黒い教会と白い影

砂漠のP

黒い教会と白い影

 林の中を、蛇のような暗闇がズルズルと這いまわっていた。私の後を追うように、落ち葉を湿らせ、木々の枝を落としながら這いずっていた。今は何時ごろであろうか。この林はどこまで続くのであろうか。そうしたことに疑問を抱くことはあっても、私はこの状況に不安を覚えてはいなかった。蜘蛛の巣が私の顔や、一張羅の外套の肩や袖に纏わりつこうとも、木の枝がズボンの裾の中に入り込んで、骨ばった踝を切り裂こうとも、私はこの林を歩くことは恐ろしくはないのだ。ただ恐ろしいのは、私に付き従う影の視線であった。私の背中にピッタリと寄り添う私の影は、頭の上までうっそうと茂る木の葉に覆い隠された林の中で、どこから差し込んでいるとも知れぬ強い夕陽によって、いっそう強く、残忍と良心の依り代となって、私に憑かず離れず従っていた。

 ふと、視界が開けた。そしてさっきまで眩しいほどに差し込んでいた熱い夕陽が、すうっと息をひそめると共に、私の目の前を塞ぐ木々の群れが従順にも道を開けた。

 私は、なだらかな山の中腹に立っていた。周りには私が抜けてきた森以外には何もなく、目の前から山の麓に向けては背の高いススキのような草が一面に生え、僅かな風を受けては凪いでいた。見上げると空は溶け落ちるように赤いが、日差しは周囲の山に遮られ、辺りは色彩を抜き取られたような暗さに包まれていた。ススキの海は一面に真っ黒な闇となり、風の落とす波紋は私を誘っているかのように闇をうねらせていた。

 腹が減った。港を降りてから歩き続け、もう何日になるであろうか。寝ている最中以外はひたすら歩き続けた。たった一つの手荷物である旅行鞄の中身は、何かの拍子に手に入れた紙束と、ロープと、港の長屋の軒先で拾った汚いシーツの他は、名前を与えるのも馬鹿馬鹿しいほどのゴミや残り滓があるのみであった。幸いにも石炭船の煙が染みついた外套と、親指の飛び出た靴とが僅かに身体を温めてくれる。だが私はもう幾日もしない間にぱったりと動けなくなるだろう。そうすれば私は、私に付きまとう影から永遠に逃げることができなくなるのだ。

 私は視界を覆う草むらをかき分けて、斜面を降りた。地面で複雑に絡み合う根や葉に足を取られまいと、一歩、一歩を大股で草の向こうに投げ出した。一歩踏み出す毎にバランスを失いそうになるその様は、まるで転落であった。歪な足の裏、震える脛と太腿はおろか、黒ずんだ臓腑にも、傷だらけの掌にも、痛みが廻っていた。

 視界が開けると、そこは人気のない村の片隅の、農家と思しき家の納屋の裏であった。村は背の高い山に囲まれた谷間を、細長く縫うように広がっていた。山の影が、村全体を真っ暗な静けさと共に覆っていた。

 私はその黒い村の中に、薄く浮かび上がってくるような建物を見つけて目を凝らした。それは、丘の上に建つ白い教会だった。私は教会の造りには不明であるが、背の高い入り口と二本の尖塔、そして少し離れたところに建つ鐘撞堂と思われるドームが立派な建物だった。あばら家のような家々の中で、その教会の周りの空気は、豪奢だがどこか異様な厳粛さを放っており、薄暗い闇の中でその教会の白色だけが、ぼーっと霞んだように漂っているようであった。私は気の赴くままに教会に足を踏み入れた。

 教会の扉は重く、弱り切った私は背中をぴったり張り付けて両足を踏ん張ることで、ようやく人一人入れるだけの隙間を開けることができた。辺りには人の気配は無く、教会の中は静けさと不可思議な香の臭いで満ちていた。外はもうほとんど明かりの無い暗闇のはずなのに、壁や天井のステンドグラスが仄かに光を発しており、私の身体や足元に暗い赤や青の光を不規則に投げかけていた。

 私は帽子を取って近くに投げ捨てた。帽子と一緒に、泥が落ちる音がボトボトと響いた。祭壇の方に歩いていくと、壁伝いに並んだ聖人の像や肖像画が無表情で私を見つめているのが、徐々に明らかになってきた。それらはみな無表情だが、ステンドグラスのゆらゆらと揺れる光が、彼らの存在を何倍にも大きく見せていた。

 私は、祭壇の十字架の前に饅頭が備えられているのを見つけた。饅頭は薄暗い中でも不思議なくらいはっきりと私の目に飛び込んできた。私は何も考えずに、饅頭を手に取って一気に二つ、三つほおばった。カサカサに乾いた、味のしない饅頭であった。一口はむ毎に、口の中にねっとりと絡みつき、鉄の味の粘液とぐちゃぐちゃに咀嚼された饅頭が噎せ返るような息苦しさを招いた。

 それでも私は手を止められず、続けて四つ目、五つ目の饅頭に手を伸ばした。相変わらず味はせず、口の中がぐちゃぐちゃ絡みつく音だけが教会に響く。周囲の香の香りが一層強く感じられる。臭いが口の中にまで絡みつき、私は香草そのものをむさぼっているようであった。口から煙が噴き出した気がした。胃の中では紫色の液体が、化学実験の薬品のように私の身体を内部から染め上げていっているようであった。

 その時教会の扉が開き、風が吹き込んだ。私は咄嗟に石炭の香りのする外套で顔を覆った。扉からは誰かが入ってきた気配は無く、ただギコギコという音が軋むように響いていた。

 私が恐る恐る音のする方を見ると、ステンドグラスから降り注ぐの眩い青色の光の輪の中で、少女がひとり三輪車をこいでいた。年の瀬は3歳から5歳くらいであり、髪は縮れたように短く、黒ずんだ肩掛けズボンの膝に遠目からでも分かる大きな赤い当て布をしていた。

 遠目では表情は伺えないが、少女はじっとこちらを見ているようであった。少女はしばらくじっと動かなかったが、やがて思い出したように、また青い光を引き連れて三輪車をギコギコとこぎはじめた。

 私はなんと声をかけるべきかもわからず――もしくは声をかけるのも忘れて――その少女を見ていた。三輪車が私の投げ捨てた帽子を踏みつけたところで、私はやっと、こんな時間に何をしているのかと声をかけた。空いた扉から吹き込む隙間風が、周りの像や彫刻に反射して甲高い笑い声のように教会に木霊した。少女の声が聞き取れなかった私は、近くまで行ってもう一度同じことを聞いた。

 少女は答える事無く、三輪車を鳴らして私の横を素通りした。焦げ臭い香りと共に、目の裏にひしひしと突き刺さるような痛みが生じた。私が振り返ると、少女は遥か後ろの祭壇の前で跪いているようだった。子供が立ち入る場所ではない、と思い、私は走って少女の下に向かった。

 その時、右足が何かにのめり込んだかのような感触が襲い、私は教会の臙脂色のマットレスの上に転がった。見ると先程は親指まで裂けていた靴が今は綺麗に真っ二つに割れており、残された靴の上半分は私の足を舐めるように纏わりついていた。私は靴を脱ぎ捨て、少女の所に走った。祭壇に跪いていた少女がこちらを向くと、その手には古い西洋人形が抱えられていた。

 少女はただ忘れものの玩具を取りにきたのであろうか。私は安堵し足を止めた。少女の抱えた人形は、よく見ると造型や衣服こそ西洋風であったが、髪や目の艶、肌の生々しさなどは日本人形を思わせるように真に入っており、中でも瞳は教会の明かりを受けて、まるで何かを訴えかけるように赤く爛々と異彩な輝きを放っていた。

 少女はじっと祭壇を見上げていたが、その内にその目は十字架に架けられた聖人でなく、供えられた饅頭を見ているのだと気付いた。私は、少女の格好が異様に貧しいのが今更ながらに不憫になり、饅頭を一つ取って手渡してやった。少女はそれを受け取ると、表情から縮れた髪の先一本に至るまで微動だにすることなく、ただ口だけをもそもそと動かすようにして、それを貪りはじめた。その姿を見ているうちに、私はどういう訳か、自分がかつてこの少女に会ったことがあるような気がしてきたのだった。

「なんばしよっとか!」

 ガラスの割れるような大声に、私は思わずびくりと身を縮めて入り口の方を見た。そこには枯れ枝のように痩せこけ、裾の短くすり切れた着物を着た女が立っていた。

「なんばしよっとか貴様は。」

 女はもう一度叫ぶと、教会の長椅子の列さえ押しのけるような勢いでこちらに近づいてきた。私は思わず後ずさり、どなたかも知らぬ聖人の像の足元にへばりついた。女はそんな私を跨がんばかりに詰め寄って、遥か上から道端の犬でも見るかのような目で睨みつけてきた。辺り一面が紅い光に染め上げられていた。風向きが変わり、女の着物や蟹股の間からは、私の正気を侮辱するかのような汚臭が撒き散らされた。

 女は足を上げた。着物の裾がずり落ち、傷だらけの足がぬらりと姿を顕わにした。そして女は肉の削げ、骨が剥き出しになったような踵で何度も、何度も私を強かに打ち倒したのだった。私は一層小さく身を縮めた。下腹と肺の辺りに火が付いたような痛みが走り、咳が止まらない。口から真っ黒な血が噴き出す。女はそんな死にかけの病人に構うことなく、鼻や口の端から黄色い汁を撒き散らしながら猶も私を痛めつけた。教会のステンドグラスが色調の乱れたネガ写真のに輝き、光に形作られた天使が私の頭上を歓喜して回っていた。

 私は頭を守ろうとする腕の隙間から、少女の方を見た。少女は相も変わらず、口元以外は微動だにせぬまま饅頭を頬張っていた。ただその目だけは、私の命が消え去る瞬間ぐらいは見届けてもよかろうとでもいう風に、じっとこちらを見つめていた。

 私の視線に気づいたのか、女は私への暴力を中断すると今度は少女の方に向かっていった。女は少女の前に立ったかと思うと腕を振り上げ、次の瞬間少女の頭は手に持った饅頭と共に叩き落されていた。否、頭と思ったものは先程まで少女が大切そうに抱えていた西洋人形であった。女が地に落ちた饅頭と人形を踏みつけると、黒く粘りつくような液体が私のいるところにまで飛び散ってきた。

 女が再び手を振り上げた。今度は少女に暴力を振おうとしているに違いない、私はそう思い、咄嗟に女の背中に飛びついた。私達は祭壇にぶつかり、組み合ったまま床を転がった。祭壇の上の聖書や供え物や花がバタバタと落下し、燭台の火が私達を一瞬光から隠すかのように揺れた。私の思考と筋肉には、先程まで死にかけていたとは思えないほどの力が漲っており、女を完全に床に組み伏せることができた。

 逃げなさい、と少女に言おうとする前に、私は腕に走った痛みで声を失った。女が髪を振り乱し、眉間にミミズのように太い青筋を立てながら、私の腕に噛みついていたのだった。私は手近に落ちていた聖書の背表紙の角で真っ白な女の頭部を殴りつけた。そして女の口が私の腕を解放した、と同時に、辺りに落ちていたものを手あたり次第その真っ赤な穴の中へと詰め込んだ。供え物の饅頭、花、蝋燭、金貨、とにかく祭壇から零れ落ちたもの全てを、溢れるまで女の口に詰め込んで、押し込んで、糸一本の隙間すら認めないほどの執念で捻じ込んで、そして両手に全体重をかけた。

 女はすぐに動かなくなった。私が手をのけると、女は白目を剥き、鼻や耳から黒い餡子や花びらを垂れ流していた。

 教会の外で、鐘撞堂の鐘がなった。ステンドグラスの光は一層眩くなり、床に反射する光のさざめきが足下を揺らしているようであった。

 神に捧げられた供物が女の命を奪った。女は神の愛により殺されたのだ、と、私は思った。

 振り返って少女の方を見ると、少女はぐったりと横たわっていた。私は少女を抱え上げた。目を覚まさせようと顔に手を置くと、そこには一切の一肌の温もりが無い。私は指に力を込めた、すると、私の指はみるみる少女の頭にのめりこんでいった。私が一気に力を込めると、少女の頭はこなごなに砕けて消えて、私の手の中には、指と指の間に絡みついた人形の髪の毛だけが残った。

 私は気付いた。この少女は人形であった。そして人形こそが少女であり、そして私の娘であったのだ。愛なき神の館に置き去りにされた人形我が子であったのだ。そしてこの女は私の妻であった。私が殺め、私達の家諸共焼き払った女であったのだ。

 私は辺りを見渡した。教会全体に隙間風が吹き荒んでおり、聖人の像はみな頭や片腕を落とした状態でそこに冷たく鎮座していた。絵画は傾き切り裂かれ、古い壁にはまるで最初から私を見つめていたような数多のシミが張り付いていた。燭台の炎が、私に手を伸ばす。隙間風に吹かれた炎が、私を捕まえようとするかのように火の手を伸ばしていた。炎が広がると、壁や屋根に残ったステンドグラスは、赤色や青色の最後の煌めきを放った後、叫ぶように次々と割れていった。その度に色とりどりの閃光が私を包んだ。私の視界にあるのは、極彩色の光と、それを受け一層濃くなった私自身の影であった。

 私は何度も段差や長椅子に手足を強かに打ち付けながら、手探りで出口を探した。そしてやっと壁の切れ目が見つかり、風の吹き込んでくる方へと飛び出した。私は、遮二無二構わず走った。視界が役目を取り戻すまで、何度も何かに足を取られたが尚走った。

 心臓が止まる程走ったかと思う頃、私は立ち止まって後ろを振り返った。私は小高い丘の上に立ち尽くしており、背後には山と山の谷間にへばりつくような影の中に、真っ暗な村が沈んでいた。その村の中の一際高い所にある教会は、他の家々と同じような黒い廃墟として、村全体の陰鬱な雰囲気を一層濃く代弁するかのように、そこに存在した。

 空には依然として真っ赤に燃えるような夕暮れ時の光が満ちている。私は、ふと自分の手を見た。そして手だけでなく、私の服、顔、靴を失い剥き出しになった足までもが、炭に包まれたように真っ黒になっていることに気付いた。

 ――影に追いつかれてしまった。

 そして私はもう何にも追われないよう、光の差し込まない暗く深い林の中を目指して、歩きはじめたのであった。


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