第11話 寝不足の理由①



 昨晩から降り始めた雨が今もなお、屋根を激しく打っている。仕事から帰って、部屋着に着替え、一息ついたところで、急な眠気に襲われた。


 最近早めに出勤しているせいか、睡眠時間が足りず、質もよくない。


 本当は今すぐにでもベッドに横になりたいところだが、宇佐美さんが来る前に眠気を覚ましておかなければ。


 靴箱に立てかけた傘を取り、俺はアパートの階段を駆け下りた。すでに明かりのついた自販機から、目についた無糖のコーヒーを購入する。


 ふと、近づく足音に気がついて。


 傘から顔を覗かせれば、見知った女の子があらぬ姿で立っていた。



「宇佐美さん......?」



「あ......犬山さん、こんにちは」



「どうしたの、傘も差さずに」



 急いで彼女の頭上に傘を差す。


 通学用カバンを抱く宇佐美さんは上から下までずっぷり濡れていて、長時間雨に晒されていたのか、唇が紫色になっていた。



「帰りがけに子猫を見かけて」



「捨て猫?」



「首輪はしていませんでした。でも、母猫が運んでいる最中とも限らないので、手が出せなくて」



「一匹だった?」



「はい。ずっと鳴いているのに置いていくのが忍びなくて、せめて雨宿りできたらと傘を」



「そっか、それはいいことをした」



「いえ、わたしに余裕があれば拾って介抱することもできたのに」



 残念です、と肩を落とす宇佐美さん。

 髪の先から滴が落ちる。



「とにかく、早く風呂に入って、身体を温めないと。風邪引くよ」



 初夏とはいえ、雨に濡れればまだ冷たい。

 宇佐美さんの微かな震えを感じ取った俺は、自分の部屋に上がるよう促した。



「宇佐美さんが風呂に入っている間、俺が子猫の様子を見てくるよ。かなり衰弱しているようだったら、部屋で保護する」



 俺の言葉に、宇佐美さんは安心したようだった。強張っていた顔を緩める。そして、アパートへと歩き出した。


 よく見れば、今日は制服の上にカーディガンを羽織っていない。シャツが濡れ、中の下着が透けてしまっている。白いキャミソールの下に、淡い桃色のブラ。


 とっさに目を逸らしたが、同じ傘に入っていれば、濡れた身体が嫌でも視界に映ってしまう。


 しかも、時々腕に彼女の肩が触れたりするものだから、動揺を顔に出さないよう、平静を振る舞うのに必死だった。



***



「じゃあ、もういなかったんですね」



「ああ、傘もなかったから、きっと他の人に拾われたんだと思う」



「そうですか、よかった」



 ほっと安堵の息をつく。

 風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながら、宇佐美さんはローテーブルの脇に座った。


 先ほどより顔色はよくなっているが、しばらく雨に打たれたのだ。身体をよくよく温めないと。ここ数日、宇佐美さん専用となっているマグカップにホットココアを淹れ、差し出した。



「あったかい......」



「熱いから、飲むときは気をつけて」



「ありがとうございます」



「髪もよく拭いて、できるだけ着込んで、今日は早めに寝たほうがいい。最近眠れてないんでしょ?」



「そういう犬山さんだって、眠そうです。話しながら、瞼が落ちてきてますよ」



「ん、ああ、まあな」



「......早く帰ったほうがいいですよね?」



 宇佐美さんはそう言って、眉尻を下げる。


 いろいろあって買ったコーヒーを飲み損ねたし、俺の眠気も限界を迎えようとしている。明日のためにも床につきたくはあるが。宇佐美さんと過ごす時間を惜しく思う気持ちもある。


 どう答えようか、考えあぐねていると、マグカップをテーブルに置いた宇佐美さんの身体が少し反る。



「......くしゅん」



 宇佐美さんは、小さなくしゃみをひとつ。

 間を置いてもうひとつ、と繰り返した。



「......やっぱり冷えたよね」



「ちょっとだけ」



 強がっているが、細い指の先が震えている。早く帰したほうがいいかもしれない。そう思い始めたころ、宇佐美さんがおずおずと、伏し目がちに口を開いた。



「犬山さん、温めてくれませんか?」


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