蝉時雨

江戸川ばた散歩

蝉時雨

「ふう…」


 バスを降りて、歩いて二十分。日射しは強し。雅之はスポーツバッグの中からタオルを取り出し、額に浮かぶ汗を拭く。あと十五分は歩かなくてはならない。

 駅で買った緑茶のペットボトルを口にあてるが、もうこれで最後だ。呑んだ分だけ汗は流れる。水は身体を通り過ぎるだけだった。

 まさかあそこで終点だとは思わなかった。判っていれば、もう一本ペットボトルを購入していたところだ。

 だがバスの運転手はこう言った。


「何、駅で見て来なかったの?」

「いえ、実家に戻るものだからてっきり…」

「あー前のままだと思ってたんだなあ。残念だねえ。一昨年だったかなあ。あそこより先は、廃止されたんだよ」


 実家は、その廃止されたバス路線を使った所にある。最後に来た時には、一日に三本、朝昼夕しか通っていなかった。この不況の世の中、当然と言えば当然かもしれない。


「…仕方ない、歩いて行きますよ」

「悪いねえ」

「いえ知らなかった僕も悪いんですから」


 そう言って、彼はバスの終点で降りた。

 目の前には山山山。圧迫される様な大きさが迫ってくるその方向へ彼は歩き出した。焼けたアスファルトはやがて白茶けた砂利道へと変わる。じりじりと太陽の光が、半袖シャツから出た腕をじりじりと焼く。

 きっと今夜は痛むだろうな、と彼は思う。普段、温度調節の利いた職場で働いていて、皮膚も軟弱になっているに違いない。幼い頃は、こんな暑い日にも平気でランニングシャツに半ズボンで走り回っていたというのに。

 やがて彼は砂利道からあぜ道へと降りて行った。そして更にその向こう、ざくざくと左右に雑草の生い茂る道へと進む。

 道と言っても、自然にできたものであり、何の整備もされている訳ではない。ただ人が踏みならし、自転車や耕耘機が通るために、植物が生えないから道となっているだけの所だ。

 むっとする匂い。夏草の、特有のにおいだ。

 昔はよくこの辺りで友達と遊んだ。何も無いところだが、走り回ったり、「基地」を作ってヒーローごっこをするには充分だった。

 背の高い雑草の道を越えると、目的の場所があった。

 広くて古い平屋の農家。そしてその前には、決して広くは無いが、手入れの行き届いた畑。

 その中で一人の女性がトマトを足元の竹籠に入れていた。きゅうりと茄子が上にはみ出している。ああきっと底には冬瓜が入っているんだな、と彼は思った。


 相変わらずだ。


 薄紫の、木綿の農作業用のフードにスモック、足には紺のズボンに長靴。そして手には軍手。


「ただいま」


 雅之は声を張り上げた。すると女性はのっそりと顔を上げた。


「あれ」

「休みが取れたんだ」

「えらく急だね。電話の一本も入れてくれればいいのに。歩いたろ」

「うん。バスがあそこで切れてるとは思わなかった」

「昨日にでも電話入れてくれれば、山下さんにでも頼んで、迎えに行ってもらったのに」

「いいそんなの。…本当、たまたま休みが取れたから、来ただけだし」


 ふうん、と母親は軍手をつけた手を突っ張らせる様にして、汗びっしょりの息子を見た。彼女はよいしょ、と一度屈むと、竹籠を両手で持ち上げた。


「何も無いよ」

「うん」




 ちりん、と風鈴が音を立てた。

 家の窓は全開だった。都会とは違い、防犯も何も無い。たった一人の住人が外に出ていようが、東西南北全ての窓が開け放たれていた。


「そうでもしないと、湿ってしまう」


 彼女は土にまみれた軍手を取ると靴箱の上に置いた。そして台所に入りながらフードを取ると、流しで勢い良く手と顔を洗った。


「お前も洗ったらどうだね」

「うん」


 流しには白い石鹸がぽん、と置かれている。母親は昔からそれ一点張りだった。もっとも、村の雑貨屋にはそれしか無かったから、というのもある。


 だが。


「あれ、石鹸変えたの」

「ああ… 最近は便利だね。ほれ、共同購入ってのがあるだろう? あれでひとまとめにして買っておくんだよ」


 ほらそこに、と協同組合のものらしい箱が置かれていた。


「丸さ屋ではもう買わないの?」

「ああ…あそこ、一昨年、旦那さんが亡くなってね」


 言いながら母親は洗い晒しのタオルを差し出す。


「…へえ…」

「まあ実際、わたし等の様に、本当に近くて、車なんか使わない連中しか来なくなってたし… 息子も外に出てったしね」

「じゃあ仕方無いね」


 雑貨や文具、化粧品が置かれ、薬局も兼ねていたその古い店のことを、雅之はふと思い出す。小さい頃には、そこでプラモデルも買った記憶もある。


「カネ長も辞めちゃってさ」

「あそこも!」


 そこは食料品店だった。「スーパー」ではないが、一応何でもそこで揃う、「総合食料品店」というものだった。


「だから今じゃあ…そうだね。牛乳や肉や魚は皆組合の車が回ってくるし」


 おかげでこんなでかいもの、久しぶりに買ってしまったよ、と母親はぽん、とクリーム色の大きな冷蔵庫を叩いて笑った。


「肉や魚は、できるだけ冷凍しておくんだよ。ああ、パンもだ。と言ってもそうそうパンを食べる訳じゃあないよ。時々さ。毎週回って来るから、牛乳なんかも間に合うし。野菜はねえ、うちで作った分で充分だし。…まあ別に不自由はしていないね」

「…ならいいけど」

「どんどん人が減ってる。…いっそわたしも自動車の免許、取ろうかねえ」

「今からかい?」

「何だね、バイクだったら今でも乗ってるよ」


 確かにそうだった。母親は昔から125CCの業務用バイクを乗り回していた。周りでは「ポンポン」と呼ばれていたカブだ。


「今でも乗ってるんだ」

「ああ。テクニックは結構なものさ。さすがに雨の日にゃこの道じゃあ無理だけど」

「事故には気をつけてよ」

「お前こそ、車の免許取らないのかい?」

「苦手なんだ。それに向こうじゃ必要ないし」

「まあそれもそうだねえ」


 ほら、と居間の畳の上に座り込んだ雅之の前に母親は麦茶を置いた。外の熱気に、既にコップは汗をかいていた。ありがと、と彼は受け取り、一気に飲み干した。おかわり、という彼に母親は丸い肩をすくめた。


「一息入れたら、お父さんにご挨拶しておきな」

「判ってる」



 父親は、彼が薬科大に在学中に亡くなった。脳卒中だった。

 もっとも、歳を考えれば、予想もできないことではなかった。雅之が二十歳の時、父親は既に七十を越えていたのだから。

 だから彼にとって父親は父親であると同時に、祖父の様な印象もある。

 もともと、県内の海側にある市の病院長だったらしい。


「腕が良くて、仕事熱心で、皆に慕われていたよ」


と母親は言う。現在住んでいるこの農家は彼女の実家だが、戻るまでは、同じ病院で看護婦をしていたらしい。

 母親は父親と二十ほど違う。雅之を産んだ時、まだ三十そこそこだったという。

 そしてその「院長」は、ある日地位と家庭を捨てて、その看護婦と一緒にこの片田舎に来たという。二人と子供が暮らす程度には金も持って来た。もっともそれは裕福という意味ではないが。

 唐突に年輩の男と戻って来た娘に、雅之の祖父母に当たる人々は驚いたが――― 男の人柄の良さに、結局は同居を許してしまった様なものだった。

 その祖父母は、雅之がまだ小学校の頃に事故で亡くなった。旅行中の交通事故だった。父親は、自分が近くに居れば、応急処置くらいできたたのに、とひどく悔やんでいた。

 もっとも父親は、この片田舎に来てからは、医療活動らしいものは殆どしていなかった。

 医者というものを村から望まれなかった訳ではない。だが設備も何も無い場所である。せいぜい、有線の電話で「うちの子供が熱を出して…」と症状を聞いた時に、家庭でできる手当てを教えてあげたり、「丸さ屋」に来る医薬品メーカーに頼んで専門の薬を少し備えておく程度しかできなかった。

 雅之は父親がはがゆい思いをしていることは子供心にも判ったが、ではどうしてちゃんと「医者」の役目を果たさないのか、開業しないのか、そのあたりがどうしても理解できなかった。


 今なら判る。単純に、経済的に、ここではやっていけないのだ。


 自分自身と、周囲の大して多く無い人々の健康さえ守ることができれば、充分だ、と父親は思ったのだろう。今となっては雅之もそう思うことができる。


「…だけどあんたが薬屋に就職するとはねえ」


 血かねえ、と母親は言う。自分も看護婦だったことがあるのだし、と。そうかもしれないし、そうでない部分もある、と彼は思っている。

 医者と看護婦の子供だから、ある程度そういう知識を理解し対応する能力は遺伝的にあったのだろう。そして父親の決して少なくは無い本、話す内容、そして何よりもその姿。

 病気がそこにあれば自分が何とかしたい、という熱心さ。だがある程度以上のことはできないというジレンマ。

 そんなものを日々見ていれば、自然、自分の将来の選択肢にそれは加えられるというものだった。

 だから当初は医大に行きたい、と彼は父親に言ったのだ。

 すると父親は、座り込んだ足と腕を同時に組むと、こう言った。


「あれは、重い職業だ」


と。


 それが何を示すのか当時の雅之には判らなかった。ただ父親が反対しているのはよく判った。父親は決して怒鳴りもしないが、頑固なひとでもあった。そしてまた、父親が反対するものを押し切れる程の熱意が自分には無いことを、彼自身、何よりも良く知っていたのだ。

 ただ、将来の一つの選択肢として、それは存在した。持ち出してみたのだ。

 すると父親はこう言った。


「…薬剤師はどうだ?」

「薬剤師?」

「お前には、その方が向いていると、私は思う」


 なるほど、と雅之はうなづいた。

 考えてみれば、「生物」の授業で、フナやカエルの解剖があると、つい目を逸らしたくなる自分だ。生物という学問の内容がどれだけ面白くても、それでは意味が無い。


 結果彼は、家を出て下宿し、薬科大に入った。

 選んだ理由は一つ、「経済的に何とか暮らせる場所」だった。東京や大阪の様な所では、生活費がかかる。

 結果彼は、隣の県にある、東日大学薬学部に入学した。

 このマンモス大学は、様々な学部が日本中各県に散らばっている。私立だったので、学費などの心配はあったのだが、父親は大丈夫だ、と言った。それでも、と雅之は、奨学金や授業料免除の申請をし、前者は申し込みが通り、後者は半分が免除になった。

 そして在学中に父親が亡くなった。葬式にはたくさんの人々が訪れた。

 雅之は、その時初めて、彼の「きょうだい」達に会った。

 皆既に中年にさしかかり、連れて来ている子供が自分とそう変わらないのがひどく不思議だった。

 「きょうだい」達は、斎場での食事の時に父親の生活ぶりを彼に根ほり葉ほり尋ねた。雅之は知っている限りのことを言った。すると彼らは大きくうなづいた。そうだね、そういう人だ、と。


「父さんは、院内の派閥抗争に敗れたんだよ」

「派閥?」

「そう」


 そう話を振ったのは、次男だというひとだった。父と前妻の間には、二人の息子と一人の娘が居た。つまりは雅之の兄と姉ということになる。

 四十二歳の「兄」は、ビールを手にしながら、目を細めた。


「雅之くんは薬学部だってね」

「ええ」

「うんうん、それに、俺達よりずっと親父に似ている。だったらそう、できるだけ、じっとしていた方がいい」

「じっとしている?」

「父さんは、結局母さんに負けたのよ。それだけのことだわ」


 長女が口をはさむ。この場合の「母さん」は、前妻のことだろう。その姿は葬式の中には無い。


「いらっしゃらないのですか?」


 雅之はきりっとした口元の「姉」に問いかけた。


「私だったら、嫌ね」


 すっきりした喪服に、真珠のネックレスをした女性は、私にもちょうだい、と弟にビールを頼んだ。


「ま、でも君や君のおふくろさんが気に病むことはないさ。あの頃、もうあの夫婦の仲は無い様なものだったしな」

「そうよね。私達から見ても、父は疲れて行くぶんだったし。病院も、母が経営者になって正解だったのよ。あのひとはそういうの向いてるんだから」

「お元気なんですか?」

「元気も元気。ま、でも、…ねえ」


 ふふ、と「姉」は口元を上げ、疲れた表情の母の方を見た。


「私だったら、今の奥さんに会う、ってのは嫌よね」

「でも君は俺達の弟でもあるんだからな、別に邪険にはしないぜ」

「弟って言うより、息子じゃないの? 結婚しなさいよ、あんたいい加減」

「そんな面倒なことは俺はいいですよ。いい加減この歳になったら、姉さん、忘れてくれると思ったのになあ」


 あはは、と次男は笑った。

 以来、この長女と次男とは、時々手紙を交わす仲となっている。特に次男は、雅之を「弟」ではなく、息子の様にかわいがっていると言ってもいい。



「それはお前が父さんに一番良く似ているからだよ」


と母親は言う。彼女は雅之が「きょうだい」達と付き合うことに、何の口も挟まない。

 夫が亡くなってからというもの、彼女の日々は単調になった。夫を訪ねて来る人々が必ずしも自分を訪ねてくるとは限らない。彼女は一人で居る時間が増え、またそれを別段苦にもしていない様だった。

 父親の次男は東京に住んでいたが、仕事の用事で雅之の住む街の近くまでやって来ると、彼を呼び出し、買い物や映画に連れ出した。当時の雅之はまず入ったことの無い様な店で食事させたり、服を買ってくれたこともあった。


 そして彼はよく言った。


「おい雅之、どうせなら就職は東京にやって来いよ。俺が紹介してやってもいいぜ」


 結果、紹介されたのが、現在彼が勤めるイースト製薬だったのだ。



「それにしてもずいぶんこのあたりも変わったね」

「そうだねえ…」


 冷たく冷えた甘い瓜を前に、雅之は三杯目の麦茶を手にした。


「まあねえ、時代の波って奴は仕方ないよ」

「母さんは… 東京に出る気は」

「ないね」


 汗をかいたコップを両手で抱え、きっぱりと彼女は言った。


「別に私はここで不便はしないし、お父さんは私が暮らしていく程度のものは遺してくれたし。ああそうそう、あんた、時々貴之さんに会ってるんだって?」

「え? …ああ」


 貴之、とは次男の名である。


「近いし。今住んでるアパートも、兄さんの紹介が無かったら、ああ簡単には入れなかったと思うし」

「そうさね。あのひとはいいひとだ。時々こっちに、お前の様子も電話してくれるよ」


 ぶっ、と雅之は麦茶を吹き出しかけた。


「な、何で、何て」


 ちりん、と風鈴が鳴る。


「暇潰しですよ、と向こうは言ってなさったがね。剛毅なひとだ。お父さんにもああいうところはあったがね」

「…そ… う?」


 その当の貴之は、自分が一番父親に似ている、と常々言っているというのに。

 酒が弱いのも、煙草嫌いなのも、意地っ張りなところで不器用になってしまうところも、皆親父譲りだ、と。


「剛毅なところもあったさ。そうでなけりゃ、あそこでわざわざきっちり離婚して私と結婚なんざしなかったさ」

「そうなのかよ!」


 初耳のことばかりだった。


「あれ? お前には言ってなかったっけねえ」

「…聞いていないよ」


 そうだねえ、と母親は高い天井を見上げた。雅之は瓜を一切れ口に含んだ。昼下がり、一息入れると蝉の声が周囲に響き渡る。


「おや、ツクツクホーシだね」

「え」


 よく耳を澄ますと、ミンミンゼミやヒグラシの声に混じって、その蝉の声の聞こえて来た。


「そろそろ夏も、終わりだね」

「お盆に帰らなくて、ごめん」

「いいさ、忙しかったんだろうに。お前のことだから、皆が盆休暇取るから、押しつけられたんだろう?」


 図星である。


「…僕のことはいいから、母さんの話をしてよ」

「いや別に話す程のことも無いさ。何と言うか…当時私はあの病院のある科の婦長をしていてね。で、まあ聞いてるかい? 派閥抗争があったってのは」

「それは聞いたけど」

「だからまあ、私達は戦友みたいなものだったんだよ。もともとあのひとは養子でね。奥さんには奥さんで、当時頼りになる相方の様なひとが居た様だし。たださすがにこの年齢差だろ?」


 彼は大きくうなづいた。


「そこで駆け落ちするとは思ってもいなかったんだろうねえ。いくら派閥抗争に敗れたからって、それは無いだろう、って。まあもうその頃向こうの子供さん達も大きくなっていたし。特にあの貴之さんなんかは『やるなあ、親父』とか言ってたらしいよ」

「は」


 呆れてしまう。


「それで私の実家に来てからは、…まあ朱に交われば、じゃないけれど、やっぱり都会と時間の流れって奴が違うからね」

「それは言えてる」


 バスから足を下ろした瞬間、何よりまず、音が違った。空気の揺れが違った。―――時間も、違うのだろう。


「だからお前はお前で好きにおし。もし東京でいいひとが居て、東京で暮らしたいんなら、私に別段相談なんかしないでいいからね」

「…そりゃそういうひとが居たら、僕だって、勝手にするよ…」


 もう三十近いんだし、とつぶやく様な息子の声に、母親はほぉ、と表情を変えた。


「なるほど、私の息子はなかなかの甲斐性なしということだね」

「いやそういうことではなく!」


 どう言ったらいいのだろうか。雅之は迷った。


「好きなひとは、居るんた」

「ほぉ?」

「会社の先輩で」

「年上の女性かい! …するともう三十越えているってことか…でもまあそれもいいだろうねえ。お前、頼りないから」


 雅之はやや憮然とする。確かにそうだが。


「…だけど、そのひとは、もう先輩と婚約してるんだ。それも、ほら、系列の大学病院の先生で…何でも、院長の後継者とか、その候補とか…」

「あらまあ。それじゃあ勝ち目が無いね。じゃああきらめることさ。それとも?」


 ふう、と雅之は大きくため息をついた。そうなのだ。あきらめきれないから恋なのだ。


「…ま、お前が当たって砕けようと、結局その女性一人ずっと思って貴之さんの様に独り身通してもいいけれど、うだうだしているのは、身体にゃ良くないね」


 そう来るか、と雅之はテーブルに突っ伏した。


「…こっちで僕が薬局か何か開くってのは、無理かなあ」

「無理無理」


 母親はあっさりと首を横に振った。


「何で」


 さすがにこう一刀両断されると、穏和な彼も、少しばかり腹が立つ。


「お前には商才は無いよ。それこそお父さんそっくり。だから、院長なんて向いていなかった訳で、やり手の奥さんにその座を奪われてしまった訳だから」


 なるほど、と彼は非常に良く納得できた。


「それに今戻ったって、客が居ないよ」

「そう?」

「若いもんは戻って来ないもんだ。…まあ町おこしとか何とかで、山村留学とか、古い民家を安く貸すからどうのとか言われているけど、この道じゃねえ」

「ああ… せめてあそこまでは舗装してくれないと困るなあ…」

「お前等、子供の頃、どろどろになって遊んでいたじゃないか。そうそう、梅雨の頃なんか、よく誰かが田圃にはまってたねえ。…あ、と一番多かったのがお前か」


 ははは、と母親は笑った。


「あれは…っ! 僕がどうっていうんじゃなくて、和ちゃんが」

「和ちゃん? ああ、和義くんか…そう言えば、あの子も高校出てから全然戻って来ていないねえ」

「そうなの?」


 ああ、と母親はうなづいた。


「本村さんとこの和ちゃんだけじゃないよ。中村さんとこの美奈子ちゃんにしても、井上さんとこの峰夫くんも、皆外に出てって、戻って来ない。まあでも仕方ないさね」

「和ちゃん… 居なかったのか…」

「あの子ねえ」


 和ちゃん――― 本村和義は、その昔、何かと外で「基地」を作って遊んだ仲間のリーダー格だった。勉強嫌いで、でも頭は良くて、運動神経も良くて、何よりも、ケンカが強かった。


「何でも高校出て、すぐに自衛隊に入ったとか聞いたよ」

「じ、じえいたい?」

「そう。でも何か一年くらいでぽっ、と辞めてしまったらしくて、それからというもの、殆ど音沙汰が無いらしいよ」

「は」


 「基地」を作って「ごっこ」遊びをしていた頃から、彼はよく自分を驚かしてくれたものだったが。雅之は思う。自衛隊とは。そしてまたそこを一年で。


「…ま、でも、軍隊向きじゃあ無いねえ、あの子は」

「自衛隊は軍隊じゃないよ」

「ふん、同じ様なもんさね。ニュース見てる分にゃ」


 そう言えばこのひとはワイドショー感覚でニュースを見るひとだった、と雅之は思い出す。


「あの子はね、軍人には向いてるけど、軍隊には向いていないよ」

「…どういう意味?」

「お前そんなことも判らないのかい?」


 少しは頭を使え、と母親は雅之の額をこづいた。



 故郷には三日程滞在した。別にすることも無かったので、広い家の中、蝉時雨を浴びながら、昼寝ばかりしていた様なものだった。


「骨休めにしても、もう少し方法が無いもんかねえ、お前は」

「いいじゃないか。それに今度、秋から新しい部署に転属なんだ。こんなだらだらできるの、今のうち」


 それでこれからは今までより忙しくなる、連絡も取れなくなる、とか雅之がしどろもどろで口を回していると、母親は作業スモックのポケットから、一枚の書き付けを出した。


「ほれ」

「何」

「和ちゃんが最後に家に手紙をよこした時の住所だと」

「え?」

「気にしていただろう?」

「それは」

「まあ、そこに居るとは限らないがね」


 それもそうだ、と雅之は思う。別に彼の居所が知りたかったという訳ではないが…とりあえず「ありがとう」と言って、彼は書き付けを手帳にはさんだ。


 ちりん、と風鈴が鳴る。


「もうだんだん行かないと、バスに間に合わなくなる」

「まあ間に合わなかったらまた戻ってくればいい」


 ぽんぽん、と母親は彼の肩を叩いた。


「お前の家なんだし」


 ああ、と彼はうなづいた。


「それじゃ」


 ツクツクホーシの声の中、彼はまた、歩き出した。

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蝉時雨 江戸川ばた散歩 @sanpo-edo

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