第6話 構える
鬼王丸が風と供に小夜の部屋に飛び込んできた。
「どこにいた。お腹が減りましたのか」
「母様。風神と雷神が五日あとに来ます」
「父が言ったのか」
「はい」
「これのことだったのだな」
小夜は待ちかねていた
「ならば寺に行き鐘を四つ撞け。誰か大人に手伝って貰え」
「できまする」
「黒毛で」という声も聞かずに、風に乗って走り出した我が子の先に、手まりの様な女児が駈けて来るのが見えた。
背中に弦を外した短弓と矢筒を背負っている。ひな菊だ。
走る鬼王丸を見つけ、追いかけてきたのだ。
「ひな菊」呼び止めた鬼王丸は
「これから寺に鐘を撞きに行くからね。そこから先は何処にも行かずに待っているから、転ばぬように来るんだよ」
「はい」という返事のあと、再び走り去る二人を見て、小夜は「むふふふ」と笑い声が出る。
「何と愛らしいではないか」
二人を見送り、小夜は筒袖、袴に替えると市場に向かった。
「これは統領」迎え出た若者に、「鐘。四点撞け」そう命じて櫓に上らせ、自分は市場に入る。
ほどなく、カンカンカンカンと四点の半鐘が鳴り、一息ついてまた四点鐘が繰り返される。市場の喧噪が消えた。
小夜は台に上がり「聞け」と叫ぶ。
「五日の後に嵐が来る。市は本日、
水が出れば嵐の後、しばらくは泉も川も濁る。水瓶は充たさねばならないし、食料も要る。
小夜は、有るだけの鎌、農具を買い、屋敷に運ばせた。
ほどなく寺の鐘が鳴りだした。
それに応じて遠くの村の半鐘が鳴り、音は伝搬して全村に行き渡る。
鬼王丸の
下山を命じた吉次は、若衆が道具小屋に鎚、
小頭達にそう命じて、一人、急ぎ山を降りた。
統領直下の五人の組頭の手で屋敷が本陣立てに姿を変えた。大広間の畳がすべて蔵にしまわれ、土足で歩けるようになると、作戦板が運び込まれ、明かり取り以外の雨戸は金具で打ち付けられた。その本陣に、真っ先に着いたのは日和を見る役目を担う安兵衛だった。
「此度はどのような……」
小声で小夜に指示を仰ぐ。
「五日後に嵐が来ると鬼王丸が知らせてきた」
「承知致しました。大きゅうございますか」
「まずまず。それよりも今回は刻(とき)がない。兆候は九石山にかかる二筋の雲でどうか」
「あっ。確かに。以前にも見た覚えがあります」
「稲はどうであろうな」
「十日程は早うございますが、それ程には変わらぬかと。籾で乾かしますか」
「そのつもりだ。田の水は
「委細承知」
小夜が、天候を予知できることは数人の者が知っている。
その予知が何処からもたされるのか。鬼王丸が何故生まれたのか。
それを守ることが、小夜を知る者の誇りでもあった。
村長、組頭の他、各部署で采配する責任者が集まり、その前で、安兵衛が説明する。
「九石山にかかる二条の筋雲により、嵐があると、年寄りから進言された。また、別の年寄りからは、五日の後であると予想された。以上の報告を統領に申し上げ、統領は確認された後、決断され皆を参集された」
「
忠兵衛の指示で全員があぐらをかく。
「刻が無い」小夜が言った。
「これより村は全力で五日の内に全ての稲を刈り取り、七日後の出荷を目指す。幸い、あと四日は天候が良いので、脱穀した後、乾燥から俵詰めまでを行う。三・四・五の蔵を使う」
白紙を貼った襖が五枚、敷居を滑って広間に出てきた。
「作業手順をのべる。今回からは、各村が個別に作業をしてはならぬ。即ち、十人を横並びで一列とし、それを六列作る。一列目は稲を刈る。続く二列目は束ねて運ぶ、三列目が脱穀し、五列目が後ろに運び
一枚の襖に全村の田が描かれ『い』から『と』までの取り掛かり位置と担当する範囲が書かれた。
名主の手が上がる。
「一村を一組とすれば如何でしょう。気心が知れた者同士の方が
「ならぬ。指示どおりにせよ。どの組にも違う村の者が混ざるように分けよ。一村一組であれば必ず村同士が競い合うことになる。そうなれば後半には疲弊して却って役に立たぬか、怪我人が出る。だが、混じり合えばお互いが知己になる。知己の間になれば今後とも、何かと助け合うよすがにもなろう」
「なるほど。承知致しました」
「それから、今回から山の衆も村の行事に助力する。これも分散して各組に入れるが、さしあたって稲の刈り方、扱いの要領をよく説明してやってくれ。初めは手間だと思うだろうが、先行き助かるのは自分だと思え」
「無論で御座います。これは助かります」
「あと、塾の子供等も十一歳以上は伝令、物見として陣屋で使う。我等に対する報告は彼らを使え」
「邪魔になりませんか」
「なんの。秋には、塾の模擬戦が待っている。伝令、物見のほか、飯や水を運ぶなど格好の経験になるだろう」
「わかりました」
「明日、寅の刻より食事飲み物、全て本陣で手配する。幼子は村長の屋敷に集めて四人に一人母親がつけ。嵐が収まれば引き続き出荷作業をするので家には帰らず、陣屋、組頭、名主の家屋、五の蔵にて泊まれ。これより村長は協議して組を編成し、道具の過不足を調整せよ。しかる後に住まいを補強し明日未明からの刈り入れに備えてよく休め。不足のもの、不明の事項があれば、我が直下の組頭に聞け。以上である」
村長と組頭が集まり手筈を決める。
村長の一人が、
「前に、田の水を抜けと統領が言われたのはこのためであったのだろうか」
田の土がぬかるんでいるのと乾いているのでは、稲刈りの速度と疲労に雲泥の差が出る。
「そこまで読んでおられるとしたら、小夜様は最早鬼神の技をお持ちではないか」
「しかし問題はこの後の
田起は田植えの前の春の風物詩だ。
だが、百姓にとっては最も辛い労働の一つになる。
このときまで田起は水を張った状態で行うのが最良とされていたからだ。
小夜の父八郎太は、稲作の工程を細かく分析して、労力と効果の関係について調べていた。
小夜はその記録を読み、問題の解決には解決できるものを作れば良いと、思い至ったのだ。
組頭の一人から田起のことを訊かれた小夜は、まだその形が朧気なので「先のことは案ずるな。今は目先のことに全力を尽くせ」そう言って笑った。
与一とくめが陣屋に来た。
与一は厨房の指揮と、懸かりを受け持つ名主宅への糧食を手配し、くめは記録と、届いた報告の整理をする。
「家、店の補強は良いか」
「抜かりはございません」
そう言ってくめは鉢巻きとたすきを取りだし、与一は広間に寝場所を造る。
「鬼王とひな菊はどうした」
くめが振り返る方を見ると、ニコニコと笑うひな菊に着物をしっかり握られた鬼王丸の姿がある。
「あの手を些かも離そうと致しませぬ」
くめが溜息交じりに訴えた。
気懸かりな一点を除き、その方が良いだろうと判断した小夜は、
「ひな菊。その手を離しては成らぬぞ。離すと鬼王はどこぞにいってしまうかもしれぬ」
「はなしませぬ」
「鬼王丸。此度はひな菊を放って置くな。必ず眼の隅に置いて守れ」
「わかりました母様」
「ひな菊が鬼王を守るのです。小夜様」
「おおそうか。では頼むぞひな菊」
「満面の笑みで「はい」と答えるひな菊に小夜が頬摺りをする。
「むふー。かわゆい」
くめが「鬼王丸ちゃんの足手まといになりますよ」という。
「それで丁度よい。嫌がってもおらぬし」
「では」と一礼して与一が厨房に行った。
くめは、村長から届けられた懸かりの編成と采配者の組頭を襖に書き写して表にしていく。
全ての準備が整い、それぞれの場所で明日に備えて身体を横にした。
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