ジョイという男

「ハイ、のんでのんで」


 小指でつつくだけで割れそうなほど薄いグラスに、深みのある液体が下品な音をたてて注がれる。ボトルから直接。量りも気づかいもあったものじゃない。


「オニイサン疲れてるみたいだから、どんどんあげる」


 グラスを与えた先には華奢な体つきに黒々と生えている髪、なるほどその男は「オニイサン」と呼ぶに十分な要素を備えている。


「何があったのか知らないけど、飲んだってイヤなことはイヤなまま。だったら飲んだほうがいいよ」


 意味のよくわからない文句を垂れながら、差し出したはずのグラスに自ら口を付ける馴れ馴れしい彼はこの店のマスター。日本語を巧みに操るうえに口数の多い陽気なブラジル人である。くたびれた男に対して開口一番「ジョイって呼んで」と心の距離を詰め、実際の距離も腕が触れそうなほど。


 他に客のいない店内。彼はまた「のんでのんで」と言いながら自ら飲み始めるのだ。


 深夜にひとり。ささくれだった気をもつ男が立ち寄った店には、寂しさを紛らすには丁度良いを通り越してお節介なマスターがいた。ボトルを開け適量をグラスに注ぐだけ、サンバにのせてシェイクするわけでもない。二人の間には最低限の関係性しか成り立ち得ないはず。なのに現実はどうだ。ジョイは男の隣に座り目を輝かせて自己紹介を始め、苦楽を共にした仲間さながらの関係を築きだした。


 ちなみになぜ同じお酒を延々と注がれているかというと理由は単純「ワタシの好きなお酒だよ。おいしいよ」とジョイが強引に注いでいるから。男は断り時を誤ったまま今に至る。そんなつまらない理由だ。


「ハイ。これオニイサンの」


 彼の相棒のボトル――――ラベルには「JACK DANIEL'S」と記載されている。アメリカ生まれの有名人で誰もが記憶の棚にその名を置いているほどだろう。男の手もとのグラスに向け、相棒は我が身の分身を吐き出していく。量りも気づかいもあったものじゃない。


「ところでオニイサン……恋人は?」


「……いますよ」


「どこに惚れたの?」


 一転、グラスを置いたジョイの目は好奇の色を宿して男をじっと見つめていた。まるで水槽を泳ぐ魚を観察するときの目だ。


「出会った瞬間にピンときただけですよ」


 男は酔いに任せ、煙に巻くような言い方をする。


「オニイサン。良い女の見分けかたって知ってる?」


 ジョイの目に吸い込まれないように、男は咄嗟に目を背けグラスを傾ける。濁って深い褐色の塊を呷るたびにまだ青い男の喉は焼ける感触を楽しんでいる。こうしてこの喉もやがて枯れ、褐色の音を出すようになるのだろう。


 男が鼻から抜ける余韻を楽しみつつ無言のまま次の一声に思い巡らせている間に、ジョイはすっかりしびれを切らしてしまった様子。


「教えてあげる。それはね――――」


 …………。

 たいして興味もない話を延々と聞かされた挙句、たいして面白くもない迷い言で彼は得意げに鼻を鳴らしていた。男もつい片方の眉を上げながら「なんだそんなこと」と鼻で笑うだけ。ジョイはニッと口角を吊り上げ男の肩を叩いた。いつの間にか男の顔色は良くなっていた。でもこれはアルコールのおかげかもしれない。本来であれば最低限の関係性しか成り立ち得ないはずの二人。店を出れば馬鹿な話で夜が明けたと土産話にもならないだろう。


 ただ最後に……二人は熱い握手と同時に、再会を匂わせる「またね」という言葉を交わした。へべれけになった男の記憶はここで途絶えている。


 あれから数年。男は当時の恋人と結婚し、一人の子に恵まれた。


 ジョイとの再会は、まだ叶わない。

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