第10話 近づく別れ
「ふー、すっきりした」
「はいはい良かったね」
絞れるだけ絞り取られ、張り込みどころか布団の上で動けなくなった。汚れた服は洗って乾燥機にかけてくれるらしい。遠慮なく頼むことにした。こうなったのは葵が悪い。そう伝えても、葵は幸せそうに笑うだけで、俺が悪者みたいに見える。
「張り込みの心配はしなくていい。後は俺がやるから」
「うん……頼む。身体に力が入らない」
「リンってひとりでしないの? すっごい出たけど」
「生々しい言い方止めてよ……あまりそういう欲って薄いんだよ。葵は濃すぎる」
「あはは」
俺たちは友達の境界線が崩壊している。けれど間にある線の太さや距離感を聞かれても上手く答えられない。
「リン、キスしよっか」
散々扱き合ったのに、唇は合わせないまま行為に及んでいた。俺たちは若いし、夢中になっても仕方ない。
舌を絡ませ、吸い付きながら音を立てて離れていく。もっとほしいとねだれば、葵は頭を傾けて近づいてくる。
葵は頭を数回撫で、もう終わりだと告げる。俺は熱のこもった身体を休めるため、布団に横になった。
葵は望遠鏡を覗いていたが、いきなり顔を上げて振り返った。太陽の光を味方につけた男は、シャツから覗く腕がたくましく、意外と力が強い。
「寝てていいよ」
「張り込みするって言ったのに」
「元々、俺ひとりでするつもりだったから。リンとふたりきりになると抑えがきかないし、こうなると思ってた」
「葵は……さ……、」
自分の感情ばかり考えすぎて、葵の気持ちを優先させられなかった。俺とキスもして、彼は俺のことをどう思っているのだろう。
「ん?」
頭をぽんぽんする手がいやに優しい。親の手よりも大きくて、厚みがある。
慈しむ手つきに泣きたくなる。俺がほしいと思った言葉はくれなくて、きっと葵はこのままの関係を望んでいる。俺はそれに答えたいが、葵にキスされて抱きしめられるたび、名前のつけられない関係は苦しくなってくる。うまく呼吸ができない。
「葵は……俺に入れなくていいの?」
唐突のとんでもない質問に、葵の眉毛は上がった。
「入れるだけがセックスじゃないよ。それとも、リンはほしいの?」
「……苦しくて、もやもやする」
張り込みは放棄し、葵も俺の隣に横になった。彼の匂いがいっそう強くなり、たまらず足を絡めて背中に手を回した。
「リンとたくさんの想い出を作って、花火も観て、旅行もしたい」
「うん……でもそんな寂しいこと言われると、つらい」
「リン……リン。大丈夫、眠いなら寝ていいよ。張り込みは俺がする。必ず犯人を捕まえる」
「どんな生徒なんだろうな……学校でタバコなんて……」
「そうとは限らないよ」
俺は、瞼が閉じる直前にした会話もろくに覚えていなかった。眠気との戦いのせいで、葵がどんな顔をしていたのかもおぼろげで、そのまま意識を手放してしまった。
眠気に負けた俺は、オレンジ色の光の中で目を覚ました。なかなか頭が覚醒しないが、夕方なのは理解できる。
またおかしな夢を見てしまった。今度は葵の夢で、例の幽霊屋敷にふたりで潜入し、崩れ落ちる瓦礫から俺を守り、葵だけが下敷きとなる夢だ。葵に強く横腹を押されて俺は吹っ飛ばされ、間一髪助かる夢。恐ろしかった。瓦礫から腕だけ出た葵は必死の呼びかけに安心するよう俺の手を強く握るが、次第に力が抜けていき、冷たくなっていく。逆なら良かったのに、と泣き叫んで流れた涙は葵の冷たい手を濡らした。
「葵……?」
本人がいない。だがテーブルの上にはメモ書きがあり『すぐに戻る』と葵の字だ。
夢は夢だが、どうにも落ち着かない。餌待ちのトラみたいにうろうろしたり、布団でごろごろしても帰ってくる気配はない。外の階段の音もしない。
玄関に行ってみると、ポストに封筒が挟まっていた。
「……佐藤葵様?」
水瀬ではないのは本人から聞いたが、佐藤なのか? 隠したがる珍しい名字でもないのに、なぜ教えてくれないのか。
まもなく葵は帰ってきた。顔はほんのり赤く、首筋に流れる汗に喉が鳴った。俺の手の中のものをむしり取ると、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「偽名なのは聞いたけど、同じ名字なの? 別に普通に佐藤ですって言えばいいのに」
「あ、いや……これは……」
なんだこの反応は。今まで見てきた俺の知っている葵じゃない。いつもは飄々としていて、微笑みの貴公子らしく笑顔で人をいなすようなタイプの男が。顔が赤いのは、真夏の気候のせいだとは言わせない。
「まさか……」
「……ごめん」
「待って、ねえ待って。なんのごめん?」
「若気の至りってやつですよ……」
「水瀬も佐藤も偽名なの?」
「………………はい」
「そ、そう……」
気まずい。数ある名字の中で、彼は佐藤を選んだ。
「佐藤に憧れがあったんだ」
「珍しくもかっこよくもないのに……」
「これからは佐藤って名乗っていい?」
「う、うん……でも本名知りたいかな」
「名字なんてあってないようなものだよ。葵が本名なのは変わりない」
いつもの葵に戻った。意地でも言うつもりはないらしい。
葵は封筒をテーブルに裏返しておき、冷房の温度を下げた。
封筒の裏の住所は、聞いたことのない村の名前が書いてある。
「封筒の中身は気になるだろうけど、まずは学校の話でもしようか」
「学校……そうだ、タバコ!」
「無事に解決したよ」
「え……」
葵はデジカメに画像を写し、俺に見せた。
学校の屋上で、中年の男性が空を見上げている。手にはシガレット。写りはあまりいいとは言えないが、どうみても証拠となりえる代物だ。
「生徒じゃなかったんだ……」
「タバコの種類からして、軽いものじゃなかったしね。いくら生徒でも、まだ高校生で重いものは吸わないんじゃないかって考えたんだ。それに職員室では今年から禁煙になったから、我慢できなくなった教師が屋上で吸ってもおかしくないと思った」
「なんでタバコに詳しいのさ?」
「ふふ、どうしてだろうね? ちなみに俺は吸ってないよ」
「葵からはタバコの臭いはしないし、それは分かるけどさあ……」
「長期間にならなくてよかった。勉強もできなくなるし、何より旅行に行けなくなる」
「そんなに楽しみにしてたんだ……」
「リンは? 楽しみじゃない?」
「楽しみだよ、本当に」
「良かった」
心底嬉しそうな、ほっとした表情で俺の隣に座る。
「解決して良かったけど……なんか腑に落ちない。生徒だって決めつけて、教師かもしれないって視野に入れなかった視界の狭さというか……。こんなんで探偵になれるのかなあ」
「なれるよ」
「はっきり言うなあ……嬉しいけどさ」
「知っているから」
空気が張りつめ、お互いの息の音しか聞こえない。
葵は空気と一体化したみたいに見えた。足から下が映らなくなるような、すぐに消えてしまうような。俺は手を伸ばして、頬に触れる。
「いなく……ならないよね?」
「不安?」
「どうしてはっきり答えてくれないの……?」
「それはね、」
俺の手を掴み、葵は手の甲に唇をつけた。今までの優しいキスとは違う、きつく吸い尽くすようなキスだった。
離れていくと、くっきりと赤く跡が残る。痛みからか彼からの愛情からか、胸が締めつけられた。
「リンは俺との記憶はある?」
「あるよ、もちろん」
「今日は何した?」
葵はもう一度俺の手を握り、指先一つ一つにキスを送る。
「ちゃんと言葉にしてほしい」
「たっ……たくさんキスをして……エッチなことをいろいろして……」
「そうだね。リンに入れてほしいってねだられた日でもある」
「ああもう……忘れて」
「本当に? 俺は忘れないよ? それに忘れてしまうのはリンの方だから」
「なんで? 俺忘れないってば」
「忘れるんだ。そういう風に、できている」
「意味が分からないよ」
葵がいつもの葵じゃないみたいに、笑った顔も綺麗だとは思えない。込み上げる感情は恐怖しかない。
何か繋ぎ止める方法はないのか。今しかない。名前のつけられない関係を越える方法は、これしかない。
「俺……葵とセックスしたい。ちゃんと入れてほしい」
「それは……告白と受け取っていいのかな?」
「うん……」
「好きって口にした方が、難易度低いと思うよ?」
葵は噛みしめた笑いを漏らし、俺の太股に手を置いた。
「とある小さな島国で、お祭りが行われる。観光客も集まる小さな村だけど、本当の意味は村人しか知らないんだ。そこに、キミを連れていきたい」
「遠いの?」
「さあ……俺とリンとの距離よりは遠いかな?」
「何言ってんのっ」
葵は笑おうとする俺の唇を塞ぎ、舌を入れてきた。
離れると体液が絡まり、糸が引いた。
「封筒はなんなの?」
「気になってキスにも集中できない感じ? まあいいけど」
葵は棚からアンティークのペーパーナイフを取り出し、封筒に差し入れる。殺風景な部屋のわりにはおしゃれなものを持っている。アンバランスさが葵を表しているようだ。
「……………………」
中に入っていたのは、一枚の紙だった。時代を逆流したような縦書きの文章で、葵の目が上下、右から左へと移る。
大した時間ではないのに、異様に長く感じた。
「さっき話してた島国の住所?」
「ああ。多分、俺の生まれた場所。施設育ちだって話はしたけど、俺は捨てられていたんだ。施設の先生が俺たちが寝静まってから話していたんだけど、俺が包まれていた毛布の中に手紙が入っていて、ここの住所があった」
ここだと、手紙の裏側を指差した。
「こっそり聞いてたんだ」
「そう。その手紙は子供ながら何を書いてあるのか分からなかった。でも先生たちの目を盗んで、棚から手紙を拝借して住所だけは紙切れに控えてずっと持っていたんだ。そこで全部話すよ。俺の正体も、なぜリンに固執するのかも」
「それ、は……」
勝手ながら、俺と葵は同じ気持ちだと思っていた。俺と身体の関係を持つのも、キスをするのも、何かよからぬ理由があるのではと勘ぐってしまう。胸が苦しい。
葵はそっと俺の背中ごと包んだ。震えは不安の証で、彼よりも強い力で抱きしめると、変に固くなっていた身体から力が抜けた。
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