美男子幻想転生おじさん
虹野ゆう
第1話 美男子ライドオン
体を起こすと、ふわふわした毛皮が額に垂れ下がった。
否、それは毛髪だった。
見慣れたあの脂っぽい黒髪ではなく、栄養のいきわたった艶めくシルバーブロンド。
眼鏡がなくても視界はクリア。
指でそっと髪を分けると、目に映るのは森の中にぽっかりと開いた広場だった。
聴こえるのは水の音、鳥のさえずり。
感じるのは、陽だまりの暖かさ。湿った草と土の匂い。
透き通った水面には陽の光が降り注ぎ、黄金色に輝いている。小さな獣たちがそこで水浴びをしたり、喉を潤している。
光には効果音がつき、どこからともなく音楽が聞こえてきそうな、そんな幻想的な風景——。
そこでわたしは、とある獣と目が合う。
燃えるような赤い髪、太陽と同じ輝く瞳。
裸の美男子だった。
ギリシャ彫刻もかくやという肉体美。
男でも溜め息をつきたくなる、圧倒的な色気のオーラ。
前髪をかきあげる仕草はスローモーションに見え、全身に滴る雫は酒のにおいがしそうだった。
そんな赤髪の美男子は、しばしわたしを見つめたあと。
泉のほとりに置いた弓に矢を番え。
射ってきた。
わたしは思わず目を閉じた。
矢は耳のすぐ横をかすめ、シルバーブロンドの毛髪が数本さらわれたのがわかった。
直後、後方から、ギャッという悲鳴。
振り向くと、眉間に矢を突き立てた小さな人影があった。
顔は犬だが、手に刃物を持っていた。
射抜かれて絶命したのは、毛むくじゃらの小さな犬人間だったのだ。
茂みの向こうでその仲間が逃げる物音がしたが、再び数本の矢が飛ぶ。
同じように直撃で絶命した犬人間たちの声が聞こえる。
突然のそんな戦闘シーン。
頭の先、指先足先、それぞれから血の気がひいていくのがわかった。
めまい。貧血。
ああ、わたしはきっと意識を失うのだろう。そう思った刹那。
「……めんどくせえ女」
泉から上がった、あの美男子の声。
それが、失神する間際の記憶だ。
○
「なるほど、だいたいわかった」
玉座に腰掛け、愉快そうに微笑む口髭の壮年。
ディートサム王国国王、ジェルトンだった。
「きみの出身は、ニッポンという国の都市カナガワ。商人組織でマドギワという隊を率いていた……。
名前は『ロートル』……で、よかったかな? お嬢さん」
「はい、だいたい合っています」
まるっと正直に説明したが、無理だった。
神奈川県のとある中小企業の窓際部署で働いている、四十代の中年男性。
世間で「おじさん」と呼ばれる存在であることを、信じてもらえるはずがなかった。
わたしは今、若い女性の体に魂を宿しているのだから。
とはいえ無理に説明して、狂人と思われてもいけない。相手の認識が先のような認識で落ち着くのなら、それが妥協点だと思えた。
嘘発見器を使われても、反応しないくらいの絶妙なラインだろう。
ここがファンタジー作品で見るような中世西洋風の城内であり、ここに王や騎士といった風体の人々がおり、何より日本語ではない謎の言語で会話が成立している時点で。
一度死んだわたしが、異世界に転生したことは明らかだった。
新たな刺激に、ジェルトン王は興味津々。終始、少年のように目を輝かせていた。
そしてこの王、生前のわたしよりも年上にも見えるが、とにかく顔がいい。
ハリウッド映画で主役の脇を固めるタイプの、大物ベテラン俳優といったところか。
「調べはついたかな ギャロー博士」
言われて、傍に控える男性が答える。
これまた顔がいい。さらに一九〇センチを超えるであろう高身長。痩身で少し猫背に見えるが、十分モデル体型と言えるスタイルだった。
「あらゆる文献を漁りましたが、その娘の話す国や都市は確認できませんでした。ディートサムの認知していない遥か辺境か……あるいは、異なる次元世界……」
「なら、魔界だろう」
ギャロー博士の言葉を遮ったのは、あの赤髪の美男子だった。
今は裸ではない。鮮やかな意匠の甲冑と赤いマントを身にまとった、見目麗しい青年騎士だ。
「この者が、魔物だというのですか? 騎士エンジ」
「いいや。だがコボルトに追われていた。魔物なんているはずのない、このおれの庭でだ。何より……」
エンジと言う名前らしい騎士は、わたしの髪を掴み。
耳の裏のにおいを嗅いだ。
「……魔物くせえ。おおかた、魔王軍から脱走してきたんだろうよ」
現世で、くさいと言われることには慣れていた。
家の枕に染みついたあのにおいだろうか。女性になった今も、そんなにおいが――。
「……畏れながら!」
謁見の間に、伝令が駆け込んできた。
「魔王軍の巨大魔獣が、城門に迫っております!」
○
謁見の間から、城のテラスへ出る。
昼間なのに薄暗い。どんよりとした鈍色の雲が立ち込めているのだ。
城下町の向こう、城壁の外から、黒い山のようなものが向かってくるのがわかる。
ギャロー博士が、懐から小さな金属球を放る。
それは翅を生やし、城壁の向こうへ飛んでいく。
やがて、わたしたちの目の前に映像が浮ぶ。あの球は、魔法で動くドローンのようなものか。
映し出された黒い山は、山ではない。巨大な猪だった。
そしてその頭部には、腕組みで仁王立つ人影。
白い虎の頭を持つ、筋骨逞しい大柄の獣人だった。
「……獣将ゴルファンか」
そう、赤髪の騎士エンジがつぶやく。
ゴルファンと言うらしい白虎獣人は、ドローン球に目線を向け、口を開いた。
「『白銀の乙女』を渡せ」
言われて、何を言っている、と一同が訝しみ。
それからわたしを見た。
シルバーブロンドの髪を持つ、わたしを。
「そやつは天空人の末裔よ。魔王様の復活まで、生かさず殺さず……我らの手元で贖罪の日々を送るのだ」
なるほど、魔王がいる世界か。
この体の本来の持ち主である女性は、魔王軍に監禁されていたらしい。
騎士エンジが言ったことは、嘘ではなかったと言うことだ。
「おとなしく引き渡せば、国を落とすのはやめてやろう。魔王様復活の日まで、束の間の平和を味わわせてやる」
ここがファンタジー世界だというのなら、魔王が存在してもおかしくはない。
復活するということは、かつて勇者的な存在に封印されたのか。
そして、このあとの展開は――。
ジェルトン王は、口を開かない。
ギャロー博士も、わたしから目を逸らしている。
騎士エンジは、侮蔑に満ちた表情でわたしを見ている。
この重たい空気には覚えがある。
誰にも望まれていない、面倒事を生み出してしまったときの、周囲の苛立ちと溜め息。
「余計なことをするな」という心の声を。
これがファンタジー世界の冒険活劇で、わたしがヒロインであったなら、魔王軍に啖呵を切って反撃する展開もあったであろう。
だが、現実は違う。
厄介事を運んできた余所者のひとりと、国ひとつ。
どちらが重いか天秤で量るまでもない。
わたしは震える手を握り、細く長く息を吐く。
恐怖で硬直した喉をほぐし、なんとか言葉を発する。
「ごめんなさい」
きっと大丈夫。耐えることには慣れている。
心を殺し、嵐が去るのをじっと待つ。
会社の闇に揉まれたわたしは、我慢ができる中年男性だったはずだ。
赤髪の騎士エンジが、わたしに近づいてくる。
髪と同じような赤熱の瞳、その中に、あのとき泉で見たような、黄金の煌めきがあった。
エンジが目配せをすると、王と博士も小さく頷いた。
そしてエンジは、わたしの体を横抱きにして、城のテラスから飛び降りた。
身投げではない。あとからギャロー博士が唱えた魔法で、そのまま空を飛行したのだ。
ほとんど目を瞑っていたので、眼下の城下町を眺める余裕はなかった。
城門の上に設置された、見晴らし台へ。
見えるのは、魔王軍の巨猪。その背に映える、白の虎の大男。
地上に目をやると、獣人兵がまばらに陣を組んでいるのが見えた。
「聞き分けがいいな」
白虎の獣人こと、獣将ゴルファンはそういってにやりと牙を見せる。
城門の上からそれを見るエンジ。
風が吹く。赤い髪とマントがなびく。
抱きかかえられていたわたしが降ろされる。
しっかり立とうとしたが、膝に力が入らず崩れ落ちた。
男に抱えられて飛行したために腰が抜けたか、否、それだけではないかもしれない。
この身に何が起こるのか、思わず想像してしまう。
魔王軍がどんな組織かは知らないが、先程の会話で察しはつく。
わたしはこれから、監禁されたり、拷問されたり。他にどんな目に遭うのだろう。
この体の本来の持ち主である女性が、何をしたかはわからない。何もしていないかもしれない。
でもきっと大丈夫。家庭も会社も、振り返れば子どもの頃から耐えてきた。
母はわたしを優しいといった。でもそれは、誰かを傷つける勇気がないからだった。誰かを押しのけて主張し、その責任を取るのが怖いからだった。
いつしかわたしは透明になり、会社では窓際部署に。妻は娘を連れて出ていった。
わたしにできることといえば。
誰にも迷惑をかけないように。
口をつぐみ、ただ受け入れることだけ。
そうして現世で命を落とし。
転生した異世界で、また死んで――。
そこまで思い、思考が止まる。
わたしが死んだら。
――死んだら、この娘の体はどうなる?
震える両手を見る。細い指、小さな掌。
肌の感じからして、娘と同じくらいの年頃かもしれない。
借り物とはいえ、この『白銀の乙女』の体は。
「おい、クソ女」
赤髪の騎士が言う。
鞘から剣を抜き、切っ先をわたしの首元に向ける。
「おれは、おまえのような奴が嫌いだ。目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤み、それで嵐が去ると思っている……すべてを諦めた顔だ」
磨き上げられた鋼に、わたしの顔が映る。
そこには、目の光を失ったシルバーブロンドの乙女が映っていた。
「おまえひとりの犠牲で国が救えると思うか? 自惚れるな。
ディートサム王国は、偉大なる王とおれたち騎士団、そして誇り高き民たちが守ってきた。今までも、そしてこれからも。
生きる意思のある限り、おれたちは戦う。おまえはどうだ?」
わたしの選択は、『白銀の乙女』の選択。
「おまえは、生きたいか?」
言われて。頷く。
「生きたいです」
エンジは、素早く剣を振るう。
わたしにではなく、曇天に向かってその剣を掲げる。
「聞け、魔王軍。おれたちは、貴様らに屈することはない!」
騎士の剣の先から光があふれ、それが曇天を貫く。
貫かれた雲の穴から光が降り注ぎ、騎士の髪が、瞳が、炎のように輝き燃える。
「救いを求める乙女がひとり。これを守らずして、何が騎士か、何が正義か。なあ、同志たちよ!」
城門が開く。
いつの間にか武器を手にして集まっていた兵士たち。
それが一斉に鬨の声を上げる。
――応! 応! 応!
ああ、そうか。
やはりこれは物語の世界なのだ。
だからこんなにも気高い騎士と、それに応じる世界があるのだ。
眩しすぎて細めた目から、一筋涙がこぼれ落ちる。
ああ、願わくば。
わたしも、そんなふうに生きたかった。
「……今こそ来れ、紅蓮の牙狼。神機『ブレイヴォルフ』!」
降り注ぐ光の柱から、真っ赤な獣が降りてくる。
それは巨大な狼だった。毛皮ではない、輝く鎧に包まれたその四肢はまるで――。
城門の前に降り立ち、魔王軍の巨猪を前に咆哮する。
なるほど、ここはイケメンだらけのファンタジー世界。
それに加えて、巨大ロボットものらしい。
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