第2話 鬼の館

 風に腐臭が潜んでいた。


 初めて通る細路を、枝葉から漏れた月の光が小夜をいざなう。


 竹藪の路は堆積した病葉わくらばで柔らかく、下駄の歯が僅かに沈む。

 路が分かれた。

 かざした鈴の鳴る方へ歩を進める。それを二度三度繰り返した。

 

 竹藪を抜けたところで歩みを止めた小夜は、息を飲んで握っていた布切れで鼻腔を覆った。

 緑と赤の光る玉が浮かんでいた。

 腐臭は、その光る玉の辺りから漂ってきた。


 目を凝らすと、光る玉は狼ほどの獣の眼であることが判った。左右の目の色が違っているのだ。

 ぬばたまの色をした毛をまとう、犬ともオオカミとも判別のつかない獣の足元に、老婆と覚しきむくろが横たわっていた。

 獣が軋むような声で唸り声を上げた。

 小夜にはそれが「ついてこい」と聞こえて、引かれるように従った。

 

 壇上に鬼が座っていた。

 人の三倍程の巨体は赤銅色で、目は金色に光り小夜を見下ろした。

 1本の百目蝋燭が灯されていて、獣がその前に小夜を導く。


 ひざまずこうべを垂れると鬼が吠えた。

「何をしにきた」と聞こえた。

 声ではない。吊り鐘の中でわんわんと鳴る音のようだが、意味は聞き取れる。

「この身を捧げに参りました」

 小夜が指をつき再度頭を垂れる。

「何が出来る」

「何も……できませぬ。なれど思し召さば何事をも致します」

 ワンワンと、また声が響いた。鬼が笑ったのだ。大きな音ではないが腹に響く。


「ならばその身を食らうが良いか」

「命と子をなすすべだけはどうか……」

「命はいらぬ。子を成すか成さぬかはお前のことであずかり知らぬ。だが痛みは、いっそ殺して欲しいと思う程であろうぞ」

「ならば如何様にも」

「帯を解いて身体を見せろ。骨と皮だけでは話にならぬ。来る途中で何を見た?」

「老婆が……先ほどの獣に食されている様を……」

 大きな鐘がゴンゴンと鳴った。頭を揺さぶられる程の笑い声に、耳を防ぐ。


「老婆ではない。太りじしの女であったが、我をたばかろうとしたがゆえにああなった」

 小夜は震え上がって歯を鳴らした。鬼を欺そうとしたとは、いったいどんなことをしたのだろう。もしや神薬のことではなかろうか。隠し持てと言われて右手の指と指のあいだに埋め込まれた。この薬のことを訊かれたら何としよう。正直に言わねば、あのような無残な姿になるやもしれぬ。

 小夜は震える歯を食いしばり着物を脱ぐと、鬼の前に立った。

 蝋燭が、2本3本と宙に灯り、小夜の裸身を浮かび上がらせる。

 

「名は何と言う」

「小夜と申します」

「肥えてはいないが痩せてもいないな。良いだろう。何が望みだ」

「祖母が病気で伏せっておりますれば」

「それがどうした。銭か、薬か、なおして欲しいのか」

 祖母への想いが、恐怖と震えを消した。

「なおして頂けるものならば」


 鬼の頭にえる左の角から、渦巻く雲が湧いた。

 雲は一筋の糸になり、いずこかに伸びてゆく。

「住まいを言え」

「幸田村の名取り、幸田八郎太の屋敷にございます」

 やがて雲は寝ている老婆の形になった。

「この婆か」

「はい。幸田村の統領。刀自とじの松と申します。祖母で御座います」

 雲が作った老婆は二度三度咳き込むと口を開けて苦しそうに喘いだ。 

 すると、鬼の右の角から出た雲の糸が老婆の口に入り、まさぐる様な動きと共に何かを絡めて引き抜くと、雲は風に吹かれたように消えた。


「三夜で良かろう。お前はあと二夜まいれ」

「かしこまりました」

「味を見てやろう」

 鬼が口を開け、赤い舌を出す。

 舌は長く伸びて小夜の口に入ると、その舌は唾液を吸い尽くした。 

 鬼は舌を抜くと小夜の全身の汗と涙を、今度は平たく変化した舌で舐め回した。

「良い味をしている。恐れの味が足らぬが」

 鬼が笑った。


「約を定める」

 鬼が吠えた。

「お前の祖母の病を三夜で治す。我はお前の身体から出る、あらゆる水気と気を吸い取る。それが無くなれば手足を食らう。お前の命は取らぬ。子を成す術も取らぬ。故にこの鬼界から出ればお前の身体は元に戻る。これを約定とする。

だが忘れるな。約定をたがえば、お前もお前の祖母も冥界から出ることができず、生きたまま地獄に落ちる」


「かしこまりました。決して約定を違えませぬ」

「明夜は釜で茹で、明後夜は舞を舞わすであろう」

「舞は心得ませぬ」

 小夜が正座になりながら息も絶え絶えに言う。

「われが舞わすのよ。肉を食らわばその痛みでのたうち舞う。様々な気を吐きながらな」

 小夜をこれからさばく魚のように品定めして鬼が笑った。

 笑う鬼を見て身震いした途端、鬼がその恐怖をザラリと舐める。


 鬼が右腕を伸ばす。

 その右腕が人の形になった。

 目鼻、口が整い、手足が整うと、腕だったものは鬼の身体から離れた。

 赤子の顔は童子に変わり、背が伸びて若者の顔になった。

 頭頂に小さなこぶのような角がある。肌の色は僅かに白いが人肌の鬼だ。

 普通に見れば美丈夫な若者でしかない。


 壇上の赤鬼には新たに右手が生じて、元の身体に戻っている。

 赤鬼から分かれた、元は右腕だった鬼が言った。

「これでよかろう。われは腕であった我自身である。これよりお前は我が命ずる儘となれ」

「かしこまりました」


 右腕の鬼が発する声は涼やかで良く聞こえる。

 精悍な顔は阿修羅神の如く、憤怒をたたえてはいたが荒ぶる事も無く、むしろ静けさが感じられる。

「我を示す名をつけよ」

「では……漢鬼様……と」 

「カンキであるか」

「はい。意味は男の中の男……鬼の中の鬼になろうかと」

「そんなことはどうでもよい。あ、と言えば『あ』で、お、と言えば『お』なのだ」

「はい。わかりました」


小夜は初めて鬼を見て、鬼の言葉を聞き、鬼の力を知った。

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