第4話 筆箱

 筆箱を忘れたことに気づいたのは、二限目の授業が始まる三分前のことだった。一限目の授業は体育で筆箱を取りだす必要がなかったため、それまではまったく気づかなかった。

 昨日の夜宿題と一緒にちゃんと入れたはずだけどなあ、と首を捻りながら、鞄の奥を覗き込む。

 見あたらないとわかっても、未練がましく鞄の中に入っていた教科書やノートをすべて引っ張り出してから、あらためて鞄の底を探ってみたが、やはり目的のものは見つけられなかった。


 どうしよう、と心の中で呟いて、周りを見渡す。

 とりあえず誰かにシャーペンだけでも借りなくちゃと思ったけれど、ろくに話したことのないクラスメイトにそんな頼み事をする勇気もなかった私は、けっきょく隣のクラスの幼なじみのもとまで借りに行くことにした。

 時計を見ると授業が始まるまであと一分もなかったので、急いで立ち上がり早足に後方の戸まで歩いて行く。そして速度を緩めないまま戸をくぐろうとしたら、ちょうどそのとき永原くんが教室に入ってきた。

「わっ」

 ぶつかりそうになり、あわてて足を止める。「うわっ」と永原くんも驚いたように声を上げていたので

「ご、ごめんなさい」

 早口に謝ってから、彼の横をすり抜け教室を出ようとすると

「どうしたの。もう授業始まるよ?」

 と、背中に永原くんの不思議そうな声が掛かった。

 私は顔だけ彼のほうを振り向いて

「あの、筆箱忘れちゃったから、二組に借りに」

「筆箱?」

 うん、と頷いてまた歩きだそうとしたところで、「それなら」とふたたび永原くんの声が掛かる。

「おれが貸すよ。シャーペン借りに行こうとしてるんだよね?」

 え、と彼のほうを振り向けば、永原くんは私の答えを待たずすでに踵を返していた。少し迷ったけれど、廊下の先にちらっと先生の姿が見えたので、私も彼に続いて教室に戻る。

 永原くんは筆箱を少し探ったあとで、一本の青いシャーペンを取り出した。「はい」と笑顔でこちらへ差し出されたそれを、「あ、ありがとう」とあわててお礼を言いつつ受け取れば

「今日一日、借りてていいよ」

 永原くんはそう付け加えてから、ふたたび筆箱の中を探り始めた。

「い、いいの?」

「うん、もう一本持ってるし。――あ、あった」

 そう言って永原くんが次に取り出したのは、消しゴムだった。きょとんとする私に、彼はそれも当然のように差しだし

「これもないと困るよね?」

 と言った。私は驚いて、「い、いいの?」ともう一度聞き返す。うん、と永原くんはいつもの柔らかな笑顔で頷いた。

「おれ、消しゴムも二つ持ってるから。ああそうだ、なんか色ペンも一本はあったほうが……」

 呟きながらさらに筆箱を探る彼に、私はあわてて「これだけで充分だよ」と言おうとしたのだけれど、それより先に永原くんが「あ、あった」と声を上げた。

「はい」

 にっこり笑って、彼はさらに私の手に赤ペンを追加する。

「でも」と私が口を開こうとしたところで、永原くんは遮るように「あ、倉田」と教室の入り口を指さし

「先生来たよ。早く戻んないと」

 へっ、と後ろを振り向けば、たしかに二限目の授業の先生が教室の戸をくぐるところだった。

 私はあわてて永原くんのほうを向き直ると

「あの、じゃあ、借ります。ありがとう」

 早口にそれだけ告げて、自分の席に戻った。


 永原くんのおかげで、二限目の授業は問題なく受けることができた。

 だけどいくら永原くんでも、たぶん赤ペンは一本しか持っていなかっただろうから、永原くんは赤ペンが使えなくて困ったんじゃないだろうか、と授業中そのことばかりが気に掛かっていた私は、けっきょく、二限目の授業が終わるとすぐに永原くんの席へ向かった。

「あの、永原くん、これ」

 おずおずと今し方借りたばかりの赤ペンを差し出せば、永原くんはきょとんとして私の顔を見た。

「やっぱり、これはいいよ。シャーペンさえあれば大丈夫だから」

 言って、「あの、でも、わざわざありがとう」と急いで付け加えておく。

 すると、永原くんはすぐになにかを察したように笑った。それから、「いや、いいよ」と差し出された赤ペンを押し戻し

「おれさ、実は赤ペンも二本持ってんだよね」

 そう言って、筆箱からもう一本赤ペンを取り出してみせた。

 私はちょっとびっくりして、「なんで二本も?」と思わず聞き返す。

「なくしたり、急につかなくなっちゃったときのための予備で」

「準備いいね」

 見るとどちらの赤ペンもインクはまだ充分に入っていたから、感心してそんなことを呟く。永原くんは「まあね」と少しだけ照れたように笑ってから

「だからそれも借りてていいよ。おれ、全然困らないから」

 そう言って、私の手に赤ペンを戻した。

 私は少し迷ったあとでそれを受け取ると、自分の手元を見つめていた視線を上げる。するとすぐに目の前の永原くんと目が合った。

 途端視線を逸らしたくなったのはなんとか堪え、まっすぐに彼の顔を見据える。そうしてそのまま視線を外さないよう気をつけて、口を開いた。

「――あり、がとう」

 どういたしまして、と永原くんは笑った。

 いつもと同じその穏やかな笑顔を見つめながら、この間から永原くんにはこの言葉ばかり言っている気がするな、と私はぼんやりそんなことを考えた。



 放課後、明日まで借りていてもいいよと言ってくれた永原くんに、家にはあるから大丈夫だと首を振ってシャーペンや消しゴムを返してから、私は教室を出た。

 けれど、家に帰ってから自分の机を探してみても、筆箱を見つけることはできなかった。

 リビングやら和室やら心当たりのあるところはすべて覗いてみたけれど、けっきょくどこにも見つからず、首を捻る。もしかして、見つけきれなかっただけでやっぱり教室の机の引き出しの奥にでも埋もれていたのだろうか。あまり自信はもてない考えだったけれど、家にないとなればそれ以外に思い当たる場所もないため、明日の朝もう一度教室を探してみることにした。


 ともあれシャーペンぐらいはないと困る。もしかしたら教室でも筆箱は見つけられないかもしれないので、というよりその可能性のほうが高い気がするので、私は近所の文房具店まで出かけた。

 今日永原くんから借りた三点セットさえあれば、とくに問題なく授業は受けられることがわかったので、とりあえずその三点だけは買っておくことにする。

 ずらりと並んだシャーペンの中からめぼしいものを探していると

「あれ、歩美ちゃん?」

 後ろから、聞き慣れた高い声がした。

 振り向くと、少し離れた場所に鈴ちゃんが立っていた。

 目を細めてこちらを見ていた彼女は、私の顔を認めると「あ、やっぱり歩美ちゃんだった」とにっこり笑い、こちらへ歩いてくる。


「偶然だねー、なにしてるの?」

 そう尋ねる鈴ちゃんの腕には、数冊のノートが抱えられていた。学校帰りらしく、制服を着ている。

 彼女は私から答えを聞くより先に、私の手元に目を留め

「ん? シャーペン買うの?」

 と不思議そうに首を傾げた。私が頷くと、彼女はちょっと怪訝な表情で質問を重ねる。

「でも歩美ちゃん、この前も新しいシャーペン買ったって言ってなかった?」

「あ、うん。それがね、筆箱をなくしちゃったみたいで……」

 苦笑しつつ返すと、ええっ、と鈴ちゃんは大きな声を上げた。

「大変じゃん。いつ?」

「よくわからないんだけど、今日、鞄の中に筆箱が入ってなくて、帰ってから家を探してみたんだけど、家にもなくて」

「え、じゃあ歩美ちゃん、今日一日筆箱なくて困ったんじゃない? 大丈夫だった? ちゃんと誰かに借りられた?」

「うん、永原くんが貸してくれた。シャーペンと消しゴムと、赤ペンまで」

 心配そうに訊いてくる彼女に笑ってそう答えると、鈴ちゃんは目を丸くして私の顔を見つめた。長い睫毛を揺らし、何度かまばたきをした彼女は

「また永原くん?」

 と、驚いたように聞き返す。

 その声がほんの少し強張っていたようだったから、私がちょっと戸惑い気味に頷くと


「……歩美ちゃん、さ」

 しばしの考え込むような沈黙のあとで、鈴ちゃんはゆっくりと口を開いた。

「最近、永原くんと仲良いよね」

 何と返せばいいのかよくわからず、そうかな、と曖昧な相槌を打つと

「昨日、永原くんと一緒にお弁当食べてたでしょ、歩美ちゃん」

 出し抜けにそんなことを言われ、私はちょっと驚いて鈴ちゃんの顔を見た。

「なんで知ってるの?」

「実はね、昨日の昼休み、話し合いが思ったより早く終わったから、そのあとで一組に行ったんだ。歩美ちゃんと一緒にお弁当食べようと思ったんだけど、なんか歩美ちゃん、楽しそうに永原くんと喋ってたからさ、これは邪魔しないほうがいいかと思って、声掛けずに戻っちゃったんだけど」

「え……そうだったんだ」

 なんとなく恥ずかしくなって視線を彷徨わせていると、鈴ちゃんはじっと私の顔を覗き込み

「歩美ちゃん、この前は永原くんに傘借りたって言ってたよね」

「う、うん」

 間近に見る黒目の大きさに、私が思わずたじろいでいると

「前は別にそんな喋ったりしてなかったよね、歩美ちゃんと永原くん。なんで最近、急に仲良くなったの?」

「なんでって」困惑して、彼女の言葉を繰り返す。

 意味もなく頬を掻きながら、とりあえず目の前の大きな瞳を見つめ返せば、ふいに鈴ちゃんはぱっと頬を染めた。

 一拍置いて、困ったように眉を寄せる。それから視線をあちこち漂わせ始めた彼女を、私がぽかんとして眺めていると


「ね、歩美ちゃんって」

 しばし迷うように口ごもったあとで、鈴ちゃんはためらいがちに口を開いた。

「永原くんとは、友達、なのかな? ただの。友達ってだけ?」

 いつもの鈴ちゃんらしくない、もたついた口調だった。言葉を継ぐたび、彼女の頬はますます赤く染まっていく。

 私は首を傾げつつ、うん、と頷こうとしたけれど

「……え」

 ふいに思い当たり、気づけば、質問に答えるより先に喉から声がこぼれ落ちていた。

「あ、もしかして鈴ちゃん、永原くんのこと」

 好きなの、と何とはなしに尋ねようとした声は、「ああっ、そうだ歩美ちゃん!」という鈴ちゃんのあわてたような大声に遮られた。

 途端、側にいた他のお客さんから不審そうな視線が飛んできたけれど、鈴ちゃんに気にする余裕はないようだった。手に持っていたノートを意味もなくぶんぶんと振りながら

「今から、うち来ない? そういえばこの前ね、親戚のおばさんから高菜もらったんだよ」

 高菜、と怪訝気に彼女の言葉を繰り返してしまった私にはかまわず、「それとね」と鈴ちゃんは早口に続けた。

「ちょっと相談したいこともあるし」

 ついでのように付け加えられたけれど、そちらのほうが本題らしいことはよくわかった。

 私が頷くと、鈴ちゃんは頬を染めたまま軽く目を伏せ、はにかむように笑う。幼なじみの見慣れぬその仕草はなんだかびっくりするほど可愛らしくて、不思議と、それだけで十分に彼女の用事を察することができてしまった。

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