声を追う


 忘れられない声がある。

 何かを悔いている、男の人の声。

 初めてその声を聴いた時、あぁ、なんて弱いんだろうと思った。

 弱くて、素敵な声。

 当時の私は幼く、今よりずっと語彙が少なくて。

 ──脆い、という言葉を、知らなかった。


◆◆◆


 男の人の声はずっと頭の片隅に残っていて、時折再生しては、溜め息を溢す。

 声が聴けたのは一度きり、次の機会は訪れず。

 叶うなら、もう一度聴くことはできないかと思いながら、日々を過ごしていた。

 名前も知らない、誰か。

 調べる術は私にない。

 せめて夢で会えないかと、愚かな願いを抱きながら、ベッドに横たわり、瞼を閉じる。


 黒。

 暗転。

 闇の中。


「物好き嬢ちゃん、あいつに会いたいのかい?」

 耳元で声がする。

 瞼を開けるも、周囲の暗さは変わらず。

 だけど自分の手を始め、胴も脚も、髪の毛すら視認することができる。

 横たわっていたはずなのに、今は自分が立っていることも。

「会わせてやらなくもないよ」

 話し掛けてくる声は続く。

「本当に会いたいなら、ついてこい」

 自分以外には誰もいないはず。

 辺りを見回しても見つからず。

「下だよ、下」

 言われて見れば──犬がいた。

 小さなゴールデンレトリバー。

「こっちだ」

 当たり前のように人の言葉で喋り、普通に四足歩行で前を進む。

 一瞬呆けるも、後に続く。

 犬にはついていかなければいけない。

 それが絶対だから。……何故か知らないけど。


◆◆◆


 犬は私を色んな世界につれていき、色んな人のいる所に案内した。


 ある時は世界を見守る少年の元に。

 ある時は野望を抱く王族の元に。

 ある時はクソ真面目な侍の元に。

 ある時は生意気な営業マンの元に。

 ある時は異形の存在と向き合う青年の元に。

 ある時は大切な物を守る軍人の元に。


 こいつだろうと言ってくるが、そのたびに私は首を横に振り続ける。

 確かに声は、あの男の人によく似ている。

 でも、違うのだ。

 同じだけど、違う。

 私が忘れられないのは……あの声の人だ。

 私は犬の制止を振り切って、走り出す。

「そっちは駄目だ! そっちの奴らは……」

 闇雲に走る。

 悲しいものが目に入る。


 死体。

 死体、死体。

 死体、死体、死体。


 命が消える寸前に、溢れた声はあの人と同じで。

 でも、違う。

 違う、けど、悲しい。

 私は走り続ける。


◆◆◆


 どれだけ走っただろう

 私は見知らぬ場所にいた。

 話し声がするのでそちらに行く。

 誰かと誰か、そして……。

「──!」

 近寄ろうとするも、服の裾が何かに引っ掛かる。

「行くな! それは見るな!」

 犬の声。

 犬が私を食い止めているらしい。

「離して! 声を聴かせて!」

「これ以上は駄目だ!」

 思いの外強い力で、犬は私をどこかに引っ張っていく。

「これ以上は、知らなくていい!」

 引っ張られ、引っ張られ。

 一際強い力で引っ張られたと思ったら、地面に叩きつけられて。

 意識を失う寸前に、誰かの泣き声が聴こえた。


◆◆◆


 母に激しく揺さぶられ、私は目を覚ます。

 起床時刻を過ぎてしまったらしい。

 母に怒鳴られながら、朝の支度をする。

 私はもう中学生で、一人で起きなければいけないのだから、あまり母を煩わせるな、とのことらしい。

 うるさい小言を聞き流しながら、今日も私は、あの人の声を再生する──けれど、寝ていた時のことを思い出すと、再生が止まる。

 悔しい。

 もう少しであの人の声が聴けたのに。

 あの人に会えたかもしれないのに。

 犬が邪魔をしなければ。

 忌々しい犬を思い出そうとして、気付いた。


 あの犬もまた、同じ声で喋っていたな、と。


 家を出て、学校に向かう。

 教室に着くと、隣の席の友人が瞳を潤ませていた。

「どうしたの?」

「あ、えっと」

 友人の手には、ブックカバーの掛かってない本が。

 その表紙を見て驚いた。


 そこに描かれていたのは、私が探し求めていた声を持つ、男の人だったから。


「これ、アニメでやってたから買ったんだけど、あのね、この表紙の」

「言わないで」

 友人は口をつぐむ。

 私はじっと表紙を見つめた後、友人に訊いたのだ。

「そのタイトル、なんて読むの?」

 財布の中にどれだけお小遣いが残っているか思い出しながら。

 犬が止めてきた理由を察しながら。


 今はただ、一方的な再会を喜ぼうと思う。

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