仮称短編集

白川迷子

怪盗Smith

この世界のどこかに怪盗がいる。

姿を見たというひともいる。

声を聞いたというひともいる。

まぶしくて見えないというひともいる。

今もそこに座っているというひともいる。

美味しいというひともいる。

泣きだしてしまうひともいる。


この世界のどこかに怪盗がいる。


……おしまい。




もう寝なさい。

ママは本を閉じながら、やさしく頭を撫でてくれた。

「まだ寝たくない」

早く寝ない子のところには怪盗さんが来るんだよ。

「うん、怪盗さんに会いたい。」

困った子ね。


ママは目を瞑らないわたしの顔をじっと見つめている。

どれだけ歳を重ねても、瞳の色は変わらない。窓の明かりを頼りにわたしの影が瞳のなかで生きている。


「返してほしいの」


いい子にしていれば返して貰えるよ……。

ママは困ったように呟いた。何度も聞いた同じセリフ。

使い古されたセリフも、白髪の混じった髪も皺の増えた顔も、ママの年月を物語っている。


とまっているのはわたしだけ。


ママは毎晩わたしのもとへ来てくれる。

怪盗さんが来るよと脅かせば、本当に来てくれると信じて本を読み聞かせている。

わたしもわたしで大人しく寝てしまうと怪盗さんに会えないと思い、ママに言われるまで目を開けている。


でも、ママの声はいつのまにか聞こえなくなっていた。




怪盗さんはわたしの寿命を盗んでいった。


寿命を盗まれると、寿命が短くなるとみんなは思うかもしれない。でも正確にはそうじゃなかった。

わたしが失くしたものは明日だったり、成長だったり、すなわち『あるはずの寿命』だった。


寝ても覚めても同じ日々。暦から置いてけぼりをくらっているわたしは、からだが大きくなることもない。

ママの眼や顔には歴史が刻まれていくのに、わたしはいまだに今日を生きている。


やがて誰も居なくなりわたしは独りになる。


明日が来ないわたしに寂しさはあるのだろうか。


今日も怪盗さんに会えず眠りにつく。






夢をみた。




夢をみるのは久しぶりだった。


生まれて初めて外にいた。夜空のなかを泳いでいるようにも飛んでいるようにも感じる。本当に自由に、わたしを遮る雲ひとつなく。


下をみると大勢のひとが泣いている。

そこにわたしの姿はない。……当然か。


空がこんなに広いものだと知らなかった。


世界がこんなにきれいだと思わなかった。


わたしの世界はママの瞳の中で完結したから。




「これだけ広かったら怪盗さんも迷うよね」




大勢のひとのなかにママの姿を見つけたわたしは、こっそり近づき声を掛けてみた。




「ママ、寿命を返してもらったよ」




聞こえていないことがおかしくて。わたしはくすくすと肩をゆらして、小さく笑った。




「怪盗さんは……どうしてか泣きそうな顔をしていたよ。不思議だね。夜はこんなに輝いているのに」




昔も今も変わらない綺麗な瞳。


もうそこに、わたしは居なかった。




……おしまい。






絵本をとじ、寝息をたてる娘の頭をなでる。やわらかな髪のなかに心地よいぬくもりをたしかめながら、今ここに生命があることの必然性を覚えた。




物語のなかにあらわれた怪盗さんは、誰にも訪れる『その日』を象ったものなんだと、娘の体温にふれて感じた。




わたしはまくらに身をあずけ目をとじる。


そうしていつか出会えるはずの怪盗さんをまぶたの裏に描いてみた。




やさしい顔だろうか。


こわい顔だろうか。


意識がはなれる最中、絵本の冒頭を思い出す。


きっと出会うひとによって姿かたちを変えてしまうのだ。


怪盗さんに出会ったとき、わたしは喜ぶのだろうか、それとも泣いてしまうのだろうか。




想いにふけりながら眠りについた。


誰もがいつかその日をむかえたとき、やさしい怪盗さんに出会えることを願って。

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