ソーシャルディスタンス(社会的距離)殺人事件
チクチクネズミ
2m間隔で離れてください
「こんな非常事態に……という言葉が現実に言葉にしてあるとはな」
佐川がぽつりとつぶやく。
コロナウイルスにより緊急事態宣言が日本全国各地に布告されて数日、見えない殺人鬼に人々は怯えて家に引きこもり休業が相次ぐものの、公共機関である警察の業務はいつも通りだった。ただし、二メートルの距離を空けてだが。
『自分たちは対象外と思っているようで腹が立ちました。不要不急の外出をしている人、並びに大勢で買い物に行く人を見かけましたら殺します。男も女も老人も子供も関係なく殺します。手始めに私の目の前でうろついていた老人を殺しました。場所は――』
「町の警察署宛てに送られてきた犯行声明文にあった場所を捜索したところ、郊外の使われていない古い小屋の中で、包丁で刺されている老人の遺体を発見した。手が一部白骨化していたが刺殺と見て間違いない」
事件の概要を説明すると警部が2メートル以上の間隔を空けて犯行文を見つめていた佐川を見た。佐川は犯行声明文から凶悪事件の拡大を懸念して、県警から派遣されてきた警部である。そして佐川は感じ取っていた。この部屋の異様な空気のきれいさとそれに相反する重さを。
警察の会議室というのは、尖った神経を少しでも和らげるためにタバコをプカプカ吹かして部屋をヤニと煙まみれにする。特に凶悪犯罪の予告文となれば警察の威信をかけるために一層尖らせるだろうためタバコは必須なのだが、今日の会議室にはタバコの煙は一本もない。
二メートル隣にいるデカも普段の癖か口に指二本を執拗に手を当てている。もちろんそこに紙タバコはないので、眉間や弛んだしわが彫刻刀で彫られたように深くなっている。件のコロナウイルスは喫煙者の死亡率が高いため今更禁煙を実施しているのだろう。だが一度タバコのヤニでやられた肺は戻らないというのに無駄な努力だなと佐川が白い箱を取り出すと隣のデカが睨んできたのでやめた。
同調圧力とは怖いものだ。
「犯人は未だに潜伏している。第二第三の犠牲者を出す前に確保するのだ」
「はっ!!」
威勢のいい号令だったが、ソーシャルディスタンスを懸念しての配慮かそれぞれの声は遠く、端っこにいる警察官の声がこだまのように聞こえた。
警察官が焦る気持ちを抑えるように一人一人会議室に出る間、佐川が挙手した。
「警部さん、この町に一番詳しい人を一人下さい。もちろん社会的距離は保つために常に捜査は二メートル空けますけど」
***
警部が選定した巡査を一人連れだって、人通りのない商店街を歩いて行く。大きなスーパーを除いてほとんどがシャッター商店街と化していて店の音より佐川が歩いている音の方が大きく聞こえる。
「人がいないないねぇ。自粛要請が効いているようだが」
「普段なら道路に人が歩くほど多いんですけど、緊急事態宣言と犯行声明文のおかげでこのありさまで。県警の人は現場に行かなくてもいいんですか」
「佐川警部でいい。私は現場主義ではあるが、死体を見たくない主義でもあるかね。当事者の動きと習慣から把握する主義なんだ。ただ昨今のコロナでマスクはしないとならない二メートル間隔空けないといけないと一番苦労する」
実際巡査と佐川は二メートル間隔で話している。しかしそれほど離れいても余裕があるほど商店街は閑散としているのだ。
「このご時世休業している店ばかりだけど、スーパーは特需だね。従業員はたまったもんじゃないけど」
「昨日はもっと多かったですよ。緊急事態宣言が出た夜は買いだめに家族連れで来る人でごった返して。自分もレジで十分も待たされて」
外に出ればソーシャルディスタンスが叫ばれる中、一度気が抜ければそんなもの知ったことじゃない。前に中国で店で並ぶ時は二メートル空けなさいというPVを見た時は少し笑ったが、当事者となったら笑えなくなってしまった。
商店街を抜けた先に大きな公園が見えた。ここもまた人はいない。ニュースでは非常事態宣言下でも、遊びたい盛りの子供たちの放牧場として唯一解放されている公園なのだが。やはり凶悪犯が狙っていると親御さんが外に出さないようにしているのだろう。
砂利道を歩きながら木々で生い茂っているところに入ると、足元に潰れたタバコが落ちていた。
「これは……私のと同じ銘柄のタバコだ。このタバコはフィルターがちょっと小さいのに吸った感があるから好きなんだよ」
「殺されたおじいさんのですよ。おじいさんいつもこの公園のベンチでタバコを吸っていまして。」
「老人はいつもこの公園を使っているのかい?」
「ええ、毎日公園と商店街を通っていまして。お昼には商店街で買った和菓子を持って公園に入り、公園でタバコを吸うのが日課で。子供が使うのでやめるように言ったのですが「迷惑かけないようにここで吸わせてくれ」と強く言われました。独り身だから見逃してました。コロナ騒動が起きた後は、スーパーの行き来だけで自宅にいるようにしていたようですが」
「最後見かけたのはいつ頃だい?」
「緊急事態宣言が出る一週間前です。その日は久しぶりに公園にいて、いつものようにベンチで吸ってました。その日は携帯灰皿を忘れていたようですが」
すると佐川は老人のタバコをくるくると無言で回した。そしてピタッとちょうどフィルターのところで指を止めた。
「巡査。ちょっとある所に連絡がほしい。それがあれば、犯人が判断できる」
「わかりました。それでどこでしょうか?」
「保健所だ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます