青い花

阿礼 泣素

第始話 希死念慮の少年

 希死念慮ってすごいよな。「死」をこいねがって、念じて、おもんぱかるんだから。死にたすぎじゃん。


 この世の全てに嫌気がさした。どうして人は生きなければならないのか。そんなことを考える毎日だ。毎日学校に通い、ご飯を食べて、家で寝る、そんな単純な営みに一体何の意味があるのだろう。


 少年は弱冠十四歳にして考える。このくだらない世界から、何か生み出したい。このやるせなくて、つまらない日常から抜け出したい。


そうやって、いつも現世からの脱却を空想していた。


 空には絵に描いたようなお決まりの大きな入道雲があった。蝉の鳴き声が耳にこびりつく。シャツが体にはりついて、額からは止めどなく汗が流れ落ちる。夏だ。


 時折吹く強い風に、一抹の希望を感じながら、いつものように通学路を歩く。


 少し違う道を通ってみよう――そんな軽い気持ちだった。


 日影が多い道だから、少しは涼しいかもしれない――そんな至極真っ当な考えだった。


 祠の前には、花が供えてあった。こんな暑いのに御苦労なことだな、そう思った。菊の花の中に一つ、名前の知らない花があった。空の色よりも、海の色よりも、ずっと青い花だった。そんなありふれた言葉で形容するのもはばかられるような、青だった。


 その美しさに僕は心を奪われた。たしかに、その時はそうだった。


 手に取った、途端、声が聞こえる。


「ちRAく知ト奈ノNI」


 正確には、声が聞こえると言うより、脳内に唐突に語の配列が伝達される感じに近い。僕はすぐさま、答えた。


――「嫌いだ」と。


 どうして答えることができたのかを明確に言語化することは難しい。でも伝わってきたんだ。


 強烈で鮮烈な光が一瞬にして辺り一面に刺すように降り注いだ後、空はたちまかげり出し、厚い雲に覆われた。


――2020年夏、太陽は失われた。


 数十億年後爆発する予定だった太陽が、爆発したらしい。きっと太陽にとってみれば、何十億の範囲、誤差なのだろう。ちょっと早く爆発しちゃった、そんな感覚なのかもしれない。


 少年は途轍もない過ちを犯してしまった、そう感じた。自分が、名も知らぬ花からの質問に答えたことで、この一連の世界の変革が行われてしまったように思われたからだ。


 警察にでも事情を説明すれば良いのだろうか。今起こったことは僕がやりました、僕を逮捕してください。


――誰がそんなこと信じるだろうか。


 中学生が何を言っている、鼻で笑われて終わりだ。自分が何か特別な存在だと思いあがっている痛い人間だと思われるだけだ。


 世界を変えたいだなんて大それたこと、できるはずがない。そう心の奥では思っていたはずなのに、どうやら僕はとんでもないことをしでかしてしまった。


 ふと我に返ると、さっきまで確かに握っていた花はどこかに消えていた。僕の見た幻覚だったのだろうか。いや、しっかりとあの声は聞こえてきたし、あの花の色を僕は記憶している。


 あの花を見つけない限り、もとの平穏を取り戻すことはできないのだろう。


 きっとそうに決まっているし、きっとそうに違いない。


 少年はあてもなく駆けだした。あの青い花には、この世の全てに嫌気がさした少年の心を動かすだけの何かがあった。


 緑の森を抜け、白い大地をはしり、青の川を渡って、鈍色にびいろの谷を越え、なんて言う冒険小説みたくはいかなかったけれど、少年は夢中で、我を忘れて、懸命に走った。


 ひとしきり走り回った後、少年は導かれるように小さな石碑の前にいた。なんの変哲もないただの古びた石碑。何やら文字も書かれてはいるものの、すっかり風化して何が書かれているかを読み取ることはできない。


「やっぱり、まただ」


 最初からそこにあったと言わんばかりに、祠の前で見つけたあの花が、風に吹かれ、揺れている。少年は先ほどとは違い、入念にその花を観察することにした。花弁は十枚、五枚は大きく、残りの五枚は一回り小さい。葉は菖蒲のように細く長い。花特有の甘ったるいにおいはしないし、形だけで見るなら道端に咲いていても気が付かないレベルの花だろう。


 ただ、人の心の奥底にまで深く入り込んでくるような、まるで自分の全てを掌握されているような、凄味がある青の花弁。その花弁を見つめていると、吸いこまれてどこかに行ってしまいそうになる。


 少年は、またその青い花にそっと触れようと試みた。しかし、先ほどの出来事が脳裏をよぎった。きっとまた、何か起こるに違いない。今度は一体何が失われてしまうのだろう。考えても仕方のないことだと分かっていても、安易にその花に触ることは躊躇われた。


 自分はこの花に試されている。そう感じた。


 この花に触れて、今までの日常を投げ捨てる覚悟があるのかどうか、この花が見ている。きっとそうに違いない。


 まるでバンジージャンプをする直前のような心境で、あと一歩を踏み出すか踏み出さないか、自分の心の中で葛藤を抱える少年。


 あれほど非日常を渇望していたのに、いざとなると未知へと飛び込む勇気が持てない。思い切って花に触れようとしたが、あと少しのところで迷いが生じてしまう。


 思い返せばいつもそうだった。自分で決めたことなんて一切なかったのではないか。一体、自分で何を為した? 僕は変わろうともしないのに、変わりたいと願っていたただの怠慢な少年だったのではないか。


 省察する中で、矮小な己自身を見つめる。きっとこの花はそれを僕に伝えたかったに違いない。


 得心した少年は、その花に触れることなく、立ち去って行った……



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