1ー12
部屋に入ると、机の上のティッシュ箱から、パキッと軽い音が聞こえた。上から覗いてみると、ミニチュア机の上にビスケットが不規則な欠片となって積み重なっていた。そのビスケットタワーを完成させた当の本人は、リスのように頬を膨らませながら頭上を見上げる。
「ん、もふぉってふぃふぁのね」
「口の中を空にしてから喋ろうか」
たぶん「戻ってきたのね」と言いたかったのだろう。もふぉるってなんだよ。
時刻は夜10時を過ぎたところ。
彩音と一悶着あった後、母さんに晩御飯で呼び出された。部屋に彩音を残すことを躊躇ったが、当人から「私は大丈夫だから」と食事を優先するよう勧められた。
もし部屋に居残ると、昼間のように危うく彩音が見つかってしまうかもしれない。そう判断した僕は、「すぐ戻るから!」と残して部屋を離れた。
そして夕食と入浴を30分で済ませ、急いで戻ってきたところ、彩音の夕食に鉢合わせた――という経緯で今に至る。
「そのビスケットって、ひょっとして茉由から盗んだやつか?」
「うん。雪村さん家でも似たような感じで食料は確保してたから」
盗んだ、と言っても茉由に大きな実害があるわけではないことを共に理解しているので、そのことは黙認して話題を転換する。
「そういえば、コレを1階から持ってきたんだ」
パジャマのポケットを
「なるべく彩音の就寝に合わせて消灯するつもりではあるけど、万が一のためにこれを部屋に置いときたいんだ」
「確かに、照明器具が無い部屋ってのは変かも」
アイコンタクトで位置を決め、ベッドの傍に立てる。見た目の堅苦しさに反してかなり軽いので、彩音も簡単に持ち運べるだろう。
「じゃあ……そろそろ寝るかい?」
「そうね、折角だし買ってもらったパジャマに着替えてから寝るよ」
そう伝えて、ビスケットをもう1欠片咀嚼した。
口をモゴモゴしながら手作りドアをくぐった先、たくさんの服が積まれていた。
服の山に両腕を突っ込み、数秒してパジャマを取り出す。黄色のチェック柄で、寝る前にピッタリの目に優しいデザインだ。
もちろん、着替えるところを見るわけにはいかないので(そしたら今度こそ本気で変態認定されてしまうから)、ベッドに向かおうとして、ふと足が止まる。
「……そういえば彩音、風呂は?」
「へ?」
腕にパジャマを架けて部屋へ歩みを進めていた彩音が、素っ頓狂な返事を飛ばした。
「そっか、この1年まともにお風呂に入ってないから、忘れてた」
「えっ」
「……って、別にこの1年間身体を洗ってないわけじゃないよ?雨が降ったときに外に出たり、深夜コッソリ洗面台に忍び込んだりして不定期に洗ってたんだよ?だからそんな目で見ないで!」
「いや、別に引いてるわけじゃなくて……」
僕がどんな目をしてるのかは分からないが、引いてるわけではない。ただ、彼女の容姿に疑問を抱いたのだ。
彼女の言葉は本当だろうが、それにしては髪も肌も綺麗過ぎる。艶めく黒い長髪は見ると吸い込まれそうなほど流麗だし、肌は触るのを躊躇われるほど繊細な人形のよう。とてもじゃないが、1年間まともに風呂場で手入れをしてない身体のようには見受けられない。
「もしかして、小人になったのと関係あるのか……?」
「お風呂かぁ……どうしよっかな」
こちらの疑問を
本来なら彩音の判断に委ねるところだが、ぶっちゃけ返答は目に見えている。だから、先にこちらから提言することにした。
「入りなよ、せっかくだし。今用意するから、待ってて」
「え?で、でも……」
「いいよ、気にしないで」
やはり遠慮してきた。しかし、有無を言わせず僕は部屋を離れる。
背中に小さな視線が刺さった気がしたが、まぁ気のせいだろう。
※※※
数分後、母さんと茉由の目を盗んで様々な風呂道具を持ってきた。
「名付けて『彩音用ハイブリット浴槽セット』だ」
「何食べたらそんなダサいネーミングが出来るの」
辛辣な評価に苦い顔をしつつ、セット内容に目を向ける。
残念ながら即席でシャワーを用意することは出来なかったが、とりあえずキッチンのプラスチック製ボウルにお湯を張って簡易湯舟の完成だ。風呂場から直接
そして、ハンドタオルを2枚持ってきた。但しこのままだと大きすぎるので、1枚をハサミで半分に切ると、
「ほら、これで小人にとってのバスタオルに早変わり」
「す、すごい・・」
言葉を失って目を輝いてもらえるとは思わなかったので、少し鼻が高くなる。
「もう一枚は湯舟の下に敷いておく。これでもし水が溢れても、机が濡れる心配は無い」
僅かだが、これで一通り入浴を楽しめるだろう。明日からの対策を考えておかないとな……。
「ありがとう、すごく嬉しい」
両手を胸の前でギュッと握り、伏し目がちに微笑んで感謝を伝えられてしまった。あまりに純粋な可愛さに見惚れてしまう。
「……今度は、泣いて喜ばないのか」
「茶化さないの。……ねぇ、どうして、私にそこまでしてくれるの?」
身体をこちらに向け、笑顔で尋ねてきた。その可憐な表情に意識の全てが奪われてしまう。
——どうしてそこまでするのか。
当然の疑問だ。今朝出会ったばかりで、まるで非現実な存在である彼女に、僕がここまで時間を費やす理由。謙遜する彼女を静止してでも、手を尽くす理由。
今、ここで答えるべきだ。もう機会はない。
「もし、不愉快にさせたらごめん。——君は、この17年間、『平凡な日常』というものを過ごせなかったんだと思う」
これは彼女から痛切に告げられた事実だ。もはや否定する余地などどこにもない。
「でも、君は『平凡』を拒んでるわけじゃなく、むしろ望んでいる」
表情、言葉、瞳、そして何より彼女の——が、そんな瞬間を求めていた。それは決して傲慢なんかじゃなく、清く美しい願い。
「こんなの綺麗事だ。僕のエゴで、自尊心で、自分勝手な考えで、君に日常を届けたいと思った。特別充実した記念日なんかじゃなく、ありふれた日常を」
我が草津家において、僕は兄だ。だから人に世話を焼くのが好き。そして、彩音を手伝った。——そう、言い聞かせていた。
でも、違った。
「当たり前だと思える日常を……楽しいことも嫌なことも起こるありふれた日常を、君に過ごしてほしい。だって、それが彩音の望みだと信じてるから」
幸せを噛み締めて、喜びを享受する彩音を見て、一緒に笑っていたい。そう一方的に願っていただけ。
「———私は」
ほんの数秒、しかし僕にはずっと長く感じられるほどの間を挟んで、鈴が鳴るような彩りの声音が届く。
「私は、日常なんて考えてもなかった。笑って過ごせる毎日なんて、想像もできないよ」
手を伸ばしても届かなかった時間。それを想像するのは、厳しい話だろう。
「でも、今日康平と1日過ごしてみて、気付いたの。私はありふれた日常を、切実に望んでる。私の心が、本能が、そして——」
柔らかく握る手を
「———魂が、望んでる」
——この瞳の輝きを、お前が守れ。
あの時、魂がそう叫んだ。
あの輝きは、彼女の魂だったのだろうか。だから、僕の魂が共鳴したのか。
そんな現実味のない想像は、しかし不思議と間違ったものには感じられない。
「無意識に望んだ、私の日常。それは、今日から始まるの」
笑みを溢し、頬に朱を注ぐ。これから始まる彼女の物語に、高揚してるように見えた。
「でも、そんな日々には、康平が欠かせない。だから——ずっと傍にいてくれる?」
謙遜したいところだが、僕が必要なのは当然だ。だからこそ、自尊心が満たされてるわけで。
慈愛に満ちた温かい問いかけに、僕は飾らず答える。
「役不足にならないよう、頑張るよ」
軽口混じりに、思ったまま。
装飾なんて必要ないし、そんなのは無粋だろう。
だってこれが、いつもの日常だから。
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