44時限目 B12倉庫(2)



 魔導弾マドアがイムドレッドの額を狙っている。その気配に気がついていながらも、彼は一歩踏み出した。


「お前を殺してやるよ、パブロフ」


 絶え間ない痛み。地獄の責め苦のような日々。誰も手を差し伸べてくれない絶望感。イムドレッドが味わってきた苦痛は、何度普通の人生を繰り返そうとも、決して達し得ないものだった。


 戦うことに恐怖はない。人を殺すことに対して抵抗を感じたことは、一度もなかった。


 俺は全ての恐怖を知っている。だから全ての感情を知っている。そういう慢心が彼を覆っていたこともあった。


「俺の前でシオン・ルブランを傷つけたことを、後悔させてやる」


 友を傷つけられ、人質にされたことによる胸の痛みは、今まで感じたことがないものだった。まだ自分にこんな痛覚つうかくが残されていたのだと、彼は思い知った。


 今まで感じたどんなものよりも、身を焦がすような怒りが彼の心を覆っていた。


 バン!

 倉庫の隅から飛んできた黒い魔道弾がイムドレッドの額に激突する。吹き抜けになった建物の二階部分に潜んでいた刺客の狙撃を、彼は避けることさえしなかった。衝撃で割れたひたいの血をぬぐって、彼は持っていたナイフをパブロフに向けて放り投げた。


「くたばれ」


 彼の視界にはパブロフしかいなかった。


 臓器ぞうきである異界物質以外の能力を持たない彼に、この人数を相手にすることはできなかった。だから、狙いは一点に絞って、パブロフを殺すことだけに専念した。


 飛んできたナイフをパブロフは、避けようともしなかった。横に立っていたトニーが守護魔導を発動し、あっさりと刃物を叩き落とした。


「ちっ」


「ぬるいね。やはりまだ子どもだ。トニー、手加減はしなくて良い。できるだけ痛い思いをさせて殺してやってくれ」


「了解」


 トニーとが前に出る。褐色の肌をしたスキンヘッドの彼は、イムドレッドの数倍の図体はあり、さらに自分の背丈ほどある槍を持っていた。イムドレッドの前に立ちふさがると、槍の矛先をその額に向けた。


「悪いな小僧。首くらいは家に送っておいてやるよ」


「御託は良いから、かかって来い、おっさん」


「……雷天帯載トール・マキア


 その詠唱によって、槍の先端をいくつもの電光が走るのをイムドレッドは見た。瞬間、トニーは槍を前面に向かって押し出した。


「……ちっ!」


 イムドレッドは後方へ飛ぶように下がった。間一髪直撃は免れたが、槍の先端から伸びた電光の束がイムドレッドを捉えていた。


「……!」


 肌を焼く痛みが全身を襲い、イムドレッドはその場にひざまずいた。それでも隙を見せまいと、相手が間合いに詰め寄ってくる前に立ち上がる。


「……でかいのに随分と臆病な攻撃をするんだな」


「良いから来い」


「へぇ」


 分が悪いのはイムドレッドにも分かっていた。真っ向から戦って勝つことはできない。トニーはエスコバルの中でも武闘派のメンバーだ。イムドレッドとは、見た目通り大人と子どもくらいの差が有る。


 それでも彼は、パブロフに一泡吹かせないと気が済まなかった。懐からもう一つのナイフを取り出して、イムドレッドが足を踏み込む。


 まっすぐ向かってくる彼に、トニーが槍を突き出す。その初撃の動作を見切って左にかわしたイムドレッドは、一歩懐へと入り込んだ。


(ここだ……!)


 握ったナイフを投擲とうてきする。


 トニーが槍のつかを器用に操り、それを弾く。

 ナイフは敵の腕をかすめていた。わずか先端に小さな切り傷をつけたのみで、ダメージにはいたっていない。反面、敵はもう身体を切り返していた。鋭い槍はイムドレッドの脇腹を突き刺した。


「ぐあぁああっ……!」


 倉庫に痛々しい悲鳴が響き渡る。そのまま横薙よこなぎに腹を裂こうとする槍から逃れて、イムドレッドはなんとか後ろに倒れこんだ。隅に積まれた木箱にぶつかり、ガラガラと音を立てて崩れていく。箱の山に彼の身体は飲まれていった。


「……く、そ……」


 身動きを取ることができないイムドレッドに、トニーの槍が迫ってくる。


「終わりだな。大人を甘くみた罰だ」


 ぜぇぜぇと息を吐くイムドレッドの腹部は、真っ赤に染まっていた。恐ろしいほどの出血は、周囲を真っ赤に濡らしていた。迫り来る死にも関わらず、イムドレッドの瞳はまだ死んでいなかった。うろたえることなく、目の前の敵をしっかり見ていた。


「……罰……か。確かにそうなんだろうな……」


「なに?」


「トニー、子どもを甘くみた罰だ」


 イムドレッドが放った言葉と同時に、トニーの顔色が変わる。充血した目から血の涙がこぼれ落ち、頬がだんだんと紫色に変色していく。


「か……は……」


 槍が彼の手からこぼれ落ちる。カランと乾いた音が鳴る。喉を押さえて、苦しそうにうめいたトニーはがっくりと床に倒れこんた。


「即効性の毒だ。たかが切り傷だと侮ったな」


 勝ち誇ったようにイムドレッドは笑った。木箱に寄りかかりながら、満身創痍まんしんそういの状態で今度はパブロフにナイフの切っ先を向けた。腹からはおびただしい量の血が流れ落ちていた。


「ひゅー、やるねぇ」


 トニーを倒したイムドレッドを見て、パブロフは余裕の笑みを浮かべていた。仲間がやられたことを意にも介さない様子で、イムドレッドに近づいった。


「それで、どうするんだ? その怪我でこの場は切り抜けられるとでも思っているのか?」


「……そう、だな……」


 意識が薄れていく。敵は十人以上の精鋭。イムドレッドが太刀打ちできる術はなかった。


「捕まえろ。意識を保ったまま内臓を引きずり出してやる」


 エスコバルのメンバーの人がイムドレッドの胸ぐらをつかむ。そのまま拘束しようと、魔導を行使しようとした時、再び事態が動いた。


 グチュ。

 肉を断ち切る生々しい音が鳴った。

 イムドレッドの胸ぐらをつかんだ男の頭が、裂けていた。真っ赤な血が噴水のようにあふれて、辺りを汚した。


 ぱっくりと離れていく生首を、この場の誰もががスローモーション映像を見るように注視していた。


「防御しろ! 敵襲だ!」


 パブロフの一声で、唖然あぜんとしていたエスコバルのメンバーたちが我に返る。倉庫の入り口もろとも吹き飛ばして、無数の光弾がパブロフに向かって放たれていた。一寸出遅れた数人のメンバーの首が吹き飛ぶ。


 間一髪で無傷でやり過ごしたパブロフは侵入者たちの正体を見て、事態を把握した。


「お前らは……」


 黒いスーツに身を包んだ男たちは、いずれも仮面を付けて顔を隠していた。旧市街で暗躍する殺しを専門とする実行部隊。彼らの出処でどころをパブロフが想起しない訳がなかった。


「ハイネ・シンジゲートにアルトゥーロ・セタスか! イムドレッド、俺たちを売ったな!」


「お前たちは売ってねぇよ……俺を売ったんだ。俺自身の身体をな」


「なんだと?」


「取引……したんだよ」


「……そうかおまえ」


 パブロフは驚き目をむいた。 


「自分の臓器を引き換えに他の組織と取引したのか」


「この場で生き残ったやつがブラッドの血を好きにできる……そういう取引だ。分かりやすいだろ?」


 すでにエスコバルのメンバーと二つの麻薬組織の衝突が始まっていた。一撃で絶命する威力の光弾が、周囲を飛び交う。不意打ちをくらったエスコバルは防御に徹することしかできていなかった。


 形勢は悪い。


 勝つにせよ負けるにせよエスコバルにとって手痛い打撃になることは間違いなかった。ほぞを噛んだように表情を歪めるパブロフに、イムドレッドは言った。


「人の友達をバカにしたらこうなるんだ。分かったか」


「……加減を知らないガキだ。おまえも死ぬぞ」


「それで良いんだ。パブロフ、俺と一緒に死んでくれ」


 忍ばせていたナイフをパブロフに投げて、とっさに踵を返す。防御されているのは分かっている。脚の動きがおぼつかない。血が出過ぎている。死がすぐそこまで追ってくる。


 ここが終わりか。

 こんな終わり方か。


 死の瀬戸際せとぎわにも関わらず、イムドレッドの中に湧いたのは、不思議なほど穏やかな感情だった。何もないと信じていた荒野の中で、彼は一筋の光を見ていた。


 シオン。

 自分が死ねば彼が危険にさらされることもなくなる。わずかばかり残った自分の遺産で彼の家系を救えるだろうか。分からない。俺がもらったものと比べたら、あいつにしてやれたことなんて、ほんの少しでしかない。イムドレッドは子どもの頃を思い出していた。


 温かい春の日をまぶたの裏側に写していた。


 お前の手に本当に救われたんだ。それを言うのを忘れていた。お前のおかげで、俺は自分の意志で踏みせたんだ。お礼を言うべきだった。気持ちを伝えれば良かった。


 お前は俺の憧れだったんだと。

 お前のいる世界に憧れて、俺は外に出たんだと。


 言えば良かった。それだけが心残りだ。


「イム!」


 イムドレッドの思考が中断する。光弾の中を駆け抜けてくる友の姿が、視界に飛び込んでくる。ハッと息をするのも忘れて、走ってくる金髪の少年に呼びかける。


 夢でも幻でもない。


「シ……オン?」


「ごめん! 遅くなった!」


 シオンは今にも倒れそうなイムドレッドに手を伸ばして、その血まみれの身体を抱きかかえた。


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