猫を見るたび僕は初恋を思い出す

第1話

 小学生のころの僕の友人は、神社に住み着いた野良猫だった。

 彼を知っているのは僕だけだったはずが、いつのまにかクラスでも話題になっていて、僕以外のクラスメイトもよく神社を訪れるようになってしまった。

 彼は人懐こくて大人しかったけれど、かまわれすぎることを嫌う。クラスメイトたちは「かわいい」「かわいい」と我先に撫でようとするのだが、そうすると彼はぷいとどこかへいなくなってしまう。みんなが帰り、あたりが静かになったころ、彼はひょっこり戻ってくる。

 だから僕が彼を訪ねる時は一人で行くことにしていた。

 彼が根城にしているお社を訪ね、姿が見えない時はそのまま石段に座り本を読んで待つ。

 しばらくすると、いつのまにか僕の隣に音も無く彼が座っている。

 ひなたぼっこをする彼の邪魔をしないよう気をつけながら、僕は適度に彼を撫でる。彼のほうから頭を僕にこすりつけて「撫でてもいいぞ」と言ってくれることもある。

 僕は彼と過ごすその時間が好きだった。


 ある日の放課後、僕がいつものように鳥居をくぐり、お社へと近づくと、何やらクラスメイトたちが集まってひそひそと話し合っていた。

 泣いている子もいて、「やばい」とか「きたない」とか「こわい」といった、彼の周りで聞いたことのない言葉が交わされており、嫌な予感がした僕はひょいと背伸びをして彼らが作った人垣の向こうを覗き込んだ。

 そこに血塗れの彼が横たわっていた。

 僕はクラスメイトを押しのけるようにして彼に近づき、その傍らにしゃがみ込んだ。

「やめなよ!」

 僕を非難する誰かの声がしたけれど、僕はかまわなかった。むしろどうしてそんな遠巻きに彼を見ているのかと腹を立てもした。みんな、日頃はあれだけかわいい、かわいいと騒いでいたくせに。どうしてそんな、汚らわしいものや恐ろしいものでも見るみたいな目を彼に向けるんだ。

 彼はまだかろうじて生きていた。わずかだけど呼吸で身体が上下するのが見える。

 でも、まだ生きているというだけだというのも直感した。腹から見えてはいけないものがはみ出している。きっと助からない。

「事故に遭ったのかな」

「イタズラかも。中学の悪い人たちがよくこのへんに集まってるってお母さんが言ってたよ」

 クラスメイトの他人事みたいな会話をうっとうしく思いながら、僕は逡巡していた。

 ダメ元でも病院に連れていくべきだろうか。

 だけど僕が動かすことで彼が死んでしまったらどうしよう。

 自分の行動が命を終わらせてしまうかもしれないという恐怖と、触れた際の肉や血の温かさを想像してしまい、僕は動けなくなった。

 結局僕も、遠くから眺めるだけのクラスメイトと大差ない。そう思い知り、悔しかった。

 そうしている間にも彼の動きは小さく不規則になっていく。

 僕はせめてもと思い、そばでじっと彼を見続けた。小さな命が灯す最期の炎を見過ごしてはいけないと感じていた。

 そして、その時がきた。

 あっ、と僕は息を呑む。逝ってしまったのだとわかった気がした。彼の動きが止まるのと同時に、僕の世界から音が消え、瞬間が何秒も何分も続いていくような感覚がした。

「何してるの?」

 女の人の声がしたのはその時だった。弾かれたように顔を上げる僕。クラスメイトたちも跳び上がって驚き、後ろを振り向いた。

 高校の制服姿のお姉さんがこっちを見ていた。

 クラスメイトの誰かが悲鳴を上げて走り出すと、つられてパニックになったのかみんなクモの子を散らすように走り去り、あとには僕だけが取り残された。

 彼らがどうして逃げ出したのか、僕にもわかる。一緒になって逃げ出すことこそしなかったものの、いけないことをしでかしたところを見咎められた気分だった。もしかしたら怒られるかもしれないと覚悟すらしていた。

 もちろんお姉さんが僕を怒るなんてことはなく、僕のそばに横たわった彼に気づくと顔色を変えて駆け寄ってきた。彼を挟んで対面にお姉さんが膝をつく。

 そして躊躇うことなく両手で彼の身体を抱き上げた。

 衝撃だった。僕が越えることのできなかった壁を難なく飛び越えていったお姉さんに、僕は驚きと尊敬の念を抱いた。

 恭しい手つきで彼の身体を確かめ、やがて手遅れであることがわかるとお姉さんは痛ましげな目で遺体を見つめた。その身体をそっと地面の上に戻したお姉さんの両手は、血で真っ赤に塗れている。

 お姉さんが僕を見て「どうしたの?」と優しい声で尋ねてくる。

 何を訊かれたのかよくわからず焦った僕が「見てた」と答えると、お姉さんの表情がわずかに曇った気がして、自分が間違えたことを悟った。

 違う。たぶん何があったのか聞きたかったんだ。興味本位で観察してたひどい奴と思われたかも。そうじゃないって説明したいのに、うまく言葉が出てこない。

 僕は慌てながら「さっきまで生きてたから」となんとか口にした。

 そうだ。さっきまで生きていた。

 唐突に涙がこぼれだす。突然のことに僕はうろたえつつも、言葉を継ぐ。

「見ててあげなきゃいけないと、思っ、て」

 それ以上は言えず、僕は大声で泣いてしまった。

 彼の死が不意に強い実感をもって胸に迫ってくる。

 死んでしまった。それが悲しく、つらく、悔しかった。

「そっか。見ててあげたのか」

 泣きじゃくり、涙を拭いながら頷く僕。

「じゃあきっとこの子も、寂しくなかったね」

 その言葉に、僕は一時泣くのを忘れてお姉さんの顔を見た。僕を慰めるように穏やかに微笑むお姉さんこそ、今にも泣き出しそうなほど寂しがっているように見えた。

「埋葬してあげよう」

 お姉さんは「ちょっと待ってて」とどこかへ行き、しばらくすると戻ってきて「オッケーだって」と指でマルを作った。管理人か誰かに許可を取ってきたらしい。ついでに手を洗ってきたようで、お姉さんの手にはハンカチが握られていた。

 お姉さんはそのハンカチで彼の遺体を包んだ。見る間に血が布地に染み込んでいくのを見て、僕は咄嗟に「いいの?」と尋ねた。

「うん。そのままじゃかわいそうだからね」

 僕たちはお社の裏に回った。建家の裏手には小山があり、その雑木林の入り口あたりに場所を決めて僕とお姉さんは穴を掘った。といっても、道具もないので素手で土をわずかにかいて凹ませた程度のささやかなものだ。

 ハンカチに包まれた遺体を窪みの中心に置き、僕たちはしばし両手を合わせた。

 彼のことを思い出すとまた涙が出そうになったけれど、鼻をすすってこらえる。

 隣からも鼻をすするような音が聞こえたので、横目でちらりと見ると、お姉さんの閉じた瞳から涙が一筋こぼれた。きれいな横顔に流れる涙が、なんだか物語の世界を見てるみたいで、少しの間僕は見惚れた。

「……それじゃ、かけてあげよっか、土」

「うん。……あっ、ちょっと待って」

 思い出した僕はポケットの中から小袋を取り出す。今日の給食で出た小魚とアーモンドだ。彼にあげようと思って持ってきたのだ。

「きっと喜ぶね」

 お姉さんにも褒められて僕は嬉しくなりながら、小袋から出した小魚とアーモンドを彼の傍らに供えた。

 埋葬を終え、土で汚れた手を洗ったころには、境内は夕焼け色に染まっていた。もう帰らなければならない。

「君はあの子の友達だったの?」

 鳥居をくぐる時、横を歩くお姉さんが尋ねてきた。「うん」と頷くと「そっか」と言ってお姉さんは小さく笑った。

「私と一緒だね。私もあの子の友達だったんだ」

 その笑顔がとてもきれいで、寂しそうだった。

 そして僕たちは別れた。手を振るお姉さんの髪が夕陽に照らされて輝いていたのを、今でもよく憶えている。

 それきり彼女と出会うことはなかった。


 その後もしばらくは花を手向けにちょくちょく彼の墓を訪れた。もしかしたら彼女に会えるかもしれないと一抹の期待を抱きながら。

 その期待が叶うことはなく日々は過ぎ、やがて墓参の頻度も減ったある時、裏山の造成工事が始まって埋葬場所に近づけなくなった。

 工事が終わった後、一度だけ様子を見に行ったことがある。

 僕たちが作った粗末な墓は跡形もなく、代わりに整えられた花壇が横たわっていた。良い季節が来ればきっと色とりどりの花でいっぱいになるに違いない。

 これなら彼も寂しくないだろうと思い、その日を最後に僕はお社に行くのをやめた。


 思えばあれが僕の初恋だった。

 一度しか出会わなかった彼女の記憶は、幼い僕のかけがえのない友人だった彼と深く結びついている。

 だから僕は、猫を見るたびに彼を想い、そして初恋を思い出す。

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