めば、またかよ、と浩太くんからは思い切り呆れた顔をされたけれど、とりあえず無事に教科書を借り、ほっとして二組の教室を出ると、廊下には永原くんが待っていてくれた。


「ちゃんと借りられた?」

 心配そうに訊いてくる永原くんに、うん、と私は笑顔で右手に持っていた教科書を掲げる。

「浩太くんに借りたよ」

 だけどなぜか永原くんの表情は硬いままだった。

 さっきより強く眉を寄せ、こちらをじっと見つめた彼は、ためらうような間のあとで「倉田さ」とゆっくり口を開く。

「本当に、忘れたの?」

 いやに真剣な声で向けられた質問の意味は、よくわからなかった。

 私がきょとんとして「え?」と聞き返せば

「筆箱も、教科書も。本当はちゃんと持ってきてたんじゃ」

 言いかけて、永原くんはそこで急に言葉を切った。

 ふっと私の顔から視線を外す。そうしてしばし考え込むように視線を漂わせたあとで、取り繕うような笑みを浮かべ、「いや、なんでも」と言った。

 それから、ぽかんとして永原くんのほうを見つめている私へ

「ほら、早く行こ。遅れるよ」

 いつもの明るい口調で促し、踵を返した。

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