神獣の飼い方

一沢

第1話

 海に落ちた。それだけは覚えている。

「誰に落とされたの?」

「わからない」

 そもそもここは海なのか。決して海岸には、見えない。

 水晶の海。形容できるとすれば、それ以外ない。

「‥‥綺麗なところ」

 薄れていく視界でも、わかるほど、光り輝くそこは、死ぬに相応しかった。

 水平線の彼方まで見えるのはプリズムが冴え渡る『海』。そして、海中から突き出るように、水晶でできた樹木がいくつも青い果実を実らせている。

「気に入ってくれた?」

 上から覗いてくる『ヒト』が手を突き出す。この身体に影が出来る。

「ほら、見て」

 顔のすぐそばで開かれた手には、今も振っている雪のような水晶の破片が積もっている。

「大丈夫。吸っても平気。あなたは、もう、大丈夫だから」

 手のひらの水晶を吹きかけてくる。喉に張り付く感じも、ましてや息苦しさもない。だが、吸うたびに、意識が朦朧としてくるのは、確かだった。

「名前は捨てていい。ここに来たあなたには、もう不要なもの。私があなたの役目をあげる」

 呟くように、無表情に、語りかけてくれる。

「それとも。まだ、ここには来たくなかった?」

 寝返りを打つことすらできない。ただ、目で伝える事しか出来ない。

「そう。諦めたの。役割もいらない。全部捨ててきたの」

 白い服に白い肌。興味深そうにしている言葉とは裏腹にやはり声色も顔もただただ無表情だった。なのに、俺から離れようとしない。新しい玩具を見つけた。そんな雰囲気だ。

「では、なぜあなたはここに?」

「—―何もないから」

 中身が無くなった。吸い取るものが底を尽きた。ただ消耗品として捨てられた。

「いらないって、言われたの?」

「何も、何も言われなかった」

「そうなの?」

「何かあるように、見えるのですか?」

「—―ええ、何もないのね。そう、本当に何もないのね」

 興味本位で手をかざしてくる。

「不思議。あなたも真っ白なのね。—―お揃い」

 ようやく表情を変えてくれた。だけど、それも明かりを消したように見えなくなる。

「目を開けて――私だけではつまらない」

 顔に何かがかかった。

「これは‥」

 水のようだったが、違う。顔に触れた瞬間、皮膚に全て吸収された。

「もう少し起きていて」

 目を開ける力も消え失せた筈だった。なのに、もう一度目を開ける事が出来た。

「‥‥あなたは‥」

「私?私は――」

  そこで止まってしまった。

「まずは挨拶からさせて。はじめまして。私は‥そう‥あなたは私の端末」

 そう意味が一瞬でわかった。俺は――寵愛を受けてしまった。

「‥そうですか。俺は、あなたの血を浴びたのですね」

「そう、驚いた?」

 身体を半分覆っている水晶の水を、すくって顔にかけてくる。

「これであなたは私の破片。私で満たしてあげましょう」

 冷え切った容器に溺れそうな程、水が溜まっていく。吐き気がするほど、注いでくる。そんな様子に気付いているだろう。だが、水晶を注ぐ事をやめてこない。

「面白い。まだ砕けないなんて。—―いつまで持つの?」

 危険な爆薬をなみなみと満たす行為と同じだった。ただの道楽の一つとして、遊んでくる。早く逃げればよかった。早く止めればよかった。だが、もう遅い。

「そう。まだ平気。なら、あれはどう?」

 指を差す方向を眺めてみる。そこには水晶の樹木がある。

「あれなら、あなたを満足させられる。—―あなたを私の同胞にできる」

「‥‥なぜ‥」

「なぜ?折角、果実があるのだから、手に取ってみたくはならない?」

 寄せては返す波に、人差し指で水紋を作る。遠くにある筈の樹木が揺れているのがわかる。その揺れが強くなり、青い実を付けていた枝が折れて、そのまま海に落ちてしまう。虹色の飛沫を上げて沈む青い実は、見ごたえがあった。

「あれでは手に取れません」

「その手で掴む気だったの?」

 海から青い実がせりあがってきた。青い実を掴んでいるのは、まさしく手だった。

「—―あれは」

 掴んでいる手も水晶だった。だが、透けて見える指の中を白い血が通っているのがわかる。

 大きく波を作って、それが迫ってくる。逃げる事は許されない。

「あなたは耐えられる?それとも、また諦める?」

「諦める」

「それではつまらない。私の破片なら、耐えてもらう」

 遠くに見えていた青い実は、近づけば近づくほど巨大だった。それに比例して、水晶の腕もまた巨大になっていく。白い血管が、確かに見えてくる。

 果実が作り出す波とは思えない身の丈を越す波が身体を何度も包んでくる。

 だが、苦しくなんてない。身体が馴染んでしまった。空気のように感じられる。

「人間があれを食らうのは、あなたで二人目」

「食べたくない」

「大丈夫、私が食べさせてあげる」

「まずそう」

「美味しいものではないけれど、食べてもらう」

 選択の余地はないようだ。血を浴びた瞬間、契約を果たしてしまったらしい。

 包んでくる波を見つめる。虹色の光越しの波も虹色に輝いている。不純物など一切ない。あるのは光とむせ返るような強い圧力感。

 人間が触れていいものではなかった。飲んでいい物ではなかった。

 そして、巨大な影が――

「さぁ、食べて」

 真横に迫ってくる果実が手によって砕かれる。中から青い果汁と生まれる筈だったものが噴き出てくる。

「‥‥いいのですか?」

 それはまだ形が出来上がっていない新たな生命だった。新たな、生き物だった。

「これは失敗作。だから、あなたにあげる。ただの力として食べて」

 流れつくそれを一切れ、手に取って見せてくる。確かに、美味しそうには見えない。

「食べて」

「‥‥いただきます」

 口に付けられた肉片を一口食べる。

「食べて」

 言われるがままに口を付ける。身体が変わっていくのがわかる。

 胸が開いていく、背中が割れていく、あたまから新しい部位が生えていく。

「まだまだあるの。失敗作は、これだけじゃない。—―あなたの中で混ぜて」

 次々と青い実が届いてくる。一つを平らげた時、あらたな青い生命が口に運ばれる。辺りが青一色に染まっていく。身体中に青い血が染み渡るのがわかる。

 自分の咀嚼音だけが響く。失敗作などと言われているそれらは、見た目通りならば意識などない。だけど、確かに生命力とでも言うべき力を感じる。

「お疲れ様」

 口に運ばれる肉が消えた。

「足りない」

「でも、もうない」

「あなたがいる」

 見上げて、白い顔を見つめる。だが、額を突かれた。

「私を食べるの?そんな事をしたら、あなたを内側から喰らってしまう。そうなったら、あなたに食べさせた意味がなくなってしまう。そうなってはつまらない」

 散々俺にこんな不味いものを食べさせておいて、これか‥。わがままだ。

「だけど、出会いの祝福が物足りないではつまらない。—―特別に血をあげる」


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「戻ってきたのか」

「戻れるなら、戻れと言ったのはあなただ」

 数か月ぶりの学院は、想像以上の慌てふためき様だった。

「貴様は貴い儀式に参加したのだ。諦めて死にたまえ」

 誰が選んだのか、誰に推薦されたのか、もう興味もない。俺はこの学院に選ばれて生贄となった。儀式とやらが成功したのか、どうかも興味がない。

「最後だ。どうやって戻ってきた」

「果物を食べた」

「そうか、その意味はあとで調べさせてもらおう」

 教授の部屋に飾られた絵画から、黒い影が生えてきた。それが腕の形となり、顔を横なぎに殴りつけてきた。砕けたのは腕の方だった。

「—―どこに、どこへ行っていた?」

「水晶の海」

 座っていた肘掛け椅子が真後ろに跳んだ。無論、教授が座っていた椅子を教授自身が弾けと飛ばした。

「果実、だと‥。貴様‥まさかっ!?」

「知っていたのですね。もしや、それが目的ですか?」

「—―嘘だ。私達が、私達が500年かけても辿り着けない神域に、貴様が‥?」

 神域か。あそこにいたあの人が神と呼ばれるのなら、この世界は随分と過保護に育てらてれいるようだ。あの方はつまらないと一蹴していた。

「果実の中身は――?」

「自分で確かめて下さい。失礼」

 背中を向けて、部屋から出て行こうとした時、背中にもう一度腕が振るわれる。

 それがなんなのか、長く教授の元で師事していた自分であるからわかった。

「‥‥この術は黄金の秘術だぞ‥。なぜ、立っていられる?」

「それは人間が人間に使う術だからです。あなたが言っていた事。—―せめて明かりを付ける術を生み出してから、物を言って下さい」

 何も媒介がない空間に、長時間の明かりを付ける。それは、火を扱える唯一の種族、人間でも辿り着けなかった聖域だった。




「それで、どうやって帰ってきたんだ?」

「みんなそれを聞くよな。なんでもいいだろう」

 引っ越し作業とは面倒なものだ。魔に連なる自分達にとって、引っ越しとは生涯に数度、一度もしない事すらあり得る大仕事だった。

「引っ越しを手伝ってるこの俺、イッケイには、言うべきじゃないか?」

「—―なんとなく聞いてるだろう。詳しく言う訳にはいかない。お前だって知ってるだろう?俺達にとって、異世界での出来事は秘するもの。自分で行って来い」

「簡単に言うなよ。—―騙し騙されってのは、ここでは日常茶飯事だけど、教授連中が揃ってお前を捧げて結果、今の抗争だぞ」

 窓枠に腕を置いて、溜息を吐いてくる。確かに、見ていて清々しい気分になる。

 あの教授は長く、学部長を務めた魔人だが、その地位も、危うくなっている。

「学部長同士の抗争なんて、そうそう見られるもんじゃない。先輩に言ったら物見遊山に戻ってきてるぐらいだしよ」

「ああ、だからか。二年の先輩ならまだしも、三年までいたのは。俺達新入生を祝福しに来たのかと思ったよ」

「思ってもねぇ事を。祝福を掛けられるなら、自分にしてるって、言われるだろうよ。—―そろそろ休憩しないか?ていうか、俺の方も手伝えよ」

 言われるままに時計を見つめる。確かに、そろそろ昼の時間だった。

 朝から寮を移る作業をしていたというのに、2人分の荷物を移動させるだけで済んでしまった。本当は、家具の配置も話し合いたかったが、そうもいかないらしい。

「なら、外に行くか。食堂も、今日は休むらしいし」

 別に同じ部屋、という訳じゃない。だが、家具の配置一つとっても研究や実験、そして精神的な意味でも、落ち着ける部屋を完成させるのは、魔にとって必須だった。

「面倒くせー」

「言えてるけど、中等部からだいぶ離れてるし、新しい店を開拓するのも、いいもんだぞ」

「それもそうか。先輩方の縄張りでも荒らしにいくか」

 見た目はただの街である、一つの巨大な学術都市。だが、その一部であるこの学院一帯は、魔に連なる者にとっての秘境。兼、魔術基地だった。




 魔に連なる者の鉄則、その一。ただの人間にはバレない事。ただし、仕事で組む事となったオーダーの人間には、これを例外とする。ただし出来れば、後で記憶を消すべし。

「‥‥結構、多いな」

 近くにある飲食店を街を歩きながら物色するが、大方が満員御礼だった。

「考える事はみんな同じって事だ。どうするよ?寮に戻って何か作るか?」

「身軽になる為にって言って、全部食っただろう」

「あーそっか‥。忘れてた‥。—―腹減ったなぁ」

 いい加減、腹の虫が胃を溶かしてきそうだった。何も食べてないのに、胸焼けがする。—―もしかして、これは病気か?

「どうしたよ?」

 気付かないで止まっていたようだ。腹を押さえていたので、心配させたらしい。

「胃酸が‥」

「薬学部の人間でも連れてくるか?」

「頼むかもしれない」

 止まっていた歩みを再開して、肩を叩く。小声で「中年か」と言われたが無視する。

 今日は入学休み最後の日だったので、無理して時間通りに昼を取る必要はないが、ここまで飲食店が満員であると、どこかの誰かの術なのかと思ってしまう。

「鏡界か何かか?ここは」

 まるで意図的に、学生たちを飲食店に集中させるかのような状況に違和感という名の怒りを感じる。だが、鏡界は自分にとって都合がいい世界に放り込む事なんで、この使い方は出来ない。できるとすれば、とっくに講師か教授になっている。

「なら、使い手は店長とかオーナー達だ。もしくは、雇われた同類かも」

「バイトかよ。俺らを雇う飲食店って、どれだけ危ない橋渡って飯屋やってんだよ」

「わからないぞ。この街で店を開くって事は、どれだけの覚悟を――」

 急に同じように、腹の辺りを押さえ始めた。

「どうした?イッケイ」

「—―悪い、ちょっと寮に戻ってる!!」

 声をかける前に先ほど歩いてきた道を戻ってしまった。

 この街は四つの区間に分かれている。北部は山林地帯で、自然が必要な実験場等が揃っている。西部は俺達魔に連なる者の秘境。南は海に面した水上航路。東部は普通の学校。進学校がある、と言われている。正確には、わからない。

 なぜなら、俺達がいるからだ。どの区部も、隠された秘境があるかもしれない。

「なんだ?一体」

 振り返って背中を目で追うが、揺れる紺色の制服が周りの学生達によって消えてしまった。

「どうでもいいか」

 興味を持って追いかけたら、その場で殺し合いになるかもしれない。魔に連なる者同士の付き合いとは、そういうものだと、身に染みてわかった。

 ただ、表面上はオーダーと組んでいるので、見に見えての殺人や生贄は禁止となった。バレたら、オーダーの物量で殴られる。その時こそ、この秘境は解体される。

「さて、どうするか」

 見慣れた街並みを歩いて、溜息をついてみる。個人で商売をしているカフェやベーカリーすら満員だった。学生相手という事でランチを出しているのが功を奏している。目抜き通りたるここが、ここまで学生であふれていると、活気があって見える。

「‥‥帰るか」

 適当にマーケットにでも入ってパスタでも買おう。出来ればひき肉でも買えれば、それで昼は事足りる。そう思って、同じように来た道を戻ろうとした時だった。

「ねぇ」

「—―わかってる。もう引っ越しは終わった」

「その割に随分余裕そうに見えるんだけど?身体はいいの?」

「こっちに慣れるには、こっちの食べ物を食べるしかない。忘れてない」

「なら、いいんだけど」

 知る人ぞ知るこの目が特徴的だった。真緑のそれは、ネクタルを摂取した弊害だとされている。そして昼間に出歩く事を見るのは、初めてだった。

 それどころか自身が所属するカレッジからそうそう出ない事で有名な部門の人間。異端解析部門の人間とは、自身も異端でなければならない。ネクタルと呼称されたそれすら、本当に知られている薬酒なのか、誰も知らないほどだった。

「そっちはもう終わったのか?」

「もうとっくに終わってるけど?」

「なら、昼でもどうだ?」

「—――へぇ、いいんだ」

 指を口に付けて微笑んでくる。

「いい兆候だね。契約通り、私に付き合ってくれるんだ」

「そういう契約だっただろう。それとも都合が悪いか?」

「—―いいよ。私の部屋に来て」

 歪んだ笑顔のまま、手を引いてくる。お陰様で、周りから白い目で見られる。もっと言ってしまえば、噂は本当だったのかとざわついているのがわかる。

 こちらに俺を呼び戻した術者。一口に魔女と言ってしまえば、それまでだが、今も手を引いている彼女は紛れもなく召喚士だった。






「神の一欠けら、神の力、神の血。そう言うと、特別に感じない?」

 朦朧としていた意識が徐々に戻ってきた。一体何をしていたのか、着ていた制服や下着の類が全て椅子にかかっている。それだけじゃない。テーブルの上には血の結晶が見える。—―また、禁忌を犯したのか。どうでもいいが。

「もう起きていいよ。それとも、まだ協力してくれるの?」

「‥‥構わないぞ。もう少し横になっていたい」

 目をつぶるが、鼻に届くチーズの香りに、自然と目が開いてしまう。

「食べないの?ていうか、食べてもらわないと困るんだけど。まだ、協力してくれるんでしょう?私の神獣さん?」

「ああ‥食べるか」

 起き上がって、改めて今の自分の姿を見つめる。

「‥‥なんか、濡れてるんだけど。何やった?」

「聞きたいの?いいけど、戻さないでね」

 自身が使っているらしい暖色系のシーツが使われたベットから起き上がる。その瞬間、恥部を隠していた布が落ちる。本当に全てはぎとられたのか。

「あのさーせめて隠してくれない?」

「自分で脱がしといて、何言ってるんだ?悪いけどシャワー借りるぞ」

「本気で言ってる!?今やっとできた、ていうか、普通女の子の部屋のシャワー借りるとか、軽々に言う!?」

「人の身体べたべたにしといて言うか?後で謝るから、借りるぞ」

 自分で脱がしたのだから、俺の全裸など見慣れている筈なのに、顔を両手で隠してもう俺がいない方向に文句を言っている。ならば、と容赦なくシャワールームに入る。

 中は脱衣所が先にあり、その奥にシャワールームがあった。魔に連なる者にとっても電化製品は生活と切っても切れない関係が構築されている。

 よって、洗濯機の中にかぶせてあった布切れを放り込み、すりガラスを開ける。

「‥‥いい匂い」

 彼女自身から香っていたものは、ここで精製されているらしくかった。毎回ブレンドをしているのか、シャワーヘッドが設置されている壁とは反対にある浴槽の壁には、花や草、そして木の実や果実の油が所狭しと並んでいる。

「勝手に触らないでね!!」

「気を付けるよ」

「絶対だからね!!」

 そう言われると触りたくなるのが、この神獣だった。何より、他の魔に連なる者の部屋に入ったのだから、何かと物色してくなるのは、元人間でも変わらない。

「‥‥これ、苺か?」

「それはバラ!!苺はバラ科なの!!いいから、早く出て!チーズが固まっちゃう!」

 適当に手に取ったボトルから、苺の甘い香りがした。少し手についてしまったので、試しに肌に塗ってみる。—―悪くない。

 だが、これ以上時間を取らせると、シャワー室ごと爆破でもされそうなので、諦めてシャワーヘッドを手に取る。やはり一体何をしていたのか、胸や腹部がべたついて仕方ない

「それで、俺はどうだった?」

「どうって?」

「お眼鏡に叶ったか?」

「当然!!忘れたの?君の中にあるのは、誕生する筈だった世界の切れ端。神喰らいをしてきた君は、完全に人間から外れた生命体。ふふふ‥無理をして君を呼び戻して正解だったよ‥。まさか、創生の彼岸に流れついてるなんて――神はどうだった?」

 本当に楽しそうに、心の底から嬉しそうに聞いてくる。

「‥‥わがままな方だったよ」

「それだけ?」

「目が覚めたら、こっちだ。あんまり話せなかった」

 嘘をついた。俺はあの神とも言えない『何か』としばらく生活していた。けれど、その記憶は思い出そうとすると、手繰り寄せた端から消えていく。

「ふーん、なら、なんでわがままって、覚えてるの?」

「前に話した通り、向こうで目が覚めたら、急に加護を受けて、青い実を食べさせられた。失敗作とか紹介したものを、端から端まで食べさせるんだ。俺で処理させてるみたいだったよ」

 具体的に、あの青い実をいくつ食べてのか、もはや思い出せない。膨大だったのか、それともそこまで多くなかったのか、どちらにしても思い出せない。

「‥なぁ、本当に俺は」

「間違いなく、君は世界と神を食べてきた。わかる?君の身体、人間どころか、黄金の人種でも辿り着けない境地を、ほんの数か月で越えて戻ってきた」

「でも、そんな気、全然しない」

 シャワーを浴びている手を開いて、手のひらを見つめてみる。

「それは――いいから早く出てきて、話の続きは食べてから」

 もしかして、今日は自信作なのか。すりガラスを叩いて催促してきた。






 チーズと生クリーム、そして卵とパスタ。手作りカルボナーラとは、一体何年ぶりだろうか。チーズの香りが鼻に届き、食欲をくすぐってくる。

「どお!?」

 同年代と比べても、大きく膨らんだ胸を更に張ってくる。制服のボタンが弾け跳びそうだった。

「食べていい?」

「仕方ないね。いいよ♪」

 その言葉と同時に、カルボナーラにフォークを差す。この感触すら心地いい。回してフォークの絡みついてくる重さ、そして落ちていくソースが更に唾液を分泌させてくる。だから、迷いなく口にいれる。見た目通りのつよいチーズの味と生クリームの優しい甘み、そしてパスタの歯触り。どれをとっても完璧だった。

「感想は?聞くまでもないって感じ?」

 声を発するのも、口を開くことさえ最小限にとどめたい。無言でパスタに集中する。ちらりと、目の前にいる我が召喚士を見つめてくる。緑の瞳が不敵に歪む。

「味はどう?」

「美味しい!」

「舌に違和感は?」

「全然!」

「はいはい。成功したって事ね。上々上々」

 テーブルの上にあるタブレットを指で突いて、何かチェックを付けている。もしかして、危険なものでも仕込まれていたという事なのか?

「そっちはいいのか?」

「私?そんなに私と食べたいの?」

「いや、なんか、悪いなって思って。—―俺ばっかり世話になってるし」

 持っていたフォークを置いて、コップを手に取る。

 帰ってきてから、やっと街を歩けるようになるまで、俺はずっとこの人に世話になっていた。俺の為なのか、ネクタルを摂取をし過ぎて、初めて会った時よりも瞳が濃い緑になっている気がする。弊害などない、昔そう言われたが、変わっていくこの姿を見るには、やはり申し訳なさを感じてしまう。

「なら、そうしようかな?」

 困っている俺の姿を見て、心底楽しそうに、キッチンのフライパンからパスタを皿に盛り付けて戻ってくる。こちらよりも少ない量だ。

「リヒトが沢山食べるって知ってるから、遠慮してたんだよ。ふふ、私と食べたいなら、そう言えばいいのに」

 前々からそうだが、手綱を握られている気分になる。昔、イッケイからお前は餌付けをされていると言われた記憶があるが、まさしくそうなのだろう。

「それで、話の続きでもする?」

「‥‥なんだっけ?」

「はぁ‥神を食べてきた自覚の話。しかも、よくわからない神の眷属になってきたんでしょう?はっきり言うと、リヒト自身が自覚してようが、してまいが、そんなのもう関係ないの。自覚できないなら、それでいい。だけど、覚えておいて君は、私の使い魔で私の呼び出した神獣。もうまともな人間の生活は出来ないから、覚えておいて」

 ごくごく普通の事実だというように、我が主殿はおっしゃった。ならば、それを信じるしかない。もはや、俺には黄金の秘術すらろくに効かない。人間の使う呪術や神秘など、この身にはまるで届かない。人間のルールの中で生きるには、人間に従うしかない。教授との一件で、それがよくわかった。

「それは、わかった」

「そう、理解しておいて。それと、これからのリヒトの扱いについても」

 フォークを口に含んで引き抜いた姿に、どこか艶やかさを感じさせる。

「話した通り、リヒトは私と同じ異端解析部門に所属する事になる。わかってると思うけど、この時点で、もう魔に連なる者からは、逃れられないから」

「元々、逃げる気なんてない。逃げた所で、行く場所もないし、実家に帰ったら、なんて言われるか」

「あはは!いいじゃん!君、帰ったら当主の名代になるんじゃない?その時は私を支持してよ。それで、私の研究に援助してよ。そうしたら」

 その場合、二人で帰る事になる。本当に、俺と生涯添い遂げる事になる、そう言うと怒られるので言わないが、少しだけ、将来が明るくなった。

「なぁ、カタリ」

「ん?出資する気になった?」

「俺は、これからも生きられるのか?」

 目が覚めてから、すぐに訊いた質問だった。

 ただただ不安だった。考えるのも、知ろうとするも、恐ろしかった。

 リヒト、もうあなたは人間じゃないから。覚えておいて。まだ朦朧とする中、一瞬で意識を覚醒させるには、その言葉だけで、十分だった。

「不安なの?」

 問われたカタリは、やはり特段気にした様子もなくカルボナーラを食べ進める。つまらない事を聞くな。そう目で伝えてくる。けどれ、言葉で聞きたかった。

「カタリ、カタリが俺の主なら、従者である俺を安心させてくれ。俺は、どう生きられるんだ?」

「人間として生きられない。これから君は、神を喰らった獣として生きる事になる。だから――」

「だから?」

「リヒトは私の物にする。それでいい?」

「‥‥ああ、それでいい。ありがとう」

「どういたしまして。まだ材料に余裕があるから、足りなかったら言って。従者を食べさせてあげるのも、ご主人様としての役割だから」

 俺も安心して、パスタに戻れた。そして、いつものように食材が底をついたとの事で、お使いに駆り出された。



 創生の彼岸では、世界が作られる。なんでそれを知っているかというと、そこにいた白い神に訊いたからだ。では、どうして、彼岸で世界は造られるのか。それはそこが崩れ去った世界の切れ端が流れつく場所であり、白い神が唯一、切れ端を栄養にして、創生樹を成長させ、実らせることが出来るからだ。

 遺海文書の一節を自分なりにざっくりと理解してみた。

 だが、自分にはわかった。大切な一文が足りていないと。あの『神』と呼ばれているらしい存在は、ただの暇つぶしに樹をつくり、つまらないと判断したら、世界を捨てる事が出来る。創生の神など一つの側面に過ぎない。あの方の本性は破壊そのもの。

「ただの暇つぶし?—―それ、誰にも言わない方がいいよ」

「そうか?皆喜んでくれるんじゃないか?」

 お互い、頭の中だけで会話をする。カタリが知らない向こうでの所感を伝えた為、自慢げに口を歪ませてみた。心理的に言うと、ただの人間に物を教えてみる。

 だが、その態度が気に食わなかったようで、神獣様に向かって、ご主人様は、銀の腕で殴りつけてきた。本来、秘匿すべし手の内を平気で見せてくる。

「—―いいのか?」

「この程度、見せた所で問題ないから。どうせ誰にも理解できないわよ。それとやせ我慢が下手ね?」

 無理して殴られた頭を庇わずに歩いている姿を見て、あざ笑ってくる。

「神獣に対しての虐待だ」

「私の眷属に、私が何した所で何も問題ないでしょう」

 これから向かうべき場所は、講義室。よってカレッジの一つを歩いていた。ただでさえ人数が少ない異端学の校舎は、自然学の巨大なカレッジの三分の一程度の大きさもない。よって専用のカレッジに人が少ない少ない。にもかかわらず、ただ歩いているというだけで、人間から後ろ指を刺される。

 寮からカレッジに入る学院の敷地でも、酷いものだったが。

「人外にも人の術が通じてるって、思ってるみたいね。ふん」

 カタリの術が、人間の術の訳がない。なんの為にネクタルを飲んでいるのか、考えもしないようだ。そして、この銀から通常の腕になる姿を見ても、誰も感嘆の声を上げない。それだけ普通の光景なのか、それとも、考え事さえ無駄なのか。

「平気なのか?」

「何が?」

 立ち止まった俺を置いて、敢えて石材を用いて造られている床に、足音を立てて歩いていく。

「それとの契約。俺の為に」

「違うから。これはあんたが消える前から目指してた境地なだけ。それに、向こうは大人しく力を見せてくれたの。—―これは私だけが使える私の力」

 つまらない事を聞くなといった感じに、細い足をテンポよく動かして離れていく。

 その後ろを慌てて追いかけて肩を並べる。

「確かに、ネクタルを飲んでるのは、この力がまだ身体に馴染んでいないから。だけど、恒常的に何かを摂取し続けるのは、私にとっては常識。いいわかる?」

「わかるけど、カタリには――わかった。面倒な事は言わない」

 これ以上何かを言ったら、また怒られそうだったので、何も言わない事にした。

 それに、これ以上聞くと。俺がまるで――カタリを信じていないように見える。

「いい心掛けね。私の心配をしてる程余裕なら、これ」

 そう言って、自分が持っていた書物を渡してくる。

「これ、私には不要だから。本当は講義自体も時間の無駄だけど、初日から欠席したら、後々面倒だから、一緒に行ってあげる。その教科書もあげるから頑張ってね」

 俺も同じようなものを持っているが、カタリの渡してきたのは、違った。

「‥‥ありがとう」

「ふふ、私からの施しが嬉しいのはわかるけど、ここで泣かないでね」

 異端の力を使う者達は、基本的にどの学閥の理論にも通じない、自分だけの世界を持っている。魔に連なる力など、基本的に自身にしか理解できないものである事を差し引いても、カタリをはじめとする者達は。本当に世界の誰にも、理解されない。

「言っとくけど、それだって全部を網羅してる訳じゃないから。その身体に通じる力は、こっちの世界にはない。だけど、私みたいに、外の力を持ってる人間は別」

 廊下の終わり、目的の講義室の前に到着した。いつの間にか、周りにいた筈の群衆も消え、辺りは俺達だけとなっていた。

「覚えておいて、私はあんたを守る為に呼んだんじゃない。自分の研究の為、延いては私の身を守る為にあんたをこっちに呼び戻したの。いい?」

「‥わかってる。大丈夫、俺がカタリを守るから」

 渡された書物は、最近カタリがページを付けたした形跡が見えた。前よりも分厚くなっている。これはカタリの家が代々家宝として、受け継がれてきたもの。異端に属する力の大半を記した物。決して世に出してはいけない代物だった。

「期待して、待っててあげる」






 初めての講義で驚いたことがある。てっきり、大半がさぼるなり、使い魔を出してくると思ったのに、講義室には一年生達が揃っていた。カタリはせっかちな方なので、一時間前に来たというのに、俺達が一番遅かった。

「なに突っ立てるの」

 呆然と面々の顔を眺めていると、カタリが腕を引いて、教壇を中心としたすり鉢状の階段を上がり、開いている席の一つに座らせてくれた。

「しっかりして」

「ごめん。でも、まさか、こんなにいるなんて、思わなくて」

「‥‥そうかもね」

 カタリ自身も内心驚いているようで、隣の生徒や前に座っている生徒の後頭部を眺めていた。それに習って、首を動かさない程度に周りを見てみる。

 今まで、あまり接点がない生徒が大半だった。当然と言えば当然かもしれない。高等部に入学する前から、基礎学を抜け出し独自でカレッジに所属している生徒が多い中で、その中でも異端学という文字通り異端に属する人間、顔をほとんど見た事がないのは普通の事なのかもしれない。

 すり鉢教室の机は10段以上ある。少ないと思っていた一年の生徒達も全員集めれば、前3段を全て埋める事が出来るらしい。一段に10人だとすると、この教室には優に30人以上が揃っている。ちょっとした戦力だった。

「あの人が?」

「みたいね。本当に帰ってきてるなんて」

「みんな考えることは一緒か」

 後ろから声が聞こえる。わざとなのか、術を使う余裕もないのか、小声で話している。成程、みんな考える事は一緒。俺を見物に来たのか。暇人め。

「帰りたい」

「我慢して。今日は午前中で終わりだから」

 カタリに甘えてみたが、当然の如く却下された。つまらないと思い、窓を眺める。

 憎らしい程の青空だった。厄介だ。まだこちらの世界に馴染んでいないのに、こちらの世界は平気で俺を焼いてくる。カタリ以外、味方がいない気になってくる。

 そして、それは事実正しかったようだ。

「アイツ、自然学だっただろう。なんで、こっちに?」

「あれだろ。なんでもあの教授に喧嘩を売って、勝ったらしいぞ」

「‥‥その噂もマジかよ。この抗争も、やっぱりアイツが原因か‥」

 何を言われた所で、ただの人間相手に負けるつもりも、気にするつもりもないが、見世物扱いはごめんだった。俺もそれなりに努力して自然学の学部長の教室に所属したというのに、こちらに戻ってからは、往々にしてこういう扱いだった。

 優等生から打って変わって異端児扱い。気にした所で仕方ないが、つまらない。

「あんなの無視して」

「‥‥カタリ、俺は」

「呪詛でも、なんでもない。ただの噂話。そんな人間みたいな反応しないで」

「‥‥ありがとう」

 俺から顔を隠すように、肘をついて頭に語りかけてくれる。

 そうだ、俺はもう人間じゃない。ならば、人間の戯言など、聞くに値しない。

「ここの教授って、どんな人?」

 そう聞いた瞬間、カタリが大きくため息をついた。

「普通調べるとかしない。やっぱり、リヒト、戻ってきてから変わったように見える。そんな迂闊な真似、自然学に属してた時なら、絶対踏まなかった」

「その時の俺はただの人間だったんだろう?昔の俺とは違う」

 顔を向けてきたカタリに腕を組んで、格好を付けて言ったみたら、前触れもなく銀の指で胸骨を突いてきた。なんとか耐えようと、腕組みを続けるが、自然と涙が浮かんでくる。

「その顔に免じて、教えてあげる。ここの教授は、リヒトみたいに異界に飛ばされたって噂の人」

「噂か。どうやらただの人間みたいだな」

「何期待してたの?こっちの世界の大半は、ただの人間」

 不満そうに目を細めてくる。実際、俺が思うような反応をしなかったからつまらないようだ。だが、そのつまらない反応も、瞬時に代わる。肘を戻し、背筋を伸ばす。

 何が起こったか知らないが、カタリに従って、真似をする。そして、教壇を見ると、そこには人形が立っていた。ゴーレムの一種にして、もはや過去の遺物と言われている数世代昔の技術。なのに、その身からは、ただのオートマタとは思えない優雅な動きを感じられた。手に持つ教鞭の握りから、服越しの筋肉、全てが人間のそれだった。

「オートマタ‥」

「わかるようだな」

 口の中だけで呟いた筈の声に、恐らくは女性の物と思われる声で、オートマタが反応した。オートマタの姿は、黒いローブのような出で立ちで、頭には銀の髪留め。黒い瞳に黒い髪。鋭い目つきではあるが、無感情だった。まさしく人形の顔だ。

「この姿で失礼する。見知った顔もいるが、改めて自己紹介を」

 人形は自身の腹辺りに手を重ねて、形ばかりの肺に空気をため込む。

「今後、この教室で教鞭を取る事となる。名前は不要だ、私はここにしかいない。外で会う事もない。要件があれば、ここに来なさい。以上だ」

 自己紹介とも言えない、自身の機能紹介をした後、教鞭を両手で握った。

「私自身、気になる生徒はいるが、個人的な話は今日はしないでおこう」

 確実に俺の方を見た。

 だが、そんな感情的な反応が珍しかったようで、周りがざわつくのがわかる。そしてテーブルの下に置いてある手をカタリが握ってきた。

「目を合わせたままにして」

 頭の囁きに従って、大人しく目を合わせ続ける。

「‥‥いいだろう。では、初日の講義を始めよう」

 なんの事もなかった。ただ、目を合わせて頷かせる。それしかしていない。なのに、そんな俺や教授の反応が、再度教室の生徒達を驚かせたようだった。



 講義と言いつつ、今日はほとんど何もしなかった。高等部に入学しての心の持ちようやカレッジの施設紹介。強いて言えば、倫理に近い内容でもあった。

「魔に連なる者、この言葉を使う人間は、もはやほとんどいないが、我らを差す言葉でこれ以上、的確な言葉もないだろう。我らは、魔に並び、魔に付き従い、魔になる。魔という言葉はそれぞれが勝手に吟味したまえ。オーダーという組織は知っているな?彼らの言う所の秩序と同じだ。やはり勝手に自論を持ちなさい」

 最初から最後まで、一貫して無表情だが、意外と教育者然としている。内容自体は、各々が勝手に学べという話が大半だが、魔に連なる者にとって、放任主義とはある意味において、ありがたかった。必要があれば、会いに来い。そう言っている。

「当然、君たち同い年の人間であろうが、魔に連なる者にとって、魔の捉え方は全て違う。その結果、今起こっているような学院内の抗争が勃発する。抗争や争いをしろとは言わない。だが、君達がこのまま、魔道を歩み続けるならば、必ずや敵対者は現れる。そして向こうも同じように感じる。—―もう、敵対者が現れた者もいるな」

 意味もなく整えられている髪をかき上げる。仕草からみて、十中八九女性だ。

 足の開き具合、教鞭を持つ手の角度、極めつけは息苦しそうに首元を緩めた時に揺れた胸元。敢えてなのか知らないが、わざと胸をきつく締めあげているようだった。

「ほかの学部ではどうかわからないが、少なくとも、この教室では来年の今頃、生徒達が数人消えているだろう。脅している訳じゃない。単なる今までの事実の積み重ねだ。意味はそちらで考えなさい」

「今年は何人消えたのですか?」

 試しに訊いてみた。

「‥‥そうだな。私の知っているところでは、5人といったところか」

 決して多い数とは思えない。皆が皆、真面目に大人しくする訳がない。むしろ、それは少数派だろう。ほとんどの生徒は、真面目に、暴れるだろう。

 だが、暴れる場所が場所だけに『消える』という表現をした。

「死んだかどうか知らない。だが、誠に遺憾ながら、我らはもはや単一で生きられる程、強い存在ではなくなった。オーダーとの取り決めで、学生の内は死人を出来るだけ減らし、それが出た場合、死因や犯人の特定もしなければならない。よって、それらを調べ上げたうえで消えたとわかったのが5人だ」

 死んだかどうかわからない。だが、消えたのは5人。まこと、魔に連なる者にとって、死とは消えるとは同意義ではなかった。隠者になったという事か。

「厄介な事だよ。完全な死んだふりでもしてくれれば、便利なものを。ただただ単純に消えた生徒達をただ消えたとする心労を考えて欲しい。オーダーはそこまで簡単な組織ではないのに‥続ける。魔に連なる者にとっての消える。その意味で考えつく事は?」

「隠者になる」

「結構。その通り」

 単純に、死の可能性が高い研究が禁止されている学院にいる内では出来ない実験や研究が、自身の魔を探究するに至って、必要となってしまった。よって、消える。

 カタリが行った血の結晶など、その最たる例だ。血を抜くのだから、感染症や出血など、死に直結しかねない実験を、自身ではなく被験者を用意して行う。

 それだけで、カタリは長く学院に逮捕されかねないだろう。

「今日始めに言った事は撤回しよう。どうか、死ぬなら、死ぬように徹底してくれ。僅かでも生きている可能性がある場合、私は君達が死んだかどうか確認しなければならない」

 整った顔立ちが、ため息によって影が出来る。女性と思われる術者の個人的な苦労が推し量れる。

「ねぇ」

「どうした?」

「どうしたじゃなくて――なんで、そんなに普通に話せるの?」

 手を握っているカタリが、訝しげに聞いてくる。

「あの教授と、どんな関係?」

「始めてあった教師と教え子。それ以外ないだろう」

「‥‥本当に、初対面なの。信じられない」

 頭を振って、驚いた、という文字が浮き出そうなぐらい表情を一変させる。

 試しに周りを見回すが、皆同じような反応だった。

「そんなに驚くことか?」

「驚く事。だって、あの教授は」

「私が何かな?」

 油断した。ついさっきまで教壇に立っていた筈の教授が、真後ろにいた。

 一体どうやって来たのか。俺とカタリが座っているのは、テーブルの中央辺り、ここに来るには、階段を上り、階段付近に座っている生徒を飛び越えるでもしなければ、ここまで短時間では来れない。

「教授、急に後ろから話しかけるのはマナー違反です」

「私の講義を手伝ってくれている彼に話しかけるのも、マナー違反だ」

 それだけ言うと、生徒達の後ろをきつそうに通って、教壇に帰るべく階段まで戻っていく。意外といい香りがする。カタリのお陰で毎日違う香りを楽しむことが出来るが、この香りは初めてだった。コロンというのだろうか、軽い香りが心地いい。

「気付いた?」

「‥全然」

「気を付けて、気づいたら真後ろにいるのは、普通の事だから」

 カタリは慣れたものだという風に装っているが、握っている手が強くなる。

「講義を続ける。と、言いたいが、今日はここまでだ。毎日来なさいとは言うまい。だが、せめて単位を落とさない程度には来るように。以上だ」

 女性の言葉と男性の言葉が混ざったような挨拶をして、教授は講義室から出ていった。




「意外と普通だな」

 カタリとの昼食中、試しにそう言ってみた。

「教授が?それとも、私が用意したサンドが?」

「教授がだ。カタリの作ったサンドが普通の訳ないだろう」

 もう既に一つ分バゲットのサンドを食べ終わった俺は、後者を否定する。

 縦長に半分程の深度で切られたバゲットに、香辛料が効いたハムや卵、そして野菜類が挟んであった。どうせ今日も昼は混むと話し合い、急いでカタリの自室に戻ってきた。昨日から用意して仕込んであったのだから、普通の筈がない。

「そうよね。もう一個分食べてるんだし。美味しかったでしょう?」

「美味しかった。もうないのか?」

「夕飯まで我慢して」

 自分で俺を試しておいて、褒められて気をよくしたカタリは、自分から食後の紅茶を用意すると言ってくれた。下手に手伝うと、怒られるので大人しく待つ。

 適当にテレビでも見ようと思って、リモコンを操作するが、全く反応しない。

「あ、配線やっといて」

「いいぞー」

 椅子から立ち上がって、割と大きい薄型テレビの後ろに回る。—―誰だ、これをやったのは。アンテナケーブルがLANソケットに突き刺さっている。同じようにLANがアンテナケーブルのソケットに。壊れる一歩手前だったんじゃないか?

「どう?少しは自分でやってみたんだけど!」

 自慢気に伝えてくる。知らないとは恐ろしい。発火こそ起こらないだろうが、他の家電も自己流で配線しているのだろうか――今日も泊まる事になりそうだ。

「‥‥ああ、いいぞ。だけど、やっぱり俺にやらしてくれ。礼の一つって事で」

「仕方ないな~、いいわよ。そんなに私に仕えたい?」

「もう仕えてるだろう」

 せめてもの救いが、電源は正しく配線されている事だった。だが、まだ安心はできない。なぜなら、レコーダー類のHDMIもやはり自己流で突き刺してある。

 危なかったかもしれない。USBと場所を間違えている。

 慌てて、あらゆるものを引き抜き、正しい所に突き刺す。急いでリモコンを操作した所、問題なく画面がついてくれた。一安心と共に、静かに風呂場に向かう。

「あ、付いたんだ。あと少しだったでしょう?あれ、どこ?」

 心配そうにしているカタリには悪いが、急いで調べるところがある。洗濯機だ。

 冷蔵庫等のキッチン製品は問題なく起動している。だが、洗濯機は違った。

 思えば、昨日から動いている様子がなかった。なのに、カタリは鼻歌混じり、ボタンを押しているのを思い出した。

 カタリの目を盗んで、脱衣所に入る。昨日つかったらしい香油の香りが充満しているのを除けば、普通の光景だった。だが、やはり洗濯機が動いている様子はない。

「どこー?トイレ?」

「ああ、先に飲んでてくれ」

 力任せに洗濯機を動かす。—―よかった、電源と水道管がそもそも刺さっていないだけだった。俺自身も配線をミスしないように、確実に差していく。

「セーフ‥」

 なんとか、配線を終わらせて、洗濯機を元の位置に戻す。

「これじゃあ、一人で隠者をさせる訳にはいかないな」

 またひとつ、もうひとつ、離れられない理由ができた。

 トイレから出てきた振りをする為、扉をわざと少し大きめに音を立てて、リビングに戻る廊下を歩く。この部屋はカタリ専用の部屋で、本来は四人部屋らしく、寝室も四つある。玄関やリビング、キッチンに至るまで、そもそもの床面積が広い。

「部屋にかける金が違うな。俺も、これぐらいにすべきだったか?」

 この部屋は、なにもなければ、7年近く、もしくはそれ以上、住むこととなる部屋。少し後悔した。やはり、俺もこれぐらいの広さにすべきだった。

 リビングに戻った時、カタリは優雅にティータイムを楽しんでいた。実家から持ってきたカップ類からは、年期など感じさせない白と金の光沢が見受けられる。

「どう?いい香りでしょう?」

 やはりカタリには自信のある顔が似合う。昔と比べて変わってしまった瞳など気にもならない。ただただ、芯の強い目元と綺麗な鼻筋、そして、小さい口を目一杯、歪ませてつくる笑顔は、ただ愛おしかった。

「いい香りだな」

 椅子に戻り、用意してあったカップを掴む。一呼吸置いてから、口を付ける。

 酸味などない口当たりが優しい甘みと香りだった。前に乳母茶を飲ませてくれたが、あのメンソールの感覚も悪くなかった。今度、リクエストしてみよう。

「ふふふ♪気にいったって、顔よね。本当に、私じゃないとダメって顔♪」

「前からそうだっただろう。美味しいよ、また飲ませてくれるか?」

「いいよ。その代わり、また実験に付き合ってもらうから。覚悟して」

 そんな意地悪だけど、優しくて、少し危なっかしいカタリは、いつも俺の世話をしてくれていた。生贄として捧げられるまでは、少し疎遠だったが、戻ってきてからは、昔に戻れている気がする。それ以上になっているのかもしれない。

「教授が普通って言ってたよね」

 カップを置いて、聞いてきた。

「変、かな?」

「どうだろう。私も今日は驚いたから」

 味を変える為に、用意してあったミルクポットをつまんで、カップを白くさせる。

「後ろにいた事か?確かに驚いたな」

 今思い出すと、相当危険な状況だった思う。もし、あそこで教授がナイフでも持っていたら、俺は心臓を突かれていた。それがただのナイフであれば、容赦なくさせただろう。この身体は魔に連なる力には、上位を取れるが、ただのナイフや弾丸には勝てない。それは、カタリとの実験で確認していた。

「それもだけど、あんなに‥その、なんて言うんだろう。感情的っていうのかな?表情がある所とか、始めて見た」

「あれで感情的?」

 俺が見たのは、死んだふりをするなら、徹底してくれと嘆いていたところだ。それすらも、どこか人形っぽい演技じみたそれだったのに。

「まぁ‥初めて見た人はそう言うよね。覚えておいて、あの教授がそこまで自分の意思を語るのは始めてみた。その原因はリヒト自身」

「俺、だよな。そんなに興味深いか?もうこっちに戻って一か月は経ってるのに」

 そう思うと、少しだけ顔が熱くなる。その間、カタリと一緒に生活しているのだと思うと、あのずっと部屋にいるしかなかった生活も悪くないと思う。

「自覚がないのも、ほどほどにして。リヒトは人間じゃない。それだけで利用価値がある。しかも、いち学部の教授が立場が危ぶまれる程の生還を果たし、いち学部の教授がリヒト自身に興味を持つほどに。私とこれからもずっといたなら」

「わかったよ。カタリの傍にいる。これからもずっといよう」

「‥‥ちょっと違うけど、うん。いいよ!それでいいの!!」

 思ったよりストレートに願望を唱えたら、結構なダメージをカタリに効かせた。

 機嫌が良くなったカタリはカップのピッチが早い早い。相当嬉しいらしい。

「明日はどうする?講義に出るか?」

「う~ん、それは明日決めようかな?リヒトは行きたいの?」

「ああ、ちょっとは勉強したい。ダメ、かな?」

 口に指を付けて考え込んでしまった。その姿さえも可愛らしくて、いつまでも見てられる。何かが思い浮かんだカタリは、指を口から離して、見つめてくる。

「なら、しばらくは真面目に出よっか。私も高等部の授業、興味あるし」

 明日の予定が決まった。また明日もカタリと一緒にいられる。

「そ、それでさ、今日も泊まっていく?」

「そのつもりだぞ。夕飯も待ってるし」

「‥‥本当に餌付けしてる気分になってきたんだけど」

「やっとか」

 俺はもうとっくにそう思っていたが、ここで新事実が生まれた。カタリは無自覚に俺への餌付けをしていたらしい。



 引っ越しとは面倒だ。それは他所の人間でも同じだろうが、自分達、魔に連なる者にとっては、人生を懸けた大仕事だった。

 その理由は単なる荷物が多い事だけが理由ではない。搬送を他人の手に任せる事が出来ないからだ。多くの物を自力で運ぶしかない。勿論、家具といったものなど、素人の自分で運び入れるのは不可能なので、全てを運ぶ訳ではない。また、他人の手を借りるのは、出来るだけ避けたい。なぜなら、自身の基地となる場所へ赤の他人を入れる事となるからだ。しかも、運んでいる代物の値段がわかっている以上、やはり他人には持たせたくない。

「終わった‥」

「終わったな‥」

 だが、当然、一人で運ぶなど土台無理は話だった。人型のゴーレムでも使えば可能かもしれないが、バランスでも崩されて荷物を落とされでもしたら、目も当てられない。よって、アナログな手に持って運ぶ、が最善だった。しかも、持っている物の価値を良く知っているのは、他でもない自身だからだ。

「結局、一日を使っちまった‥」

 イッケイと自称している我が悪友は、肘掛け替わりにしていた背もたれ付きの椅子に座った状態で後ろに倒れ込み、椅子を囲むようにコの字となった。搬送中に巻き起こった埃爆発の後処理も済み、ようやく昼兼夜の食事が終わった所だった。因みにカタリはいない。

「2人分の引っ越しなんてするもんじゃないな‥今度はお互い、個人でやろうや」

「そう言って結局、お互いを巻き込む事になりそうだな――物足りないな」

「言えてるや。なんか買ってくるか?」

「だな。それか、外に食べに行こう」

 テーブルの上には、2人分の丼が空となって残っている。卵が安くなっていたので、ついでに大量の鶏肉を買って親子丼を作って食べていた。

 だが、全て食べ終わっても16歳の胃袋は満足しなかった。

「あ、でも、お前は」

 腹筋を使って起き上がったイッケイは、にやついてくる。

「カタリさんの部屋に行けばいいもんな?」

「‥‥それもそうか。なら、またな」

 今から行くと、確実にカタリの怒られるだろうが、それでもきっと部屋に入れてくれる。ねだったら、また怒るだろうが、何か食べさせてくれる。

 本格的にカタリがいないと、生活が出来なくなってきた。

「待てって!!お前マジかよ‥」

「おう、よくわからないけど、マジだ」

「今の時間に行くのか?本気で?」

 時刻は11時。無論午後。だが、昨今、カタリの部屋にある寝室で寝泊まりをしている俺は、一々そんな事を気にする筈がない。勝手に浴槽も使っている訳だし。

「俺らにとって色恋の危険性はわかってるよな?」

「知ってる。魔に連なる者の信頼ってのが、どんなものかもな。その上で、俺はカタリと付き合ってる」

 信頼、とは少し方向性が違うが、俺は学院を信じていた。自身の研究の為、あらゆる方向性で勉強できる場所を提供してくれると。だが、当然のようにその信頼は逆手に取られた。いいように使われて、俺の中身を奪うだけ奪ったら、容器たる俺の身体は、よくわからないことに使われ、気づいたら、あの海を彷徨っていた。

 これこそが魔に連なる者だ、騙され、捨てられたお前が悪い。そう言われればそれまでだ。だが、俺は生き返ってきた。よって、俺も魔に連なる者らしく、勝手に生きる事にした。

「カタリとは、生涯連れ添う事になる。その中に色恋が混じってるだけだ」

「—―なんか、すごいな。前とはだいぶ違う」

「一度死んだからな。お前も一度は死んでみたらどうだ?」

「ごめんだな。俺には、呼び戻してくれるネクロな知り合いはいねぇーし」

 ネクロマンサーか。確かに、カタリのやった事を見ると、死者を蘇らせたように見えるだろうが、実際は違う。俺は、この世界に呼び戻されたのではない。呼びつけられた、が正確だった。どちらでも構わないが。

「でもよ。帰ってきてから、ずっとカタリさんじゃね?たまには、野郎同士で遊ぼうぜ。‥‥知ってるか?アンデッドの噂」

「—―ああ、知ってる」

 アンデッドの話は、現在の学院の中ではタブーであった。それも死に直結する話だからだ。もし人間を殺して、アンデッドとして蘇らせ奴隷のように扱うことを念頭に置いているとしたら、それは間違いなく、禁忌の一つ。そして、もう一つ、タブーとされている事に引っかかる。

「でも所詮は噂だろう。しかも誰もいなくなってない」

「そこがポイントだ。本人も気付かない間に夜は死者として這いずり回ってるっていう」

「面白い話だけど、そんな奴がいたらマガツが来るだろう。あいつらだけは、誰も敵に回したくないだろうしよ」

 テーブルの上のコップを手に取る。だが、中は空であった。用意してあった水差しすら、既に空だったので、諦める。

「マガツねぇ~、そういや知り合いいただろう。なんかアプローチでもあったか?」

「なんだよアプローチって、帰ってきてから一度も顔すら見てねぇよ」

「マジか‥あいつら、今何やってるんだ?禁忌である生贄を放っておくなんて」

 魔に連なる者なんていう倫理など気にも留めない集団の一員でありながら、思いの外正義感があるこいつは、はっきり言って魔に連なる者に向いていない気がする。

 だが、その志は俺には眩しかった。そして――悪い気分じゃなかった。

「意外と、俺みたいな奴は多いのかもな。ここまで話がこじれて、しかも大きくなるなんて、誰も想像もしてなかったんだろう」

 もし俺がああいう扱われ方をされると知っていながら、放置したとしたならば、やはりマガツ機関も所詮は魔に連なる者だ。自分達の手柄欲しさに俺を無視した。

 らしいと言えばらしいが、自身の仕事を放置するなんて――プロ失格だ。

「—―なんか、気分じゃなくなった」

「そういうなって。行こうぞ!それこそカタリさんも連れてよ」

 そもそも今日の夜はひとりになりたいという事なので、別々で夕食を取る事になったので、今どこいるのか、正確にはわからない。だが、恐らくは部屋にいるだろう。

「この時間に呼び出すのか?俺もお前も、明日にはアンデッドになってるぞ」

 脅しでもなく事実をそう告げる。思った通り、冷や汗をかいた。

 俺達異端を志す者は、誰にも理解されない。よって、どういう理論が通じるのか、本人にしかわからない。ガソリンは良く燃える。昨今は燃える氷とやらもあるが、もしそれを誰も知らない、そしてカタリしか扱えないとしたら、それは恐ろしいだろう。自身の常識どころか世界の常識すら一息で飛び越える事の恐ろしさを知っている魔に連なる者であれば、尚更だ。

「カタリはやめておこう。元々、人間嫌いが形になった奴だし」

 これを聞いても、カタリは怒らないだろう。紛れもなく、事実だから。

「それで、どこに行く?まさか学区を跨ぐとか言うなよ」

「そんな遠くには行かねぇよ。近くの焼肉店だ」

 ついさっきまで米と肉類を食べておいて、焼肉か。

「いいだろう」

 丁度、甘い親子丼を食べていて塩気が欲しかったところだ。




「まさかガッツリ2時間食べ続けるとはな――明日でも運動しないと」

 この身体にカロリーというものがどれほど効果があるのか、考えもしなかったが、ここまで満腹だと少しばかり考えざるを得なくなった。

「確かに‥」

 先ほどから一言二言しか言わないイッケイには、肩も貸さない。

「‥今何時だ?」

「11時って所だ。そんなに遅くないけど、いい加減帰るか」

 繁華街である辺りを見渡すと、学院に属さない人間もちらほらいる。

 ここは我らが西部地区の繁華街。夜の繁華街なので、学生は基本出歩くのは禁止となっているが、そんなものは形骸化している。取り締まる人間はそれこそマガツ機関だが、そんな懇切丁寧に補導するなんて優しい人間、あそこにはいない。

「おう‥帰る、か‥」

「倒れるなよ」

 腹こそ押さえていないが、背筋を伸ばして、胃袋の中に何かを詰め込もうとしているようだった。最初の内は良かったが、途中から元を取る事に専念していた。

 止めるべきだったが、俺自身もまだ食べたりなかったので、気にしなかった。

「そういや‥異端学の講義はどうだ?」

「基本的に放任主義だよ。何か聞きたい事があれば、勝手に質問したりするだけ」

 一応は、魔道の講義らしく、自然の地水火風は宇宙に通じるなんて事を話してこそいるが、それだけ。あまりあの講師は学生に興味がないのかもしれない。

「そんな感じか。もっとこう」

「なんとなくわかるけど、それは個人に任せてるって感じだ。そっちも似たようなもんだろう」

「‥‥確かに、そうかも」

 異端学なのだから、もっと異端らしく何がなんなのかわからない講義を期待しているようだが、そんな実践的な事は教えない。そんな事をしても無駄だからだ。

 例え異端の末席にいようと、世界の法則には基本的に従うしかない。それから離れる方法を模索するのが魔道であり異端だ。自身の求める到達点を勝手に決めて、勝手に目指す。ゆえに才能という形ばかりのそれは、俺達にとって、あまり意味のある事ではないのかもしれない。自身にしか到達できない事を目指すのだから、才能など二の次。はっきり言ってしまえば、才能などに振り回されないゴールを設定してしまえばいい。それだけだ。

「そっちはどうだ?」

「俺か?そっちの話を聞く感じ、似たようなもんだな。強いて言えば、俺ら色彩学はやっぱし絵だな。色を混ぜて、何を想像するか、とかそういうの」

「ざっくりしてるな」

「そっちと同じだ。詳しく言える訳ないだろう?」

 それもそうか。色彩学は、俺を襲った絵画から伸びる腕がいい例だった。本当かどうか知らないが、自身の血を混ぜて絵に意味や指向性を与え、見る者、描いた者の求めるままに振る舞う。中には絵の中に世界を創造するという奴もいるらしい。

「言えてるな。せめて、一か月は綺麗なままにしろよ。掃除まで手伝えないからな」

「ははは。その時は頼むわ」

 中等部のイッケイの酷かった。壁どころか天井にまで絵の具が飛んでいた。しかもベットまで匂いのキツイ絵の具で塗りたくられていたので、普段どういう生活をしているのかと、恐ろしくなる程だった。

「で、明日はどうするんだ?さっき聞いたが、しばらく北部で発掘学の連中と鉱石拾いだろう?」

「あれ?話したっけ?まぁその通りだ。向こうで気にいった石とか粘土を見つけて持って帰ってくる予定だ。やっと発掘を自由に出来るようになるぜ」

 腹部の違和感が収まったのか、それもとそれよりも興味深い事を思い出しのか、顔色がだいぶよくなった。

「どのくらいかかるんだ?」

「かかるって言っても、遅くならない限り、夜には帰ってくるし、一か月もかからないんじゃないか?まぁ、なんとも言えないけど‥」

 そこで流れる手つきでスマホを取り出し。唸り声を上げた

「どうした?」

「面倒な事になりそうだよ。マガツ機関の連中が北部を封鎖だと」

 見せられるスマホの画面には、学院の全員に対しての連絡としてその旨が書かれていた。北部はしばらくの間、発掘等々の目的での立ち入りを禁止する。これは全ての学生に対しての連絡であり、例外はない。そんな感じで、最後にはマガツ機関の名があった。あまりにも横暴だが、それはマガツ機関の名前で帳消しになる。

「だけど、ようやく動いたか」

 イッケイが安堵するように声を出した。



「ここに呼ばれた理由はわかる?」

 マガツ機関という名の国内の秩序維持を目的として連中のひとりに声をかけられる。厄介だ、しかも何を考えているのか、まるでわからない。それだけならまだしも俺ひとりが呼ばれてしまった。念の為、カタリには部屋の外で待っていてもらっているが、それもどれほど意味があるか。盗聴盗撮は、恐らく出来ていないだろう。

「被害者保護としての聞き取りか?」

「—―それも一つ。そしてもう一つ」

 目線だけで、部屋の中にある品をを示してくる。

「普通、被害者に見せるか?自分を殺した凶器なんて」

 なんでもないように言うが、正直見てられない。まさか、見せてくるとは、思いもしなかった。それは、まだ俺が人間だった時の、違う、俺を人間じゃなくした物。

「生命の樹。これはあなたの命を糧として育ったもの。間違いない?」

 見せてきたのは、ガラスケースに入った赤い実を付けた小さい樹木だった。忘れる訳がない。それは俺に寄生して、何もかも吸い取った。そして、最後には俺の命を奪い取った。

「‥‥見たくない」

「ごめんなさい。でも見てもらう。答えて」

 目を背けるが、顎に指をつけて、その樹木を見せてくる。今だ呼吸をしているそれは、平らげる命が少ないというように、赤い実がいまだ小さいままだった。

 俺の命を吸い上げた事により、熟してはいるようだが、サイズが手のひらに収まる程。目的としていた大きさには、足りていないだろう。

「これは、本当にあなたの命だけで、ここまで育ったの?」

 抑揚のない声で訊いてくる。口を閉じるが、再度訊いてくる。

「あなたをまた木に捧げる気はない。だから、聞かせてもらう。この実がここまで大きさになるまで、本来ならば10人は必要。そして時間も10年は必要になる。だけど、自然学の教授の証言によれば、あなたの命を吸っただけで、」

「だけ?」

「—―失礼。あなたの命を吸った結果、この生命の樹は八割は完成している。これは異常だと思わない?私達、機関はそう思っている。だからあなたに訊いている」

 人形以上に人形らしい声色と表情だった。もしかしたら、このマヤカも人形なのだろうか。

 ここはマガツ機関に指定させた我らが異端学のカレッジの一室。これでも相当譲歩しての取り調べなのだろう。まさか、いち早く自分から部屋に来て、準備を整えているとは想像もしていなかった。

「そうだ。たぶんだけど」

「多分?」

「自分を殺した凶器の経歴なんて知る訳ないだろう」

 自惚れている訳じゃないが、この生命の樹を育てるにはただの学生の命一つではまるで足りない。それこそ、卒業生たるプロを捕獲でもしなければ、10人でも足りなくなるだろう。それを俺一人の命でここまで育てたのだから、違和感を持ってもおかしくない。

「もういいか?そろそろ帰りたい」

 座っている椅子から立ち上がるが、肩に手を置かれる。

「大人しく従った方がいい。違う?」

「—―なら早く質問しろ。その腐った木もとっとと持って行け」

「残念ながら、それは出来ない。最後までここに置かせてもらう」

 同い年なのか、それとも年上なのか、知らないが機関の一員であるらしい女性。着ている物は白いローブ。何度か見たが、毎回寒気がする姿だ。

 この白衣が現れる時、それは魔道を歩む者がその道を閉ざされる時。命の向ける方向を奪われる意味を、俺達は知っている。決して他人事とは思えない。

「あの樹に捧げられるという事を知っていた?」

「いいや」

「あの樹がどこから現れたか、知ってる?」

「知らない」

「こちらにいた時、最後に覚えている光景は?」

 これも復讐の為だ。少しは真面目に答えよう。口の中で「えっと」と呟き、片手で顔の半分を隠す。深く考える必要はない。思い出せればそれでいい。

「あの時俺は――教授に自分の研究室に呼び出されて、それで」

 椅子を持って、向かい合わせに座ってくる。生命の樹を背中で隠してくれるのは、温情のつもりだろうか。

「しばらく自分の、俺の目標の話をして、そこで教授自身の理想像を教えられた。そこまでは覚えてる。内容は、確か」

 あの場のは俺と教授の2人しかいなかった筈だ。研究室とは俺が最近帰ってきた事を報告したあの場所。広い部屋には所狭しと本棚があり、それこには本だけでなくなんの動物の骨かもわからない頭蓋骨、そして天井には恐らくはクジラの骨格標本が吊るしてあった。床には赤い絨毯。そして部屋の奥、そこで裁判官のようにデスクについていた。なんの疑いもなく中に入り、そこで話を聞かせ、聞かされていた。

「生命の樹、については話さなかった筈。だけど、俺をここまで育てたのは理由があるって、言われた」

「続けて。その時、あなたはどう思った?」

「俺自身、ここに来たのは三年前で、しかもあの教授の世話になり始めたのは、せいぜいが1年ぐらいだから、育てられたって言われても、あんまり自覚がなかった」

 値踏みをされているとは言わないが、正直、あそこでは身の危険を感じてはいた。思えば、相当危険な事をしていたと思う。学部長とは言え、魔に連なる者を俺が知っているだけでも100年は続けている魔人に、一人で会いに行くなんて。

「—―あなたの身体、もう前とは違うのね?」

「そう聞いてる。それこそ、そこの樹が前の俺の身体だ」

 顎で後ろにあるガラスケースを示す。振り返りはしないが、やはり気になるようだ。意識の変更が眼球の動きによって伝わってくる。

「そう‥。教授の理想像は、どう続いた?」

「‥‥よく覚えてない。なんだろうか、俺が疑問に思ったら‥」

 そこで意識は消えたのを覚えている。次に目が覚めた時、見えたのはあの樹だった。胸から根を生やして、目が覚めるごとに成長していくあの樹を見て、恐ろしくなったのを覚えている。動ける筈がなかった、あの樹は俺の全身をその根で蝕んでいくいたのだから。薄れていく視界の中で、あの実だけが真っ赤に輝いているのは、不気味で生きた心地がしなかった。俺が完全に実る時、それが俺の最後だった。

「そこで意識が途絶え、覚えていない。わかった。では、次の質問。次に覚えている事は?」

「‥‥言わないといけないのか」

「言って。脅すつもりはない、けれど、言わないと言うまであなたを捕縛する」

「それは脅しって言うんだよ。胸から生えてる樹を見た。それだけ」

「時間は?」

「知らない。ずっと暗いどこかだった。数日どころか、数時間だったかもしれない」

 俺が消えてからこちらに帰ってくるまで、ほんの数か月だったらしい。だが、その数か月の間、俺はほとんど意識を持っていなかった。やはり覚えているのは、時たま目が覚めても、胸の樹を視認して気絶するという事を繰り返していた、それだけ。

「あなたが消えたという話を聞いてから今日で約半年。あの教授の部屋に現れて約二ヶ月。樹の成長過程から見ても、あなたはまだ樹に寄生されていなけばならない。その事についてどう思う?」

「どうも思わない。その樹は吸い上げる力が強いんだろう?品種改良でもされてるんじゃないか?」

「本気でそう思ってる?」

 長い柔らかい髪をかき上げて、上目遣いで聞いてくる。身を乗り出しているせいで余計下からこちらを覗いているように感じる。

「そっちは違うのか?」

 例えマガツであろうと、所詮は人間やその延長線上にいる奴を捕まえる事しか出来ない。よって、神獣としてここで息を吸っている俺には、歯が立たないだろう。

「俺は被害者としてここにいる。マガツはその樹をどう思ってる?あの教授は今どこにいる?まさか未だに放っているとか言うなよ。そこまで無能でもないだろう?」

「放っておくことが無能だとしたら、私達はあなたの言う所の無能になる」

 興味が無さそうに言ってくる。実際、俺からの質問など取るに足らないのだろう。

「まだ続くのか?やっと動きだしたと思ったのに、本当に何にも知らないのか?」

「ここで言える事はない。でも、私達は北部の儀式跡を見つけた」

「遅すぎないか?」

 こっちに帰って来てからずっと違和感を持っていた。あまりにもこの学院が自由過ぎると。学部や学閥の抗争など、マガツは全うに動いていれば、とっくに収まっているだろう。異端学にいる俺では知る由もないが、他所の学部では予定外の休講が度々起こっているらしい。秩序維持を目標としている割には、おざなりだ。

「言い訳をするつもりはない」

 遅いと認めたようだ。

「それで?俺をどうする気だ?」

「あなたには私達と北部にある儀式跡に来てもらう」

「なんで俺が」

「あなたには私に借りがある。それを返してもらう」

 思わずしかめっ面をしてしまった。忌々しい、この期に及んでそんな事を言っているのか。

「お前らはマガツ機関だろう?そんな義理人情に頼らないと、何ひとつわからないのか?」

「あなたには生贄にされた責任がある。そして、被害者であるあなたの証言ならば、信じる価値があると判断した。大人しく従うように、さもないと」

 そう言って、銀の装飾がされたナイフを腿辺りから投げつけてきた。避ける必要もないので、それを眼球で受け止める。当然、ナイフは弾かれて板張りの床の一枚にひびが入り、瞬く間に解体される。

「そう、本当に」

「マガツが殺人か?」

「あなたは人間ではない。だから殺人にはならない」

 立ち上がって銀のナイフを拾い、自身のローブにしまい込んだ。

 もう要件は終わったらしく、悠然と出口に向かっていく。なにも言わないで。

「俺は」

 マヤカと名乗った機械の一人が扉に手をかけた。

「好きで生贄にされた訳でも、それの養分にされた訳でもない」

「だといいのだけど」

「‥‥やっぱり、マガツは俺が個人で賛同したって思ってのか?」

「私には言う権利がない」

 ため息が出るが、それ以上言葉が続かない。

 生命の樹は、人の、しかも魔道を志す者の命を栄養に成長する。それは実体験で知っている。目が覚めるたび、肺が硬くなっていたのを覚えている。目を開けるたび、あの樹が青く、そして実が赤く実っていくのを覚えている。

「あの実を使って、何をしようとしたんだ?本当に新しい生命でも芽吹かせようとしてたのか?それとも、不老不死か?」

「どちらも失敗している。あなたもその事は知ってる筈でしょう?何故、そんな事を?」

 やっと興味が湧いたのか、扉に背をつけて、こちらに向いてくれる。

 厄介だ。白いローブからはみ出すように、白い足首が見える。胸元で止められている金のボタンが苦しそうに浮き上がっている。創造主に時間をかけて彫られたような整い過ぎた顔が真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。

「向こうでの知識があってな」

「‥その話は外の彼女にしか言わない方がいい。彼女なのでしょう?呼び出しのは」

 どこからか話を聞きつけたようだ。俺を蘇らせた、ではなく呼び出したと言った。先ほどの攻撃はやはりただの確認。俺に人間の力が届くか調べたのか。

「取引がしたい。俺の力と、マガツが持っている情報の」

「知ってどうするの?」

「復讐。それと、足場を固めたい」

 立ち上がって、マヤカの目の前、息がかかる近くに移動する。

「いい加減、腫れ物扱いも見世物扱いもごめんなんだ。それに、マガツに追い掛け回されるのはもっとごめんだ」

 ただでさマガツの一人と親しくしていると後ろ指をされているのに、マガツ自体に目を付けられているとしたら、カタリにも手が届いてしまう。それだけは避けたい。

「北部に儀式跡があるのは知ってるんだよな?」

 目を逸らさずに、頷いてくる。

「俺も同行する」

「‥‥いいのね?」

「ああ、行く」

 マガツが俺を連れて行こうした理由は見当がついている。恐らく、そこには俺が人間だった時の痕跡があるのだろう。あの教授の事は二の次だ。今は、身の潔白を証明しよう。自分がはっきりと勝手に殺されたと。マガツに目を付けられないように。

「なら、約束。明日の朝には迎えに行く」

「カタリの部屋に来てくれ。カタリが一緒が条件だ」

 カタリの身の安全を図るのだから、この条件は必須だ。

「‥‥いいでしょう。そう伝えておく」

 微かに聞こえる程度の声を出して、扉から出ていった。また。代わるように、異端学の講師たる人形が入ってくる。俺を横を無言で通って、生命の樹を手に取る。

「それは」

「わかっている。こちらは私が預かる事になっている。詳細は聞かないように」

 流れるような物言いに、あっけに取られていると、更に後ろからカタリが入ってくる。この真緑の瞳を見ると、落ち着いてしまう。

「平気?」

 そう心配そうに問われてしまった。だから、容赦なくカタリに泣きつく。

「怖かった?」

「もう帰りたい。あの樹を、見たくない」

 後ろから講師の視線が向けられるが、無視をする。

「うん。大丈夫。私がいるから、ずっと傍にいるから」

 思った以上に、想像以上に、俺は生命の樹を恐れている。あの実が、恐ろしくて仕方ない。あの実が、俺の命を奪った。見える時間で、感じる痛みで、腐っていく己が姿は、恐怖でしかなかった。それを思い出してしまった。



  生命の樹と呼ばれているそれは、所有しているだけで禁忌扱いとなり、機関によって没収される。そして、所有していた者は例外なく、拘束の対象となる。

 不思議だろうか?いいや、不思議ではない。なぜなら、その樹は人間の命を糧とする食人植物だからだ。なんの比喩表現でもない。実際に命を吸われた自分がここにいるのだから、何もおかしくない。自分が徐々に分解され、栄養素というただの食料になっていく光景を、何度も見せられた。その度に、意識を失った。

「まだ怖い?」

「‥‥」

 無言で頷く。

「そっか。でも、頑張って行こうね。私もいるから」

 座った状態の俺の頭を、カタリは撫でて自身の腹部に受け入れてくれる。カタリの内臓を流れる血流の音を耳に染み込ませて、大きく深呼吸をする。折角、カタリが用意してくれた朝食も、思うように喉を通らなかった。

「今日は講義、さぼろっか。機関からの指定は、まだまだ後だし」

 外からは講義に向かう学生達の声がする。それぞれ、楽しげににも憂鬱そうにも聞こえるが、総じて、自身の目的や理想の為に、活動していた。

「リヒトはさ、やっぱり、人間じゃないんだと思う」

「—―こんな情けない姿、人間らしくないか?」

 その答えに、カタリは更に強く自身の腹部に、俺を押し付けてくれる。

「そうじゃないの。そんな、話じゃないの—―よく正気でいられるね」

 顔を上げようとしたが、カタリの手によって、それが阻まれる。既に銀となっていた腕には、頭一つ動かせない絶対的な力を感じる。

「生命の樹は、誰であれどんな生物でも殺す。わかるよね、殺すって、肉体的な意味だけじゃないって。なのに、リヒトはこうやってまだ話せてられる。私だって魔に連なる者、だから、あの樹についての知識もある」

 あの樹は、ただただ対象の生命を奪うだけの存在ではない。奪うのは対象の存在そのもの。心や命という形而上の概念そのものを奪うと言われている。

 その話をそのまま信じている奴は少なくない。当然だ。生命の樹に全てを奪われた魔に連なる者は、俺以外にも実際に存在しているからだ。

「心も精神も奪われた筈なのに、あなたはこうしてここにいる。今、リヒトの中にいるのは、間違いなく、私のリヒト。でも、人間リヒトは、もういないのね」

「‥‥人間じゃないと、ダメか」

 背中に回している腕に力を籠める。カタリの骨が音を上げるが、そんなものは無視する。ただただ、人間リヒトのものだったカタリが、欲しくてたまらない。

「俺は、リヒトだ。カタリとずっと一緒にいたリヒトだ。もう人間じゃない。だけど、人間の器を持ってなくていいって、そう言ったじゃないか‥」

 よく正気でいられる。その意味を一番理解しているのは、俺自身だ。俺は、この俺は一体何者だ?彼岸に到達した俺は一体なんだ?あの実を喰らった俺は、一体誰だ?カタリに呼び出された俺は、一体、どの俺だ?そもそもこの俺は存在しているのか。

「俺を呼び出したのはカタリだろう‥なのに」

「落ち着いて。私は人間に拘る気なんて、さらさらない」

 いつの間にか呼吸を忘れていた俺を、カタリは肉に戻した手で撫でてくれる。

「人間じゃないから、あなたは私と話せてられる。人間としての精神を持ったまま、帰ってきたリヒトでは、もう正気じゃなかったと思う」

「—―この様子の俺が、まだ正気だって言うのか?」

 カタリの言いたい事はわかってるつもりだ。人間としての存在を失った俺は、人間としての苦しみから抜け出せているのかもしれない。だが、知性体としての苦しみである、自己存在の認証という命題からは、まるで抜け出せていない。

「俺は、俺なのか?ここにいる俺は、リヒトって名乗っていいのか?もう俺にはわからないんだ。神獣として帰ってきた俺は、誰なんだ?」

「そこよ。まだリヒトが正気だって言える理由は」

 抱えられていた腹部から離された時、カタリは両手で顔を挟んでくる。

「正気じゃなければ、もうリヒトなんて名乗ってない。何も考えずに、獣のように振る舞ってる筈。なのに、こんなに無防備な私に、拳一つ振るわないじゃん」

「‥‥嫌だ」

「何が?」

 挑発するように、遊ぶように、カタリは顔を歪ませて聞いてくる。

「カタリを傷つたくない」

「なんで?」

 挟まれている顔を振って、立つ上がる。そのままの勢いでカタリを抱きしめて、体温と肺のふくらみを感じ取る。そして耳元で微かに笑っているカタリに話しかける。

「俺は、カタリを傷つけたくない」

「だから、なんで?」

「カタリが大切だから」

 素直になれば単純だった。きっと、人間リヒトも、この神獣リヒトも同じ答えを持っていた。何も変わらなかった。人間として恐れたものと、神獣となっても恐れたものは、何も変わっていない。どちらも、リヒト自身が怖かったものだ。

「私が大切?」

「ずっと大切だった」

「ふーん、離れたくない?」

 回している腕に力を籠めて、それに応える。

「もう人間じゃないのに、人間である私がそんなに大切?」

 何度か、こういう聞き方をされた事がある。その度に、俺は答えにつまって、抱きしめて誤魔化してきた。だけど、その人間らしい自分は、もういない。

「答えてくれない?リヒトは、私をどうして大切だって思うの?」

 逃がさないという感情が、背中に回された腕で感じ取れる。銀に変わった冷たい腕が背骨を軋ませてくる。丁度良かった、もっとカタリと抱き合いたかった。

「愛してるから。—――やっと言えた」

 膝から力が抜けるが、カタリに支えられて、やっと立ってられる。

「聞こえたか?」

「聞こえた聞こえた。やっと聞こえた。そんなに私が大切?何度も言うぐらい?」

「‥‥ああ。愛してる、何度もでも言える。このリヒトは、カタリに愛してる」

「人間なのに?リヒトを殺した人間と同じ種族なのに?」

「愛した人間か、そうじゃないかぐらい、この神獣でもわかる。愛してる」

 何度も言った効果が、ようやく現れたらしく、当てられている耳が火傷しそうなぐらい熱くなってきた。

「カタリはどうだ?」

「私?聞きたい?傷つくかもしれないのに?」

 そんな筈がない。当てられている耳と、肺のふくらみ、そして高い声でわかる。

「信じられるの?」

「愛してるから」

「‥‥そればっかりでずるくない?」

「なら、カタリも使えばいいだろう?」

 銀の腕が徐々に背骨へと圧力をかけてくる。呼吸が苦しくなるから、カタリの方へ方へと身を乗り出す。制服越しでも柔らかいカタリの身体が、受け止めてくれる。

「調子に乗ってる。私がご主人様なのに――罰として、言ってあげない」

 だが、迫ってきた俺から逃げるように、腕を離して、しゃがみ、俺の脇を通って逃げてしまった。朝食はそのまま自身の寝室へと何事もなかったように戻ろうとする。

「ついてこないでね」

「顔が見たい」

 そう言って、背中を追おうとした時、カタリの寝室から銀の杖が飛び出してくる。それをカタリが掴み、振り返りざまに追ってきていた俺の脇を横振りで蹴散らす。

 真横に吹っ飛んだ俺は、痛みを感じる。これも、外の力という奴らしいと、薄れゆく意識の中で確証を得た。




「色々あるんだな。これなんか凄くないか?」

「どれどれ‥へぇーいいじゃん」

 2人で指を使って、スマホをいじる。見ているサイトは最新の家電を紹介しているページだった。少し値は張るが、部屋にある古いレンジを、カタリが不服そうに使っていたのを覚えている。

「でもこういうのって、新生活の今買ったら、正規価格だから高いんじゃない?もう少し待ってからの方がいい気がするんだけど」

 配線はろくに出来ないのに、こういう事は良く知っているようだ。

「そうか。じゃあ、こんなのは?」

 さっき気になったページに飛ぶと同時に、カタリがスマホを奪ってくる。紹介されているハンドミキサー。野菜から肉は当然、刻めて。潰せる。しかも泡立てや、氷まで砕けるという優れものだった。型落ちだが、サイトでは去年度で過去最高の売上を誇ると謳っていた。

「‥‥欲しい、かも」

「なら、注文する?」

 カタリは頷きもしないでスマホを、期待した面持ちで返してくる。よって、その表情に応えるべく、俺も無言で注文をする。注文完了のページをカタリに見せて安心させる。

「私は別に欲しいなんて言ってないけど?」

「俺が欲しいんだ。そんなに高くなかったし、それに」

 少し調子に乗って、カタリの肩に腕を置き、腕を引き寄せてみる。だが、怒らないカタリは自身から近づいてくれる。

「カタリに使って欲しい。また料理が食べたい」

 そう伝えた所、カタリは顔を背けて、「仕方ない」を何度も繰り返す。そんな様子もまた可愛らしくて、自然とカタリの肩に伸ばした腕に力が入る。

「近すぎ。遊ぶのは帰ってから。いい?」

 伸ばしている腕を軽く叩いて、戻させてくるが、言う割に、カタリ自身も中々離れない。また、こちら側の髪を耳にかけて頬を染めてくる。カタリから香る苺の匂いに頭がくらつくのがわかる。

「気に入った?そうよね。好きそうだから、付けたあげたんだから」

 強気な緑の瞳が、更に強気に開かれる。

「まだ終わらないの?」

 俺とカタリを揺らす車両の座席の真向かいから声をかけられる。仕方ないと思い、カタリと触れ合っていた肩を一度離す。

「もう話は終わっただろう。付くまで暇だし」

「—―機関の線路を使っているのに、何も思わないの?」

「機関の線路とか言いつつ、この北部エリアに私達が行くなら、この経路は普通に使うでしょう。恩着せがましのも、ほどほどにすれば?」

「‥‥知らないのね」

 カタリが辛辣に返事をした時、マヤカが立ち上がって、列車の窓に手を付ける。

「ここ地下でしょう?臭うからやめてくれない」

「いいから、ほら」

 カタリの不満は無視して、カタリが窓を開ける。その瞬間、窓から見えたのは地下とは到底思えない光景。それは夜空だった。

「なにこれ!?」

 魔に連なる者の特異な術を見ても、普段は眉ひとつ動かさないカタリが跳ね起き、座席に膝立ちをして窓を開ける。感嘆の声と共に、肩を揺さぶってくる。

「—―これ、空じゃない」

「地脈か‥」

 何も知らない人間が見れば、銀河鉄道の夜の如く、星々の間を駆ける列車に乗ってしまったのかと驚く事だろう。だが、それは違う。これは物質を透過して、地脈またの名を、レイラインとも呼ばれる星の血の奔流を線路に見立てて車輪を乗せている。

 原理としては、電車というよりも、それこそ船に近い。力の流れに合わせて、帆を開き、目的地へと運んでくれる風を掴んでいるようだった。

「これを俺達に見せていいのか?」

 できる限り冷静に反応する。しかし、当然この状態の中、冷静のままでいられる筈がない。マガツ機関だけが使用できる線路。これさえあれば、世界中を旅できる。

 そんな兵器とでも言えるような代物を、マガツ機関は保持している。

「わからない?あなたを、逃がす訳にはいかない。ここなら、誰も逃げられない」

「逃げる?リヒトが、そんな事するって思ってるの?」

 興奮が収まったカタリは、窓を閉めて、腕と足を組んで座席に戻る。

「機関はそう思ってる。生命の樹の貴重性と危険性は知っている筈、それに関わった者は、なんであれ、監視の対象になる。手錠を付けていない事に感謝して欲しいのだけれど?」

 先ほどのやり返しか、言葉こそカタリに向けたそれだが、視線を全くカタリに向けない。意識的に無視をしている。

「そっちこそ、生命の樹の苗を見逃してるだろう。手錠を真っ先に付けられるのは、機関の構成員じゃないか?」

「—―言っていなかった?もう、機関の管理官レベルは続々と処罰を受けている。それでもなお、あの樹の出所がわからない。あれはきっと、この世界の物じゃない」

 生命の樹はこの世界にはない。正確に言えば、樹が自然と生える事はない。ならばどうやって入手するのか。ただ自力で作るしかない。大半のこの世界にある生命の樹は、大きな樹の枝葉の中の一つとなっている。その大樹は世界中の治安維持を司る組織が全体で管理していると言われている。恐らくは、オーダーもその一つだ。

 いつの間にか、これは国際問題レベルにまで発展してしまったらしい。

「そんな事もわかっていて、俺を疑ってるのか?俺が生命の樹なんて作れる訳ないだろう。ましてや、俺はこっちに戻ってくるまで、ただの学生だぞ」

「わかってる。けれど、あなたはもう人間じゃない。だったら」

「マヤカだっておかしいって思ってるだろう?順序が逆転してる。俺は、樹に殺されたから、向こうに行った。なのに、向こうに行った経験で樹を作ったって思ってるのか?」

 マガツも、いよいよ崩壊の時間が迫ってきたようだ。少なくとも、俺よりも魔に連なる者の逮捕を指揮してきたあのマガツ機関が、この程度の矛盾にも気付いていないとしたら、新たな治安維持機関が必要となるだろう。

「まさかと思うけど、面倒だからって、リヒト共々逮捕して、鎮静化でも図るつもり?そんなに自分達の立場が大事?評判が気になる?」

「私達は、ただ生命の樹の入手先を掴めれば、それでいい――」

 白いローブの中から覗かせる長い足を組んで、マヤカは黙ってしまった。この事に違和感を持っているかどうかはわからないが、わかった事はある。

「どこまで行っても、マヤカ、お前は‥」

「必要になれば、必要ならば、私は誰とでも手を組むし、敵にもなる。私に味方になって欲しければ、治安側の魔道を歩んで。これは、あなたの失敗が生んだ結果」

 まるで俺が秩序から離れた、混沌側に自らいるような言い方だった。実際、俺は、あの人間にいいように使われて、最後には樹の成長の手助けまでしてしまっている。俺の不手際の所為だと言われれば、そうなのかもしれない。だが――

「あの教授の企み一つ、気付かない機関に、どれだけの価値がある」

 わざと逃げ道を作る。最初から機関は、生命の樹には気付いて泳がせていた。そう答えさせる為、延いては、少しでも情報を得る為に。なのに、

「‥‥ええ、その通りよ。機関には、もう価値がないのかもしれない」

 到着を知らせる汽笛の音に紛れながら、マヤカが呟いた。



 着いた先は、変わらず視覚化された地脈だった。青白い筋に足を乗せる感覚は、意外なほど安定感があった。硬質化されたガラス板の上を歩いているようだった。

「ここから先は、私が先導をする」

 不思議、とは言わないが、違和感がある。

「ひとりなのか?」

「何か問題?だって、逃げないのでしょう」

 辺り一面夜空のような星と暗闇、強いて言えば先ほど乗ってきた列車こそ見えるが、それ以外は無限に続く青白い筋だった。落ちると表現すべきか、それとも吸い込まれると表現すべきか。どちらにしても、マヤカに従うしか、道は残されていない。

「行こう」

 カタリの手を取って、マヤカの前に出る。軽く頷いたマヤカは背中を見せながら、筋を歩いていく。幻想的な光景ではあるが、レイラインを使っての移動など、生涯を通して二度とやる事はないだろう。

「どのくらいかかる?」

「少し歩く、私から離れないように」

 必要最低限の言葉しか返ってこない。

「どう思う?」

「ここを歩かないといけない理由がある。これは間違いない。ここに覚えはない?」

 俺が意識を失った時、もしかしたらここを連れられてきたかもしれない。けれど、こんな光景、一度でも見たら忘れられないだろう。そう思い、首を振る。

「そっか。‥‥でも、わざわざここを歩いてるって事は、ここを歩かないといけない場所があるって事。こんなアストラルサイドでしか行けないって事は、多分だけど」

「あなたを流した場所がここにある。私達はそれを見つけた」

 ここまで来て隠す必要がないと判断したのか、答えを教えてくる。

「‥‥創生の彼岸を?」

 そこは神域だった。まさしく神にしか歩めない岸、まさか、本当に――

「いいえ、私達が見つけたのは、人間だった時のあなた」

「‥‥それを見せる気か?」

「そう見てもらう。見れば、何か思い出すかもしれない」

 一気に吐き気が迫ってくる。膝をついて、カタリに背中をさすってもらう。だが、カタリは何も言ってくれない。言える筈がない。そんな光景、魔に連なる者にとって

「ごめんね。でも、頑張って」

「‥‥怖いんだ」

「わかってる――でも、私にも見せて」

 地脈を渡っている今よりも、優先される現象。マヤカの言葉が事実ならば、人間としての肉体を残して、俺は創生の彼岸に流れ着いた。だったら、抜け殻となり、水晶の海へと繋がる門となっている俺がいる筈だ。

「残念だけど、あなたの身体は――見ればわかるでしょう。あともう少し」

 カタリとマヤカに肩を貸されて、連れていかれる。きっと、人間だった時の俺も、こうやって運ばれたのだろう。



「聞こえる?」

 そこには、確かに俺がいた。一目でわかった。これは、人間だった時の俺。生命の樹に中身を全て奪われ、抜け殻だけとなった俺だった。だが、抜け殻にも抜け殻としての価値がある。俺の身体という器を、星の奔流の風見鶏としていた。

「何か思い出さない?」

 そこは、先ほどの夜空とは打って変わって、白い研究所のようだった。地脈を渡り切った所で、アストラルサイドから押し出される形で、本来の北部エリア地下層に移動したらしい。廊下も天井も、床も何もかも白い廊下を更に歩き、その先にある結晶化された星の血の中に、俺がいた。寸分違わず、俺の顔に肉体。違うところと言えば、胸に穴が開いていた。そこから覗かせてくる臓器は、干からびている。

「—―俺は、誰だ?」

 そう答えた瞬間、ただの手が、頬に当たる。

「しっかりして!!あなたはリヒト!!私の恋人でしょう!?忘れないで!!」

「だけど、これは俺だ。なら、俺は誰だ?」

 安らかな顔で眠っていた。その周りには、マヤカと同じような白いローブをまとったマガツ機関の構成員が、幾人もいる。そして、水晶の中で眠っている俺を見て、何かを話し込んでいる。

「あれは、誰だ?」

「あれもあなた。だけど、あれは過去のあなた。よく思い出して、過去のあなたは、一体何を見た?」

 後ろからマヤカが抱きついてくる。白いローブの中に包まれている肉体が、この心とこの身体をくすぐってくる。身の毛もよだつ光景と、心臓が跳ね上がるような興奮が、同時に迫ってくる―――これは、過去の身体にもされた事だった。

「離れて!」

「あなた以上に、彼の事は知っているつもりなのだけど?特に、身体については」

「この身体は、あんたが触れていいものじゃあ!」

「離れろ」

 そう言った瞬間、マヤカが離れる。目の前のカタリが自慢気に微笑むが、カタリの肩を押して、退かせる。

「離れてろ」

 マヤカの腕を振り切って、人間リヒトに近づく。周りからマガツ機関の連中が各々声や腕、手で俺を近寄らせないようにするが、無視をして、水晶の腕を振る。

 真っ白い研究室の中で、成人男性数人が一堂に弾け飛ばされる。ただの人間如きとは言え、マガツ機関の連中だ。コロス訳にはいかない。

「これを見つけたのはいつだ?」

 結晶化された星の血に触れる。周りから感嘆や絶叫が聞こえるが、無視をする。

「‥‥本当に、人間ではないのね。平気?」

「答えろ。俺をいつ見つけた?」

「つい数日前」

 肩を並べるように、マヤカが近づいてくる。

「そっちも、平気なのか?」

「触れなければ便利なもの。これが終わったら、砕いて、ただのエネルギーになる予定。だから、離れるなら離れて。不純物は出来るだけ、取り除きたい」

 星の血と呼ばれているこれは、高純度の代用品であった。何の代用品か、それは万能の代用品。車を動かすにはガソリンが必要。子供を作るならば、相手が必要。だが、これはこれ一つで、全てを代用できる。しかも、ここまで結晶化されたこれは、ほぼ無制限に力を流し続けるだろう。

「思い出して欲しいんだろう」

 目を閉じて、深呼吸をする。人間だった時の俺の感情を思い出す。

 結晶の力を受け取り、中に収まっている身体に触れる。その瞬間、側頭部が割ける感覚に襲われる。これは前の身体の拒絶反応。あの教授に何か仕込まれたか。

「立てる?」

 腕を伸ばされるが、それを取る気にもならない。一度降ろした膝が、まるで言う事を聞かない。だが、その分、あの時の記憶を結晶内の回路を使って、読み取れていく。しかし、生命の樹を胸に植え付けられた時の記憶は見つからない。人間では生涯かかっても手にする事の出来ない身体を以ってしても、見つからないのか。

「今日はここまでにしよう!帰ったら、なんでも作るから!」

 後ろのカタリが声をかけてくれる。そして肩に手を置いてくれる。

「カタリ」

「なに?」

「側にいて」

 カタリの手を取って、更に人間の身体に意識を没入する。これは形而上の世界ではない。過去、俺が実際に体験した記憶だ。ならば、この痛みも苦しみも耐えられる。

 見えたのは俺が教授の部屋で倒れた時、まだ少しだが意識はあったようだ。見えるのは教授本人と、黒いマントを目深に被った人型のシルエット。そして、学生らしき数人。それが俺をにやけながら見つめている。だが、マントの顔はわからない。

 次に見えたのは、既に苗のような物が胸に埋め込まれていた時。確実に、まだ成長していない。やはり、あの樹は俺の命一つで、あそこまで成長したようだ。

「何が見える?」

「—―苗」

「‥‥やっぱり、あなたの身体だけで、あそこまで」

 自然と意識が人間の身体に連れ込まれる。

 次に見えたのは、蕾だった。果実のように深紅の色ではないが、淡いピンクの蕾はそれ自体に血管が通っているように、赤い筋がいくつも見える。それを引きちぎろうと、手を伸ばしている。腕や肘が悲鳴を上げている。根が腕を完全に届いている。

 だが、腕の肉を突き破って出てくる根を無視して、伸ばし、触れた瞬間、

「いい、全部吐いて。それで?」

 伸ばしていた手に、何かが刺さる。それが、俺の身体もまとめて串刺しにする。

 弾ける水風船のように、ほとばしる血を覚悟した。だが、何も出てこない。やっと自覚したらしい。そして、これを見ている俺も。もうこの身体は死体だった。

 出てくる血などない。見えるのは、刺された辺りが腐るように、黒い斑点が浮き出る様子だった。

「蕾の時には、俺は死んでる。身体の主導権は樹の方にある」

 カタリに背中をさすってもらい。中身を全て吐き出す。お蔭で、呼吸が楽になる。

 ある一点を超えた時、俺の身体は完全に生命の樹そのものになった。主導権を争う必要はなかった。時すでに遅し。今も見えている身体は、生命の樹の一欠けら。

「まだ疑いが晴れた訳じゃない。でも、あなたが生命の樹を作った訳じゃなさそう。もういい、止めて。そろそろ――」

 マヤカの声が遠くに聞こえる。

「聞こえてる?もう」

「—―っ!マズイ、止めなきゃ!!」

 カタリの声すら遠くに感じられる。これは、人間の俺の怨嗟か。

 決して見られたくない記憶を、自分が腐っていく光景を、勝手に盗み見た者への怒り。そうか、マヤカが俺をここまで連れてきた最大の理由は、俺の祟りを恐れたから。もとは同じ存在である俺ならば、耐えられるだろうと判断したようだ。

 だが、それは違った。また、俺は生贄にされた。

「離して!!」

「いけない!彼はここで放置する!」

 肩と背中に感じられた手が、離れる。最後の寄る辺たるカタリの体温と声が遠くになる。足場を崩されるように、何かが崩壊したのがわかった。




 魔に連なる者の最後とは、こうまで無様なのか。動物や昆虫のように、自分意外の肉体をもった何かに食い荒らされる最後が、一般的なのか。血も感じない、肉体も感じない。また、俺は身体を置いて行ってしまったのか。また。カタリと離れたのか。

「いやだ」

 これは神獣リヒトか?それとも人間リヒトか?

「帰りたい」

 だが、意味はきっと同じだろう。俺は。

「カタリ」

 結晶の中で怨嗟の声はどこまでも反響する。そのせいで怨嗟に聞こえる。辿っていけば、聞こえるのはただの泣き言。一人ぼっちは嫌だと嘆くただの悲しみなのに。

「一人は嫌だ」

「一人は嫌だな」

「捧げられるのは嫌だ。また一人で消えるのは嫌だ」

「消える時は誰だって一人だ――わかってる。おれも、もう嫌だ」

 この意識はきっと生命の樹の中に残ったただの残滓だ。見えるものは、干からびた俺。もう戻れない。死を受け入れられない。ただの抜け殻。捨てられた苗床。

「戻れないのか?」

「戻れない。ごめん。俺が、置いていったせいだな」

 俺が、この俺も海に連れて行けば、よかっただけの話だ。そうするれば、ここまで乾く事もなかった。ただの抜け殻として、飾られる必要もなかった筈だ。

「—――ひどい」

「これが俺達の最後なんだ」

 意識を向けて、胸の穴を見据える。

「見ないでくれ」

「大丈夫、もう終わる」

 ここは血の結晶の中、だったら、実数よりも概念が優先される。実数を持たない不安定なただの力が勝手にそれを補完してくれる。この世界を、俺は知っている。

 ならば、あの海にどうすれば、行けるのかも、俺は知っている。

「お前だったのか。俺を海に落としてくれたのは」

 人間リヒトにそう告げる。頷いて、それを返してくれる。

「俺は、誰なんだ?もう人間じゃない」

「—―わからない」

「落としたのはお前だろう?」

「俺が落としたのは、残滓ですらない。残った血の一滴。ずっと握りしめていた」

 開かれた手には何もない。血と言ったが、それは違う。きっと、俺の種だ。

「俺は、お前のコピーか」

「そう言えるのかもしれない」

 伏せていた顔がようやく上げられる。窪んだ目には覇気などある訳がない。裁定を下される罪人のように、振り下ろされる断頭斧を待っている。

「俺はこれからどうすればいい?」

「わかってるだろう。今度はそっちが海に落ちる番だ」

 近づいて肩を叩く。

「海は、どんな所だった?」

「怖がるところじゃない。だけど、」

「わかってる。中身がない俺じゃ、すぐに海に溶ける」

 俺は、まだ血という実数を持っていたから、帰って来れた。サーバーのデータをダウンロードするように、遠くの世界からでも、俺という概念を呼び出せた。だけど、これ俺は、もはやただの抜け殻だ。自然と水晶の海に溶けてしまう。

「いや、だよな」

「嫌だ。だけど、俺もお前みたいに死なないといけない」

 暗かった顔に、覚悟が宿る。

「俺は、まだ死にたくなかった。一目でいいから、カタリに会いたかった」

「‥‥わかるよ」

「だから、俺は死を引き延ばした。俺を海に落とす事で。身代わりにしたんだ」

「ひどいな」

「これが俺達なんだ」

 同じだが、少し違う思考のまま、笑い合う。

「でも、それもこれで終わり。だけど、大人しく海にはいかない」

「どうするんだ?」

「帰るべき場所に帰る」

 そう言って、俺を見つめてくる。

「その身体、不安定なんだろう。さっき腕を振っただけで、崩れてた」

「そう、見えてたのか」

「ああ、見えてた。俺とお前はリヒトだぞ。自分の事みたいにわかる」

 この世界に戻ってきて、ずっと感じていた違和感だった。まるで、夢を通してこちらを覗いているようだった。だから、カタリは食事や自身の肉体で、俺をこちらに楔を打とうとしていた。それも、限界ではあったが。

「俺が外装になる。だから、お前は」

「いいのか、本当に消えるぞ」

「俺という種族が、完全に消えるよりはましだ。魔に連なる者として、それは看過出来ない」

 想像以上に、この人間リヒトは、魔に連なる者らしい思考をしていたようだ。

「リヒトという抜け殻であり、器の俺は、長い時間、星の奔流に晒された。舐めるなよ。この身体は、この世界で一番の入れ物だ。お前の神喰らいの情報程度、いくらでも受け入れられる」

「俺だって舐めるなよ。美味くもない良くわからないものを、ずっと食べさせられたんだ。神どころか、世界になるものだって食べた。世界を受け入れる覚悟はあるか?」

 お互いがお互い自慢話をするが、そろそろ時間のようだ。

「急げよ。俺もお前も、そろそろ崩壊するし、溶ける」

 足元が崩れるのがわかる。見たところ、崩れたのは俺の足だった。

 そして同じように、向こうも解け始める。しかし、こちらよりも、数倍早い。

「俺は一度、ここに溶ける。お前はそれを喰らえ」

「いいのか。もうカタリに会えないのに」

「何言ってるんだ。もう、お前がカタリにとってのリヒトだろう。俺の出る幕はない。それに、リヒトとカタリの混血が生まれる。その可能性が一番高いのは、お前だ。よって、この計画はお前が引き継げ」

「そんな計画があったのか?」

 顔を振って、大きくため息を吐いた。

「やっぱり、俺はお前だな。もう少し、素直になった方がいい」

 少し腹が立つ。人間だったそっちが、一番カタリと長く時間を過ごしたくせに。

「憂いは断てた。さっさと、データになれ」

「言われなくても。もう手助けは出来ないから、そのつもりでな。俺は星の中—―」






「星の中を巡るか。いい旅を」

 起き上がって、手足を見つめる。崩壊していた肉体は、形を保っている。

 周りを見てみるが、研究室は何かが暴れたように、凄惨な現場だった。血こそ残っていないが、何か大きな獣のような存在が暴れたらしく、辺り一面、爪の跡が残っている。十中八九、俺だろうが、仕方ない。それは過去の所為にしよう。

「今何時だ?」

 スマホを取り出して、時間を確認する。ここに来た日から数えて三日程経っていた。どうりで空腹な訳だ。改めて、肉体を持った気分だ。

「生まれ変わったっていうのか?」

 振り返って、二度と見れないであろう、結晶を見ようしたが、何もない。冷や汗が止まらない。どうやら、俺はあれ事喰らったらしい。マヤカが無言で怒りそうだ。

「まぁ、いいか。俺が喰ったていう証拠もないし」

 研究室から出て、白い廊下を歩く。逃げる時に落としてしまったらしい書類が大量に落ちている。あれだけ傲慢なマガツ機関が尻尾を巻いて逃げ出したとしたら、なかなかに爽快だ。追いかけてみるのも、面白かったかもしれない。

「さて、どうするか」

 俺はここまで、マガツ機関の列車に乗ってきた。であるならば、それに乗るしか帰り道がない。もし別の道があるとしても、それを俺が知る訳がない。

「‥‥俺、出て来ていいのか」

 試しにスマホを眺めてみる。電波こそ通じるが、充電はほぼない。後一回どこかにかければ、それで終わりだろう。

 俺は一度、あの機関を退かせる程の大暴れをしたようだ。だったら、俺の姿を視認した時、向こうは容赦なく俺を攻撃してくるのでないか?負ける気はしないが、今度こそ、機関に目を付けられているならば、オーダーに鞍替えでもしなければ。

「—――隠者にでも」

「ならば、死んでくれと言った筈だ」

 顔を上げる。そこには、講師がいた。白い廊下の上を歩いている姿は、どこか死神めいていて、恐ろしくもあったが、ある意味、今の自分に相応しかった。

「俺の始末にでも来ましたか?」

「君を始末するには、私の手持ちでは足りない。神殺しなど、やはり人の身でするには、禁忌的な話だ。それで、身体に調子は?」

「先生みたいな事を言いますね。悪くないです」

 近付いてくる講師は、「私は先生だ」と無表情な顔で言葉を投げながら近付いてくる。そして、肩や腕、最後には脈も取ってくる。ゴーレムではあるのに、息遣いや血の気を感じる。魔道の腕で、俺よりも数段上なのは、間違いない。

「‥‥問題無さそうで、何より」

「問題があったら、どうしてましたか?」

「もしもの話は好みではない。着いてきなさい」

 無防備に背中を晒して歩いていく。それに習って、背中を追うがどうにも違和感がある。具体的には、足が重い。ひと一人分を背負っているような感覚がある。

「歩き難いかね?」

「‥‥わかるんですか?」

「ある程度は察しが付く。少し休もうか」

 まるでこの施設の構造を知り尽くしているかのように、廊下に設置された扉の一つを指で差してえくる。—―罠だな。

「二度も効きません」

 あの教授に同じような事をされた。少し警戒心が復帰したように感じる。

 だが、そんな俺の反応を見て、講師は大きくため息を吐いた。そして、乱れてもいない長い黒髪を整える。

「やはり自覚が足りないな。さっきも言った通り、君を始末するには私の手持ちでは足りない。それどころか、現存する過去の遺物をぶつけたとしても、君に敵うものなど、まずいない。君が寝息を立てていようが、食事中だろうが、それは変わらない」

 褒められているのか、呆れられているのか。ポジティブに捉えよう。

「ありがとうございます」

「—―嫌味にも聞こえない。こっちだ」

 目を一瞬閉じてから、扉を開ける。そこは休憩室と言える部屋だった。奥で、俺の身体を保管して利用していたとは思えない。使う者の気遣いをした施設だった。

「適当に」

 言われた瞬間、中の自販機を腕で破壊する。そして、自販機から水を取り出す。

「‥‥まぁ、構わない。どうせ、後数日もしないで解体される」

 休憩室の中は、白いテーブルに白い椅子。そして壁際にも白い自販機。アクリル張りの中身が見えるタイプだった。アクリル板だけを破壊して、中の水を取り出した。

「対価なら身体で払ってる。等価交換には、まだ程遠いですね」

「最もな事だね。座りなさい」

 とりあえずは、従っておく。仮にも我らが異端学の講師だ。俺を裏切らない限りは、話し程度は聞いてやる事にした。

「それで、話とは?」

 ペットボトルのキャップを外そうと捻るが、手のひらとキャップの溝とが、上手く合わさらない。何度か繰り返すが、手が滑る。キャップとは、こうも頑丈だったか?

「貸しなさい。これも、想定済み」

 奪い取るように、水が手から抜かれる。なんの抵抗も出来ない。あっけに取られて、手を見つめる。目に見えて、握力が下がっている。

「君の体感時間では、こちらに戻って2~3か月という感覚だろうが、それは違う。君は、未だに向こうに意識を半分置いて来ている。意味がわかるかな?」

「向こうって、彼岸にですか?」

 渡された水を一口飲む。ただの水が、ひび割れていた喉を潤してくれる。だが、味は最悪だ。ゴムのような味がする。この身体はだいぶ疲弊しているようだ。

「君の身体は、人間の使う術はほとんど効かないらしいな。噂では、色彩学と自然学による黄金の秘術すら弾いたとか――やはり君は、人間ではない」

 一体、何が言いたいのか。先ほどから要領を得ない。

「結論は?」

「君は存在の半分を彼岸に置いて来ている。術が効かなくて当然。多次元の存在に、私達三次元の力が効く訳がない。だが、それも過去のようだが」

 そう言って、指を突き出してくる。そのまま待っていると、頬を突かれる。

「痛いかな?」

「少しだけ」

「それが答えだ。君は、人間の身体を再度、この世界で得てしまった。痛みという概念は、肉体を通して、君という存在に伝えている。人形に呪詛をかけて、送った相手を呪うように。あまりにも、その身体と上手く馴染んでしまったようだね」

 義手や義足が、いくら損傷しても肉体的な痛みは感じない。だが、その光景を目の当たりにした持ち主は、それを痛みとして捉える。それはやはり、自身の肉体の一部だからだ。それは決して錯覚などではない。幻肢痛としても、そこに現れる。

「少し前ならば、ただの拳など、痛くもなかっただろうが、これからは違う。その身体が傷つけば、痛みを味わい。血を失えば、死ぬ事だってあり得る。今後は、そういった暴力には注意しなさい」

「暴力には、ですか。なら、魔に連なる力には?」

「言うまでもない。今後も、並み以上の力を持ってしても、君を傷つける事など不可能だ。先ほどの否定になるかもしれないが、その肉体は長い間、星の血の中に晒された。この意味がわかるかな?その身体は、星の力そのものとなっている。異物として排斥されずに受け入れられた。やはり、並みの兵器では、君は殺せない。そんな事、この星が許さない」

 世界と神を喰らった存在が、星が加護する肉体を得た。途方も無さ過ぎて、理解が追い付かない。わかった事は、そうそう、俺は死なないという事。

「君は、召喚者に神獣リヒトと呼ばれたらしいな。眉唾ではあったが、これで君は、自他共に認める神獣リヒトとなった。理解しなさい。完全に君は、人間から逸脱したただ唯一の存在となった」

 足と腕を組んで言う顔も声も、やはり無表情だ。だが、声を重みで、どれほど異常な事か、わかった。魔に連なる者は、所詮は人間だ。勿論、元人間はいる。

 しかし、俺は違う。この身体は、元人間の欠片など、形以外何も残っていないだろう。しかも、リヒトという存在すらも、人間の要素が残っていない。このリヒトは生まれた時から、人間などではない。人間リヒトは、もういないのだから。

「—―話を続ける。君は、今自分がどういう扱いになっているか、わかっているか?」

「数日放置されたんですから、知る訳がないでしょう」

「では、正解を教えよう。君は、この秘境の反逆者となった」

 溜息が出そうだった。だが、この重い頭を抱えるには、充分な答えだった。

「自分達で、俺を造りだしたくせに?」

 顔を覆っている指と指の間から、講師を見つめる。

「その通り。君を造り出したのは、我ら魔に連なる者。最初から最後まで、我々の責任だ。だが、そんな事は、もう関係ない。マガツ機関が、君を粛清対象として見ている」

 ついうっかり、テーブルを蹴り上げてしまう。痛みこそ感じるが、この怒りを収めるには、程遠い。

「ふざけやがって――」

「私もそう思うよ。だが、君は自分から結晶に触れた聞いている。それだけでも、相当の責任を受けるべきじゃないかな?そう睨まないでくれ。わかっているつもりだ。触れなければ、君もカタリ君も、逮捕されていただろう」

 あの時は、星の結晶に触れるべきだと思った。だから、俺は生命の樹に宿られている間に死んだとわかった。物的証拠こそないが、一度掴み、死ぬまで搾取し続けた存在を、生命の樹が離す訳がない。死んだとしても、魂を掴み、それすら奪う。

 生命の樹に殺される事の恐怖は、そこにたどり着く。

「カタリは?」

「君を呼び出して、この秘境を滅ぼそうとした者として、謹慎中だよ」

 テーブルを蹴り上げた時の勢いが、削がれてしまった。

「逮捕とかは」

「まさか。仮にも彼女は、君を創生の彼岸から呼び戻した賢者だぞ。そんな叡智の結晶を摘み取るような真似をしたら、むしろ機関こそが秘境を潰そうとしていると、言われかねない」

 首を振って、否定する。だが、どうやら、謹慎中という名の軟禁は今も続いているようだ。どれだけの隠し事をマガツ機関がしているのか、知る由もないが、所詮は奴らも魔に連なる者か。勝手な私刑のような事、今後の発展の為にも、カタリの人生を摘み取る真似は出来ないようだ。

「変わった事とかないんですか?機関がどれだけ間抜けでも、いい加減、あの教授は」

「未だに放置だ。一体何をしているのかと、講師陣もいい加減、痺れを切らして、機関に訴えた所だ」

 あれだけ中が悪い利己主義連中でも、手を取り合う事があるのか。当然と言えば当然かもしれない。もし、生命の樹をこの秘境が自力で精製しているとなると、世界中の治安維持組織から、攻撃を受けてしまう。排他的な魔に連なる者は、契約やルールには従う心理を持っている。ルールに従うものはルールに守られるという都合の良い考え方を逆手に取っているが。

「私の話は終わりだ。あとは好きにしなさい」

「勝手ですね。やはり、あなたもあの教授と同じだ」

 飲み切ったペットボトルをゴミ箱に捨てようと、立ち上がる。向けられる眼光を無視して背中を晒す。

「挑発のつもりかね?」

「事実だ。俺を、散々振り回しておいて、好きにしろか。ふざけやがって――」

 ペットボトルを捨てて、向けられている眼球を見つめ返す。

「なんだよ。その目は」

「これでも私は、君の教師だが?」

「好きにしろと言ったのは、あんただ。それなりに対応して欲しければ、それなりの態度を示せ。あの教授はどこだ?マガツ機関は、何を考えている?」

 椅子に座らずに上から見下ろす。上から見られるのは、気にならないらしいが、あの教授と同じだと言った事は、許せないらしい。

「私に言う権利はない。そして、それを知ったとして、君はどうする気だ?」

「何も変わらない。復讐だ。マガツ機関も増えたがな」

 あのプライドが高い教授には、マガツ機関の適正手続による逮捕が相応しいと思っていたが、連中が動かないのならば、やる事は決まった。俺は神獣らしく振る舞う事にする。自分を神と自称する気はさらさらないが、俺の怒りを買った事を後悔してもらう。

「復讐か‥その先に、君はどうする気だ?」

「どうもしない。興味もない。お前らが、俺にやった事と同じだ。生命の樹に捧げられた俺のその先なんて、何も考えなかっただろう」

「‥‥違いない」

 立ち上がった講師は、背中を向けて出口に歩いていく。

「だが、君はどうしたって、人間である私の手を借りなければ、外にも出れない。これで、それなりの態度を示すことになったのではないかな?」

 思わず顔をしかめてしまう。だが、我らが異端学の講師は、そんな俺の様子が楽しかったようで、目を細めて笑ってきた。





「カタリは部屋ですね?」

「予定外の事が起きてなければな」

 マガツ機関の列車とは、違う列車に乗って、座席に座る。座席などいくらでもあるというのに、講師は真横に座ってきた。カタリとは違う、甘い香りが髪から漂ってくる。それに、向かいの窓に映る顔は、人形とは思えない感情が色濃く塗られたあざ笑うかのような表情だった。

「ふふ‥ですね、か。それは好きにしているのかな?」

「好きでしているんですよ。人の趣味を笑う気ですか?」

「まさか。私達は魔に連なる者。当人達の使う術など、当人達のフェティシズムが形になったものだと理解しているつもりだとも。だが、君の趣味は、なかなかに得難いものでね。つい、手に取ってみたくなった。それだけだよ」

 あの講師とは思えない顔付きだ。フェティシズムというよりも、俺の趣味どころか、術のひとつすら、ろくに見せていない筈なのに。

「俺の術は、なんだと思いますか?」

「ん?そうだな‥まず、身体の変換方法は自力で考案したな?」

「カタリと一緒に、ですがね」

 袖をまくって、腕を晒す。そして、表面を輝かせる。

「自然学の優等生か。話には聞いていたが、その力は、どちらかと言えば、我ら異端学の棚にこそ相応しいのではないか?まともな神話に、片足を入れていないだろう」

「神話?そんなものは不要ですよ。これは、俺の力です」

 本当の事は言えない。こちらの世界しか知らなかった時と比べて、この力は異質になっているなど。

「水晶か。砕けたりしないだろうな?」

「まさか。この世界に、俺を砕ける存在などいません」

 虹色の水晶のように見える腕の中を、白い血が彷徨っている。あの腕と同じだ。この腕があれば、世界を砕ける。神すら潰す事が出来る。はず。

「慢心は命取りだ。腕に生やす程度にしておきなさい。できるだろう?」

 言われた通り、腕を肉に戻す。その上で、手の表面に水晶で造り出した刃物を造り出す。試しに、それを渡してみる。顔にこそ出ていないが、鼻息で興奮しているのがわかる。

「ほほう。いい色だ。これは、色彩にも通じているな?しかも、見た目通り、発掘、天体、当然に自然もか。その年で使えるものを全て使ったら、こうなるのか」

 あの講義室にいる人形と同一個体とは思えない様子だ。心の底から楽しそうに見える。

「それを見て、俺はどういう趣味だと思いますか?」

「ん?見た目通り、欲張りだろう。しかも、これはカタリ君との考案という事は――カタリ君と何かを造り出す事を好きと見える。自身の肉体を彼女の望むままに差し出すのも結構だが、せめてセーフワードを決めておきなさい」

 慌てて奪い取ろうとするが、お手玉のように水晶のナイフを左右の手で遊び、なかなか返してくれない。少し腹が立ったので、ナイフを消す事にする。

「つまらない。もう少し、君で遊んでもよかったのに」

「カタリとの関係は清いものです!セーフワードなんか、使う時はありません!」

「それこそつまらない。魔に連なる者の夜が、正常である訳がないだろう?これは教師からの忠言だと受け入れなさい」

 そんな発言を、真面目な顔で言ってくるので、タチが悪い。仮にも教師だろう。未成年の教え子相手に、セーフワードなんて言葉を送るか?やはり魔に連なる者の人間は、どこもおかしい。しかも、この人は、それを持っているという事だ。

「それで、後どれくらいですか。まさか、マガツ機関の駅に着く訳ではないでしょう?」

 マヤカに連れられて来た時は、マガツ機関が所有する土地の地下から、列車に乗った。この秘境には、それぞれの学部の受け持つ土地がある。その中でも、誰も歩きたがらない行政を司る土地がある。それがマガツ機関の牛耳る事実状の行政地区。

「そのまさかだが?これでも私は、この秘境で教鞭を取る者だ。罪深い教え子を正しき道に――まぁ、待ちたまえ。ここから飛び降りた所で、結局、徒歩で機関の土地に着くだけだ」

 窓を開けて、外に出ようとした時、外は既にコンクリートで作られたトンネルだった。振り返って、心底嫌だと顔で伝えると、楽し気に微笑んでくる。

「良い性格してますね」

「お褒めに預かり光栄だとも。よく言われるのが自慢だ」

 どうせ人形だ、この場で八つ裂きにしてしまおうか。

「セーフワードを決めるべきかな?」

「—―カタリとが先です」



「帰ってきたのね」

「そっちも、無事だったか」

「‥‥意外」

 心底驚いたという顔だ。無表情だからこそ、この整った顔は完成していると思ったが、表情というものもなかなかいいアクセントになってくれている。

「顔を見た瞬間、殺されると思ってた」

「それは後だ。状況は?」

 杖を携えている機関の連中に、目線をやりながら聞く。

 列車から降りてきた俺を出迎えてくれたのは、マヤカと数人の機関の人間達だった。この状態の俺を生み出したのはこいつら自身なのに――愚かな事だ。

 この身体に、人間の術などろくに通用しないのに。

「聞いていない?あなたは、私達、マガツ機関の所有物に――失礼、私達の監視下に置かれる事になった。死にたくなければ――」

「脅しをする奴に使う時間はない」

 肩をぶつけながら、機関の包囲網の中を歩く。マヤカの隣を過ぎ去った時、杖の先端を向けてくるが、その表情は、あの機関とは到底思えない顔だった。

 俺が結晶に触れて、変異する姿を見たのか。

「どけ。死にたいか?」

「あなたが従わなければ、カタリは」

「それも脅しか?カタリを殺せる権限なんて、お前らが持っている筈ないだろう」

 向けられる杖に、背中を見せながら、振り返る。舌打ち一つしてこない。まるで、助かったと言わんばかりの安堵の息だった。

「殺す、じゃない。あなたが不安定な状況であるのは、わかっている。カタリから聞いた」

 話すしかない状況に置かれているという事か。一介の学生に、機関が自身の術の明かすように命令したのか。—――怪我でもさせていたら、喰いコロス‥

「‥‥だからなんだ?俺を始末したいんだろう」

「結論から話す。あなたの生きる方法は私達に従う事だけ」

「どこが結論だ。結局脅しだろう」

 あの時の俺の姿を見ておいて、全く目を逸らしてこない。

「それらは同じ事。話を聞いて、私の為にも」

 私の為?

「‥‥いいだろう」

 列車から遅れて出てきた講師や、後ろの機関の連中がそれぞれ理解できないと言って声を出してくる。—―厄介な事だ。一度した契約には従うしかないなんて。

「ふたりだけで話したい。こっちに来て」

 自然な動作で、腕を引いてくる。そのまま、後ろの機関の間を縫って、ホームを歩く姿は、きっと先ほどよりも理解できない光景だっただろう。

「‥‥カタリは、元気か」

「—―ごめんなさい」

「そうか‥」

 あれだけ自身の肉体を、それこそ寿命を削って、俺を呼び出したのに。それが目の前で崩れ去り、中身を晒した。わかっていたとしても、心理的にも相当つらかっただろう。

「声だけでも聴きたい」

 ホームを過ぎ去り、地上に上がれる階段を登り切った所で聞いてみた。そんな俺の声を無視してくれた。

 手を引かれたまま、カタリに連絡をする。後一度しか通話できない役に立たないスマホを、その役目を果たしてくれる。

「‥‥リヒト?」

「カタリ。待ってろ、迎えに行く」

「うん。待ってる」

 言いたい事は言えた。充電が切れる事を、電子音が伝えながら、完全に切れた。

「食料は供給してるんだよな?」

「してる。けれど、あまり料理はしていないみたい」

 料理好きで、料理上手のカタリが――早く帰って、手伝わないと。

「今晩にでも会いたい。いいな?」

「それはあなた次第。でも、いいの?」

 腕は掴んだんまま、操られたマリオネットのように、振り返ってくる。

「—―彼女は、あなたを」

「わかってる。わかってるんだ。そんな事」

 苗木を育たせるには、苗床が必要だ。それも、栄養を豊富に含んだ土地が。俺は、長い時間、カタリの手料理で生活していた。カタリの料理しか食べない日もあった。

 あの生命の樹は、俺の身体だけで、八割方育ち済んだ。カタリは俺の身体を、生命の樹にとって都合よく造り変えた可能性がある。

 そして、俺を串刺しにしたあの刃。あれは、銀色だった。

「わかってて、彼女と生活しているの?それは何故?」

「愛してるからだ」

 胸を張って言える。俺は、カタリと好きで一緒にいる。カタリを愛しているから。

「‥‥つまらない答え」

「他人の色恋なんて、基本的につまらないものだ」

 その答えが、心底気に食わないようで、手を引いたまま廊下を歩いていく。ここを通る事を事前に伝えていたのか。誰とも会わない。

「そっちはどうだ?」

「私の恋人?」

「姉妹に会いたいんだろう」

 俺の命を救ってくれた時の対価。それは、遠くにいる姉妹に一目でいいから、会わせる。マガツ機関という立場を使えば、よほどの事がない限り、会える筈なのに、それを使わない。使いたがらない。

「‥‥もういいの」

「良くないだろう。俺との契約を破る気か?」

「もう生きている確証はないから――もう廃棄された。ここに入って」

 ドアノブを掴んで、中を見せてくる。中は普通の会議室のようだった。だが、天井や床に、拘束に便利な鎖の類が模様として塗られている。

「これで、あなたを捕まえられる訳がない。入って」

 本心で言っているかどうか、図る暇もなく、中に連れ込まれる。この部屋に入る事は、誰にも教えていないようで、外を確認をしながらゆっくりと閉める。

「このままだと、俺はどうなる?」

「‥‥まず座って」

 会議室の椅子を示してくる。

「私も、少し疲れた」

 手を離したマヤカは、倒れ込むように座った。あまりにもその様子が異常で、それこそ線が切れたようだった。

「俺が消えたのは三日前だ。その間、何があった?」

「今日から数えて、あなたが消えたのは、4ヶ月ほど前。その間、何が起こっていたかわかる?あなたが帰ってきてからも、機関はあの魔人と抗争を続けていた」

「抗争?なんの役にも立ってないだろう。努力を誉めろっていうのか?」

「—―違いない。けれど、椅子に座る許可は欲しい」

 大きく深呼吸をしながら、目を閉じた。そして、寝息を立ててしまう。

 マヤカの話をそのまま信じるとしたら、俺が消えた4ヶ月の間、あの教授とずっと戦ってきた事になる。その心労がいかほどの物か、俺には理解も出来ない。

 マヤカの前髪を触って、整えてみる。普段から白いと思っていた顔も、今は更に白く見える。

「‥‥結局、マヤカも手を貸してくれてたのか」



「無防備過ぎるんじゃないか?」

 未だに寝ぼけているマヤカの肩を掴んで軽く揺らしてみる。だが、その振動さえ心地いいようで、もう一度目を閉じてしまった。一体何日前から眠っていないのか。

「‥‥具合が良くないなら、帰って寝てろ」

「具合が悪い訳じゃない」

 目を閉じながら、寝言のように言ってくる。

「前にも話した。私には、定期的に起こる機能不全がある。今日はその日みたい――大丈夫、少し休めば、それで済むから」

 会議室に入ってから、30分程経った。誰も入って来ない所を見ると、人払いは済んでいるらしい。それとも、本部に戻ってくる程の余裕も、もうないのか。

「聞かないし、怒らないの?何も言わないで、連れ込んで、目の前で眠り始めて」

「結局、俺はそっちに頼らないと、今の状況ひとつわからないんだ。仕方ないから、マヤカのペースに合わせるよ。もうそうするしか、カタリの会いに行けそうにない」

 カタリの声は、相当差し迫った問題がありそうだった。今晩にでも会いに行かねば、何かを起こしてしまいそうだった。

「それでいいの。あなたは、私達機関の言う事を聞かないと、生きていけなくなった。カタリとも、そういう方向で話をつけた」

「—―カタリは、なんて言ったんだ。俺を捧げたのは、カタリなのか」

「それは自分で聞いて。私が聞いたのは、あなたはこのままでは、肉体と精神の乖離が始まってしまう事。自覚はあるのでしょう?」

 もう一度、手を開いて、自身の肉体を操ってみる。ワンテンポ遅れて反応するそれは、不出来な人形か、処理の追い付かない電子機器のようだ。

「乖離が始まったら、俺はどうなるんだ」

「あなたの内に潜んでいるものが、全てを喰らい尽くす。あの姿は、ただの神じゃない。あれは、まるで――」

 そこで止まってしまい、腕を掴んだ。

「俺が、怪我でも、させたか‥」

「これは逃げる時、カタリにされただけ。カタリにも同じ事をした」

 僅かに緩ませた口角で、それを聞かせてきた。

「あの姿は、災害そのもの。あんな力を放置できるほど、今の機関も愚かじゃない。だから、あなたには機関の手先になってもらう。そうすれば、カタリの元に帰してあげる。順序が矛盾してるって思う?私もそう思う」

 俺をカタリの元に戻さなければ、災害となる。被害の面を苦心しているのならば、俺をさっさと、カタリに預けて、乖離を止めればいい。なのに、機関は真逆な事をしている。俺から時間を奪い、乖離を進めようとしている。愚か者が――。

「俺の内側を見たい奴らでもいるのか?」

「あの場にいた私達は、全力でそれに抗った。でも、教授たちに、機関の一部が、無理に押し通した。あなたが変化する時を、見たがってる。これは、私の望むところじゃない」

「なんで未だにあの教授を放置してる。もう、いくらでも別件で逮捕できるだろう」

「それをする時じゃない。これは、私の意見でもある」

 機関の隠し事は、今に始まった事ではないが、被害者に向かって使う言葉とは、到底思えない。全くと言っていい程、魔に連なる者達は、自分の事以外、考えていない。魔に連なる者の発祥の地は、どこなのか、誰も知らないが、数世紀昔の思考を未だに持っているのは、取り締まる側にいる機関でも、変わらないらしい。

「‥‥わかった。それで、俺は機関の一人として、何をすればいい?」

「あなたは、まだ機関の――いいえ、あなたにしてもらう事は、もう決まってる。あなたには生命の樹の根を断ち切ってもらう」

 そう来るのではないかと、思っていたが、まさか本当に言うとは。

「機関がやれと言うなら、俺は本当にやる。後から、罪を被れとか言うなよ」

「あなたを騙して、怒らせられる程、この秘境には戦力がない。あれを見ていない人間達は、あなたの事を侮っているけど、私は違う。約束する。私は、あなたの味方でいると」

 生命の樹は、その存在から、所持しているだけで、拘束や逮捕の対象となる。けれど、所持されている生命の樹には罪はない。しかも、この世のものではない知識や情報の塊である生命の樹は、総じて、収集対象でもある。

 それをマヤカは断ち切れと言った。

「なら、原樹は見つかってるのか?」

「それもあなたに探してもらう。わかっていると思うけれど、あなたの植え付けられた樹は、枝葉。原樹の根を断ち切るには、一度、生命の樹に取り込まれたあなた自身に探してもらうしかない」

「—―俺が樹の苗床にされるのも、想定済みか?」

「私には言う権利がない」

 まるで、俺が生贄にされるのを、待っていたような言い方だ。もしそうなら、あの教授が生命の樹を所持出来ていた理由も頷ける。わざと、泳がせていたのか。

「機関は、俺を殺すつもりだったのか」

 背もたれに寄り掛かり、椅子を軋ませる。

「‥‥私からは言えない」

「それが答えだろう。結局俺は、学院どころか、この秘境全体から、望まれて見殺しにされたのか」

 嘆いた所で、何も始まらない。そんな事は分かっている。だけど、

「俺は自分を殺した連中の為に、働くのか?しかも、俺の払う代償はやっぱり、命か?」

 それ以上、マヤカは何も言ってくれない。言えるは筈がない。少なくと、マヤカは機関の人間を引き連れて歩ける程の地位を持っている。そんなマヤカが、俺が、これからされる事を知らない筈がない。知っていて、放置した。樹を探す為に。

「俺は一体、何度捧げられれば済むんだ。どう思う?」

「私にはわからない――私も、捧げられて、ここに来た」

「そうかよ。俺ばっかりじゃないんだから、我慢しろって事か」

 目を閉じていたマヤカが跳ね上がるように起きて、腕を掴んでくるが、それを振り払う。椅子から起き上がって、扉まで近づく。

「それで、まず俺は何からすればいい?自然学のカレッジでも焼き払うか?」

 冗談なんかではなく、本心でそう伝える。

「いや、本当に合理的に樹を探し出して、根を断ち切るなら、秘境全体を壊すか。俺を捧げた秘境に、俺が与してやる必要はない。そう思わないか?」

 自然学の教授が筆頭に俺を生贄にしたが、別の学部の人間も関わった事は、知れている。ならば、容赦をする必要など、そもそもない。目に付く全てが俺の敵ならば、全て焼き尽くせばいい。これは――正しい復讐だ。

「それでは、樹がどこにあるか、本当に断ち切れたか、不確実になる。それは最終手段として残しておいて」

「俺は本気だぞ?」

「私も本気。全て焼け野原にしてくれるなら、私達も仕事がしやすい」

 椅子から立ち上がったマヤカの物言いが、少し腹立たしかった。

「自分達は特別扱いでもして貰えるって思ってるのか?ここだけは時間をかけて燃やしてやる」

「そうして。私達も一枚岩じゃない。内部の不義を暴くのも、私達の仕事」



 この白いローブとは、こうまで重い物なのか。マガツ機関は、一介の派閥ではない。人外に落ちた魔に連なる者の逮捕という排除などよりも、数段手間がかかり、死の運命に直結するような、死と隣合わせの時間を、ローブという見える形で日常として受け入れている。銀の装飾がなされた肩や胸にある大きな留め金。それらは、魔道に携わる者ならば、一目で震えあがり、嗚咽と漏らす。そして向けられる視線は怒りは勿論、いつ跳びかかられてもおかしくない殺気に近いものすら感じる。こんな装備を、マヤカは毎日、身に付けていたのか。

 なんて――羨ましい。

「有象無象が。これだから人間は」

「人間は?」

「嫌いだ」

 俺を恐れた人間が、俺を生贄として捧げた人間が、視線を向けてくる。刈り取る立場が変わったと自覚したのか。毎日好奇の目で晒され続けたが、それとこれとは、大いに違う。実験動物として飼っていた何かが、いつの間に知能を付けた。

 そんな気分なのだろう。

 俺とカタリは、白いローブを肩と背中に下げながら、秘境を闊歩する。もう既に機関の土地からは離れてしまった。よって、周りには魔に連なる者達が歩き回っている。いい気分だ。ここにいる全員、俺が裁ける。刈り取れる。

「それに、いい獲物だ」

「—―ふふ、そう思う?」

 これから向かう先は自然学のカレッジ。既に機関の人間が街に入り込んでいるという話なので、遠慮なく学院内外を歩ける。昼めしを求めて彷徨っていた自分が遠い過去に思える。そして、この杖が、改めて自分の立場を教えてくれる。

「それは、あなたの身体程ではないけど、並みの術なら弾ける」

「‥ゴーレムの一種だな」

 マガツ機関が独自で開発したとされる文字や杖に刻み込んである。悪魔というのは、一体どの程度の存在の事を言っているのか知らないが、そんなもの恐ろしくもない。

「それがあれば、悪魔でも殺せる」

「悪魔?目の前にいるのは、神獣だぞ?」

「悪魔よりもおそろしい存在がいたなんて、初めて知った」

 白いローブを着てから、だいぶマヤカの様子が軟化した。

「仲間とか、いなかったのか?」

「私に付いてこれる人は、まずいない。だから、あなたしか、私には味方がいない」

 マヤカの実力は、それなりに把握しているつもりだったが、やはり並の使い手では、後ろを歩く事さえできないようだ。あの眼球にぶつけられた銀のナイフなど、その辺の学生どころか、プロでも、受ければ、再起不能になるだろう。

「指を差されてる。怒らないの?」

「帰ってきてからは、ずっと、こんな感じだよ。気に障るけど、気にした所で仕方ない」

 また数日姿を見せなかった俺が、今度は機関の白いローブを肩にかけている。自分が有名人だとは思ってもいなかったが、ここまで来れば決定的だ。その辺でたむろしている学生ですら、俺の事を知っている。自覚すべきだった。俺は、いい観察対象なにだろう。

「マヤカは平気か?」

「今日は驚きの連続‥。あなたがカタリ以外を人前で気遣うなんて」

「いいから、答えろよ」

「平気。あなたが最前線で歩いてくれるから、幾分か、心が休まる」

 少しだけ小馬鹿にしたような言い方だったが、きっとそれは事実なのだろう。マヤカの様子が帰ってきてからおかしい事は、わかっていた。ただでさえ人形のようなマヤカが、天井に吊るされているような歩き方だった。それが、いくらか治まった。

「あなたは平気?」

 マガツ機関の白いローブを着た二人が堂々と街中を歩いているのものだから、周りが勝手に道を開けてくれる。歩くには丁度いい。

「平気‥‥あまり時間はないみたいだけど」

 肩を触る振りをして、首の血管に触れてみる。熱こそ感じるが、触れられている感覚が希薄だ。指の感触をあまり感じない。人形なのはどちらだ。

「あなたのさっきの様子をも加味すると、やっぱり今晩には一度カタリの元に帰さないといけない。今日一日だけでいいから、大人しく私に従って」

「今生までずっと機関に首輪を付けられるんだろう‥」

 このローブの留め金をつけたという事は、そういう事だ。俺は、機関の一員となった。向こうも俺も不本意だが、そう周りが見てしまっている。もう引き返せない。

「もう街を歩けなくなったみたいだ――」

 イッケイと行った、これから開拓するつもりだった店の人間も、少なからず魔道に通じているだろう。なのに、俺はこの姿で歩いている。見られてしまっている。

「行こうと思えば行ける。それに、私もたまに行ってる」

「そうなのか?」

「そう。私も昼食は外食が多い。あなたが危惧している事は、割と起こらない」

「‥‥てっきり、」

「割と起こらない。でも、時たま起こる。その方が私達には都合がいい」

 厄介な生き方を選んでしまったようだ。選択肢がないとしても、俺は機関の一員となった。今後の一生を、機関に悪い感情を持っている人間には、後ろ指と同時に呪詛を投げつけられる蓋然性があるのか。

 そんな世間話を、ローブを着たまましていると、ついに自然学のカレッジ前まで到着した。俺が捧げられる前まで、ほぼ毎日歩いていた道は、足が勝手に覚えていた。

 いくら魔に連なる者だとしても、全ての学部を合わせた巨大な学校の敷地など、持っていたら、いつか気付かれる。よって、それぞれのカレッジは秘境中に散りばめられていた。その中でも自然学のカレッジは一番巨大で、一番高い。高層ビルと古い石造りの学舎を合わせたような姿をしている。潤沢な資金の持ち主だから出来る事だ。

「どう入る?」

「いつも通りで十分だろう」

 石造りの校舎の木製の巨大な扉を蹴り破る。足に神域の水晶をまとわせた一撃は、俺の想像を超えた破壊力を造りだした。門が開けばそれでいいと思った蹴りは、門を真横に粉砕して、学舎の中にその破片を散弾銃のように吹き飛ばした。

 何事かと思った学生達が、ぞろぞろと講義中にも関わらず、吹き抜けの廊下から真下である破壊された門を眺め始めた。

「私達でも、ここまではしない」

 そう言う割に、俺と肩を並べながら砕かれた門を踏みつぶしながら、中に入っていく。真上の学生達は、それぞれ反応は違えど、奇異の目を向けているのは間違いない。昔から変わらないな。俺が出入りしている頃からこんな感じではあったが。

「懐かしの校舎はどう?」

「懐かしいけど、そんなに好きな校舎じゃなかった。嫌われてたみたいだし」

 俺を見下ろしている学生達を見上げる。あいつらは前から俺を見下ろしていた。学部長の研究室を出入り俺を見て、侮蔑の表情や、中には軽い攻撃を仕掛けてくる奴もいた。

「ここでは軽い喧嘩程度しか楽しい記憶がない。あの教授も、そうでもなかったし」

「喧嘩?面白そうな話?」

「それなりに。だけど、それは今度だ」

 足を向ける先は重々わかっている。数か月前に、軽く挨拶に行った部屋だ。それからも機関が生命の樹を没収したので、数度踏み込まれているので、向こうも慣れたものだろう。

 受付の静止を振り切って、エレベーターの前に立つ。その結果、先に待っていた学生達が逃げる逃げる。講師陣も、目を付けられるのを避ける為に、離れ始める。

「学部長はおられるますよね?」

「‥‥知らない」

「なら、直接確認しに行くので、俺が来たって伝えておけ」

 講師の一人、俺を捧げた奴の一人にそう伝えて、中に入る。エレベーターがこのまま爆破される可能性もあるが、俺とマヤカなら、その程度では死なない。

「外は別の人間は固めてるんだよな?」

「そう。だから、逃げ道は無い。それに逃げるなんて、卑怯な方法、あの――」

 そこでエレベーターが止まり、電源が落ちた。マヤカと二人して、首を振る。

 あまりにも愚かだ。マガツ機関の捜査を、こんな方法で止めるなんて。死にたいにも程がある。自分がやったことを理解していないのか?

「前言を撤回する。プライドと卑怯の秤は、後者に傾いたみたい」

 マヤカは手に持っている黒い杖の先端を、床に突き刺した。粘土にでも突き刺すかのように、杖が床に埋まっていく。それと同時にエレベーター内は暗いまま、上へ上へと引っ張られていく。

「少し揺れるけど、我慢して。このまま上に行く」

 黒い杖にも、俺が持っている鉛色の杖と同じような文字が刻まれている。俺もそれなりにゴーレムについて知っているつもりだが、こんなやり方、しかも文字の意味がまるでわからない。ほとんど模様程度にしか認識できない。

「手慣れてるっぽい」

「ぽいじゃなくて、慣れてるの。こうやって少しでも時間稼ぎをしてくる対象は、腐る程いる。この杖は、そういう時に便利。あなたの杖には無い機能だけど」

 自慢している訳ではなさそうだが、杖を紹介出来て、少し誇らしげだ。

「俺の杖には、どんな機能があるんだ?」

 何も言わないで渡してきた杖にも、文字こそ刻まれているが、それ以外わからない。着替えながら、自然と持たされたので、きっとこれも衣装の一つなのだろうが。

「それは、あなたの手足になる。カタリと私で用意した。そろそろ着く」

 ようやく不規則な動きが収まり、扉が開かれた時、閃光が飛び込んでくる。

「ふたりは制圧した。このまま引き続き――」

 この杖は手足になる。それをここで実証させてくれるなんて、なんて心遣いが行き届いたカレッジなのだろうか。数少ない感謝の祝詞でも捧げた所だ。

 水晶をまとわせた杖を閃光に向けて、それを破裂させる。一体どんな術だったのか、気になるが、それは後だ。撃ってきたのは、学生の数人。講師の一撃じゃない。

「いまので‥」

 一年生ではない。確実に上級者だ。普段講義以外でカレッジをうろつかない先輩方の一撃を退ける事が出来たとすると、いい収穫だと言えるだろう。

「どうするべきだ?」

「執行妨害。つまりは、彼らも粛清対象。やって」

 杖を握り直して、一本前に出る。杖のグリップに水晶をまとわせ、握りやすさと破壊力を底上げする。再度撃ち込まれる閃光を杖の先端で弾き飛ばし、最前線にいた先輩の鳩尾に容赦なく突き入れる。そして、胸を抱えた瞬間を狙い、杖を引き抜き、顎を撫で上げるように叩き、上げた杖を、肩に打ち込む。

 エレベーター前で待ち構えていたのは、3人。全員、本来なら俺よりも格上。だが、世界を超えてきた人外である俺には、人間の理論は通じない。

 真正面にいた先輩が倒れる瞬間を狙い、右にいる先輩の足元を杖の先端で突き入れる。噴き出るように現れる巨大な手のような形をした水晶が右の先輩の顎、首、胸、腹をそれぞれの指で突き入れて、天井にまで跳ね上げる。

 右の足元から、床のヘリンボーンを削るように杖の先端を左の先輩に向けてずらし、グリップと先端の位置を手で滑らせて左の先輩の顎をグリップの水晶で物理的に殴り上げる。殴られた衝撃で離れる先輩の肩にグリップを食い込ませて、引き戻し、ただの岩石として生み出した水晶の塊を顔面に叩き込み、そのまま仰向けに倒れさせる。とてもじゃないが、高貴な戦い方とは言えないが、暴力とはこういうものだ。

「終わったぞー」

「そう」

 なんでもないようにマヤカが倒れている先輩方を跨いで廊下を歩く。その後ろ姿に、これをただの日常として受け入れているのが、改めてわかった。

「殺してない?」

「あの程度で死ぬなら、ここではとっくに死んでる」

「それもそうね」

 興味が無いと言わんばかりだった。実際、死んでこそいなければ、どうでもいいのだろう。

 倒れている先輩方は、放置して、あの教授の研究室に向かう。講師陣が現れないのが気になるが、そんな事よりも何度来ても、ここの廊下は長い。あくびを何度もかみ殺して歩き続ける。

「さっきの」

「さっきの?」

「あの体術、どこで習ったの?杖の使い方は、習った事があるの?」

 あのマヤカとこうまで世間話をする事になるとは、思いもしなかった。

「あれは、そうだな‥。元は儀礼的な剣術らしい。それを少しかじって、自分流にしただけだ。路地裏の喧嘩人とほとんど変わらない。汚い業だよな」

 元を正せば、どこかの刺突剣。レイピアの扱い方に通じるらしいが、それも既に失われてしまったらしい。本家が、抗争か何かで敗北してしまったと聞いた。

「あんまり聞かないでくれ。俺は、もう実家に帰る気はないんだ」

「—―わかった。なら、もう聞かない」

 俺自身、あれを見せる相手は選びたかった所だ。それなりに歴史や儀礼を重んじる魔道を志す者にとって、あんな喧嘩上等なやり口、見ていて気持ちのいいものじゃないだろう。

「それで、教授をどうする気だ?」

「制圧して、私に引き渡して。それが済んだら、またやってもらう事がある」

 あの黄金の人種が持つ秘術を正面から受け止められるのは、俺程度だ。色彩学の本領はそこにある。そこに無いものでも、描く事で、あたかもそれがそこにあるように、世界を騙せる。黄金の人種なんていう伝説上の存在が実際にいるかどうか知らないが、世界がそれを是認している以上、絵画の中であろうと、それは生き続ける。

 絵の中に世界がある。そんな話だけでも、相当だが、竜を描く事が出来れば、竜の吐息すら再現可能という話でもある。そして、それら描く物の知識を持っているのは自然学の本領だった。厄介な事だ。

「終わったら、カタリに会いに行く」

「好きにしていい。止める気も力もない」

 淡々と事実を述べてくる姿に、出会った頃を思い出す。だが、そんな記憶よりも、先に思い起こさせる経験が身に伝わってくる。

「笑ってる。そんな顔では、機関の仕事は出来ない」

「そっちも笑ってだろう。大丈夫、もうしくじらない」

 あともう少しで、研究室だ。そう胸が伝えてくる。帰ってきた時とは何もかもが違う。今度こそ、俺は自らの手で復讐が出来る。



「最後の悪あがきか」

 二人で溜息が出る。教授の扉の前には、自動的に俺達を撃退するつもりらしい動物の骨がひとりでに動き回っている。一体なんの骨なのか。骨格的に狼である事は間違いなさそうだが、世間一般の狼の二倍どころか四倍はありそうだった。天井や壁にその身である巨大な骨をこすりつけて、校舎を削っている。

「どうする?取り敢えず壊すか?」

「できるかもだけど、あなたでは被害が多き過ぎる。校舎ごと破壊する気でしょう?」

「何か問題か?どうせ、燃やしても貫いても壊れるだけで、死なないんだ」

 あれはただの術だ。ゴーレムであれば、手心を加えてもいいが、それとこれとは話が別だ。あれは、破壊対象だ。

「私がやる。あなたは、私のやり方を覚えていて」

 俺に腕でそれ以上進むなと伝えて、歩き続ける。助けなど不要だろうから、ただ見つめるだけにする。

 骨は、近づいてくるマヤカの事を未だに無視している。敵対行動を取らない限り放置しているらしく、自身の腕の間合いに入ったマヤカを、何もない眼窩で見つめている。だが、そんなマヤカが、銀の鎖を腕から取り出し、金属音をさせた瞬間—――骨がその顎門でマヤカを噛みちぎろうと真横に倒れながら、迫ってくる。

 壁どころか天井すら削って、迫ってくるその巨大な門は、一瞬でマヤカを噛みちぎるどころか、あの世へと連れ込むだろう。

 しかし、そんな事、機関の一員であるマヤカが受け入れる筈がない。

「軽い。彼の水晶の方が、重かった」

 腕から伸ばされた銀の鎖は、狼の首に巻き付き、勢いを殺し、天井や壁に穴を開けて狼を拘束。首を拘束した鎖が自動的に巨大な骨の全身に巻き付き、更に締め付けていく。最後に頭蓋骨に触れた手から、銀の鎖が鼻先と下顎を結ぶつけて、完全に自由を奪った。

「終わった。覚えた?」

 長い髪が後を引きながら振り返ってくる。合図だと思い、杖に水晶をまとわせて近づく。

「覚えるもなにも、前に同じ事をされた」

 今も、藻掻いている骨はマヤカや俺に喰らい付きそうにしているが、鎖がその身を削るだけで、一切動けずにいる。同じ苦しみを知ったもの同士、哀れみを持つ。

 どうせ、痛みなんか感じていないだろうが。

「このまま分解するか?」

「これはこのまま回収する。これも、執行妨害の証拠として預かる」

「‥持って帰るのか?」

「可能よ」

 さも当然のように言ったが、これを引きずって持ち帰る機関の人間に哀れみを持ってしまう。いくら骨だけだとしても、軽く30キロはあるだろう。しかも、この大きさだ。折りたたんで持って帰るのか?それもと、本当に引きずって帰るのか?

「大変そうだな」

「大変そう?なら、頑張って」

 嫌な予感がする。

「もしかして、終わったら、やってもらう事って」

「理解が早くて助かる。頑張ってね。私では到底運べない」



 ここから先はあなた一人で行って。マヤカに伝えられた通りに、再度教授の研究室兼私室に入る。無論、向こうはこちらの来訪にはとっくに気付いているので、ノックなどしない。だが、それが気に食わなかったのか、舌打ち一つで出迎えてくれた。

「蹴り破らなかっただけでも、感謝してくれませんか?」

「お前が破壊したあの扉、あれはこの学院どころか秘境が誕生する前から、現存していた我らの盾だぞ。どうやって――どうして破壊した」

「邪魔だから。あなたと同じだ」

 杖と腕と足先に、水晶をまとわせる。

「この私を脅す気か?」

 床板の上を水晶の足で歩く事により、固い心地いい音が耳に届く。

「今の俺は機関の一員です。脅しなんてしません。わかったら大人しく、とっとと原樹のありかをゲロって、捕まって下さい先生」

 端的に目的を教える。だが、あまりにも単純すぎる物言いに、ついに教授は立ち上がった。普段から常に座っているので、足が不自由なのかと思ったが、違ったようだ。

「私が何も用意しないでただ座っていたと思っているのかね?」

「いつも座って何もしなかったでしょう」

 杖を構えて、水晶の盾を造り出す。そこに、重い質量を持った腕や拳が殺到する。

「私は、機関と交渉し、この身の自由が約束された。この意味がわかるか?私は、今なら何をやっても、許されるのだよ。昔に戻った気分だ‥。自分の為なら、何をしても許される。そんな時代を、私は再演している」

 そんな過去が心底懐かしいのか。そして楽しいのか、悦に浸って表情を向けてくる。顔すら若返っているように見える。

「わかったら、大人しくその肉体を渡しなさい。その身体は、私の研究によって生み出された。つまり、私の物だ」

「自惚れるな老人。これはカタリが呼び出して、俺が用意した身体だ。お前じゃない」

 逆鱗に触れたか?昔から、老人と呼ばれるのを、徹底して嫌っていた。

 お陰様で、迫ってくる黒い腕の量が数倍に膨れ上がった。研究室中に飾られていた絵画や骨格標本、そして樹木の数々が、腕や拳、槍となって盾に突き刺さる。

「素晴らしい‥やはり、もっと早くその力は私の物にすべきだった――取り揃えるに相応しい」

 乖離が始まりつつあるこの身体では、そろそろ限界だった。だが、確実に俺自身よりも質量を持った腕が殺到する中、一歩も引けないし、下がる事が出来ない。

「やはり、あの時は何か別の術を用意していたか。防いでいるのが、その証拠だな?」

 少しカチンときた。よって、盾を消し去る。その瞬間、教授がほくそ笑む。

 だが、次の瞬間—―その顔が、あの時と同じ絶望の形になる。

「砕けた――?」

 殺到していた腕が、俺の顔や手など、露出していた肌に触れた瞬間、消え去った。

「自分の術に自信を持っているのは結構です。罠を仕掛けて待ち構えるのも、私達にとって相応しい戦い方です。しかし、あまりにも過信し過ぎている」

 傷一つないが、白いローブは一瞬でボロボロになった。

「これの価値がわかりますか?」

 かろうじて留め金で全体的な印象は残っているが、一歩踏み出した瞬間、ちぎれて床に落ちる。

「機関の歴史について語っているのか‥?」

「まさか。そんな事はどうでもいい――これを壊したら、」

 全体重を後ろ足に、水晶をまとわせた杖を投げやりのように持ち上げて、角度と方向を固定。貫く対象を仮定、硬度を計算――完了。腕部へと神の血を飽和寸前まで注入。腕の形状を水晶によって変更。腕部、肩部で砲身の擬似精製――終了。

 あの絵画類はどこまで行っても、拘束の為の準備。それだけ、竜でも用意しておくべきだったな―――それでも、本物の竜には、遠く及ばなだろうが――。

 体重を前足に移動させ、文字通り全身全霊を以って投げつける――水晶と俺、そして自身の重量を持った杖は、赤熱化しながら、教授の後ろにあるステンドグラスを粉々に破壊し、屋内で高射砲でも炸裂させたような空間を破壊する音を立てて、壁ごと全て破壊する。後に残るは水晶の破片。雪のように空気に溶けていく。

 砲撃の余波で絵画は勿論、骨格標本、樹木、床や天井のシャンデリアまで、ありとあらゆるものを全て破壊し、高いビルから全てを投げ出させる。

「マヤカに怒られる。知らないだろう。怒らせたら――どれだけ怖いか」

 高射砲とほぼ同じ威力と自負していたそれは、既にそれを超えていた。

「元々はあの骨とこの部屋ごと、今ので破壊するつもりでした」

 一体いくつか知らないが、少なくとも100年を生きる魔人は、肩口を過ぎ去っていった竜の息吹を見収めたところ、片膝をついた。だが、その目は未だに俺を睨みつけている。潔さなど持ち合わせている訳がない。魔に連なる者とは、そういう奴だ。

「マヤカ、終わったぞ」

 彼方に跳んで行った杖を呼び戻して、残っている背後の扉を叩く。その瞬間、マヤカが入ってくるが、教授ではなく、俺を見てくる。

「—―後で話がある。外の骨を下に運んでおいて」

 確実に怒っている。それだけは、大いにわかった。




 マヤカの指摘通り、骨の真下に水晶の板を挟ませたら、意外なほど簡単に滑ってくれる。そして、意外なほどマヤカは優しかった。しっかりと、外に骨を運ぶ用の車両を用意してくれていたので、骨は車両に預ければ、それで済んだ。

「言いたい事が沢山ある。まずどれから叱られたい?」

 俺とほぼ同じ位置から叱ってくるマヤカが恐ろしくて仕方ない。カタリに怒られるのもできる限り避けたいが、マヤカもそれとほぼ同列で、怒らせたくなかった。

「ローブを壊したのは、教授だ」

「だけど、防ぐ事は出来た筈。それが出来ると思ったから、あなたを一人で行かせた。次にどうして、壁諸共壊した?」

 指を差して、手すり一つない開放的な研究室を示してくる。春の風が頬をくすぐってくるので、つい笑ってしまうが、その瞬間、マヤカの鎖が首に絡み付く。そのまま、鎖を引かれて、前屈みにされる。トドメとばかりに顔を寄せて、息をかけてくる。

「笑えるなんて余裕ね。これで帰れると思ってるの?」

「ここには原樹はない。別のどこかだ」

「本当?」

「嘘をつく理由がない。嘘をつく意味があると思うか?」

 一つ溜息を吐いたマヤカは、大人しくしている俺の首から鎖を離してくれる。驚きだった。あの鎖は、今の俺でさえ拘束する事が出来るらしい。

「それも、外の力か?」

「教えない」

 壁が破壊された研究室には、俺達以外にも数人の機関の人間がいる。生命の樹の原樹を探しているのだろうが、それにしては、探す場所が違和感がある。

「なんで、デスクの引き出しとか漁ってるんだ?あんな所にある訳ないだろう」

 生命の樹の原樹の姿など、俺は一度も見た事はない。けれど、胸から生えていたあれが枝葉だとすると、少なくとも身の丈程の大きさがある事は間違いない。火事場泥棒にしても、ここまで堂々とするものか?

「あなたは気にしないで良い事。次」

 今度は手錠のように鎖を手首に巻いてくる。今の時刻はまだ午前中だが、それもこの身体にはどれほど意味のある事か。先ほどの一投で、確実に乖離が加速した。

「まだ続くのか?まさか、今日で全て終わらせる気か?」

「できるなら、そうしたい。だけど、無理な話であることも、わかってるつもり」

 部屋から出たところ、あの骨が削った壁や天井を写真に収めている機関の人間に、道を開けられる。マヤカの立場がどの程度か、なんとなくわかってきた。

「上からの命令か?」

「そうかもしれない。どんな命令だと思う?」

「お前らが4か月も探して無理なら、当該の生命の樹に宿られたとはいえ、一介の学生である俺がわかる筈がない。だったら、俺がどれだけ言う事を聞くか、試してるんじゃないか?」

 マヤカの歩み、そして真後ろから再開されていた写真の音が消える。続け様に、背中に軽い振動を感じるが、やはり砕けるように消えてしまう。

「一発は一発だ。死ね」

 振り返って、杖をもう一度投げつけようとした時、腕を握られる。

「黄金の秘術、とまでは言わないが、これも表には出せない術の一つなのだがね。それをこうまで軽々弾くとは」

 舌打ちをしながら、腕を掴んだ人物を睨みつける。人形の講師だった。

「本格的に、マヤカ君以外、君のトレーナーはいなくなりそうで、なによりだ」

 ただの握力で、俺を押さえつけている人形は、笑るでもなく、心底呆れているようだった。その顔がなおの事腹立たし。

「落ち着いて。ごめんなさい。謝るから」

 カメラを手にしていた機関の男が、呆然と立ち尽くしている。今のならば、俺を確実に無力化できる踏んでいたらしい。その役に立たない頭に生命の樹を植え付けてやりたい。

「ほら、君の姉であるマヤカ君が謝ったぞ」

「姉?殺されたいか?」

「冗談だ。君の脅しは脅しに聞こえないからいけない。もう少し、余裕を持ちなさい」

 ようやく離してくれた腕を見つめる。拳は作れるが、触れられていた感覚が無かった。

「そろそろ限界かね?」

「楽しそうだな。皮が破けたら、真っ先にあんたの本体を喰ってやるよ」

「やはり、君の脅しは脅しに聞こえないな。ふふ‥」

 額を笑顔のまま突いてくる。本気八つ裂きにして喰い殺してやろうか。この人も機関の一員なのか、マヤカから状況やここには原樹はない事などの報告を受けている。

「なるほど。それで、次の候補地に向かうつもりだったのか。だが、ここの可能性が最も高いこと、そして、ここ以外ありないという結論は、機関中に知れ渡っていることだ―――誰かが、情報をばらしたか?だとしたら、次も恐らく空振りだろう」

 額を突くのをやめ、手を顎に付ける。真面目そうに見えるが、楽しそうにも見える。

「あんたじゃないか?俺達が今から来るって、ばらして、隠し持ってるの」

「面白いし、あり得る話だが、私だって命は惜しい。君の敵に回ることだけでも恐ろしいのに、生命の樹を一人占めにするなんて。そんな世界中を敵に回すようなこと、流石に出来ない」

 首を振って否定するが、一体どうだろうか。

「あんたも俺の中身が見たい口だろう。俺が壊れるまで、時間を稼ぐ気だ」

 マヤカに連れられて、止めていた歩みを再開させる。

「私は刹那主義ではなく、堅実な人間だ。敵に回るのではなく、君の味方であろうとするつもりだとも」

 語尾に隠せない鼻で笑うような声が紛れた。このままあの講師諸共、もう一度杖を投げつけてやろうか。研究室には何もないとわかったんだ。全て塵に――

「もう使ってはいけない。次は、本当に崩壊する」

 鎖の長さを調節して、手首を握ってくる。

「マヤカだって、それを待ってるんじゃないか?」

「—―私は一度見た。だから、もう充分」



「次はどこに行くんだ?」

 マヤカの運転するSUVに乗りながら、聞いてみる。俺も免許は持っているが、先ほどから乖離が進み過ぎて、杖を握るので精一杯となっていた。正直限界だ。

「わかってるだろう。もうそろそろ――」

「今日は帰っていい」

 窓枠に付けていた肘を降ろして、隣を見つめる。

「—―いいのか?」

「構わない。それに、もう限界なのはわかってる。明日、迎えに行くから待ってて」

 すんなりと終わったと思ったが、そんな事はない。この身体はあと数時間で乖離が完了してしまう。窓に映る自分の顔が、錯覚かもしれないが、人形のように無表情になってきている。

「‥何を考えてるんだ?」

「自分の身の安全。私だって、あの姿のあなたを飼い慣らせるとは、思っていない」

 特別な含みを持たせていない、ただの言葉だった。だから、尚更気になった。

「その時の俺って、どんな見た目だった?」

「—―気になるの?」

「言いたくないならいい」

 気にならないと言えば、嘘になる。けれど、一生それを見ないようにする為、これからカタリの元に戻るんだ。聞いたところで仕方ない。

「‥‥カタリと話し合って。私よりも、彼女の方が詳しく覚えてる」

「話してくれるかな?」

 少しでも乖離を遅くさせる為、目をつぶる。眠っていれば、無駄な動きをする事もないだろう。

「眠るの?」

 マヤカの声が耳元から聞こえる。

「そのままでいいから聞いて。私は、またあなたに謝る事になる」

「—―俺をどうする気だ」

 今以上に、無防備で危険な状況はない。この殻を自分で剥いて、隣の獲物に噛みつく事さえ可能だろう。だけど、それは出来ればしたくない。

「また、俺で――」

 口を塞がれる。なめらからで湿った感触が離れて、吐息を唇に感じる。

「私だけじゃない。きっと、カタリもそう言う。もう、あなたに何を捧げればいいのか、私達にはわからない。いくらこの身体をあなたにあげても、決して終わらない」

 隣のマヤカの髪から漂う甘い香りが鼻をくすぐる。少しだけ吸い込んで、それを薬のように肺の中で楽しむ。香りが消え去ったところで、鼻と口から吐き出して、甘味を得る。

「私の髪、好き?」

「—―落ち着く」

「ふふ‥そうのね」

 カタリとは違う脳をくすぐるような甘い香り。もう一度、肺に溜め込んだ時、意識が朦朧として行くのがわかった。




 ドアを開けられたのがわかる。温かい風と一緒に甘い苺の香りが顔をなぞっていく。

「「‥‥間に合ったのね」」

 声が二重になって聞こえる。目を開ける気にもならない。眼球の動かし方がわからない。そんな人間としての機能は、乖離が終わりつつある身体に忘れてしまった。

「「私の鎖でも、もう限界。急いで」」

「「—―言われなくても」」

 破れボロボロになっている白いローブの前が開けられる。身震いするほどではないにしても、些末に残っている神経が、寒気を感じさせてくる。

「「確認する。これで、リヒトは―――」」

「「うん。そうなる――ごめんね、でも、こうするしかないの」」

 胸に冷たい何かを感じる。ゆっくりと、眼球の神経を手繰り寄せて、無理やりフォーカスを合わせる。そして、目を開ける。

「目、覚ましちゃったね」

「カタリ――」

 シートに座っている俺の胸はさらけ出され、カタリが覗き込むように、車に入り込んでいた。

「会いたかった」

「‥‥私も」

 全力で笑顔を作っているのがわかる。目の端から、涙がこぼれている。

「なんだ、それ‥?」

 カタリが握っているものから、視線が外せない。それは、生命の樹—―。

 だけど、あの時に宿っていたものじゃない。銀色のそれは、短剣のように鋭い根を覗かせてくる。全力でカタリから離れようとするが、手足、そして首の鎖が阻んでくる。

「いやだ――」

「わかってる。でも、こうしないと」

 絶叫を上げる。その瞬間、口と鎖が閉じさせ、顎をカタリの銀の腕が上に向けさせてくる。息が出来ない。鼻で肺を膨らませる事が出来ない。

「説明してる時間はないの―――これ以上、待たせる訳にはいかないの!!」

 最初に、カタリの手が胸を切り裂いた。噴き出る血が車の天井やフロントガラスを赤に染めていくのがわかる。血を大量に失った所為で、指先が震える。

「これが、リヒトの身体‥」

 噴き出る血が収まった時、中身がゆっくりと、足に落ちて行くのがわかる。生暖かいそれは、いまも血を求めて脈動している。

「私が」

「大丈夫‥私が最後まで、やるから」

 中身が無くなった身体に、何かを突き刺した。その瞬間、身体中の血管に根が張り巡らされるのを感じる。これは――前にも感じた。生命の樹が宿る瞬間だ。

「返せ――返してくれ――」

「大丈夫。全部全部返すから。もうリヒトから何も奪わないから――」

 赤に染まった天井と冷たい首の感覚。人間に捌かれ、分解される動物の感覚とは、こんなにも恐ろしいのか。こんなにも無力なのか。零れ落ちる内臓も剥がされる皮にも、何一つとして手が届かない。このまま、奪われるしかないのか――。

「返して‥くれ‥」





 胸と腹に手を当てる。裂かれた跡こそ残っているが、皮膚の上からでも失った筈の内臓が収められているのがわかる。骨も接がれている。

 目を開けて、ひとつ息を吐く。だが、それは気泡となって水面に登る。

「戻ったの?」

 腕を引かれて、水面から無理やり引き上げられる。

「そう。戻ったんだ。ここが恋しい?」

 俺を白くて虹色に輝く砂浜まで引きずった白い神は、どこか誇らしげだ。

「私の声が聞こえる?」

「—―聞こえます」

 牙を覗かせて、笑いかけてくる。

「向こうはどうだった?どんなお話をしてくれる?」

 話したくない。やはり戻るべきではなかった。ただ、カタリの姿を一目見れれば、それでよかったのに。それ以上を望むべきじゃなかったのに。

「どうしたの?」

 砂浜に横たわっている俺の頭に、自身の膝を入れて、水晶の海の水を、顔にかけてくる。無視している俺の目を開かせようとしてくる。

「帰りたかったんじゃないの?」

「‥‥わかりません」

「ん?でも、あなたには役割を与えた。それを、あなたも受け入れた筈、なのに?」

 こちらの身体に残していった記憶が溢れてくる。同胞として俺を迎え入れてくれたこの白い神は、俺の為に、その権能を振るってくれた。新たな役割をくれた。

「人間じゃあ足りないから、私と同じようにしてあげたのに――何か不満だった?」

「何も。何も不満も不足もありません。だけど――俺には使いこなせませんでした」

 理解できないといった感じに首を捻る。肉体は俺と同年代に見えるが、これもどれだけ信じられるか。もしかたら、見る者によってこの身体を形状が変わるのかもしれない。

「そんな事ない。私の同胞であるあなたならば、絶対使いこなせる筈!」

 両手で拳を作って、励ましてくるが、それに応えられる自信はない。

「やっぱり、元人間である俺じゃあ‥人間から逃げた俺では、人間には勝てないんです」

 もうここで新たな世界に旅立ってしまうおうか。それとも、この方とずっと暮らしてしまおうか。きっと、受け入れてくれる。この方と世界を作るのは、楽しいだろう。

「人間?ああ、あなたの種族。人間とは、そんなに強い種族なの?」

「—―まさか。俺達よりもずっとずっと脆弱で卑怯で――恐ろしい種族です」

 白い神の手を取って、手のひらに頬を付ける。

「人間の考えている事がわかりません」

 俺は人間じゃないのだから、それが正しいのかもしれない。そもそも、この俺に残っている記憶は、別のリヒトの記憶だ。この俺が始めて見た世界は、この彼岸。人間と相容れなくて当然なのかもしれない。

「もう疲れちゃった?」

「‥‥かもしれません」

「なら、少し休もう。泣いてもいいよ」

 俺が嬉しがるとわかっているらしく、海水を顔に、そして頭を撫でてくる。

「気持ちいい‥」

 髪を梳かれているようだ。それに振ってくる水晶の破片が、美しくて、楽しい。何も言わないで受け入れてくれる。忘れていた。この方は、同胞になった俺には、どこまでも優しかった。

「向こうは疲れるの?」

「疲れますし、恐ろしいです」

「でも、前にあなたは人間相手なら負けないって言っていた。負けたの?」

「負けてはいません。だけど、人間の世界に馴染む事が、俺には出来そうにありません」

「そんな事を期待していたの?」

 当てている頬に少し爪を当てて、上を見上げさせてくる。従って、上を見上げると、プリズムの空に穴が開く。そこから見えるのは、人間らしき別の種族の世界。

「それ!」

 空いている手に、海水を掴んで、空に投げつける。その瞬間、その世界で暮らしていた種族達が苦しみだし、急激に姿が変わっていく。人間とは似ても似つかない姿に瞬く間に変わる。

「見て、私達の破片を浴びるだけで、どんな生き物も壊れる。私達は、どこの世界にも馴染む事は出来ないの――私は、ただ眺めるだけ」

 上空で、苦しみの声を上げている生物を無視して、白い神は顔を向けてくる。

「でも、あなたは違う。あなたは世界から排除されずに干渉できる。元人間であるあなただから、出来る事。だから、あなたは人間の中で自由に生きていい。馴染む必要なんてない」

 言葉を発しようとした時、逆再生でもされるように、空の世界の元の営みが再開され、それが続いて行く。

「怒られちゃった‥」

 叱られた子供のように、ばつが悪そうに、嘆いてくる。

「あなたを怒れる存在?そんな存在がいるんですか?」

「いるもん!すっごい怖いの!」

 もう一度拳を作って、嘆いてくる。少し涙目になっている。

「そんなに強いんですか?」

「‥‥本気で怒られたら、私、泣いちゃうかも」

 この方こそが世界最強とでも思っていたが、上には上がいるらしい。世界は広いし、多くあるようだ。

「でも、今はちょっとだけいたずらが出来る。向こうも、人間?みたいな人に夢中だから。あなたと同じ世界の住人」

 なおの事、恐ろしくなった。この方が恐れる存在の加護を受けた人間がいるのか。それはもはや人間ではないのでは?俺と同じだ。

「意外と、俺の世界も広いんですね」

「でも、あなたはそんな広い世界でも馴染む事は出来ない。あなたは、純粋な異物」

 純粋な異物か。きっと、それは正しい。俺は、星の力を受けた身体こそ持っているが、魂や中身は、世界から排斥されるべき存在だ。入れ物が世界に繋ぎ止めてくれているが、中身は外に弾き飛ばしたくて、仕方ない。もう世界は――を受け入れる事はない。

「なんだ。簡単だったんですね」

 膝と水晶の砂浜から立ち上がって、手を引く。楽しげに飛び跳ねてくる白い神の頭を撫でると、気持ちよさげに目を細めてくる。

「俺は――人間の世界に期待し過ぎたんですね」

 忘れていた訳じゃない。ただ、見たくなかっただけだ。カタリの隣にいれば、俺はずっと守ってもらえるって、勝手に思っていた。見えるべき事から逃げていた。

「私の方が格上!」

 我に返った我が神は、頭を振って手を退かしてくる。

「怒りましたか?」

「怒った!どこかに飛ばしたいぐらい!!」

 腕を組んで、慣れない仁王立ちをしてくる。若干背伸びをしているようだが、背の低い白い神がしても、正直さほど変わらない。

「なら、俺を飛ばして下さい」

 不機嫌に立っている神に跪いて、頭を下げる。

「なら、送りましょう。でも、いいの?もう少し、私達に近い種族がいる世界もあるのに」

「いいえ、俺はあの世界でやる事があるんです」

 俺に根深せたあの銀の生命の樹に、どんな力が、どれだけ奪い取る力があろうが、所詮は、ただの世界の力に過ぎない。創生の力には、程遠い。俺に敵う訳がない。

「あなたは無理をして人間の世界にいる必要はない。人間のように振る舞うには代償が必要。私達にとって、それは些細な事かもしれないけど、ただ生きる為に、身を削るなんて、無駄な事」

「その無駄が、楽しいんですよ。試しに、こちらに来られては?」

「私が?」

 考えた事がなかった様子だ。だが、首を振ってきた。

「私はここが好き。あなたに入れ込む事はあっても、別の生き物、世界に手を貸してあげるつもりはないの。私は、ただ過ぎ去るのを見るのが好きなの」

 想像通りの答えだった。時間という概念を知らないこの方は、時間を感じるのではない、時間を見るのが好きなのだ。俺という端末を得た事で、時間が身近になったとしても、それは変わらない。生まれる世界の選別なんていう趣味が、楽しいらしい。

「あなたはどう?前に教えてくれたカタリさんにそれほどまでに入れ込む必要はあるの?そんなに子供が欲しい?」

「別に‥そんなに、子供だけが欲しい訳じゃ‥」

 あまりにも直球過ぎる質問に、目を逸らしてしまう。そんな俺の様子が、心底不思議らしく、顔を覗き込んでくる。

「私も、自分の分身であるあなたを大切に思っているけれど、あなた達は別の種族で別の存在。どうして、そんなに人を好きでいられるの?」

 わからないさ。なぜなら俺は、ずっと愛してるという言葉に憧れていたのかもしれないからだ。カタリなら、俺を受け入れてくれる。守ってくれる。そう信じていた。

 だけど、あれが人間の愛するという行為なのなら、やはり俺は人間の愛するという意味を理解出来ていない。だったら、俺は知らないといけない。

 愛するという事の代償を。

「知りたいから」

「知識が欲しいの?」

「そうですね。俺は、人間の事が知りたいんです。愛したいから」

 もう一度首を捻ってくる。この方が人間に入れ込む日も、近いかもしれない。

「そろそろ行きます」

 水晶の海に向かって、歩いていく。足の膝辺りまで水に浸かっている筈なのに、まるで抵抗感を感じない。ほんとに、空気のようだ。実の圧力も感じない。

「待って」

 あとを追ってくる白い神が手を握ってくる。柔らかい手に、不意に心臓が跳ねる。

「私達にとって、息吹は大切な意味を持つ。使うのなら、自身の命を懸けないといけない。あなたに自覚がなくても、息吹は私達の存在意義」

「—―寿命を削ってる。こういう意味ですか?」

 振り返って、聞き返す。だが、首を振る。

「息吹に力を持たせるには理由が必要。ただ怒りに身を任せるのも悪い事じゃない。けれど、そこに迷いがあれば、息吹は簡単に防がれる。これは真実」

「—―わかりました。必ず、使いどころは見極めます」

 満足そうに頷いて、手を離してくれる。その瞬間、足元が徐々に沈んでいくのがわかる。今度は呼び出されるのではない。自分の意思で帰れる。帰り道がわかる。

「あなたなら大丈夫。あなたは、私の眷属。どうか、誇って」

 その声は水泡に消えず、海水全体に波紋を作っているようだった。



 今度は落ち着いて、胸と腹を調べる。だが、感触が違った。別に肌が石化している訳じゃない。医療用の薄いシートが張り付けられているだけだった。その上、内臓もしっかりと搭載されていて、縫った跡も僅かに残っている程度だった。

「起きたかい?」

 思わず舌打ちをしてしまった。最悪のモーニングコールだった。

「水が飲みたい」

「講師を使い走りにする気か?少し待っていなさい」

 目を開ける気力がまだないので、柔らかいベットに身体を弾ませる。乖離はおおよそ収まっている。けれど、胸を中心に痛みが走っている。根が張り巡らされているのは、間違いなさそうだ。

「起き上がれるかな?」

「どうにかしますよ」

 目を開けて、天井を眺める。ぼやけている焦点が少しずつだが調整されていく。

 大きく息を吐いて、ゆっくりと起き上がる。魂がそのまま抜けていきそうな感覚に襲われるが、これはただの寝すぎだと身体が言い聞かせてくる。

「‥‥ここはどこですか?」

「自らの置かれている状況を、確認するのは結構だが、自らの身体には興味はないのかね?」

「俺を殺せる奴なんて、そうそういません。それに、殺す理由もないでしょう」

 布団を蹴り飛ばして、水を受け取る。冷たい水が喉を冷やしてくれる。

「その通りだが、その自信はどこからくるのだろうか?」

「俺の解体なんてして、中身が溢れたら、鎮められるのはカタリぐらいだ。カタリがそんな事、了承するはずがない。言い方を変えましょう。殺す理由はあっても、殺せる理由がない」

 背伸びと共に、ベットから立ち上がろうとするが、胸の痛みと足の筋肉痛が許してくれない。しかも、講師様が肩を押さえてくる—―驚いた。

「それが本体ですか」

「本体、と言うと語弊がある。これが私だ。どうかね?」

 意地が悪そうに首を捻って、笑いかけてくる。歳があの講師姿とさほど変わらないように見えるが、鋭い目と鋭い口、そして黒いローブ。それだけなら、何ひとつ変わらない。だが、髪と目の色が大きく違う。金髪碧眼だ。

「どうだと聞いているんだ。紳士として女性に問われたのなら、答えなさい」

「—―人形とは違う魅力がありますね」

 どうにか褒めるか、褒めないか程度の言葉を捻り出した。

「ふふ!そうだろうそうだろ。私のオートマタも中々だと自負しているが、やはり私自身も相当なものだろう。君はいい趣味をしている」

 自分の身体を抱いて口角を上げてくる。わざとかと問いたくなる程、腕と腕の間から胸を揺らしてくるので、視線が惹きつけられる。

「年上が趣味かね?それも、高得点だ。いつか個人授業でもしてやろう」

 機嫌がすこぶる良くなった講師は、椅子に座って、足を重ねてくる。

「さて、まずは何から聞きたい?」

「ここはどこですか?」

 一瞬鼻で笑ってきた。

「ここは私の私室だ。下手に息のかかっているかもしれない教授連中に任せると、本当に解体しかねないのでね」

 息のかかった?それは、一体――どの組織の事を言っているのか?

「カタリとマヤカは」

「気が多い事だ。私を口説き始めたと思ったら、すぐに本妻かね?心身的に、ズタボロだ。少なくとも、今は君に会わせられる状況ではない」

 椅子に座っている講師は、講義中に見せてきた髪をかき上げる動作顔を手で隠したと思ったら、すぐさま無表情になった。どれほど、ふたりの状況は切迫しているのか。想像に難くない。

「機関が逮捕したのですか?」

「まさか。ふたりは機関に保護されている。これは冗談や言い方の問題ではない。純然たる事実だ。身の安全は、約束しよう」

 俺は車の中で斬殺された。周りに誰がいたか知らないが――待て、あそこはどこだったんだ?時間は恐らく昼の筈だ。顔に太陽光が当たっていたのは覚えている。

「俺はどういう扱いに?」

「君は私が誘拐した。秘密裏にな。だから、君は今行方不明になっている」

 その言葉こそ、冗談であって欲しかった。だが、この真面目な無表情から察するに、これも純然たる事実のようだ。

「少し話し過ぎたな。もう少し眠っていなさない」

 立ち上がった時に、降りかかってくる甘い香りに鳥肌が立つのがわかる。大人の、甘い俺の男性的な部分をくすぐってくる香り。思わず布団を引き寄せてしまう。

「俺の中には、生命の樹があるんですね?」

 扉を開けて去る背中に投げかける。

「私は、君を誘拐して連れ去るのが目的だ。中身に関しては、自分で考えなさい」

 ならば、俺が考えればわかる内容という事だ。十中八九、この痛みは銀の生命の樹によってもたらされている。

「まぁーゆっくり考えるといい。どうせ、しばらく動けないのだから」

 今度こそ、鼻で笑うような言い方で去っていったが、ヒントをくれた。動けない、という単語だけ考えれば知っている生命の樹の特性と同じ。だが、胸から苗木が飛び出ていない。その事から考えれば、これは俺の知っているただの生命の樹じゃない。

「—―考えるか。だけど、情報が少な過ぎる」

 まずは状況、延いては部屋の状況を確認する。

 あの講師の私室など、想像もつかない。よって俺をからかっている可能性、魔に連なる者の部屋という逃げる気力を削ぐための嘘の可能性も捨てきれないが、恐らくそれも事実だ。枕元に、何かの瓶が置いてある。多分、水薬だ。

「不用意に自分の道具を置いてある。だったら、ここは私室か」

 どこかで聞いた。忍者や御庭番と呼ばれる人種は、自身の道具を決して放置しない。それは自身の所属を明かす事に他ならないからだ。それは、魔に連なる者でも同じ事。自身の術の種類や、奥の手すら晒すことになりかねない。

「動けないか。動くなって事でもあるみたいだ」

 ここはあの講師の実験室。基地でもあるこの部屋で、下手を打つ訳にはいかない。

「杖だ‥」

 唯一自由に動く首を動かして、横を見ると杖が立てかけてあった。あってもなくても、術の精度には正直関わらないが、この体調では必要な医療器具だ。

「でも、握ったら――」

「その通り、少しばかり痛い目にあってもらっていたとも」

 温かい優しい香りを漂わせて、講師が戻ってきた。その手にはトレーと小さい鍋があった。

「よく我慢した。私としては、顔を見た瞬間、襲いかかってくると思っていたのに」

 サイドテーブルに、鍋を置いた講師は少しつまらなそうな表情をしてくる。

「まぁ、そこはどうでもいい。それで、何かわかった事は?」

「二人に訊きにいけばいい」

「—―ふふ、そうかい」

 今度こそ、楽しそうに笑った。そして、鍋の中をすくったスプーンを差し出してくる。

「君はこの24時間と数時間、何も食べていないんだ。生徒の健康状態を診るのも、教師の務めらしい。よって、大人しく食べなさ――え、遠慮はしないのかね?」

 差し出されたスプーンから漂う鳥の香りに惹きつけられた。遠慮など一切しないで、口に含んで、咀嚼する。塩加減がなかなかだ。しかも、先に鳥を蒸していたのか、とても柔らかい。

「終わりですか?」

「ま、まだまだあるとも」

 差し出されるスプーンを、差し出される分だけ平らげる。全て終わってしまったが、正直物足りない。

「もう終わりですか?」

「い、一応あるが」

「食べる」

「‥わかった。待っていなさい」

 この空腹を満たす為なら、教師も顎で使う。後々、小言を受けるかもしれないが、それはそれ。胸の痛みを抑える為にも、身体全体に血の気を差さないといけない。

 その後、運ばれてくる粥や果物。そして、肉類を全て平らげた所で、ようやく腹八分目になった。

「私分の料理すら平らげるとは――一体カタリ君は、どれだけ毎日作っていたのだ?」

「普段はあんまりと食べるカタリに怒られるので、我慢していました。だけど、誘拐犯に遠慮をする気はありません。ごちそうさまでした。料理、美味しかったです」

 見た事のない、新しい笑顔を向けてくれる。驚いているのか、それとも怖がっているのか。だが、少しばかり講師に反撃できたようだ。

「それは何より‥買い物に行かせるか」

 少しやせた印象を持たせる声で、講師が出ていった。

「‥‥取り敢えずは、これで動ける」

 起き上がって、胸の痛みを確認する。

「まったく動けない程じゃない。だけど――」

 はっきり言って、戦闘にはならない。水晶や杖を扱った戦闘など、おおよそ望むべくもない。明日明後日になれば、状況は変わるかもと期待するしかない。

「何を植え付けたんだ」

 見間違いの筈がない。あれは生命の樹の一種だ。姿かたちは違ったが、それでも感じ取れた、今も感じている異物感は、生命の樹そのものだ。俺の中身を吸っている。

 考えられるものは挙げればキリがない。だが、その末に混乱して誤った判断で、息吹を向ける方向を見誤らせる訳にはいかない。カタリとマヤカに。

「落ち着け。俺は今、何がしたい」

 膨れた胃袋と熱された肺を感じながら、思い出す。

 俺は、ここに戻ってきた時、始めてみたのはカタリの顔だった。心配そうで、泣きそうで、それでいて、祈りが叶ったような、救われたという顔だった。あの時から――いや、ずっと前から俺の目的は変わらない。カタリと一緒にいたい。

「カタリに会いにいく。それだけで十分だろう。単純でいいんだ」

 身体の事はあとで考えればいい。乖離も収まっている。根も身体を蝕んでこそいるが、いまは大人しくしている。だったら、今はどうでもいい。

「ならその障害はなんだ」

 カタリはマヤカと共に、マガツ機関に保護されているらしい。だったら、機関の本部に行けばいい。なら、その為には何が必要だ?

「今の機関の情報。それと――」

 息をかけた組織。マヤカの話通りなら、俺は生命の樹の原樹さえ切り倒せばそれでいいと思っていた。その為に、俺はあの自然学のカレッジに乗り込んだ。あの教授さえ逮捕すれば、それでいいと思っていた。けれど、それでは終わっていないらしい。

「なんで、俺はここにいる?」

 もし身体の中にある生命の樹が治療目的の代物なら、カタリは俺を保護すればいい。マヤカも側にいたのだから、マガツ機関の目をかいくぐって部屋に運び入れる程度、楽な筈だ。なのに、俺は異端学の講師の部屋にいる。

「あの講師は、何者なんだ?」

 機関の一員かと思えば、俺を誘拐するという敵対的な行動を取っている。今の機関がおかしいのはわかっている事だが、だからと言ってマガツ機関を敵に回す程、蛮勇にも見えない―――しかし、もし、本当にそんなつもりでやっているのなら。

「‥‥あり得ないし、どうでもいい」

 あの講師は今は俺の味方。自分に利益になるから、俺を保護している。秘境内の医療施設に、俺を任せるよりも手元に置いた方が都合がいいと判断した。

 それだけでいい。

「世話になったんだ。出る時は、頭の一つでも下げよう」

 俺はどこまで行っても人外、しかも魔に連なる者。だったら、てめぇの為に動けばいい。そう思うと、心が幾分か楽になる。目的はシンプルであるべきだ。準備も理解も楽に済む。

「眠い‥‥」

 今の目的は動けるようになる事、だったら、そのように回復に努めよう。




「復讐について、講義をしよう」

 手慣れた様子で、俺の食事の面倒が見終わった時、急に先生らしく言ってきた。

「なんだね、その目は」

「先生みたいですね」

 その瞬間、額を突かれる。

「私は教師だ。もう忘れたのかな?」

 サイドテーブルを肘掛けにしながら言ってくる。良く出来た人形のような無表情の顔が拳の分だけ凹んでいるのがわかる。どこからどう見ても、どう歪ませても美人だった。

「教師である前に、それ以上を望むかね?まずは生き残ってから、その視線を向けなさい」

「向けてません。それで、今日の授業は?」

「目には目を歯には歯を、この言葉は知っているかな?」

「ハンムラビ法典ですね。でも、それは」

「その通り。これは復讐というより、まさしく法だ」

 目には目を歯には歯を。これはハンムラビ法典内にある条文で、同害報復、タリオの法と呼ばれている。基本的には、文字通りの意味だが、身分という立場が加味された時は、大きく意味が変わる。例えば、奴隷と自由民など、その最たる例だ。

「君がもし私の奴隷で、もしもの話だ。ちなみに、私は組み敷くのが好みだ。相応しい配役だろう?」

 舌打ちが聞こえたらしい。しかも、それを聞いて、笑ってくる。

「では、続けよう。私の奴隷たる君が、もし私を殴った場合、君は耳を切り落とされる。野蛮だと思うかな?」

「ハンムラビ法典には、奴隷も部分的に財産権や奴隷解放も記述されいます。それに女性の権利も。影響を受けたであろう、シュメール文化の中では、女性の立場は強く大きかったんです。野蛮というよりも、あまりにも、事細かに立場を分け過ぎていたのだと思います」

「その通り。同じ人間内に子供や大人といった概念的な階級の他に、女性、奴隷、自由民、果ては巫女や商人、無論、王族という立場を確立、明文化した」

 これだけ聞けば、進んだ思想を持った文化に見えるが、それでも、奴隷という立場がなければ、存続出来なかった文化でもある。誰もが、犠牲を求めている。

「さて、では聞こう。君は、どの立場にいると思う?」

「—―何が言いたいんですか?」

「この場合、何を言わせたいのか?が、正解だ。それで、君の答えは?」

 深く考えて来なかった、いや逃げてきた議題だ。俺は、どの立場にいる?

 自分は自分だ。俺はリヒトだ。そう言えてしまえば簡単だ。だが、それを、法や秩序を作る立場にいる人間は認めるだろうか?むしろ、リヒトという名の別の存在として、俺を扱うのではないか?その時、俺は、何として見られる?

「‥‥わかりません」

「そうだろうな。君以外、神獣などという生命体は存在していない。似た存在はいるかもしれないが、私の知り得る中には、君の同族は、この世界にはいない」

 サイドテーブルから腕を降ろして、自身の腹部に両手で作った拳を置いた。

「君には、どんな権利があると思う?復讐をするという権利が、君にもあると思うかい?」

 そもそも復讐などという権利、人間は持っていない。あるとすれば、法による裁きだ。俺の敵は法という人間の英知の結晶を愚弄しかねない立場、なのに、必要とあらば法によって守られる存在でもある。どこまで行っても人間は人間だ。自身の汚れを隠そうと思い、味方になる奴はいくらでもいる。人間は結集して、獲物を狩った。

 そんな存在、俺にはいない。

「俺は、消えるべきなんですか‥」

 俺のやろうとしている事は、人間は受け入れないだろう。俺は人間ではないのだから。

 そう思った瞬間、椅子を軋ませて、立ち上がった。頭部に冷たい手が置かれる。

「そう思うか?」

 考え過ぎて、ショート寸前まで追い込まれた頭が冷却される。

「私は人より特別なんだ。いくら君が人外だとしても、肉体を持った獣であれば、楽に始末できる」

「—―なんの為に?」

「君は、人間ではない。それだけで十分じゃないか?」

「‥‥正論ですね」

 ここで殺される訳にはいかない。でも、手を振り払える程、腕を動かせる訳でもない。また、俺はさばかれるまで大人しく待つしかないのか。一体、誰が決めた?

「受け入れるのか?」

「結局、俺は無力なんです。どうにもならない」

 運命と呼ばれるものは、確かに存在する。運命と呼ばれる大きな逆行しがたい流れに沿って、勢いを借り、目的を成す魔道も存在するのだから、疑いようもない。

「俺は、ただ待つ事しかないんです。カタリに救われるのを、待つしかなかったように。俺は、どこまで行っても人間と世界のルールに従うしかないんです」

「‥‥君は神獣としてこの世界に戻ってきた。君の言っている事は理解しているつもりだ。君という存在を、この世界は忌避している。この世界は人間こそがルールだ。であるならば、人間に従うしかないという考えは、まっとうと言えるだろうな」

 頭に置かれた手が心地良い。冷たくて柔らかくて、それでいて、吹きかけてくる息の香りが、頭を落ち着かせてくれる。

「では、このまま私にその身体を預けなさい。意識など不用だ、ここで刈り取って――」

 目をつぶる。このまま、俺は消えるしかない。あの方への言い訳を考えておかなければ。

「—―目を開けなさい」

「先生?」

 言われるままに目を開ける。そこには、女神か天使のような表情が立っていた。

「ふふふ‥始めて、先生と呼んでくれたね。それで良しとしよう」

 冷たい手はそのままに、背中を向けた状態でベットに座って、頭を撫でてくる。

「君は自分の事を無力と言ったな。それは違う。君を中心に、全てが動き始めた。この何百年も変わらない古いしきたりが、大きな変革の時に来ている」

 慈悲深い、優しい表情で、見下ろしてくれる。

「質問を撤回しよう。君は、人間社会などというつまらない世界で、居場所を探す必要などない。君は思うままに振る舞えばいい。君が、運命そのものになればいい」

「‥‥俺に何を期待しているのですか?」

「君は、この世界に抗える唯一の存在と私は踏んでいる。人間の世界を壊すんだ、人間では成し得る事など不可能だろう?」

 いたずらに頬を突いてくる。その指がそのまま、唇を撫でてくれる。

「良い顔だ。やはり、年上が好みかな?」

 薄い皮膚しかない唇を撫でられと、くすぐったくなる。けれど、柔らかい温かい手付きのお陰で、睡魔が襲ってくるだけに留まる。

「俺は――もう人間には関わりたくない」

「それは無理な相談だ。君は、人間に恋をし、人間にも恋をされた。もう人間から逃げる事は不可能、その事は、君が一番わかっているだろう」

 わかっている。俺は、もうカタリとマヤカを、このまま見捨てる、忘れる事など不可能だ。逃げたとしても、ずっと二人に禍根を残す事になる。それに、もう一度。

「ふたりに会いたい」

「それでいい。君は、私達の計画など無視していいんだ。こっちが勝手に修正する。君は役者になる必要などない。求めるままに、君らしく振る舞いなさい」

 もはや復讐などという単語は出てこなかった。それよりもやりたい事が出来た。




「君への餌付けも、慣れてきたよ。もうひとりで食べれるのではないかな?」

「出来ません。最後までお世話して下さい」

「これも引き取った責任とでも言うつもりかね。まったく‥」

 一晩眠り続けて、朝も過ぎり、昼少し前に目が覚めた。お陰で、身体はすこぶる良くなった。言われた通り、自力で食事が出来るかもしれないが、それはそれ。

「まだ食べるか?」

「はい」

 呆れたような声を出して、部屋から出て行く。

 杖を握って、枕元の窓を隠しているカーテンを少し開けてみる。久しぶりの日光だ。できる事なら、このままどこに出歩きたいぐらいだが、無理な話だろう。

「外はどうなってるんだ」

 スマホは誰が持ち去ったか知らないが、手元にはない。そして、昨日は気付かなかったが、服が手術着のような物に変えられていた。あれだけ血濡れになったローブを、そのままにする筈がなかった。

「出来たぞー」

 小さい鍋を持った講師は、先ほどと同じようにサイドテーブルにトレーを置き、スプーンを向けてくる。粥が得意料理なのか、塩加減が相変わらず抜群だった。

「美味しいですー」

「それはなにより、はぁ‥慣れてきてしまったよ‥」

 事実として、状態を起こす事すら難しいこの状態は、俺にとっても望むところではない。であるならば、この状態に俺を追い込んだ一味であるこの人に、面倒を見てもらうのは、当然の権利だ。

「外はどうなっているんですか?」

「正直、何も変わらないよ。自然学のカレッジが一部破壊され、学部長が逮捕された事を覗けばだけどね。それだって、ほどなく収束するだろう。今はそれよりも、生命の樹の在り処を全学部が探し合っている。無論、秘密裏にだが」

「—―もしかして、あの抗争は」

「知らなかったのかね?あれは、抗争とは名ばかりの作戦だよ。我らの敵を欺く為、皆が皆、険悪な空気を造り出す事でな。実際、それは成功している」

 講師や教授連中が、手下を引き連れて歩いている光景を何度か見たが、あれは表面上は挑発や威圧ではあり、実際は探索のつもりだったのか。

「その上、学院の権威たるあの教授がしくじり敗北した。それだけで、自然学内の派閥がいくつも崩壊して、見限る者も多く出ている。よって、生命の樹を火事場泥棒の如く、盗み出す輩も生まれかねない。逆に言えば、在り処を知っている者の後を追いかければいいのだが」

「未だにそれをする奴が生まれない」

 大きく頷いて、スプーンに息を吹きかけている。それにはさほど意味がないだが。

「現在、君を生贄とした一団の関係者と疑われている者には、監視の目が届いている。しかも、機関どころか疑われていない教授や講師陣、全てからな。捜査に協力というこれ以上無い、身の潔白を証明する方法もないからだろうね」

 俺が戻ってくる前からマヤカは戦っていたと言っていたが、それは事実だったようだ。ただでさえ排他的な魔に連なる者と話をするだけでも手間なのに、それをまとめ上げるとしたら、一体どれほどの苦労だろうか。

「質問があります」

「ん?なにかな?」

「どうして、今のいままであの教授を逮捕しなかったのだと思いますか?」

「それは私が聞きたい。と言いたいが、それの予測は出来ている。ヒントは君だ」

 俺と同じところに行き着いたらしい。そうだ、捜査の協力とはこれ以上無いほど身の潔白を証明する行動。であるならば、生命の樹の精製に使用という条約違反を行った犯罪集団の主犯格を逮捕した俺は、自身の無罪を証明した事になる。

「俺の手で捕まえさせる為。機関に、俺を信じさせる、信じさせる事実を提供する為—―結局、マヤカの手で守られていたんですね」

 やはり、俺は無力だ。どこに行っても、どんな経験をしても、俺は一人では何も出来ない。カタリに呼び戻されなけば、何も出来ず、マヤカに準備をしてもらわねば、自身の身の潔白すら証明できない。人間のルールから外れてしまった俺を、人間のルールで守られるように、全てを肩代わりしてくれた。

「ひと言でいいから、話したいです」

「許可できない。君は今、行方不明になっている。一世代二世代前であるならば、通信機での連絡も可能であったが、今は傍受される。わかっているだろう?」

「なら、言伝を。愛してるって」

 吹き出すように、声を出した。ただし、それはあざけりの類ではない。

「冗談のつもりだったが、マヤカ君ともそういう関係だったのか‥。機関相手に、そんな関係を造り出すなんて――君は元から人外じみているな」

 落ち着く為に髪をかき上げている。そんな様子が、少し幼く見えた。

「さぁ?俺が勝手に想っているだけかもしれません。その事も、聞いてきて下さい。恩人であり、教師である人を伝書鳩扱いにしている事に、多少なれど胸が痛みますが、それも俺を引き取った代償と覚悟して下さい」

「‥‥君は、やはり」

「なんですか?スプーンが止まってますよ」

 思い出したようにスプーンを向けてくれるので、口に含む。

「あのカタリ君と関係を持っているから、只者ではないと思っていたが、実際その通りだったなんて。この私を顎で使うどころか、あのマヤカ君ともなんて――」

 ただただ唖然とした表情で言ってくる講師に、少しだけ笑いかける。

「知りませんでしたか?俺は人外、神獣ですよ」



「気分はどうかな?」

「気分は悪くないです。だけど」

 上体を起こし胸に手を当てて、肺を膨らませる。その瞬間、身体の内側が引き裂かれているような痛みを感じた。だが、まったく動けなくなる程じゃない。もう慣れてしまった。

「身を守れる自信がありません」

「そのようだが、そうも言ってられなくなった」

 朝の粥をスプーンに乗せながら、伝えてきた。

 前々から思っていたが、この教授は不思議と看病という行為に慣れている様子だ。何度か身体を拭いてもらい、トイレにも連れて行ってもらったが、どれも問題なく済ませる事が出来た。男性とはとえ子供の身体などに、狼狽する事はないようだ。

「何かありましたか?」

「動きが始まった。そろそろ話すべきだと思っていたから、丁度よくもある」

 一口目が終わったところで、スマホを渡してくる。その瞬間、握っているスマホが鳴った。

「出なさい」

 顔に出てしまったようだ。会いたいと、話したと思っているのに――思わず、怖くなってしまった。画面には、マヤカの名前があった。

「—―マヤカ‥」

「‥‥平気?」

「会いたい」

 隣の講師が笑った。

「‥‥私は、会いたくない」

「なら、俺から迎えに行くから、支度をしておいてくれ。妹達を探しに行こう」

「私は会いたくないの。なのに、来るの?」

「ああ、行く」

「そう‥やっぱり、私を迎えに来てくれるのは、あなただけなのね」

 ようやくマヤカの溜息が聞こえた。

「体調はどう?苦しくない?」

「正直に言う。苦しい。一人じゃあ歩けない」

「そう。なら、肩を貸してあげないと」

「ご飯も一人じゃあ無理」

「なら、箸とスプーンを持ってあげないと。ふふ‥」

 スマホを耳に付けていると、講師が部屋から出ていった。無念だ。食べさせて欲しかったのに。

「そっちはどうだ?体調は回復したか?」

「私はもう平気。あなたがそこにいる間、ずっと休んでたから。だから、ゆっくりカタリとも話せた」

 俺が聞く前に話してくれた。気を遣わせてしまったか。

「—―カタリとは、直接話す」

「わかった。そう伝えておく」

 マヤカも気丈に振る舞ってこそいるが、声色にハリがない。休み疲れかもしれないが、聞いて欲しくないようなので、聞かない。だが、問題はカタリだ。

「カタリは、料理が出来てるか?そろそろ賞味期限が来る奴がある筈だけど」

「‥‥いいえ、出来てない。あなたが来るまで、しないって」

「なら、早く行かないと」

 頑固だな‥本当に、優しくて、いい子だ。隠しているつもりみたいだが、料理をしている時の表情を見ればわかる。心の底から、楽しそうにしていた。

「ええ、早くきて。料理だけじゃない。その痛みは、カタリと私じゃない治められない――意味はないかもしれないけど、言わせてもらう。痛みで発狂しそうになってない?」

 スマホを握る手に力が入る。その瞬間、手の甲に血管や骨じゃない。蔓や根のようなものが浮かぶのを感じる。

「‥‥もう慣れた。それに、中に樹を飼うのは、初めてじゃない」

「—―ごめんなさい」

「その事についても、話してもらう――準備をしておいてくれ。俺を納得させられるように」

「全部話す。全部あげる。だから、私達とあなた自身を信じて」

 マヤカが、俺の恩人であり恋人が訴えかけてくるのがわかる。けれど、俺は――マヤカを信じているだろうか。信じられる箇所があるだろうか。

「私はあなたの恋人。あなたの初めてをもらったのは私。信じて、あなたをもう傷つけさせない。誰にも、あなた自身にも」

「俺自身にも‥?マヤカ、それは」

「あなたはいつも正しい。あなたの選択に、間違いはなかった。間違っていたのは、私達人間。もう、人間だった時の失敗に、怯える必要はない。自分を傷つけないで」

「‥‥ふたりがいるんだ。怯えてなんか、いない。どこまで行っても、俺はマヤカとカタリに世話にならないと生きていけない。だから、俺を一人にしないで」

 目に涙が浮かんできた。二人に会えなくなるだけで、こんなにもつらいなんて。

「俺は、自惚れてたんだ。自然学どころか、学院の権威でもあったあの教授の元で、勉強や探究が出来ていたことに。だから、誰もが俺に頭を下げると思ってた。ちょっかいを出してくる奴には攻撃で相手をしてたんだ」

「うん。でも、あなたは頑張ってた。人間の時のあなたも、何も間違いなんて犯してない」

「だけど、その結果が、生命の樹の苗床なんだ。マヤカと機関の術中に嵌ったんじゃない。自分で罠を踏んだんだ」

 所詮、俺はガキだ。歳不相応に力を手に入れても、それを向ける相手を、まるで見極められていない。息吹を向ける相手は、マヤカじゃない。別の人間だ。

「それに正しかったわけじゃない。俺は、逃げてたんだ。見るべき物を投げ出してた」

 教授の動きの違和感など、とうにわかっていた。呼び出された日にあった俺を取り巻く環境の異変を無視していた。俺が、しくじる筈がないって。

「そう‥。なら、あなたはどうする?」

「答えは行動で示してみせる。だから、俺を見ててくれ。迎えに行く俺を、迎えてくれ」

「—―わかった。見極めさせて貰うから。あなたの答えを‥待ってる」

 連絡が切れた。思わず、天井を見つめてしまう。

「もういいですよ」

「では、失礼するよ」

 先ほどとは違い、大きな音を出して講師が入ってくる。車椅子だ。

「君の身体については、私も見通す事が出来なかった。謝ろう」

 金色の髪を揺らし、真摯に頭を下げてくる。だが、振り上げるように顔を上げる。

「しかしながら、時間が無いのもまた事実だ。乗りなさい」

 年期の入った車椅子をベット脇に運んでくる。過去に誰かが長い時間を過ごしたのが、飴色となった木製の肘掛けによって見て取れる。なかなかの造形だ。

「ほら」

「朝食がまだです」

 いいながら、スプーンの入った鍋を見る。

「‥また私に食べさせろと?」

「空腹で痛みよりも先に発狂しそうです」

「—――はぁ‥」

 大きな溜めを作った溜息だった。



 車椅子に乗った時、目隠しをされた。何事かと思ったが、耳元で講師が「すまないが、ここを知られる訳にはいかないんだ。私の声で我慢してくれ」という対価を捧げてきたので、受け入れる事にした。

「ふふ‥年下にこれだけ甘えられるのも、悪くないようだ」

 年期の入った姿とは裏腹に、車輪が全く鳴かない。その上、サスペンションでも搭載されているのか、振動や揺れが一切感じられない。

「しばらくそのままにしていなさい。私がいいというまで、声も出来るだけ出さないように」

 講義室の雰囲気をまとった講師に従い、呼吸音すら出さないようにする。そのまま、長い廊下でも歩いているような足音が響く空間を進み続ける。それがしばらく続いた時、肌に当たる風で外に出たのがわかった。

「まだそのままで。ふふ‥」

 暖かい風に当たり、眠気が誘られたのがわかったのか。頭を撫でてくる。

 どこを歩いているのか知らないが、人の声が聞こえてこない。ここは講師の家の敷地なのだろうか。あの寝室から一歩も出なかったからわからないが、もしかして、ここは秘境どころか学術都市の外なのかもしれない。

「懐かしい。あの子も—――これは独り言だ。聞き流しなさい」

 言われなくても、もう眠気が勝りつつあるこの状況では、聞き返す事など出来ない。けれど、急に眠気が覚めた。胸の樹が内臓を掴んできた――。

「無理をしなくていい。つらかったら、眠りなさい」

「‥‥いいえ」

 この状況で眠ったら、二度と目が覚めなくなる。

「—―どこまで行っても、私は‥‥あの子にも、何もしてあげられないのか」

 車椅子が止まり、講師が前に出てきたのが呼吸でわかった。

「落ち着いて、それは君を害する為にあるのではない」

 車椅子ごと俺を抱いてくれる。

「痛みは副作用のような物だ。それと一体化しなければ、君は二人には会えない」

 口と目から水分が蒸発していく。身体中がやけつきそうな焦熱感が襲ってくる。

 耐える為、講師の柔らかい髪に顔をうずめ、背中に手を伸ばす。

「それでいいんだ。私で耐えなさい」

 舌を噛み切らないように、髪を口に入れる。艶やかな髪は、口に入れて唾液を含ませても固まる事はない。いつまでも口に含んでいられる。

「ずっと髪を見ていたね。まさか、食べたいと思っていたなんて」

 鼻で笑うような声が耳に届く。少し前まで、あれだけ腹立たしかった声に縋りつく。

「先生‥‥」

「なにかな?君の先生はここにいるとも」

 首に吸い付くように、口を付けて語りかけてくれる。

「怖いんです‥人間が」

「それでいい。本来、その痛みも苦しみも、無用な物だ。だから人間を怖がって、嫌っていい」

 意識が朦朧としてきた。講師の香水の香りを肺に溜めてから、最後に声を出す。

「傍にいて‥」

「‥‥傍にいるとも。今度こそ」



「なかなか様になっているじゃないか。前はローブに着られているようだったのに」

 いつ寸法を測ったのか、肩幅から腕の長さ、腿の太さまで完璧だった。

 それに、前に壊したローブにはない装飾がなされていた。前を抑える留め金はそのままだが、袖口や肩口、そして腰には杖を差すベルトが用意されていた。

「‥‥悪くないです」

「それは何より。何度も測った甲斐があったよ」

 寸法を無断で測った犯人が判明した。

「では、これも受け取りなさい」

 渡された杖は、マヤカに渡されたものと同じだったが、こちらも若干ながら見た目が違う。鉛色の全長は変わらずだが、見た目は杖というよりも剣のように変わっている。鍔は勿論、ナックルガードと呼ばれる剣を握った時に生まれる拳を守るための金属のヴェールが設置されている。派手ではないが、実用的で、無駄を省かれた美しさがある。

「—―二人が」

 指を走らせてわかった。ふたりの技術が見える。

「ああ、それはカタリ君が錬鉄をし、マヤカ君が加工したものだ。私も少しだが関わらせてもらった」

「‥‥美しい」

 心の底から声が漏れた。

「それは直接ふたりに言うべきだ」

 目隠しをされたまま連れて来られたのは、どこかの紳士服店のようだった。スーツやネクタイ、帽子や傘。そして、魔に連なる者達が用いるローブの数々が用意されていた。昨今の魔に連なる者は、来るとわかっている血戦の時しか、ローブを着ない。

 甲冑と言えば、まだ聞こえはいいが、実際は完全武装の装備にして、死装束。

「わかっているだろうが、それはただの機関のローブではない」

「わかっています。死ぬ覚悟は済ませてあります。それに、俺はもう死んでます」

「—―結構」

 鏡の前で、最後に襟を正して講師を見上げる。

「良い顔だ――やる事はわかっているな?」

「はい――」

 ただのリヒトから完全に別れを告げる時が来た。人間という甘えから、ただ唯一の神獣リヒトとして生きなければならない。そうしなければ、二人に会えない。

「前を向きなさい」

 言われるままに鏡を見つめる。

「相手はこの秘境で生き延びてきた魔人にして、本当の意味で、魔に連なる者と呼ばれてきた存在」

「‥‥でも、所詮は人間」

「その通り。だが、人間の冷酷さ、意地汚さは、君が誰よりも知っているだろう。一度ならず二度も、人間に殺された。その度に、君は人間を恐れて生まれ変わった」

 わかってる。俺は、あの教授に苗床にされ、捧げられた。そして、今度は殺されてから苗床にされた。忘れる筈がない。徹底的に、人間は俺の敵として存在している。

「油断はしないように。人間は、君を騙す。ただ自分の為だけに」

 車椅子に置いてある手を握ってきた。だから、応える。

「騙してくる敵を見極めます。それに、信じる相手も」

「—―私は、どうかな?」

「信じます。それ以上でも」

「ふふ‥年下からの告白にしては、可愛げがないな」

 返事もしないで、再度目隠しをしてくる。けれど、先ほどよりも優しい手付き。

「時期早々だが、そろそろ時間だ。相手は先ほど伝えた通り」

 車椅子を移動させて、またどこかに連れて行こうとする。一息つく暇もなく連れまわされて、少し眩暈がするが、文句を言う暇もなく空気が一変した。

「外?」

 まだ店の中だと思ったのに、ドアを開ける音もしないで風が頬に当たる。

「そのまま前屈みに、私に身体を預けなさい」

 従わざるを得ない空気を感じて、それに声の通りに動く。

「‥‥少し、恥ずかしいです」

「プライドかな?では、私には存分に自堕落に甘えて、慣れておきなさい」

 年上とは言え、女性に抱えあげられて、男としての琴線が揺れ続ける。

「車に乗るから頭に気を付けなさい。また、髪を噛んでもいいぞ」

「—―噛みません」

「迷ったな?」

 いつまでも俺で遊んでくる講師の髪を望み通りに噛んで、頭を下げる。確かに、車に乗せられたようで柔らかいシートが身体を支えてくる。安全に座ったのがわかった時、シートベルトが身体に回される。何から何まで、世話になっている。

「先生?」

「大丈夫、ここにいるとも」

 ドアを閉められた時、声が自然に出てしまった。返事は運転席側から聞こえる。

「私がいいと言うまで、目隠しはそのまま。では、行こう」

 運転席かと思いきや、助手席側から聞こえていた。運転は自身の人形にさせているようだ。

「このまま北部に向かう。そこからは、私の人形と行きなさい」

「‥‥また、会えますよね?」

「—―君が帰ってくればな。大丈夫、いくらでも髪を触らせてあげるとも」

 車内は講師の趣味なのか、自身と同じような香りがしている。恐らく人形にも同じ香水を使っているのだろう。

 車はしばらく進み、何度か跳ね上がるような振動を感じた。見えないから何とも言えないが、やはり先ほどまでいた場所は、秘境の外だったようだ。車内であっても感じ取れる空気がまるで違う。敵地に帰ってきた気がする。

「もう外して――」

 車が横転したのがわかったが、一体どんな運転をしていたのか、空中で一回転したところで問題なく地面に着地した。そして真横から一撃を喰らったのもわかった。

「やれやれ、我らに相応しい歓迎だな。やはり、オーダーは嫌いと見える」

 呆れているのか、慣れているのか、それとも両方か。どちらにしてもめんどくさそうに言っている。

「いい肩慣らしだ。君、降りなさい」

「殺してもいいですか?」

「無論、ダメだとも」

 仕方ないと溜息を漏らしながら、目隠しを外してドアを開ける。そこには、既に黒髪のオートマタが車椅子を用意して待っていた。ならばと、そこに飛び降りる。

「私は先に行く。あまり遅くならないように」

 俺を降ろしたSUVは、それだけ伝えると、一目散に北部に走っていった。

 改めて攻撃が飛んできた方向を見ると、恐らくは魔に連なる者であろう人間の男性達が数人、こちらにそれぞれの武器を向けていた。拳であったり、何か動物の頭蓋骨であったり、中にはインゴットらしき鉄塊も持ち上げていた。

「—―所詮人間か。カタリの本にも記述不要だ」

 価値があれば、と思ったが一目でわかった。書くだけ無駄だ。

 声が聞こえたかどうか知らないが、もう一度、光が飛んできた。それが獣の姿に見える事から、精霊にでも見立てているようだが、センスがない。価値が無い。

「精霊は、もう少し儚げだ。形など持たせるな」

 手からただの物質として水晶を呼び出し、弾丸のように指で弾いて飛ばし、精霊を破壊する。

 質量をほとんど持たない精霊に見立てた術での狙撃など、愚の骨頂だ。やるなら岩石でも投げつけた方がまだ意味がある。だが、仕方ない。知らないのだから。

「お前らも一度死んで別の世界にでも行ってこい」

 杖を引き抜き、地面を叩く。その瞬間、軽く30mは距離がある一団の足元から水晶の腕が現れて一人を掴み上げる。そのままブラックジャックかメイスのように人間一人分の重みを兼ね備えた腕は、一回りで敵を壊滅させた。

「次は」

 いくら魔に連なる者の戦いも他所にもれず、戦う前から終わっていると言われていても、こう何度も不意打ちを受けてはつまらない。また、真横から一撃を受けた。

「‥‥少し痛い」

「ふふ、油断したな」

「してません。わざと受けました。それに、ここで降ろしたのはそっちだ」

「さてな。私は人形だから、本体の真意など汲み取れないさ」

 側頭部に、矢を受けた。血こそ出てないが、結構痛かった。

 俺の頭で勢いは完全に消えたとは言え、やはりこの力は一介の学生のそれではない。車椅子の周りから粉塵が巻き起こり、ミサイルでも着弾したような様相を呈している。

「他所から雇われたプロですか?」

 少し腹が立ったので、先ほどの術を逆算し、水晶をまとわせた杖を空に投げて、追いかけさせる。匂いを覚えた猟犬か、はたまたフレイの剣のように反撃を自動でさせる。

「可能性はあるが、恐らく違う。同志――と言ったところかな?」

「傍迷惑です。やるなら、勝手にやればいいのに。巻き込まないで欲しい」

「はははは!そういう言わないでくれ。そんな事をされては、私の仕事がなくなってしまう」

 本体の真意を汲み取れないと言いつつ、この高笑いだ。

「ん?戻ってきたね」

 命令通り手に帰ってきた杖には、血が付いていた。

「‥‥殺してません」

「だといいのだけどね。まぁ、仕方ない」

 楽しそうに後ろから頬を引っ張ってくる講師は無視する。

「ここからなら、北部まで結構かかるのでは?」

「それでも昼前には到着する。いい運動だろう?」

「‥‥掃除は得意です」

 満足そうにもう一度高笑いをした講師は、示し合わせたように無人の街を俺を押して歩いて行ってくれた。



「私の想像を超えて、その水晶は便利で強欲だな」

 破れかぶれのように、グラディウスを抜いて突っ込んできた背広の男に杖で応戦する。こちらの方が全長は長いのに、突きを放ってきた間抜けの顎に先端を叩き込み、引き抜き、脳震盪で手元を狂わせたところで剣を叩き落とす。最後に水晶をまとわせた先端をもう一度顎に突き入れる。倒れるのを見届ける

「車椅子だからって、舐めたな?自力で歩けないだけで、それ以外は何でもできるんだよ――」

 もう一度、水晶を呼び出し杖のフルスイングで、水晶の弾丸をもう一人の背広にぶつける。

「なんで、揃いも揃って背広なんですか?これが今のローブなんですか?」

「公務のつもりなのだろうな」

「公務?」

 思わず聞き返してしまった。

「あー聞かないでくれ。こっちの話だ」

 わざとらしく、言い訳とも言えない事を言って誤魔化してきた。

「—―オーダーの仕事ですか?」

「そんな所だと言っておこうかな?」

「‥‥わかりました。聞いたところでどうせ理解できないし、それにオーダー内部の話など、興味もありません」

「ふふ‥空気が読めるね。だが、全てを離す気はないが、理解はしておいてくれ。君の敵は、一度はこの国を牛耳った組織だ」

「どこまで本当の話ですか?」

「私を信じてくれるのなら、どこまでも本当だとも」

「好きだとしたら?」

「無論、どこまでも信じてくれて構わないとも」

 煙に巻かれた気になってしまった。実際、そのつもりなのだろう。

 相当押されてきた街は、やはり無人だ。ここは西部の中ほどであり、自然学のカレッジを要するに街の中央。北部まではバスにでも乗ってしまえば、数分で辿り着く。

「こう徒歩で行くと、異端学のカレッジって、不毛な土地にありますね」

「不毛‥。‥‥ふふ、否定できないのが、申し訳ない‥」

 我らが異端学カレッジは、西部の区間の端の端。最西部にある。まぁ、それでもバスで数分だし、行こうと思えば徒歩で十分な訳だが。

「中央にも外れて、繁華街にも遠くて、マガツ機関の行政地区からも遠いし」

「確かにそうかもしれない。だが、だからこそできる事があるのだよ」

「—――あそこは、オーダーの」

「さて、なんの事かな?ちなみに、マガツ機関の土地でもある」

 不思議だとは思っていた。あの秘密主義の機関が、一時とは言え俺の取り調べを異端学のカレッジで行う事を選んだ。しかも、証拠品である生命の樹すら、この講師に保存を任せる程信頼を置いている。やはり、あそこは機関と関係している。しかも。

「あなたはスパイですか?」

 俺の声をかき消す程の高笑いを上げる。

「スパイ、そうか私がスパイか。それは、なかなか魅力的な就職先だな。確かに、居場所が無くなったら、オーダーに鞍替えするのも、いいかもしれないな」

 癖になってきたのか、また頬を突いてくる。

「なら、異端学はスパイ養成コースか?あの面々の顔を見て、そんな事あり得ると思うかね?みんな、そんな命令通り動く訳がない。あそこは異端の人間しかしない。君も同じだ。それに――興味がないのではなかったのかね?」

「好きな人の事を知りたがるのは、いけない事ですか?」

「まったく‥これだから人外は。もう少し余裕を持ちなさい。私から必要があれば話すよ」 

 機嫌が悪くなったと思いきや、急激に声が高くなる。カタリは特別機嫌の高低差があると思っていたが、この講師も相当だった。マヤカもそうなのだろうか。

 講師が話に上げないので、こちらも触れないが、やはり違和感がある。全く誰もいない。いるとかと思えば、それはこちらを問答無用で攻撃をしてくる背広だけ。しかも、なかには拳銃を使ってくる奴もいる。いくらここが魔に連なる者達の卑怯とは言え、こんなあからさまに襲撃を仕掛けてくるか?

「これも機関の力ですか。最近、舐めてましたけど、やっぱりすごいんですね」

 街を歩く事の一切を禁止するような命令、ただで聞く訳がない。恐らく、それぞれの学部の講師や教授連中に根回しをしたのだろう。この街は襲撃を受けると。

「オーダーでもない、秘境の人間でもない。敵は、国の行政の人間。それと、この街にすくっていた寄生虫ども。遠慮の必要はない。そうでしたね?」

「ああ、そうだとも。少し予定より早くなったが、構わない」

 詳しくは全て終わったら、聞かせてもらう事になっているが、それもどこまで聞かせてもらえるか。秘境の存在は、この国でもトップシークレットに位置する。そこへの襲撃など、国の中枢でなければ不可能だ。しかも、向こうは魔術を使っている。

 所詮雑魚だが、素人ではない。紛れもなく、本物だ。

 考え事をしていたら、車のエンジンが聞こえてきた。車両の破壊は始めてだと思い、意気揚々と杖を上げてたら、捕まれる。

「あれは先ほど降りた車だ」

「ああ。そうでしたか」

 つまらない。そう心の中で思ってしまった。



「先生。質問があります」

「何かな?」

「なぜ、列車ではないのでしょうか」

「あれは、囮だ。街にいる馬鹿者の数も相当に見えたが、機関を直接攻め込んでいる数の方が圧倒的だ。機関の列車を狙っているようだが、それも徒労に終わる」

 北部という山岳地帯を、車で登って行くのも悪くはないが、あの横になれるシートも悪くなかった。それに、講師の隣に座れた。

「列車は――まぁ、言えないが別の所に移動させられている。それに、まず負ける訳がない。私の人形どころか、マヤカ君の狼がいる」

「マヤカにも切り札があったんですか」

「知らないのか?君が運んだ狼の骨格、あれの事だが?」

 あいつ、証拠とか言いながら私物として欲しかっただけか。

「わがままですね」

「それだけで流せる君は、やはり大物だな」

 金色の髪を揺らしながら、眉間に指を付けている。髪の匂いが後ろまで届く。

「それで、俺はどこまですればいいのですか?」

「変わらないよ。原樹の根を切ってくれれば、それで終わりだ。カタリ君やマヤカ君と、ゆっくり話し合ってくれ」

 やはり、上にいるのか。いや、この場合中か。

「カタリ、聞こえるか?」

「‥許可、貰えたの?」

「俺は機関の一員だ。許可は自分で下す」

 だいぶ近くになったようだ。念話で話せる距離にまで近づいた。

「‥‥ついに、なっちゃったんだね。—―違うよね、私が仕向けたんだよね」

「そう言える――」

「‥‥はっきり言うね」

「言って欲しかっただろう。言って欲しそうな声、してた」

 返事こそ聞こえないが、沈黙の時間でわかった。

「今から会いに行く。そうしたら‥‥」

「そうしたら‥‥?」

「将来について話そう。どこへでも、俺は行くから」

 カタリのした事の真意は、今のところわからない。だけど、生命の樹を造り出し、俺に寄生させた。機関の命令かもしれないが、それでも懲罰、逮捕の対象だろう。

「‥‥私と、一緒にいてくれる。また、ご飯一緒に食べてくれる?」

「食べるし、一緒に作ろう。それにどこかに食べに行ってもいい」

「たまに失敗しても、怒らない?」

「俺が何度か失敗しても、怒らないで食べてくれただろう。怒らない」

 呻き声と泣き声が聞こえてくる。

「カタリ、俺は、きっとダメな奴なんだ。カタリを泣かすぐらい弱いんだ」

「—―うん、前から思ってた。私がいないと、料理一つ満足に出来ないって」

「はっきり言うな。‥‥でも、事実だ。俺は、カタリがいないと、何も出来ない」

 聞こえているであろう講師は、何も言わないで待っていてくれる。

「私、怖いの。リヒトから怒られるんじゃないかって」

「‥‥ごめん」

 口を結んで、喉を絞る。

「多分、怒る」

 肩が震える。肺が言う事を聞かない。揺れる身体を内側にある根が更に引き裂いて行く。狂いそうな痛みと共に、狂気に落ちそうな孤独感が襲ってくる。

「俺さ‥‥俺も。カタリに会うのが怖いんだ。また、殺されるんじゃないかって」

「—―うん」

「でも、会いたいんだ。会わないと、狂いそうなんだ」

 身体の内側にいるのは、生命の樹だけじゃない。それよりも、もっと危険で、もっと被害を起こす災厄。それは、きっと俺の本能そのもの。

「カタリ、俺に捧げてくれるか?」

 カタリから息を呑む音がした。

「カタリが欲しくてたまらないんだ」

 血が沸く、肉が躍る。内側の根すら焼き尽くしそうな熱を身体中から感じる。

「大人しく俺に従ってくれるか?なんでもくれるか?」

「そ、そんなに私が欲しい?そんなに私が、好き?」

「好きだし、愛してる。食べたいぐらい」

 爪と牙が伸びていく。瞳孔が縦に避けていく。口から力でも吐きそうだ。

「‥‥ふふ、いいよ。いくらでも食べさせてあげる。だから、私のところに戻ってきて」

 最後にそれだけ言って、念話を終わらせた。



 講師の運転する車で、しばらく山を登っていると建造物が見えた。一見すると植物園のようなガラス張りのドームがいくつか乱立し、それらの中央には、館と言えるような趣のある建物だった。ここに来るのは初めてだが、おおよそ想像がついた。

「自然学の別荘ですね」

「その通り。いや、まったく、あそこの財力は知っているつもりだったが、何度見ても圧巻される。学術都市内に秘境が造られるとの話になった時、移築してきたらしいが、本当はあの館こそが自然学のカレッジなのかもしれないね」

 講師は楽しそうに言っているが、俺は罠とわかっている檻に飛び込む気分だった。あの館は、自然学の学部長が長きに渡って所有してきた魔窟。しかも、恐らくはその主が未だにあそこに巣くっている。

「教授はなんと?」

「なんだと思う?」

「十中八九、だんまりでしょうね。あそこは、今の今まで、機関どころか講師陣、それに学生すら歩かせなかった――恐らく、本当に誰にも歩かせなかった」

 あそこまで巨大な建物を、機関が見逃す筈がない。だけど、誰にも見つけられなかった帰らずの館に、俺は向かっている。教授が逮捕された事により、見えるようになったのだろう。

「私の推理では、それは違う」

 思わず身を乗り出して、せき込んでしまった。隣の人形が気遣ってくれる。

「あの館こそ、本当の意味での秘境。たまたま見つけてしまったという偶然すらありない。だけど、そこに価値がある。絶対に、誰にも見せてはならない研究を――」

 頭にノイズが走る。だけど、生命の樹の根じゃない。記憶が蓋をしている。

「—―俺、ですか」

「それと、同志たちもだろうな」

 徐々に近づいて、その全貌を晒してくるあの館こそが、俺の墓場だったのか。人間リヒトがその生涯と閉じ、生命の樹の苗床として改造された研究施設。

「怖いかね?」

「‥‥はい」

「戻っても、誰も責めない」

「いいえ、いいえ‥‥行きます」

 深呼吸をして痛みを感じ取る。

「ふたりがいるからか?」

 座席から振り返って長い金色の髪を差し出してくる。すがるように、髪を掴んで匂いで落ち着く。肺に溜め込むこの行為は、危険な薬でもしているようで、背徳的だ。

「それもあります。でも、それだけじゃあありません」

 柔らかい、そして艶やかな髪を指に絡ませて目を閉じる。今日の気候は、少しだけ暖か過ぎる。だが、汗の香りなど一切しない、俺の先生の香りだけを感じる。

「それは?」

「復讐です」

 髪に少し爪を立ててみる。けれど、髪はするりと指から零れてしまう。

「—―君には、その権利がある。どうか、苦しめないように」

「いいえ、苦しんでもらいます。俺を殺したんですから――本当に、苦しくて、怖かった‥‥」

 長くゆっくりと先生に甘えていたようだ。いつの間にか、館の門に到着した。そこには、もう一台の車両が停まっていた。見覚えはあったが、違う。

 俺を捌いたそれではない。

「—―もうすぐ会えるぞ」

 そこで髪を引き戻されてしまった。もう幻覚に溶ける事は許してくれないらしい。

「私はここで待機している。中での事はマヤカ君に。そして」

「体調の事は、カタリに聞きます」

「では、そうしてくれ」

 車が止まり、隣に座っていた人形の一人が一足先に降りて車椅子を準備をしてくれる。あの年期の入った車椅子ではないのが残念だが、仕方ない。

 遠慮なく車椅子に飛び降りて、山中の空気を肺に溜め込む。

「‥‥行きましょう」

 講師の人形は、何も言わないで突き従ってくれた。

 停まっている車両に近づいた時、マヤカが降りて出迎えてくれた。

「誰も殺してない?」

「まだ、殺してない」

「そう。よく我慢した。偉い偉い」

 年下というよりも、子供をあやすように頭を撫でてくる。

「—―もう子供じゃない。子供じゃなくしたのは、マヤカだろう」

「でも、やっぱり年下。私にとっては、あなたはいつまでも甘えてくる男の子」

 不満や抗議も、特に意に介さず、無遠慮に無防備に、無自覚に撫でてくる。どれだけ、俺がこの手を待っていたか、知る由もないだろう。

「平気だった?」

「先生は優しかったよ。全部、面倒を見てくれた。ずっと傍にいてくれた」

「ふふふ、目の前で話されると、こそばゆいな。状況は?」

「カタリと私では、入ろうとしただけで力と持ち合わせを使い切ってしまう。やはり、彼に頼むしかない—――マスター、私は」

「言って聞く子じゃないのは、この数日で学んだよ。それに、対価を払えば何でもしてくれる。—―自信を持ちなさい。君の目に狂いはなかった」

 押し手から片手を外して、マヤカの肩に置いた。マスターか、そうか、マヤカの師範はこの人だったのか。

「鍵がないのか?」

 その問にマヤカは頷き、膝を折って同じ目線になってくる。

「こんな事言える立場じゃないって、わかってる。だけど、あなたじゃないと出来ないの。どうか、私にあなたの息吹を施して。私の為に」

「‥‥少し疲れた。あの車で休ませてもらえないか?」

「少しならいい。こっち」

 視線で指定したカタリが乗っているであろう車両にカタリが運んでくれる。黒いガラスで中は見えないが、声が聞こえた。それに、出迎えるようにドアが開いた。

「‥‥一人で乗れる?」

「乗れない。だから、手伝ってくれ」

「うん――」

 柔らかい肉の腕でカタリが身体を支えて引き入れてくれる。マヤカも手伝ってくれたが、それでも腕が引き裂け、腸がねじ切られていそうな痛みを感じる。

 痛みで人は発狂する。拷問など、それを目的としたものでもある。発狂こそが目的、知りたい情報など発狂させ、前後不覚になるまで薬で惑わせれば、楽に得られる。目的と手段を取り間違えているだろうか?違う。最短最善は狂わせる事。

「‥‥あのね」

「何か、食べる物はないか?」

「‥‥まだお昼には早いから、後でね。お弁当、持ってきてるから」

「楽しみだ。約束だからな」

「うん、約束」

 いつもより弱気で、いつもより儚げなカタリは、見ていて痛々しかった。

 頬が前よりも浮き出て見える。目の下にくまも出来て、肌も心なしかハリがなかった。それに、俺の好きな香りをまとっていなかった。

「少し痩せたか?」

「リヒトも、疲れ切ってるみたい。ちゃんと寝てた?食べてた?」

「ああ、食べてた。—―でも、あんまり眠れなかったかも」

 夜になると、急激に怪我や病気が悪化する。前々からそうだった。

「ごめんね‥。私が――私が—―!」

 カタリに被さって、そのまま倒れ込む。

「私を食べるの?—―ごめんなさい、きっと会えば全部、終わるって、元通りになるって思ってたの。でも、私」

「俺もそうだ‥‥。カタリに会えば、全部消えるって、痛みも何もかも全部治まるって、思ってたんだ。だけど、何も変わらない。カタリが食べたくて仕方ない――」

 ゆっくりとカタリの顔の横、耳元に口を入れて息を吹きかける。それだけで震えるカタリの身体を押しつぶしてシートに沈ませる。

「待って‥‥マヤカに見られてる」

 ドアはまだ開いていた。それにマヤカはまだそこに立っていた。

「構わないでいい。私も見ていたい。それに、前は私が見られた」

「き、気付いてたんだ‥‥」

 二人が何か話しているが、まるで聞こえない。汗ばんだカタリから香水とは違う、カタリ自身の香りがする。髪の皮脂すら、吸い込みたい気分になってくる。

「汗臭くない?」

 無言でカタリの耳を吸う。狭い車内で肉を唾液で吸う音が木霊する、そんな音が自身の耳元から聞こえてきたカタリは、俺の背中に手を回して、爪を立ててくる。

「耳、ベトベト‥‥。私、そんなに美味しいの?」

「前に俺もカタリにベトベトにされただろう。あれ、何してたんだ」

「い、言えないけど‥‥でも!こんな事じゃないから!」

 濡れた耳を手で拭っていくが、触れば触る程、耳に塗り込んでいっているように見えてくる。ハリが乏しかった肌が艶やかに色づいていく。

「ど、どうしたの‥‥?急に止まって、やっぱり痛い‥?」

 心細いようで、もう一度背中に手を回していた抱き込んでくる。

「私は平気だから――自分でやった事も、全部覚えてるから‥‥だから、食べていいよ」

 一度カタリの耳元から離れ起き上がる。背中に回されている手を外させて、お互いの指と指を絡ませる。

「カタリ、俺は今も、それにお前に殺されてから、続けて胸も腹も、全部痛い」

「‥‥うん」

「何度も夜に目が覚めた。何度も、食事を戻した――何回、夢で殺されたか、もうわからない」

 耐えられない夜は、講師に頼って眠れるまで傍にいてもらった。何度、あの髪に縋った事か。用意してくれた食事を呑み込み、やけつきそうになっている喉の為、何度水を運んでもらった事か。眠るのが怖くて――目を閉じるだけで、内臓を失った気になった。

「カタリが怖いんだ。俺を、二回も殺したカタリが」

「—―そっか。気付いたんだ――うん、私もリヒトを殺した。この館で、刺した」

「‥‥俺を殺すのは、楽しかったのか?」

 指を折るつもりで握る。カタリの顔が歪むが、耐えて笑顔を作ってくれる。

「大丈夫‥‥もう、殺さない。もう刺したりしない—―裏切ったりしない」

 歪んだ制服を着た、弱々しくて、柔らかいカタリに引き寄せられる。

 手を離して倒れ込み、首に腕を回す。

「ひどいよ‥俺、ずっと頑張ってきたのに――カタリと一緒になりたかっただけなのに」

「私もそうだよ。ずっとリヒトと一緒にいられればそれで良かったの」

 カタリの制服に涙を零れさせるしか出来ない。痛みも悲しみも、全部カタリ時自身が俺に植え付けたのに。なのに、カタリは全部受け入れてくれる。

「俺、カタリがずっと好き。カタリに褒めて貰いたくて、あの教授の教室に入ったのに‥‥なんで、こんな目に合わないといけないんだよ‥なんで、俺を殺したんだ‥‥」

「—―私も、リヒトがずっと好き。二人で逃げ出した時から、ずっとリヒトと一緒にいるんだろうっと、いられるんだろうって、そう思ってた。でも――ダメだって、わかったの」

 自身の胸の上にいる俺を抱きしめて、頭を撫でてくれる。

「泣いちゃダメ。前に言ったでしょう?私のリヒトは、皆が憧れるリヒトじゃないとダメだって。だから、泣くんじゃなくて、怒って」

「‥‥出来ないよ。カタリを怒るなんて、復讐なんて出来ない‥‥」

 呆れたような、わかっていたような声を笑いを鼻でして、頭と背中を撫でてくれる。ひとしきり泣いても、カタリから離れる気にはなれない。やっと会えたのだから。

「情けないなぁ‥なんで、私、リヒトを好きになったんだろう。こんなに弱くて泣き虫なのに‥‥。ふふふ、見てマヤカ」

「ええ、見てる。本当に、泣き虫」

「そうなの。ずっと昔からそう。嫌な事があったら、いつも私に泣きついてきたの。ふふ‥何怖がってたんだろう。リヒトが、私に勝てる訳ないのに――ほんとうに」

 復讐なんて、無理だったんだ。カタリを傷つけるなんて、出来やしなかった。意気込んで、カタリへの怒りを持ち続けていようとしたのに、それも零れてしまった。

「ごめんね。何も言わないで、一人にさせて。私も傍にいたかった。うんん――傍にいるべきだった。つらいのは、私なんかじゃないのに‥‥」

「もうひとりは嫌だ‥‥カタリといたい」

「いいよ。ずっと一緒にいてあげる」

 少し硬い、けれどカタリの香りがする制服に包まれる。それだけで、泣き叫ぶだけで狂いそうなぐらい痛む胸が和らいでくれる。麻酔のように、痛覚を鈍らせてくれる。

「さぁ、起きて。返すものがあるの‥‥もう、ふふ‥」

 命令に従わないでカタリに縋り続ける。呆れたように頭を撫でてくれる。

「じゃあ、そのままでいいよ。マヤカ」

「ええ、わかってる。もう準備も済んでる」

 背中に手を当てられる。

「動かないで」

 何かを抜き取った。背骨がそのまま引き抜かれたような感覚がする。

 それだけで身体が一切動かなくなる。かろうじて息だけが出来るが、振り返る事が出来ない。

「カタリ‥‥」

「大丈夫、信じて。ここにいるのは、リヒトの恋人でしょう?」

 目を開ける事さえできなくなってきた。カタリの制服に顔を沈めて首から力を抜く。

「「あなたは自覚がないかもしれないけど、身体との乖離の進行を止める事は出来ない。私の鎖で、繋ぎ止める事は出来ても、それだけ。もう千切れかかっていたから、いま鎖を解いた」」

 声が遠くから聞こえる。また声が二重に聞こえる。

「「だから動かないで。私の上でゆっくりしてね。‥‥いま、結構すごい事言ったかも‥‥」」

 カタリの心拍が早くなってきた。

「「だから、私達はあなたに樹を植えた。樹の根と枝葉、果実で、あなたをこちらの世界の身体に固定する為に。痛かったのは、根があなたの身体を調べていたから。星の力を受けた身体にどう根を張り巡らせれば、あなたを固定できるか、調べさせていた。でも、それもおしまい」」

 カタリの体温が上がってきた。そして、マヤカの手も。

「「あの生命の樹によって、リヒトと呼ばれる存在は、その椅子を失った。だから、あなたには新しい椅子がこちらの世界に必要になった。だけど、神獣となって帰ってきたあなたが収まれる椅子を用意するには、やはり生命の樹しかない」」

 そうか。俺は世界から消えかかていたのか。いくら力ばかり残っていても、それを支えて受け止められる器を、俺は持っていなかった。この痛みは、俺の身体を造り変えていた。いや、造り出していたのか。

「「もう身体は出来上がってるみたいね。あとは、器に入れるだけ」」

「「ふふ‥よかった。これで、子供が作れる」」

「「う、うん‥そう、これで、子供も作れるようになる‥‥」」

 飛躍した話だが、身体を持つ前の俺では、人間との交配は出来なかったのか。

 こちらの世界は、やはり心が狭い。

「おれは‥‥どうすればいい?」

「「そのまま眠っていて。本当は――もう時間もないみたいね」」

 遠くから車両のエンジン音らしきものが聞こえてくる。

「「樹の在り処は、やはりここみたい。手間が省ける――急いで」」

 背中のマヤカの手が、身体に入り込んできた。それが、今度こそ背骨を掴んでくる。思わず、吐き出してしまうが、カタリは嫌な声を一切出さないで、撫でてくれる。

「「これから一度、あなたをこの身体から引き抜く。身体の準備が完了し次第、もう一度、入ってもらう」」

「「いい?私達は、これが済んだら、何も出来なくなる。だから、必ず帰ってきて。必ず、私達を救いに戻って」」

 カタリの声が止むか止まないか、そう思った時、確かに感じた。身体から引き抜かれる感覚を――。




 あの方が言っていたを息吹には理由が必要と言う意味がわかった気がする。

 教授に向かって放った怒りだけの息吹など遠く及ばない。ただの一息で車両の側面を抉り、ドアやタイヤ、それにフロントを破壊し尽くし、後に残った過ぎ去った風で車両を吹き飛ばしていく。それを確認し、杖を手に戻す。

「竜の息吹‥‥、まさか、本当にこの目で見る事になるなんて」

 後ろの講師が感嘆の声を上げる。

「望むなら、もう一度放ちますよ」

「いいや、十分だ。それにそれ以上やると死人が出る」

 指を差して示す方向は、つい数十分前に、自分達が上ってきた山道だった。地面の固めた粘土のような舗装こそ破壊され尽くされていないが、木々はかなりなぎ倒されていた。本当に、竜や山の神が過ぎ去った跡のようだった。

「調子はどうかな?」

 杖を握っている手の肩を触ってくる。

「まだ寝起きですから。本調子じゃないです」

 置かれている手に手を重ねて答えてみる。

「末恐ろしいが、威力は調節しなさい。あまり派手にやると、マヤカ君ら機関が君を逮捕しにくる。それだけは嫌だろう?」

「‥‥その時は、ほとぼりが冷めるまで、一緒にどこに逃げますか」

「ん?駆け落ちかな?では、その時の為、隠れ家を用意しておこう」

 冗談のつもりで言ったのに。割と本気で受け取ってしまったらしい。もしかして、隠れ家候補を既に持っているのだろうか。

「まぁ、それはさておき、二人とは話してきたか?」

「—―はい」

「それで、どう思った?」

「人間は勝手です。勝手に殺して、勝手に奪って――勝手に、俺を救って」

「そうかもしれないな。結局、私も彼女達も、君に何も言わないで話を進めた」

 肩に置いていた手を頬と耳に当ててくる。

「それでも彼女達は君を愛していた。それに生命の樹を造り出すという危険な真似をしてでも、君をこちらに置こうとしたのは、君の力が欲しいからだ」

「‥‥先生、俺はそれでも」

「わかっているとも」

 細いけれどカタリよりも成熟した身体で抱きしめてくれる。

「殺し殺されの関係は、我ら魔に連なる者とって普通だとしても、踏み外してはいけない倫理感がある。彼女達は君の身体を、何も言わないで解体し、種を植え付けた」

 腕を講師の背中に回して、大きく深呼吸をする。もう痛くない。

「人間は勝手だ。我らには理解できない行動を、さも他人の為という善意の形にして押し付け、奪っていく。そんな独善で救われた非人間族の我らの事など、何も考えていない」

 やはり、そうだったか。この人もどこかに飛ばされた時、人間から変わってしまったのか。

「人間は嫌いです」

「私もだよ。人間は、どうしても好きになれない」

 ゆっくりと離れようとするので、逃がさない為に背中に腕を回す。そんな仕草を楽しいのか、笑ってくれる。

「‥‥聞き流してくれ。私には、娘がいた――ふふ、実の娘ではないとも。どちらかと言えば、歳の離れた妹と言ったところか。もう、離れ離れになってしまったけど」

「追いかけなかったんですか?」

「聞き流していいと言ったのに‥‥ふふふ、こっちに」

 手を引かれて、冷房が効いている乗ってきた車内に連れ込まれる。

 車内には人形の一体もいなかった。真の意味で、二人きりだった。

「私にも家族と呼べる存在が二人いた。妹弟子とさっき話した妹がね、実を言うと、ここで二人と暮らしていた。追いかけなかったのかと聞いたね。追いかけられる訳がないんだ。私が追い出したのだから」

 足を組んで、外を眺め始めた。横顔が、あまりにも美しくて――目が離せない。

「どうしてですか?家族だったのでしょう‥‥」

「家族だからだよ。ここにいてはいけないと思った――あの子は、あまりにも魔に連なる者として相応し過ぎた」

 少し妬ましくなった。これだけのオートマタを一挙に支配できる講師が、ここまで言うなんて。一体、どれほどの才能があったのだろうか。

「なぜですか。だって、あなたは講師で、それだけ才能があるのなら」

「私達は、あの子を魔に連なる者として育てるつもりなどなかった。だけど、何も教えずとも、あの子は自力でなってしまった。ほんの6にも満たない子がね」

 決して楽しい思い出ではないようだ。乾いた、それでいて自嘲気味の笑いをしてくる。

「誰に唆されたのかと問い詰めてしまった――まったく、愚かな事をした。私達と一緒に暮らしていたのだから、そうなるに決まっている。まったく――本当に私は愚かだったよ」

「先生は、愚かじゃありません」

 手を奪うように取って、振り向かせる。驚いた表情をしてくるが、無視する。

「俺はあなたのお陰で生きてます。あなたに、俺は救われました。その子を去らせたのだって、その子を救いたかったからでしょう?先生は、いつだって」

「どうして、なぜあなたまで私を捨てるのですか?そんなに、私に死んで欲しいの?—―こんな言葉を言わせたんだ。あの子に‥‥それでも、私を教師と呼ぶのか?」

 今も乾いた笑いをしてくる講師の手を取って、身体でドアに押し付ける。

「乱暴だな‥」

「その子は今どこに?」

「‥‥言えない。私の雇い主の意思でもある」

「オーダー‥‥ですか」

「勘が良過ぎるのも、考え物だな‥‥」

 そんな顔はして欲しくなかった。だから、それを超える驚きを与える事にする。

 口を奪う。だけど、それを待ち構えていたように、押し倒される。

「十は違う君に、そこまで心配される必要はない。もう、話はつけてある。あれから、何度か話す機会もあったからな‥‥あまり、目を合わせてくれないけど」

 肩と胸に手を当てて、起き上がれなくさせてくる。無理をして起き上がろうとするが、舌なめずりをする年上の圧力に、抗えず、自然と身体が大人しくなってしまう。

「だから、そんな顔はしないでくれ。私は、望んでここで講師をしているんだ。相応しいかどうかは、私自身にとってはどうでもいい。もう一度問おう、私は」

「あなたは俺の先生です。あの教授になんて、比べ物にならない、俺の恩師です」

 力を込めて、今度こそ起き上がる。俺が反抗してくるのは、予想外だったらしく、今度こそ驚いている瞬間を狙い――先生を持ち上げる。

「—―まさか、年下に始めてされるなんて」

 細い腰を持ち上げて、長い足の膝を折らせる。狭い車内でなければ、お姫様抱っこが完成していただろう。

「見て下さい。もうどこも痛くありません。もう一人で食事もできます」

「それに、トイレと入浴もだろう。みんなそうだ、私は、そもそも不要で」

「それは違います。また粥を作って下さい。それに俺もあなたも、人間じゃないんです。だから、そんな人間の尺度で図るような事、もう止めましょう」

 目を逸らしてくる講師を抱き寄せて、唇が触れそうになる距離を保つ。

「あなたは知らないかもしれませんけど、俺はあなたのベットの上で、人間に別れを告げました。あなたのお陰で、人間の呪縛から解かれたんです」

「‥‥だとしたら、それこそ君の勘違いだ。私はただの暇つぶしに」

 口を閉じさせる。自然と目をつぶってくれ、こちらからしたのに、次にどうすればいいか、指示してくれる。頭を離すと、頬を撫でてくれた。

「俺は、人間じゃない。そんな俺を――また一人にする気ですか?」

「—―」

 頬につけている爪が顔に食い込む。

「そうか、また、私は捨てようとしていたのね。また‥‥」

「もう一人は嫌なんです。先生、俺を教え子だと認めてくれるなら、俺を捨てないで」

「‥‥しない。もうしないとも。もう、寂しがらせたりなんて、しないから」

 頬にある手が頭に移動する。そのまま、頭を抱いてくれた。




「先生、なんだって?」

 目が覚めたカタリが、ふらつく足で車から降りてくる。

「私はここで見張るって。弁当も置いて来たよ」

 手ぶらである事を示す為、両手を差し出す。

「怒ってなかった‥‥?私達を逮捕するとか」

「あの先生も魔に連なる者だからな。俺ひとりにしか作用しない生命の樹なら、気にしないだろう‥‥。それより、昼が食べたい!」

 カタリの手を引いて、車内に入る。本当はそんな事をしている暇などないとわかっているが、それはそれ。カタリの手料理が久方ぶりに食べれるなら、神すら喰らってやろう。

「もう!真面目に聞いたのに、そんなに私に食べさせて欲しいの?」

「欲しい!」

「‥‥け、結構積極的‥いいよ!負けてられないから!!」

「騒がしいわ。少しは緊張感を持って」

 助手席に座っているマヤカが、サンド片手にタブレットを操作している。

「機関本部はどうなってるんだ?」

 カタリに差し出されたベーコン、チーズ、野菜が挟まれたサンドを受け取らずに直接口を付ける。カタリから軽い驚きの声が聞こえるが、負けず嫌いのカタリは、無理して食べさせ続けてくれる。顔を赤くして無理してくるカタリが可愛くて仕方ない。

「急迫不正の襲撃なら、どうにかなると思っていたようだけど、法務科からの通告通りの規模と武器に合わせた準備を整えていたから、心配しなくていい」

 前の座席にいるマヤカが操作しているタブレットをのぞき見すると、真上から機関と背広連中が抗争をしている光景だった。馬鹿な奴らだ、この国で魔に連なる者が最も喧嘩を売ってはいけない連中に手を出した。壊滅は時間の問題だ。

「この狼、とてもいい子」

 振り返って見せてくれたタブレットには、マヤカの命令で運んだ狼が映っていた。だけど、骨格こそそれだが、見た目がまるで違う。銀色の毛皮、というよりも、鱗のような物を毛皮に見立てた白銀の狼だった。実際に見たら、どれほど美しいだろうか。

「綺麗だ‥」

「本当?嬉しい」

 髪を振ってくれたお蔭で、マヤカの甘い香りが鼻に届くが、呻き声が横から聞こえる。

「ふふ、ごめんなさい。食事を続けて」

 前へ向き直ったマヤカを見送って、カタリの手からサンドを食べ続ける。

「カタリはいいのか?」

「私は大丈夫。それより、これ全部リヒトの為に作ってきたんだから、残さないでね」

「じゃあ、全部食べさせて」

 一つ目が食べ終わった所で、次の一つを取って向けてくれる。

「どう?スモークサーモン」

「美味しい‥作ってくれたのか?」

「喜ぶと思って。美味しいよね?」

「美味しい!もうないの?」

「帰ったら、まだあるから、落ち着いて。ふふ‥ほんとに甘えん坊‥」

 呆れた顔をしながら、次を取ってくれる。本当に、俺は帰って来れたんだ。カタリの隣に。そして、カタリの手料理を食べれる席に。

「帰ったら、残ってるスモークサーモンを焼いてBBQ風にしようと思ってるの?どう、食べたくない?」

「食べる食べる。じゃあ、早く帰らないとな」

「その前にあなたにはして貰う事がある。忘れてない?」

 マヤカがカタリに次のサンドを催促する手を差し出しながら、言ってくる。

「甘いのが食べたい」

「目ざといわね‥」

「ありがとう。それで?」

「面倒だけど、頑張ってくるよ。カタリ、俺にも」

 甘いチョコを使って作られたサンドを口に入れてもらう。

「この館には価値がある。途中でめんどくさいと思っても、出来るだけ破壊しないように。あなたの目的は」

「わかってる。根を断ち切る事—―行ってくる」

 最後にカタリと軽く口を付けて、車から降りる。

「—―さて、復讐の時間だ‥。柱一本残すと思うなよ」

 マヤカの言った事を全否定して、館に杖を向けた時、助手席の窓が開き、首を絞めてきたのは、新感覚だった。

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