19時限目 表と裏(4)
マキネスが逃亡して二時間が経っていた。
昼過ぎに馬に乗って帰ってきたダンテは、困り果てた顔でマキネスの名前を叫ぶフジバナたちを見つけた。
「隊長……!」
フジバナは珍しく慌てたような表情で、ダンテに駆け寄ってきた。
「どうした?」
「どうしましょう……マキネスがいなくなってしまいました……」
「いなくなった?」
「逃げちゃったんだよう! 森の奥に!」
森の中から草まみれのリリアとシオンとミミが出てきた。息を切らして、彼女たちは校舎の裏の森を指差した。
「あっちに走っていって、出てこないの!」
「あー……そういうことか……」
「どうしよう。雨も降ってきそうだし。マキネス迷子になってたりしないかな」
旧校舎近くの森は深い。険しい山に繋がっているので、方角を見失うと遭難して戻ってこられないこともある。腹を空かせた魔獣が目撃されたこともあり、子どもが一人で入るのは危険だった。
フジバナは
「……わ、私の責任です……」
「いや、向こうから逃げたんならしょうがないだろ。それにしても、あいつ……」
ダンテは地面に落ちた触手の残骸を見てフフッと笑った。
「お前をまくとはやるじゃないか。してやられたな」
「う……不甲斐ないです」
「いや、良い兆候だ。さて探しに行くか。俺とフジバナが奥の方を探すから、リリアたちはこの辺りで探してなさそうなところを見てくれ。浅いところだぞ。遭難されたら敵わんからな」
「……りょーかい!」
「そう気に病むな。マキネスは必ず見つかる」
落ち込むフジバナの肩をぽんと叩いて、ダンテは森の奥へと駆けて行った。雨が本降りになり、視界も悪くなっていた。奥に行けば行くほど、道は入り組み、狭まり、ダンテですら迷いそうになっていた。
(たぶん、こっちだな)
手がかりもない状況の中、ダンテはランプを照らしながら森の深くへと進んで行った。より暗い方、湿り気のある方向へと迷わずに歩いていった。途中で小さな足跡を見つけた。まだできて間もない足跡だった。それをたどり、大きな木が生えている方向へ進んだ。
「マキネス、見つけたぞ」
「どうして……せんせいが……ここが分かったんですか?」
「勘だよ。さぁ、帰るぞ」
「でも、わたし……」
「みんな心配している」
ダンテの言葉にうつむいたマキネスは複雑な表情でうなだれている。ダンテが手を貸して、立ち上がらせると彼女の左足からポタリと血が垂れていた。
「……いたっ」
「どこかですりむいたか……。ちょっと身体貸せ」
「あっ……」
怪我をした彼女を軽々と背負った。レインコートを着せて雨をしのぎながら、彼は元来た道を歩き始めた。
マキネスはダンテの背中を感じながら、浮かない顔をしていた。ぎゅっと背中から手を回した彼女は、ポツリと独り言のようにさっきと同じ質問をした。
「先生……どうして、私があそこにいるって分かったんですか……こんなに広い森なのに。もう誰にも見つからないって思ってたのに」
「あー……本当にただの勘だよ」
「そう、ですか」
「……ここだけの話だけどな」
マキネスを背負いながら、ダンテは言った。足元は大木の根が露出していて、降り続く雨でぐっしょりと濡れていた。
「俺も逃げ出したことがあるんだよ、昔」
「先生が……ですか」
「本当に昔だぞ。王都に来て間もない頃だ。田舎から出てきた世間知らずだったから、魔導も使えないし、剣術もやったことはなかった。兵団の訓練についていけなくてな。周りからも差をつけられて嫌になってた。手近な森があったから、そこに脱走したんだ」
すっかり日が落ちて、森の中は完全な闇に染まっていた。頼りになるのはランプだけで、ダンテは道無き道を歩き続けていた。
「ちょうどこんな道だった。誰もいなくて、誰にも見つからないような場所だ。お前もそんなところに逃げ出したんじゃないかと思ったよ」
「……先生は……」
「ん?」
「どうして、その時逃げ続けなかったんですか」
その質問にダンテはうーんと首をかしげて、考えた後で言った。
「本当は逃げたかったんだ。でも逃げられなかった。腹が減って耐えきれなくて、兵舎に帰ったんだよ」
「……なんですか、それ」
「空腹と孤独は人を弱らせるんだ。お前だってそうだろ。リリアに先を越されて、焦るのは分かるが
「……気が付いてたんですか」
「当然。お前もまだまだ子どもだな」
「……う」
急に恥ずかしさが湧いて、マキネスは後ろから手を伸ばして、ダンテの首をしめた。
「……く、苦しい、殺す気か!」
「……先生は意地悪です……」
「知らん! でも、嘘は言ってないだろ!」
(嘘は言っていない)
マキネスの心にフッと湧くものがあった。
ダンテからはほとんど嘘の匂いがしない。最初に来た時も、今も、彼もまた自分のことを『サイレウス』ではなく『マキネス』として見てくれている。
そんな大人は彼女にとって初めてだった。
世界はいつだって裏側で、私に本当の姿を見せてくれないのに。誰も私の本当を見てくれないのに。
それが私がずっと欲しかったものなのに。落ちこぼれた自分を受け入れてくれる優しい場所。雨で濡れた背中が彼女にとって、今まで触れたどんなものよりも温かく思えた。
「先生って……変ですね」
「お前に言われたかねぇよ」
「ふふ」
笑ったのが随分と久しぶりな気がする。思わず漏れ出た笑い声は、彼女の頭をふわりと温かくさせた。
そんなマキネスを見て、ダンテもまたおかしそうに笑った。
「さぁ、帰るぞ。と言ってもここがどこだか分からんがな」
「……先生、それは笑えません」
「まじで迷った。そして魔獣だ」
耳をすますと、グルルルと獣の唸り声が気がついていた。目をこらすと、闇の中にギラリと輝く巨大な怪物の目がある。
全身から針のように鋭い体毛を露出させている。豚のような鼻の上についた一つ目がダンテたちを捉えていた。
「……先生……」
マキネスがダンテの背中をぎゅっと掴んだ。魔獣は完全にダンテたちを獲物として見ていた。今にも襲いかかろうと、全身の毛を逆立てている。
「マキネス」
「……はい……」
「
「私が……ですか?」
困惑するマキネスにダンテがこそっと作戦を耳打ちした。ダンテの考えを聞いた彼女は思わず「正気ですか」と問いかけた。
「……ふざけている場合じゃないんですよ」
「ふざけていない。まず自分を信じてみろ。さぁ、迷っている暇はないぞ」
魔獣は脚を踏み出していた。ぶもおおおお、と興奮したような声を出して、2人に襲いかかってくる。
「……っ」
裏と表。
本当と嘘。
マキネスにとって世界はあべこべだった。裏返しの気持ち、裏返しの態度。全ては自分が間違って生まれてきたのが原因だと思っていた。
全部、自分が悪いんだ。そう考えるのが当然だった。
(でも、今は、なんだかどうでも良いや……!)
高鳴る胸の鼓動と共に、ダンテの背中越しに彼女は手を伸ばし、その呪文を口にした。
「……
守護魔導ではなく、魔獣の目前に巨大な触手が出現する。敵の行方を
「おぉ……」
ダンテは思わず感嘆の声を漏らした。
むくむくと成長していく触手は、あっという間に高い巨木を抜いて、天高くまで
「よし、これで後はフジバナがなんとかしてくれる」
「……先生……」
「なんだ」
「やっぱり好きです」
マキネスの言葉にダンテは苦笑した。「あと十年経ったら相手してやるよ」と雨雲に向かってつぶやいた。
「……先生、それは嘘ですね」
「……五年」
「それも……嘘です」
「さすがに本当だ。これ以上は勘弁してくれ」
ダンテの言葉にマキネスは嬉しそうに笑って、ぎゅうっと抱きしめた。無軌道に暴れる触手を見ながら待っていると、騒ぎに気がついたフジバナたちが駆け寄ってきた。リリアとシオンとミミも一緒だった。
走ってくる彼女たちの姿を見た瞬間、マキネスの内側でパチパチと火花のように言葉が弾け飛んだ。
(無事で良かった!)
彼女はその言葉を聞きながら、ダンテの背中で安心したように眠りに落ちた。
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