峠のカナタ

つとむュー

第1話 私を山に連れてって

「ねえ、沢人くん?」

 窓の外を眺めていた石楠さんが、隣の席から俺を振り返る。

「『を』の次って……何だっけ?」

 

 ここは栃木県日光いろは坂。

 カーブごとに『い』『ろ』『は』の標識が立っていることで有名だ。

 日光駅を朝八時四十五分に出発したバスに、俺たちは揺られていた。


「『を』の次は『ん』じゃね?」

「それは『あいうえお』の話でしょ?」

 と言われても、いろはの『を』の次なんて、すぐには出てこない。

「あっ、見えたよ、次の標識」

 石楠さんが指差す。そこには『わ』と書かれていた。


 それにしても、一体どこに向かっているんだろう?


 俺は、バスの通路に置いたザックに目を向ける。

 バスは空いていて、俺たちの他には五人くらいしか乗っていなかった。



 それは一週間前。

 放課後の高校の教室で、突然声を掛けられた。

 クラス一の美少女、石楠羽菜(いしくす はな)に。


「ねえ、夏休みになったら連れて行ってくれる? 峠のカナタに」

 

 峠の彼方?

 それってどこだよ?

 モテない男子をからかってるんじゃないかと疑いの目を向けると、石楠さんは急に改まった。


「ごめんなさい。軽々しく声をかけちゃって。これは真面目な話なの。本当に私を山に連れて行ってほしいの」

「なんで俺?」

 そこが重要だ。

 美人クラスメートの気まぐれに付き合うには理由がいる。

「だって沢登りやってるんでしょ? 倉田沢人(くらた さわんど)くん?」


 ドキリとした。

 確かに俺の趣味は沢登りだ。

 こんな変な名前をつけた父親と一緒に、今まで何度も沢を登っている。

 が、石楠さんがなぜそれを知っている?


「だったら安心じゃない。沢人くんと一緒だったら」

「安心じゃないよ。俺は沢専門だ」

 ぶっきらぼうに断ったつもりだが彼女は諦めない。

「急に地図を渡されても、その場所がどこだかわかるよね? 道なき沢を登るんだから」

「えっ? ああ、まあ、そうだけど……」

「だったらお願い、私を山に連れてって」

 だから俺は沢専門だって言ってるのに……。

 ずるいよ。そんな魅力的な表情で頼まれたら断れないじゃないか。


 こうして俺たちは、夏休みの初日となった二◯二◯年七月二十三日に、二人で冒険に繰り出したのだ。

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