第6話 音色
普段より三十分も早く登校すれば、さすがに教室には誰もいなかった。
鞄を机の横に掛けてから、私は引き出しを覗き込んでみる。さらに手を突っ込んで奥まで探ってみたけれど、けっきょく何の手応えもなかった。
一つため息をついて、椅子から立ち上がる。他に筆箱が見つかりそうな場所なんてどこかあるだろうか、と考えながら教室を見渡していたとき
「見つかったか?」
静まりかえっていた教室に突然聞き慣れた声が響いて、ちょっと心臓が跳ねた。
振り返ると、教室の入り口のところに浩太くんが立っていた。今し方登校してきて二組の教室へ向かう途中らしく、肩には鞄が提げられている。
「浩太くん、早いね」
時計を見るとまだ七時を少し過ぎた時間だったので、驚いて呟くと
「今日、部活の朝練が休みなの忘れてて」
浩太くんは短く説明したあとで、「見つかったのか? 筆箱」と再度訊いてきた。
ううん、と私は力無く首を振る。それからふと顔を上げ
「あれ? 浩太くん、私が筆箱なくしたこと知ってるの?」
「昨日、鈴から電話で聞いた」
「電話?」
なんでわざわざ、とぽかんとして呟く私は無視して、浩太くんは教室に入ってきた。それからさっきの私と同じように机の引き出しを覗き込むと
「だいたい、いつなくしたんだよ、筆箱」
「それがよくわからなくて……昨日の二限目が始まる前に、気づいたんだけど」
「じゃあ一限目まではあったのか」
「それもよくわからないの。昨日の一限目、体育だったから……」
口の中でもごもごと呟いていると、浩太くんは思い出したようにこちらへ視線を戻し
「じゃあ昨日は筆箱なしで過ごしたのか?」
と訊いてきた。私が頷くと、彼はちょっと眉を寄せて質問を重ねる。
「大丈夫だったのか? ちゃんと誰かに貸してもらえたか? シャーペンとか」
昨日の鈴ちゃんと同じことを尋ねる浩太くんに、私も笑って昨日と同じ答えを返す。
「うん、永原くんが貸してくれた。あ、ちゃんとお礼も言えたよ」
先日の浩太くんの言葉を思い出して急いで付け加えておいたけれど、今回彼が反応した部分は違った。
「なに、また永原に借りたの?」
驚いたようにそう聞き返す彼に、私は、うん、と頷いたあとで
「あっ、でも別に、ただ永原くんが私が筆箱なくて困っているのに気づいてくれたから、なんとなく流れで貸してもらえただけっていうか、別に私が特別永原くんと仲が良いとか、そんなことはなくて」
あわてて付け加えていると、浩太くんはきょとんとして、「別になにも聞いてないだろ」と不思議そうに呟いた。
「てか、永原と仲良いなら仲良いでいいじゃん。そんな否定しなくても」
「いや、だって」
昨日の鈴ちゃんの言葉を思い出してなんとなく口ごもってしまっていると
「ああ、鈴に遠慮してんの?」
浩太くんはすぐに察したように、そう言って笑った。
私は驚いて、へっ、と素っ頓狂な声を上げる。
「え、浩太くんも知ってたの? 鈴ちゃんから聞いたの?」
「いや、直接には聞いてないけど。見てりゃわかるよ。とくに最近はさ、お前が永原とよく喋るようになったから、あの二人なんで急に仲良くなったのかな、もしかして付き合ってるとかじゃないよね、とかずーっとぶつぶつ言ってきて、ちょっとうっとうしかったもん。あいつ」
そう言いながらも、浩太くんはひどく穏やかな顔で笑っていた。
「そ、そうなんだ」となんだか申し訳ない気分になって相槌を打つと
「つーか、まず歩美が、俺らに何の相談もなしに誰かと付き合うなんてことはあり得ないから、心配するなって言ったんだけど」
浩太くんは何の迷いもない口調でそんなことを言い切っていた。
だけどたしかにそのとおりな気がしたので、「そうかも……」と私が苦笑しながら頷けば
「そんなことより筆箱だろ、今は。他にどっか心当たりないのか?」
と、浩太くんはあっさり話題を戻した。
心当たり、と私が記憶を辿ろうとしていると
「移動教室のときに、そこの教室に忘れてきたってことは?」
「ないと思うけど……一昨日、家に帰ったときはちゃんと筆箱あったし」
「でも他にあり得そうな場所ないんじゃねえの。一応探してみれば。もしかしたらもしかするかも」
言われて、たしかにそうだ、と頷いた。それからあらためて、一昨日の時間割について思いを巡らせてみた。
「一昨日移動教室だったのは理科と美術だけだから……あるとしたら、理科室か美術室のどちらかだと思う」
「そっか。じゃあ俺、理科室見てくるから、お前は美術室な」
浩太くんはさばさばとした調子でそれだけ言って、さっさと踵を返していたので、私はあわてて「あ、ありがとうっ」と彼の背中へ声を投げた。
まだ始業時間までだいぶ時間があるため、廊下も人通りはまばらで、校舎は全体的に静まりかえっていた。
そのおかげで、廊下の向こうから聞こえてきたさほど大きくないピアノの音色も、しっかり耳に届いた。
美術室に入ろうとしていた足を思わず止める。それからふと廊下の奥へ目をやった。
音色は第二音楽室のほうから聞こえていた。耳を澄ます。流れるようなテンポで、しかしどこかゆったりと紡がれているのは、知らない旋律だった。春のひだまりみたいに、優しく、暖かな。
気づけば、私は吸い寄せられるようにふらふらと音楽室のほうへ向かっていた。
その間に、メロディーはしだいに物悲しいものへと変化していく。かと思えば、途端に穏やかな旋律は消え、代わりに低音と高音が重なり連なった、激しい旋律が現れた。
自然と、唇から感嘆のため息がこぼれる。ピアノには疎い私でも、この曲が難しい曲だということくらいはわかる。いくつもの音が重なった華やかなメロディーは、速いテンポで畳みかけるように続いていく。
それを聴いているうちに、ふと好奇心が湧いてしまった。見ると、音楽室の戸は閉められていたけれど、横の窓がほんの少し開いている。
ちょっとだけ迷ったけれど、結局じわじわと膨らんだ好奇心に押され、私はそこからそうっと中を覗いてみた。
途端飛び込んできた思いがけない顔に、思わず声が漏れる。
「あ……」
音楽室に一つだけ置かれたピアノの前、座っていたのは永原くんだった。
楽譜は暗記しているのか、真剣な表情で手元の鍵盤にだけ目を落としている。その間も、メロディーはつまずくことも音を飛ばすこともなく進んでいく。
ふいに昨日聞いた鈴ちゃんの言葉を思い出した。本当に上手だったんだな、と頭の隅でぼんやり思い、そして考える。
鈴ちゃんはこの曲を聴かせてもらったのだろうか。鈴ちゃんのためだけに、演奏してもらったのだろうか。
思い至った途端、急に目が眩むほどの羨望を感じた。
一つ息を吐く。ちらと顔を確認したら離れるつもりだったのに、足はその場に釘付けにされたかのように動かなくなってしまった。顔を壁へ寄せ、流れる美しい旋律にじっと耳を傾ける。そうしてそっと目を閉じようとしたとき
「歩美?」
急に後ろから怪訝気な声が掛かり、思い切り心臓が跳ねた。
弾かれたように振り向けば、廊下の向こうから浩太くんが歩いてきていた。
「なにしてんだよ、そんなとこで」
眉を寄せてこちらを見つめる彼に、心底焦ってしまった私は
「なっ、なんでも! なんでもないっ」
と思わず大きな声を上げてしまった。その声は音楽室にいる永原くんにまで届いたらしく、唐突に音色が途切れた。
はっとして振り返る。演奏を止めた永原くんは、鍵盤を追っていた視線を上げ、まっすぐにこちらを見ていた。窓のわずかな隙間を通して、だけどはっきりと目が合う。
あ、とまた間抜けな声が漏れた。一気に顔が熱くなる。
そのまましばし目を逸らすこともできずに永原くんのほうを見つめ続けていたら、驚いたような顔をしていた彼が、ふいに笑みを浮かべた。いつもと同じ、柔らかな笑みだった。
途端我に返った私は、急いで視線を逃がし、浩太くんのほうに向き直る。浩太くんはさっきと同じ怪訝そうな表情のまま、こちらを見ていた。
「理科室にはなかったぞ、筆箱。美術室はどうだった?」
その言葉で、私はようやく自分が本来ここへやって来た目的を思い出した。
「あ、ああ、それが」早口に答えながら、あわてて彼のもとへ歩いていく。
「まだ探してなくて……今から行くところ」
「はあ? 何してたんだよ今まで」
「ご、ごめんなさい」
もごもごと謝りながら、浩太くんと一緒に美術室へ向かう。
その途中で、ふたたび演奏が始まった。背中を追ってくるメロディーに引っ張られるように、ふと音楽室のほうを振り返る。聞こえてきたのは、先ほどと同じ曲だった。
重厚な低音の連なりにまた意識をさらわれかけたとき、「歩美?」という浩太くんの怪訝気な声が再度飛んできて、あわてて止めかけた足を前へ進めた。
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