第2話 折りたたみ傘
「倉田さーん」
高い声に呼ばれて顔を上げると、ふわっとした甘い匂いが鼻を掠めた。
クラスで唯一、彼女だけがつけている香水の匂い。いい匂いなのはたしかだけれど、ずっと包まれていると酔いそうだとぼんやり思う。
見上げると、ぱっちりとした大きな瞳がこちらを見つめていた。その強い視線はなんとなく苦手で、私はまた視線を逃したくなるのを堪えるのに必死になる。
「な、なに?」
「今日提出の数学の宿題、倉田さん、やってきた?」
その言葉だけでだいたい彼女の用事を察することはできた。
とりあえず、やってきたけど、と頷けば
「あたし、忘れちゃってさー。ね、写させてもらってもいい?」
彼女はそう言って、人懐っこい笑顔を浮かべてみせた。
その笑顔は本当に可愛らしくて、彼女がクラスの人気者なのもしみじみと納得してしまう。だけどどうしてか、私はあの笑顔が苦手だった。
きっと、小学校の頃の気が合わなかったクラスメイトとどことなく似ているからだろう。明るくて、はきはきしていて、ちょっと気が強くて。自分の意見をはっきり言う子だったから、私みたいなうじうじしたタイプは見ているだけで苛ついたのだろうな、なんて思い出していたら少し気持ちが落ち込んできて
「あ、うん。いいよ」
私は早口に頷いて、鞄から数学のノートを取り出した。そうして彼女に差しだそうとしたところで
「あ、でも間違ってるところあるかも……」
ふと不安が湧いて呟くと、彼女は「全然いいよ」と私の言葉が終わらないうちに明るく首を振った。それからぱっと私の手からノートを受け取り
「ありがと! 二限目までには返すね」
と言って、くるりと踵を返した。香水の華やかな匂いだけを残して、彼女は自分の席へ戻る。するとすぐに彼女の席の周りには数人のクラスメイトが集まった。
「倉田さんからノート借りちゃったー」と席を囲む友人たちに報告する彼女の声をぼんやりと聞きながら、膝の上に置いていた鞄を机の横に掛けたとき
「歩美」
背後から急に名前を呼ばれて、思わずびくっと肩を揺らしてしまった。
振り向くと、浩太くんが私のすぐ後ろに立っていた。
「こ、浩太くん。どうしたの?」
私の質問には答えずに、浩太くんは少し眉を寄せて、窓際に座るクラスメイトのほうへ目をやる。「あれ」と言われ、私も彼の視線の先を辿ると、今し方私が数学のノートを貸した女の子がいた。
あの子がどうしたの、と聞き返そうとしたところで、浩太くんはふっとこちらへ顔を寄せ
「お前、またノート貸したの?」
低い声でそう尋ねてきた。
彼の表情が険しかったから、「う、うん」と頷く声がちょっと尻すぼみになる。
「忘れちゃったから、写させてって言われたから」
言うと、浩太くんは強く眉をひそめ
「前もそうやって貸して、結局返ってこなくて困ってたことあっただろ、お前」
「今度は大丈夫だよ。二限目までには返すって、言ってくれたし」
私が笑ってそう返すと、浩太くんは大きなため息をついた。「お前さあ」呆れたような声が続く。
「前から言ってるだろ。嫌なことはちゃんと断れって。そうやって頼まれたらすーぐ何でも引き受けるから、だんだんみんな調子乗るんだよ」
「でも私、ノート貸すのは別に嫌じゃないから……」
「一回二回ならいいけど、そのうちエスカレートするだろ、ああいうのは」
強い口調で言い切られ、私は言い返せずに口ごもる。
浩太くんが心配してくれているのは、実際小学校のときに、私の断れない性格のせいで困った事態になってしまったことがあるからだろう。
最初は「宿題を写させて」から始まったのだけれど、だんだん掃除当番やら運動会の実行委員まで頼まれるようになってきて、さすがに疲れてしまったのだ。
あのときは浩太くんと鈴ちゃんが同じクラスにいたから二人に助けてもらえたけれど、今あのときと同じような事態になったら、たしかに困るかもしれない。
「本当に嫌なことは、ちゃんと断るように、するから」
苦し紛れにそれだけ言うと、浩太くんはいかにも半信半疑という表情で相槌を打った。
私は気を取り直すように、「それで浩太くん、どうしたの?」と再度尋ねる。
「ああ、あのさ」と彼は思い出したように口を開いたけれど、ちょうどそのとき教室の戸をくぐったクラスメイトに目が留まった私は、あっ、と思わず声を上げていた。
「ご、ごめん浩太くん」とあわてて続ける。
「ちょっと待ってて」
早口に告げながら、私は鞄から折りたたみ傘を引っ張り出した。それをしっかりと握ったまま急いで立ち上がる。拍子にまた腕を勢いよく机にぶつけてしまったけれど、かまっていられず、私は今し方教室に入ってきたクラスメイトのもとへあわてて駆け寄った。
「な、永原くんっ」
口を開くと、また思い切り緊張した声が出てしまった。
振り向いた永原くんは、いつもと同じ柔らかな笑顔を浮かべ、「倉田」と私の名前を呼ぶ。
「おはよ」
「お、おはようっ。あの、永原くん、これ――」
おずおずと傘を差し出し、早口に続ける。
「本当に、ありがとう。助かりました」
永原くんは穏やかに笑うと、どういたしまして、と言って傘を受け取った。
彼が傘を受け取るなり、私は、あのっ、と昨日からずっと気に掛かっていたことを尋ねるため、急いで口を開く。
「風邪とか、ひかなかった?」
「全然大丈夫。おれ、体は丈夫だから」
あっけらかんとした調子で返された言葉に、そっか、と私は深く息を吐く。
「それなら、よかった。自分のせいで風邪ひかせちゃったらどうしようって、私、ずっと心配で……」
私が心の底から安堵して呟くと、「大袈裟だなあ」と永原くんはおかしそうに笑った。
それから永原くんと少し会話を交わしたあとで自分の席へ戻ると、浩太くんが目を丸くしてこちらを見ていた。
「なにお前、永原に傘借りてたの?」
やたら驚いたように尋ねられ、私はちょっと戸惑いながら頷くと
「傘持ってきてなくて困ってたら、永原くんが、自分の家は近いからって、貸してくれたの」
「ああ、そういや昨日傘忘れたって言ってたな、お前」
浩太くんはため息混じりに呟いたあとで、はっとしたように私の顔を見て
「ちゃんとお礼は言ったか? 永原に」
真面目な顔でそんなことを聞いてきた。
浩太くんの口調が、からかうでもなく本気で心配そうなものだったから、私はちょっと憮然としてしまう。
「い、言ったよ、ちゃんと。それより浩太くん、なにか用事があって来たんでしょ?」
妙に恥ずかしくなって早口に返せば、浩太くんは「ああ、そうだった」と呟いて
「今日さ、一緒に弁当食べられないから」
と言った。え、と私が思わず情けない声を漏らしてしまうと
「ごめん。昼休み、クラスで話し合いすることになってさ」
「話し合い? 何の?」
「もうすぐ担任の誕生日だから、サプライズでなんかやろうってことになって、それの話し合い」
思いも寄らない話に、へえ、と私は声を上げた。
「すごいね、先生のためにそんなことするんだ」
「まあ、そういうのが好きなやつが何人かいて、そいつらがやたら張り切ってるだけなんだけど」
あからさまに面倒くさそうな口調でぼやく浩太くんに、苦笑する。
それから「でもいいなあ」と呟けば、「いいか?」と浩太くんに怪訝そうに聞き返された。うん、と私は大きく頷いて
「なんだか楽しそう。先生、すごく喜ぶだろうね」
言いながら、ああ私もやっぱり二組がよかったな、なんて改めて思う。
まあ、きっと私が一番うらやましく感じているのは、先生のためにサプライズを用意しようというみんなの優しさより、二組には浩太くんと鈴ちゃんがいるという部分なのだろうけれど。
「あ、じゃあ鈴ちゃんも昼休みは忙しいの?」
「うん、鈴も話し合いだから」
「そっか……」
それなら今日は一人でお弁当を食べることになるのか、とにわかに気分が落ち込んできたけれど、浩太くんが心配するから顔には出さないよう気をつけた。一つ息を吸って、「わかった」とできるだけ明るい口調になるよう努めて頷く。
浩太くんは少しほっとしたように表情を解すと、もう一度「ごめんな」と繰り返してから、私の席を離れた。
すると、そのまま教室を出て行くかと思った彼が、なぜか永原くんの席のほうへ歩いていったから私はぎょっとしてしまった。
まさか、と嫌な予感がしつつ彼の行動を見つめる。思ったとおり、浩太くんは永原くんのもとへ歩いていくと、「昨日、歩美に傘貸してくれたって?」と彼に声を掛けていた。
恥ずかしくなり、私は頭を抱える。お礼ならちゃんと言ったって言ったのに、と心の中で叫んでいると
「歩美ちゃーん」
ふたたび真後ろから私を呼ぶ声がして、振り向いた。今度そこに立っていたのは、鈴ちゃんだった。
「鈴ちゃん。どうしたの?」
尋ねると、鈴ちゃんはぱんっと顔の前で手を合わせ
「ごめん歩美ちゃん。実はね、今日、一緒にお弁当食べられないの」
心底申し訳なさそうに、今し方浩太くんから聞かされたことと同じことを言った。私は苦笑して、うん、と頷くと
「さっき浩太くんから聞いたよ。話し合いがあるんだよね」
「え、なんだ、そっか」
鈴ちゃんもちょっとだけ笑って、ふっと教室を見渡す。そして教室の後方で永原くんと話し込んでいる浩太くんを見つけると、「あ、ほんとだ。こうちゃん」と呟いた。
それから不思議そうに首を傾げ
「永原くんとなに話してるんだろ」
と呟いていたので、私は指先で頬を掻きながら「あのね」と口を開いた。
「私がね、昨日永原くんから傘を借りたから、多分それで。私の代わりにお礼を」
言ってくれてるんだと思う、という私の言葉が終わらないうちに、鈴ちゃんは「えっ」とびっくりしたように声を上げた。
ばっと勢いよくこちらを振り向く。くりっとした大きな目をよりいっそう大きく見開いた彼女に見つめられ、私がちょっと困惑していると
「歩美ちゃん、永原くんに傘借りたの?」
「う、うん」
意気込んだ調子で聞き返され、なにかまずいことを言っただろうかと私が焦りかけたとき
「ちゃんと、永原くんにありがとうって言えた?」
鈴ちゃんまで、大真面目にそんなことを聞いてきた。
私は反応に迷って、しばし無言で彼女の顔を見つめる。
もしかしてここは怒ってもいいところなのだろうか、なんてちらっと考えてみたけれど、目の前の鈴ちゃんの顔が何の他意もない心底心配そうなものだったから、結局「……言えたよ」と力無く笑って答えることしかできなかった。
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