第2話 潜入捜査開始

 昨日の呼び名は嘘だと思いたい。そう願って、教室のドアを開けた。全員俺を見るが、声をかける人はおろか一秒も俺を見ないのはいつものことだ。

「おはよう、リン」

 女子が群がる席から顔を出し、朝っぱらにも関わらず爽やかに微笑む男。

 俺の席に侵入してくる女子たちに気にせず、俺はどっかりと腰を下ろした。

「リン、今日は部活ある?」

「……………………」

「リン?」

 俺は答えることができなかった。後ろを振り向いてお喋りも慣れていない。

 助け船を出してくれたのは、担任だった。入ってきてくれたおかげで、会話を終わらせられた。なんだか胸の奥がもやもやして、これ以上水瀬と話したくなかった。

 この日、一日中彼と話せなかった。放課後を除いては。

 ホームルームが終わって目の前のガラスに目を向けると、後ろの席はもう誰もいない。

 またひとりで数時間、孤独のクラブが始まるが、俺は嫌いではない。自分ひとりで作り上げた達成感は、小さなものでもいつかきっと役に立つと信じている。

「え?」

 空き教室には電気がついている。クラブを立ち上げてから初めてのことだ。

 恐る恐る扉を開けると、帰ったと思っていた人物がポスターの続きを制作していた。

「やあ、今朝ぶり。デザイン考えてみたんだけど、どうかな」

「な、なにしてるの……」

「佐藤はカラフルなのは嫌い? 俺が見たとき、地味なデザインで目に留まらないなって思ったから明るくしてみたんだけど」

 確かに、俺が描いたものよりはるかに良い。派手さはないが、水彩画のような暖かさがある。

「…………佐藤ってなに?」

「もしかしてリンって呼ばれるの嫌なのかと思って。今朝も返事がなかったし。嫌なら佐藤って呼ぶよ」

 なぜ、そうなる。嫌なわけではないのに。これも俺の態度のせいだ。

「違う……嫌なわけじゃ……」

「そう?」

「ただ……その……、みんなの前だったから……」

「恥ずかしかった?」

「……慣れてなくて。あだ名とか、つけられたことないし」

「そっか」

 からかうでもない、ただ頷いた。心地よい反応だった。

「昨日のハンバーグは美味しかった?」

「半分も食べられなくてお母さんに心配された。そっちは?」

「ん? 俺はひとり暮らしだからね。気ままだよ。このポスターでいい?」

 『すべてのお悩みは探偵部まで』と書いているが、具体的には記されていない。

「最初は細かな仕事内容よりも、とにかく人を集めることに集中した方がいいよ。仕事を絞るのはそれから先でも遅くない」

「こういうのしたことがあるの? 随分と慣れてる」

「先を見据える能力があるからね。今だけは」

 ポスターは出入り口のすぐ脇に張り出した。壁の色と同化しない優しいタッチの色合いは、ぱっと見ただけでも目を引いた。

「さて、今日はどうする? このまま待つ? 俺としては、リンに依頼をしたいところだけど。家に行って話してもいいかな」

 呼び方がリンに戻っている。慣れていないのに、妙に懐かしい感じがした。

「リンの家には、今誰がいるの?」

「お母さんがいる。専業主婦だから」

「ご挨拶してもいい? 送っていくよ」

「ええ? なんで?」

「リンに似て美人なんだろうなあ」

「美人って言葉の使い方、間違ってると思う……」

「自覚ないんだ?」

「ひっ……」

 水瀬は俺を壁際まで押しつけ、黒縁眼鏡を抜き取った。身長差が忌々しい。

「ほら、良い顔してる。俺好きだよ。リンの顔も」

「誰にでも言ってる? 慣れてて怖い」

「ひどいなあ。ま、そのうち分かるよ」

 眼鏡を返してもらい、即はめた。僕は自分の顔が好きではない。見た目すべてがコンプレックスだ。伸びない身長も、母に似た顔も。

「水瀬の髪って、」

「え?」

 水瀬の目が見開いた。瞳も髪と同じく、赤みがかっている。

「なに? もう一回」

「……赤みがかった珍しい髪色してるなあって」

「じゃなくて、その前」

 その前……なんだ?

「美人の使い方、覚えた方がいいよ」

「戻りすぎ。初めて名前、呼んでくれたね? 名字だけど」

「他人を名前で呼ぶのは……難しいから。……さっき、俺に依頼って言った?」

「言ったよ」

 水瀬は俺の髪を触り始めた。

 いちいちペースを乱してくる人だ。顔が見られない。

「依頼は、とある場所に潜入して、とあるものを入手」

「なにそれ、潜入捜査なんて探偵っぽい」

「捜査か分からないけどね。どちらかというと、アルセーヌ・ルパンかな」

 何度も読んだ本だ。家の本棚にも並んでいる。名前を見ただけでわくわくするし、同時に高校受験の邪魔にもなった。

「ただし、明るいうちは駄目だ。目立ちすぎる」

「夜ってこと?」

「そう。タイミング良く、明日は休みだ」

 まるで意図したかのようで、武者震いがした。

「いいよ。その依頼受ける」

「そういうところ、とても気に入ってる」

「会って二日目じゃんか。やっぱり誰にでも……」

「言ってないよ。リンだけ」

 綺麗な笑い方だ。心の奥に何かを隠していて、絶対に覗かせないと膜を張っている。

 水瀬はどこに行くか教えてくれなかった。一度家に戻ると家族は帰宅していて、みんな暖かく迎えてくれる。テーブルに並ぶのは、トマトシチューや焼き魚など和洋折衷の夕食だ。

 専業主婦の母と公務員の父、学生の俺と妹。家族に不満なんてない。なのに、数日前からもやもやしたものがずっと頭の中で蠢いている。

「友達はできた?」

「……多分」

「多分ってなによ。連絡先は交換したの? 部活はどう?」

「交換はしたし、部活は……まあまあ。今日依頼があった」

「すごい。頑張ったわね。どんな依頼?」

「んーと……物探し」

 多分、物探しだ。詳しい内容は知らない。詳しくは、今日現地で教えてもらう。

「今度、お友達を連れておいで」

「えっ……なんで?」

「会ってみたいじゃない? 鈴弥のお友達に」

「うー……分かんない。友達って言えるのかな」

 多分、なんとなくだけれど。水瀬はそう思ってくれている気はする。初対面で奢ってくれたり髪の毛を触ったり、ちょっと考えられない行為が多い。

「お兄ちゃんのお友達ってかっこいいの?」

「……モテモテだよ」

「えー、会ってみたい」

「なおさら連れてきたくないよ」

 クラスで常に女子に囲まれてるし、妹まで持っていかれたら大変だ。楽しそうに食事をしていた父も、妹の話になった途端、眉間に皺が寄っている。絶対に連れてくるなよと、威圧的なオーラが出ていた。

 食事を終えて、お風呂も入った。パジャマに着替えつつ、タンスからジーンズと黒のパーカーも出した。ちょうど端末に、午前十二時に待ち合わせだと場所の説明つきで連絡が入る。

 親に内緒で、初めての外出だ。しかもこんなに遅い時間。着替えを済ませてこっそりドアを開け、部屋を出た。近所の家は、カーテンからまばらに光が漏れている。井戸端会議好きの人に見つかる前に、逃げるように場所を離れた。

──着いたよ。

──こっちももうすぐ着く。

 恋人同士のやりとりみたいだ。恥ずかしくて端末をパーカーのポケットにしまう。

 コンビニの前に行くと、水瀬はちょうどアイスを食べ終わるところだった。

「急いで来てくれたんだね。髪が乱れてる」

 俺の髪を手櫛でとかすと、バニラの甘い匂いが漂ってくる。

「恋人同士みたいだね?」

「はあ! はあ! はあ?」

「あは、面白い反応。けど、これからは恋人から世紀最大の大泥棒へと変化だよ。気を引き締めて」

 水瀬の私服は初めてだ。ジーンズに黒のシャツとジャケットで、俺も黒。探偵活動を行うときは、黒や灰など目立たない格好が良いとされている。臨機応変の対応が求められるのが、探偵だ。

「それじゃあ行こうか」

 ふと気づくと数歩先に進んでいる。ほとんど立たない足音は、忍者のようだ。

 大した明るさのない月明かりの下では、先を見据える光は街灯だけだ。成虫なのかさえも分からない羽虫が飛び回り、時折俺たちの回りに紛れ込んでくる。そのたびに水瀬は、近づく虫たちを手で遠ざける。

「アルセーヌ、本日のお宝はこちらです」

 恭しくお辞儀をする水瀬の後ろにあるのは、巷では有名な屋敷だ。

「ちょ……と……待って……」

「壊したくなるほど素敵なお屋敷だね」

「ここなの……嘘でしょ……」

 今は誰も住んでおらず、手入れも行き届いていない大きな屋敷は、不慮の事故で家族が無くなったと聞いている。確か、新聞でも大きく取り上げられた。カメラを持ったマスコミがうろつき、大人たちに近づかないようにと子供たちは聞かされ、誰も近づかなくなった。

 人気のない屋敷は、いつしか幽霊屋敷としてネットでも話題になり始めた。

 水瀬は塀を潜ると、手を差し伸べてきた。人通りがないのを確認すると、冷たい手に触れ、お邪魔させてもらう。

 正真正銘、初めて屋敷に足を踏み入れた。子供の頃は入りたくて入りたくてたまらなかった。今は恐怖心が勝ってしまっている。これでは探偵は務まらない。恐怖心に打ち勝てば、将来に一歩近づく。

「入ったことあるの?」

「道なりに進んでいるだけだよ」

「うう……」

「もしかして、怖いの?」

「…………そんなわけないだろ」

 しまった、棒読みになってしまった。

 水瀬は笑うどころかこちらを振り返り、真顔になる。

「本当に怖いのは幽霊じゃない。生きた人間だ」

「本かドラマかの影響?」

「実体験。幽霊は、救いの手を待ち続けているんだ。人間を不幸に陥れた結果、この世に怨霊が生まれる。入るよ」

 中世を想像させる扉だ。鈍く木の軋む音がして、腹部に嫌なもやが生まれる。胃液が慌ただしく動く感覚が襲う。

 天井にはシャンデリアが人間風情を追い返そうと、大きく身体を広げていた。だが役割はとうにない。壁に備えつけられているランプも埃まみれで、誰かが触れた形跡もない。

「おいで。二階に上がる」

「本当は来たことあるんじゃない?」

「え? ないよ? 足下気をつけて」

 水瀬は携帯端末の明かりを照らし、俺は小型のライトをかざす。

「ひっ……今なんか音しなかった?」

「リン、ライトを外に向けるな。人に気づかれる」

「わ、ごめん」

 ライトの光を小さくし、下に向けた。

「ここの住人は事故で亡くなったらしいけど、親戚とかいなかったのかな。埃の山になってる」

「事故?」

 水瀬の足が止まった。

「そう言われているの?」

「うん……マスコミも来て自由に外を歩けなかったんだから。子供の頃は入りたくて仕方なかったよ」

 水瀬は顎に手を置き、何か考えている。ふと顔を上げ、俺の手首を掴むと後ろに隠した。外で何か音がする。これだけしっかりした建物でも音が聞こえるのは、どこか壁が壊れている可能性がある。

「こちらの音も筒抜けだ。気をつけていこう」

「俺もそう思ってた」

 突き当たりの壁には、蜘蛛の巣が蔓延していた。家主は不在だが、振動が起これば姿を現す。蜘蛛の巣に気を取られていると、水瀬は扉を開けた。扉は古びた音を鳴らした。

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