猫と烏と、夜と、あい

猫と烏と、夜と、あい

「よォ猫さん。元気にしてる?」

 陽気な声が、一瞬だけ遮られた日差しに代わって降ってくる。道路の白線の外側、塀がつくる細い影の中に寝そべっていた猫は顔を上げた。片方だけの視界に相棒を見つけ、尻尾をぱたりと鳴らす。

「烏じゃない。元気だよ。そんなに黒くて、烏は暑くない? 熱中症大丈夫?」

「暑くて堪んねえよ。いっそ白いペンキでも浴びたいくらいだ」

「だよねぇ、暑いよねえ。私もお腹と背中じゃ温度が全然違うの」

「真っ黒くないだけマシだって」

 はは、と烏が笑う。がらがらと響く喉は耳に残らず、頭蓋骨の内側を滑るように鼓膜を震わせた。

「そういや、さあ、いいもん見つけたんだ。ちょっと待っててくれるか」

「うん。待ってるよ」

 羽ばたいた烏の翼で掻き回された空気はアスファルトから熱を奪うともいかず、残された猫は熱いままの地面と生温い空気に板挟み。目を細めた、尻尾が揺れた。少し、髭も揺れたかもしれない。

 刺さる日差しから逃れるように、猫は考えた。どうしようもないこの暑さを少しでも紛らわすには、溶けそうな道路に寝そべるか、太陽に一メートルほど近づく塀の上に座ろうか。いや、やめよう。塀の上も下も、暑いことには変わりあるまい。少し日陰が出来ないものか、太陽は脳天を焦がし、見える影は自らの真下、これではいくら頭蓋骨が分厚くとも脳みそが溶けてしまう。ふと、大きな影が日差しを断ち切る。

「ああ、烏」

「待たせたな、猫さん」

 烏は咥えていた何やら丸いものを地面に転がす。硬いアスファルトで跳ねたそれは涼し気な音を立てて光った。

「これ、知ってる。びーだまってやつだ」

「よく知ってるな。冷たそうでいいだろ、氷みたいだ」

「ほんと。綺麗で好き」

 決して苦しくない、寧ろ心地よい沈黙が降りる。その透明な甘さは熱気すら心地よいほど。申し訳程度の風が吹いて、今度はしっかりと猫の髭を揺らしていった。

 ビー玉から滲み出た爽やかな毒気にあてられたように、ふと烏が口を開く。

「猫さんの、目玉みたいだなって思って」

 刹那、風に揺られていた猫の髭がぴたりと張る。弱々しく吹いていた風は止んだ。この空気に溶けすぎた二酸化炭素の意味を誰が知るだろう。息苦しいのは夏の熱気のせいだろうか。

「私の目玉はもう少し大きいよ」

 しっとりとした笑顔とともに、まとわりつくような後悔と温度の下がり過ぎた呼気を払うかのような猫の声。そうだった、と返した烏は、それきり何も言わなかった。猫もそれ以上何か言うでもなく、ただ穏やかにガラス玉を見つめていた。

「暗くならないうちに帰りなさい。烏の目はすぐに見えなくなる」

 しばらくして、青色の空が紅をさし始めた頃、口を開いたのは猫だった。猫は片方しかない瞳で烏を見つめる。その眼差しは、夏の気だるさを覚ますまではいかなかったが、薄める程度には冷気を帯びていた。

 烏は朱色に染まった雲を見て、猫を見て、それからまた空に視線を戻すと、そっと息を吸った。

「またな、猫さん」

 振り向いた烏の目には、ああ何だろう、見た者の未練を掻き立てるような、猫には決して知ることの出来ない何かがあった。もしかしたらあの目の奥に潜んだ彼の心を、引きずり出して喉を掻き切ってしまうのがいいのかもしれない。それでも猫は、そんな心の内をおくびにも出さず微笑む。無言のまま。

 烏は名残惜しそうに二三歩ゆっくり歩き、少し爪を鳴らして、それから大きく羽を広げた。ばさ。翼の音が小さくなっていく。ばさ。烏は黒い影になり、黒い豆になり、黒い塵になる前に景色の向こうに消えていった。振り向かなかった烏を、猫は眺めていた。

(ああ今日も)

 猫は烏が去った空を見ながら思う。

(今日も殺さなかった)

 ふ、と浅く溜息を吐く。空は帳を垂らし星々の明かりを搔き消す。月までもが姿を隠した今夜、暴力的な街灯と、暗闇を透かし見るような猫の目の他は、何もかもが見えなくなった。曇った夜は暗すぎて、猫はたまらず目をつむる。すっかり飼い慣らされた憎悪が、心からするりと、出た。猫はさらに固く瞼を結ぶ。涙でも叫びでも、彼の内に満ちた心が溢れれば、きっと今すぐにでも、殺すことはできる。その覚悟と決意だけをもって、猫はここにいた。

(今日も殺さなかった)

 ゆったりと蠢く復讐心を、その言葉と共に溶かすように喉の奥で反芻する。そしてそのまま飲み下した。

(違う、殺せなかった、だろうか)

 飲み込んだ心の欠片が喉にひっかかって、何か言っている。夜が明けるのは早い、地球が回る速度を知っているか。どんなに嘆こうとも全ての叫びを聞いてくれるほど夜は暇ではない。ならば一人で懺悔でもしようと、猫の頭に浮かんだのは黒い嘴。泣いて終わるだけの夜はいらない。きっと夜と同じ速さで朝が来て、死の匂いが立ち込める白い空に、また烏が飛ぶ。彼は猫の想いを知っているのだろう、猫も烏の心の内を知っているのだから。烏はあの日の猫の心を啄んだ。知らない方がおかしいのだ。目を突いた、その奥にはいつだって心があった。

 もう傷は痛くない。既に目は見えていない。弱者の生を強者の生が食う世界だ。烏がまだ強者であった時に、彼は殺しておけばよかったのかもしれない。まだ幼い猫を殺すことなど烏には容易いことだっただろう。にもかかわらずあの日烏は猫の眼球をひとつ、くり抜くだけに留めた。あのときもっと深くまで、鈍く光る凶器が届いていれば。殺せていれば。その方が双方にとって、確かに幸福なはずだった。

 やがて夜が明ける。暗闇しかない空に白くもやがかかっていく。彩度が下がるように、藍が澄んでいく。猫の何かが死ぬ音がする。全て、無言のまま。

「おはよう」

 最悪な目覚めもきっと、これが最後。

「おはよう、猫さん」

 木の上。烏が眠る枝から少し離れた場所に、猫は悠々と構えていた。猫の突然の訪問に驚いたふうもなく、烏は笑う。その笑みは烏自身に向けられたもののようにも、今までの二人の関係を嘲るもののようにも見えた。そしてそのままの表情で、烏は口を開いた。

「なあ猫さん。猫さんは俺のこと、馬鹿な烏だと思うか」

 この世の終わりを見つめるかのような表情をした烏を、猫は浅く閉じていた瞼を重たそうに開いて見る。続きを促すのではない、話すことを強いる猫の眼差しに、烏は屈した様子でもなく、ただ淡々と声を零していく。

「覚えてるか、昔、俺が猫さんを、襲った時のこと」

 さ、と風が通り過ぎた。猫の、ああ、だか、うん、だかいう返事をさらっていくかのよう。

「忘れようもないよ」

 うん、と呟いたのは猫か烏か、どちらにせよもう戻れない。

「あのとき俺はアンタを殺すはずだった。アンタを殺すべきだった。そう思わせる何かをアンタの中に見た。どうしようもない殺意と、同時に、やり場の無い不安に飲まれていた。ごめんな、あのときに殺しておけば良かったと思うよ、今でも。これからも、ずっと。なあ、猫さん。生きるって幸せか?」

 否定してくれと言わんばかりの、烏の視線が痛い。青い。酷にもそれら全てを無視するように、猫は目を閉じて彼の話を聞いていた。やがて猫が顔を上げる。あまりにもゆっくりと瞼を起こすものだから、烏が途方もなく長い話をしていたような錯覚を起こしてしまう。烏の問いかけに応じるまでの何十秒、猫は何を思ったか。

「さあ。どうだろう、死んでみないとわからないなあ」

 死にゆく生命に、こんな輝きが宿るだろうか。恐ろしいほどに時間がゆっくりと感じられる。生暖かい風にも鳥肌が立つほど。息をするのも苦痛だと言うように、眠りに落ちることすら億劫だと言うように、猫は笑う。慰めも哀れみも同情も、否定でさえも撥ねつけようかという口角に、どこにも行けない憐憫をたたえて、猫は笑う。

「ねえ」

 笑みを崩さないまま、猫は烏に問う。

「生きてるって幸せ?」

 風はもう吹かなかった。時が止まったかのように、猫も烏も微動だにしない。端正な世界の中で噛み合わない視線だけが、どうしようもない。空気中にまで溶け出した意図不明の笑みが肺に詰まる。

 死んでいるようだった。何もかも。

 分かり合えなかった。どこまでも。

「死んでいくんだよ。全て」

 風は吹かない。誰も、何も、二人を救わない。

「分かり合えないんだよ、決して」

 虫けらすら鳴かない。どれもこれもが馬鹿みたいに明るい。

「世界には二人しかいないというのに」

 猫の笑顔が破れた。

 どろりと滲んだのは愛か哀か。怒りも憎しみも焦燥も心酔も、何にも当てはまることの無い情緒が心臓で渦をまく。そこに溺れたまま沈んでしまえたら良かった。

「何もできないまま死んでいくとしても、自分とですら分かり合えないとしても、世界に私とお前の二人きりしかいないとしても、それでも、私は生きたかった」

 叫ぶような、けれど驚くほど静かな慟哭。流れ込む震えが治まらない。烏は目を閉じた。頭骨から溢れそうな脳が抑え難かった。

「ごめんな、俺、猫さんのこと、分からないや」

「いいんだよ、それで」

「俺、本当は、死のうよ、って、一緒に傷を舐め合える相手が欲しかった。それだけなのかもしれない」

「うん。知ってた」

「だからさ」

「うん」

「殺してくれよ」

 そっと、猫が動いた。猫はもう笑わない。使い道も忘れてしまうような笑顔はもう必要なかった。動かないままの烏に近づいて、そしてその目に、そっと触れた。


 ゆっくりと瞼を上げた烏は、腹の下に抱えた小さな白い欠片を踏んで、ぱきりと小気味のよい音を鳴らした。嘴を撫でていった柔らかな髭の感触だけを、烏ははっきりと覚えている。

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猫と烏と、夜と、あい @puonesica_

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