なぞの南蛮人

ンマニ伯爵

プロローグ

 午後一時四十八分。青空には四つの巻雲がたなびく。私立鴨鍋かもなべ学園高等部体育館の床下にある十畳ほどの薄暗い倉庫では、床の上に敷かれたマットに紺色のブレザーを着た十六歳の少女が寝転がる。少女はぶつぶつと独り言を言いながら両手を影絵のように動かして遊んでいる。


 武田あおい。高等部の一年生だ。私立鴨鍋学園は首都圏の小都市、根木市にある、それなりの「地方の進学校」である。県内トップ高ではないものの、卒業生のほぼ全員がどこかの大学に進学するような学校だ。


 中高一貫校の高等部から受験して入学した葵だったが、入ってすぐに目標を見失ってしまった。もともと、それほど勉強は好きではない。しかし小学校や中学校の頃はなぜか「普通」にやっていてもそれなりに出来てしまっていたので、中学の進路教諭にチャレンジしてみろと言われてこの学校を受けたらたまたま合格してしまった。


 合格したのはいいものの多分後ろのほうで入ったのだろう。それまで適当にやって取れていたような成績は、そこそこにも勉強を続けている進学校の生徒に置いていかれていった。そして半年も経つと、やる気をなくした。数年前にこのあたりに引っ越してきたので、もともと地元の友だちもいない。


 そのうち、よく分からない授業をサボることを覚えた。中学ではそんなことを思いつきもしなかったが、高校に入ると学校と生徒との距離感が違うのを感じた。そしてそれを確かめるかのように、授業を抜け出すことを始めた。


 今日は日本史の授業だった。最初から出る気がしなかった。昼の休憩時間が終わるころ、何くわぬ顔でスマホだけを持って教室を出て、そのまま真っすぐここに来た。ここに来たのは二度目だった。


 床下倉庫は、ところどころ湿気による壁紙の腐食、破れが目立つ壁で囲まれている。普段あまり使われていないようで、かなり古そうなダンボール箱、ゴムが劣化して卵の殻のように割れた軟式テニスボール、崩れて崩壊しつつあるウレタンのマットレスが幾つか置いてあるだけだ。


 電灯は、一体いつの時代のものだろう。裸電球が黄色く光っている。かなり暗い。とはいっても、何となくぼんやり過ごす分には必要十分だ。本をじっくりと読むには辛いが、もともと眩しい光が苦手な葵にとってはちょうど良い明るさだ。昔はこの部屋の中で隠れてタバコを吸う生徒もいたらしく、出入り口が閉鎖されていた時期もあったと聞いたことがある。だが今どき隠れてタバコを吸って粋がるような「昭和」な生徒は、この学校にはいないだろう。


「サアちゃんは、何がやりたいですか? うーん、なんだろう。ボヨちゃんは? 私? 私はねえ、好きに絵が描きたい。そうなのボヨちゃん。実は私も。時間に追われず、場所に囚われず、先生とか親とかから離れて、自由に絵が描きたいぼよよん」


 だるくなってきた。


 両腕を床に落とすとゴロリと横を向く。昼に学食で飲んだタピオカミルクティーが胃に溜まって気持ち悪い。


 床に近い目線からは埃が目につく。息をすると床近くに溜まったカビ臭い空気を吸ってしまうような気がしたが、面倒なのでそのままでいた。


 ふと、不気味な空気が漂った。

 体全体に変な圧迫感が来た。


 なんだこれ。


 慌てて天井を見るが、分からない。

 そのまま床に手をついて体を起こし、立ち上がった。


〈ブワーーーっ!!〉


 突然、体育館全体を揺らすような、何かが屋根に叩きつけられるような音がした。


 ゲリラ豪雨!?


 と思った瞬間、葵はフッと足元が「冷たく」感じた。

 慌てて下を見ると、床が遠ざかっている。

 足が……床が……半透明になって、遠くに、細く……

 

 そして何も見えなくなった。

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