愚問

 花は散り新緑に彩られた桜の木陰を自転車の集団が駆け抜けていく。並木道の傍に敷かれたサイクリングロードを眺めながら、俺は独り休憩スペースでコーヒーの香りを静かに噛みしめていた。昔はよくこうしていたもんだ。

 約束の時間を待つじれったさに似たモヤモヤをコーヒーで流し込み、魔法瓶の蓋を固く締める。約束があるわけじゃないし、来ないならそれでもいい。落ち着け。


「……って、来たよ」


 どっちつかずな俺の感情にお構いなしに春川は現れた。心なしかその足取りは軽やかで目元では真新しいセルフレームのメガネが陽の光に照らされていた。



 § §



「やあ、春川さん」

「あ、先生。こんにちは」

「休日にも来るんですね?」

「……そーです。サボりじゃないです。先生こそ」

「ここは、私もお気に入りなんですよ」

「そう、なんですか?」


 呼び止めると、春川は緊張せずに応じてくれた。小首を傾げる彼女の新しいメガネは黄色を基調とした明るいグラデーションのものだ。少し意外なチョイスだなと思ったが、無事に購入出来てなによりだ。

 自分のこめかみを指で叩いてみせ『良かったですね』と笑いかけると春川は顔を赤らめた。今日は俺もメガネをかけている。昔よくかけていた伊達メガネだ。


「あ、あの、ありがとうございました。おかげさまで……」

「お父さんと買いに?」

「はい。連れてってもらえました」

「それは良かったですね。似合ってますよ」

「あ、あ、ありがとうございます」


 更に頬を赤らめて身をくねらせる春川だったが、何かを思い出したかのように動きを止めて『でも、』と漏らして俯いた。 


「よければ、話、聞かせてくれませんか? もちろん、話したいなら、ですけど」


 そう言ってベンチを軽く叩いてみせる。春川はしばし視線を右往左往させたがベンチに腰を下ろした。


「ちょっと……困らせちゃった、かなって思って」

「そうなんですか?」

「はい」


 独り身の俺には父子家庭の春川父の事情は分からない。娘を買い物に連れ出すことがどの程度負担なのかは不明だ。

 それに客観的な良いか悪いかということよりも、子供が何に困っているかが第一だ。たとえ話を聞くことしか俺には出来なくても。


「私のお父さんは、良い父親、なんです……多分」

「……ええ」

「両親が離婚してしばらくは別々に暮らしていたんです。それから、お母さんが死んで私が一人になったら、引き取るだけじゃなくて、住み慣れた街がいいだろうって自分が引っ越してきてくれて。いまの家で暮らしています、一緒に」

「はい」


 なかなか出来ることじゃないと思う。俺は素直に凄いことだと思った。それでも、春川の胸の内には渦巻く感情があるのだろう。

 

「私、鈍いんです。色々と」


 言葉はするりとこぼれ落ちた。それから春川は自虐するように笑った。



 § §



「お父さんもお母さんも私には優しいし、優しかった。でも、二人が別れた理由が分からなくて。喧嘩していたわけでもないし、お金に困ってたこともなかった」

「……それは、難しいですね」


 この子はそれをあの人に訊ねたことがあるのだろうか。かつての俺のように。


「男子や俳優とかを見て格好いいな、とかチヤホヤされたいって……そういうのは分かるんです。例えば、こうやって先生とお話したんだって誰かに自慢したらいい気になれちゃいます。しないけど」

「……教師は手助けはするけど、進んで贔屓をしたりはしません」


 すらすらとどこか他人事のように事情を語った春川は俺を見て笑った。どこか投げやりでふわふわした表情は獲物を狩る獣の部分をくすぐる。教師としては変なところへさらわれないようにしてやりたく思うが、出てくる言葉はやんわりとした拒絶だった。


「モテる人は、よくわからないです」

「…………」


 矛先が不明瞭な不満の気配を首筋にヒリヒリ感じながら、春川の言葉を待つ。


「お父さんにカノジョさん? みたいな人がいるような、いないような、そんな感じで。仕事の電話は昔から多かったけど、最近は私と話した後とかに電話をかけてるみたい……」

「……お父さんと一緒だと家に居づらい?」


 こくんと頷く春川の瞳が答えを探るようにせわしなく動く。

 

「よくわからない。多分、お父さんは悪いことをしてるわけじゃないと思うんです。だけど、 私にはわからないことを隠れてしてることが……気持ち悪い。それでも、そんなのはありきたりな事なんだって、そう思ったら――」


 春川の考えは現実的だと思う。けれど、その現実を受け入れられるかは別問題だ。自分でも掴みきれないであろう恋愛関係なんてものと父親がどう付き合っているかなんて、想像も及ばないはずだ。

 個人としても、教師としてもどう答えたらいいのかわからない。そんな思考の迷路に足を踏み入れかけた瞬間のことだった。


「お母さんもそうだったのかなって」

「えっ?」


 全部、真っ白になった。


「お母さんも普通にカレシとか、いたのかなって」


 どうして、あの人のことを考えたんだ。

 先生、大人の恋って特別なものなんですか。

 特別と言ってくれたら俺はあの人の一番だ。そうでなくても、一緒にいられる。

 そんな期待を込めて俺はかつて愚かしい問を口にした。


「ねぇ、先生?」

「あ、ああ……」

「大人が恋するってなんなんでしょうか? 子供と違うもの、なの?」 


 在りし日の愚問を彼女は真摯な瞳で俺に問うた。

 緑の酒瓶と赤いランドセル、山吹色のラベル。パステルカラーの甘くてしおれた布団に咲いた黒髪。

 同じ色の女が目の前にいた。

 エヅくような声が漏れる。伸ばしかけの手から獣の気配が立ち上りだす。


「えっ? え、え……?」


 春川は足場が突然崩れてしまったかのように驚き、走り去ってしまった。

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