第3話


「あ、起きた」


 声がして気がつくと、上から俺の顔を覗き込むつぶらな瞳――ヒナと目があった。

 ソファーの上で、眠たい目をこすりながら体を起こす。

 どうやら帰宅していつの間にか寝落ちしてしまったらしい。

 時計を見ると時刻は午後八時を回ろうとしているところだった。

 

「タクご飯食べてないでしょ? いっぱい買ってきたから」


 そう言われて、ものすごく腹が減っていることに気づく。

 晩飯になにか買って帰ろうと思って、結局面倒になってやめたんだった。


 高校生の身ではあるが、色々と事情があって俺は現在マンションで一人暮らしをしているため、飯は基本自分で調達せねばならない。

 かと言って俺は料理も主婦顔負けにできてしまうスーパーイケメンではないので、たいてい飯はカップ麺だとか買ってきた弁当にならざるを得ないのだ。

 でもまあそれはあくまで基本、であって、今日のように例外が数多く起こることがままある。


「どれがいい? 好きなの取って」

 

 ヒナはテーブルに乗っているロゴのついた大きな袋をかさかさと広げる。

 彼女は駅前のファーストフード店でバイトしていて、たまにその帰りがけに割安で大量に購入して俺のところに持ってくる。

 それにしても買いすぎだろと思いながら、一緒になって袋を覗き込んで、

 

「あ、俺グラタンバーガーがいい!」

「食いつきいいね? そんなに好きだったっけ?」

「マサが今晩シチューとグラタンなんだって」


 これでこっちもも戦えるぜ。

 手を突っ込んでハンバーガーの入った袋をわしづかみにすると、ヒナは怪訝そうな顔で、


「それ、マサがタクに言ってたの?」

「そうだけど?」

「ふぅん、イヤミったらしい」


 と苦いものでも口に入れたような顔をする。

 もちろんマサにはそんな気は微塵もないというのがわかっているだけに反応に困る。 


「マサも一度、一人暮らししてみればいいんだよ。家でぬくぬくしてないでさ」


 マサの家はそこそこお金持ちなのだが、なぜかヒナはそれがあまりお気に召さないらしく、マサを勝手にお坊ちゃんキャラにしてことあるごとにネタにする。

 それも結構大げさに。やはり彼氏の愚痴を言うってのはよくあることなのだと、割りきるしかないかねえ。

 まあきっと、マサと一緒の時には俺の文句を散々言われてるんだろうからおあいこかな。


「ねータク?」

「いや、ねーって言われても……」


 なんというか、困った子だ。そうでなくても、困ったことがいろいろとあるというのに。

 ヒナは袋の中からポテトやらナゲットやらを適当に取り出してテーブルの上に広げると、スカートの裾を抑えてどすんと俺の隣に座る。

 が、一度腰を浮かせて、わざとらしく一人分距離を取って座り直した。


「何?」

「バイト終わりでちょっと汗臭いから」

「だがそれがいい」

「ヘンタイ」


 とかなんとかいつもの調子で軽口を言いつつ、お互いハンバーガーを口に運ぶ。

 ヒナの着ている制服は俺やマサとは違う学校のものだ。スタイルのいい彼女によく似合っている。


 髪型はゆるふわミディアムショート系。

 色も軽く茶っこくなったりして、なんというかここ数年ですっかり垢抜けた印象がある。厳密にはマサと付き合いだした頃からか。

 この前もピアスの穴開けよっかななんて話をしていて、なんていうかヒナも今どきの女子高生なんだなあと感慨深いものがある。


「このテーブル埃かぶってない? きったないなぁ、この前掃除したばっかりなのに」


 文句を言いながら、ヒナはウェットティッシュでテーブルを拭き始める。

 ヒナは定期的に俺の家にやってきては、掃除だの洗濯だの勝手にやりだすのだ。

 でもはっきり言って必要ない。俺だって自分ひとりでできることだ。前々からやめろって言ってんのにやめない。


 さらにヒナは俺の家の合鍵を持っている。

 ここに入居して荷解きなんかをして、スペアキーどこやったっけと思ってたら、ヒナがいつの間にか持っていた。

 返せと言っても別に余ってるんだからいいでしょと謎の逆ギレ。

 いざって時に必要なんだけどなぁ……とは思ったが、下手に俺が持っていてなくしたりするより、ヒナが持っていたほうがいいのかも、というのは確かに一理ある。


 だが一理あるだけであって、もちろんそれは問題なのだ。

 なぜかというと別にヒナは俺の彼女でもなんでもないってこと。

 それどころか、他にれっきとした彼氏――マサがいるのだ。

  

 しかしヒナに言わせてみれば、俺とは子供の頃からの付き合いの延長で、何もおかしいことはないという。

 マサもヒナが合鍵を持っているのは知っていて、それを許容しているっていうんだから器の大きいことよ。

 まあそれだけ俺が危なっかしい……いや信頼されてるってことなんだろう。そう思いたい。



 テーブルの上にあったヒナのスマホが短い音を鳴らした。メールか何か来たようだった。

 ヒナはハンバーガー片手に、もう片方の手でスイスイとスマホを操作する。

 

「マサ?」

「うん」

「なんて? 見せて」


 ぱっと身を乗り出してヒナのスマホを覗き込む。

 するとヒナは素早くスマホを叩きつけんばかりに自分の膝の上に伏せて、


「ち、ちょっとダメ! プライバシー!」


 過剰なまでの拒否反応をする。

 普段二人でどんなラインしてるんだろうな。

 赤ちゃん言葉とかで、ものすごい恥ずかしい内容だったりして。


「もしくはエロい系か……」

「なぁに? もう」


 ヒナはスマホを胸に押さえつけながら、さらにすすす、と俺から距離を取っていく。

 まったく、見せつけてくれるぜ。


 しばらくして飯を食い終わる。なんだかんだで全部平らげてしまった。

 それからヒナはスマホいじりに移行、俺はなんとなしにテレビを見ていると、


「そういえばさ、告白の話、どーなったの?」


 ヒナはスマホに目線を落としたまま言った。

 マサもそうだったが、二人にとってはとてもホットな話題らしい。


「いや別にぃ~……迷ってる」

「告白されたから付き合う、とかやめたほうがいいよ本当に」

「なんで」

「どうせ続かないから。そんなの時間のムダでしょ? 相手の人にとっても」


 マサとは真逆のことを言う。

 だがヒナがマサの逆を行くのは今に始まったことではない。

 俺がボクシングを始めると言った時も、賛成のマサに対してヒナは大、大、大反対であった。

 タクが殴られるのがかわいそう、だとかそんなわけのわからない理由でだ。


「ヒナは何でも反対するよな。ボクシングの時もそうだったけど」

「ボクシングは今でも反対ですから。でも、あんなこと言われたら何も言えなくなっちゃうかなぁって」

「え? 俺なにか言ったっけ?」

「ヒナが悪いやつにいじめられても、俺が強くなって守ってやるからって」

「いや別にヒナが、とは言ってない……」

「言ってたもんね~」


 そうやって無理やり押し通してくる。

 困ったことに、ヒナには俺の発言を自分にとっていい風に曲解する特技がある。

 

「守ってやるのはマサだってヒナだって一緒だよ」

「マサがいじめられるわけないよ。どっちかって言うと、いじめる方……」

「なんでそういう事言うわけ?」


 言いかけたヒナを、俺は鋭く睨みつけていた。

 いくらなんでもふざけすぎだ。そんな風に言うのは、たとえ冗談だろうが聞き流せない。

 俺がじっと無言でいると、ヒナは泣き出しそうな顔になって、首をうなだれた。

 

「ごめん……」


 それきり沈黙が流れる。

 ヒナはじっとうつむいたまま動かなくなってしまって、室内にはテレビの音だけがやかましく流れ、ただ時間だけが過ぎていく。

 気づけばもう時刻は十時近い。このままだとラチが明かないと思い、俺ははぁ、とわざとらしくため息を吐いてから、  


「もう帰りなよ。時間遅いし」

「嫌」

「どうして」

「タクが怒ったままだと嫌」

「いや別に、もう怒ってないから」

「怒ってる」

 

 さっきのですっかりへそを曲げてしまったらしい。

 んー、こうなるとまためんどくさいんだよなぁ。


「なに、どうすればいいの?」

「怒ってないって証明して」

「だからどうしろっての」

「ほっぺにちゅー」


 思わずぶふっ、と吹き出してしまう。

 もう色々、色々だめなやつだねこれは。


「バカなこと言ってんじゃないよお前マジで」

「なんで? 昔はよくしてたじゃん。キスごっこ」


 キスごっこってなんやねんと今となっては本当にそう思う。 

 子供というのは、無知ゆえの怖いもの知らずと言うか勇気というか残酷さというかとにかくそんな感じだ。


「そんなもんはマサと好きなだけやりゃいいだろ。いいからオラ立て、帰るぞ」


 俺はぐずるヒナを無理やり引っ立てると、ヒナのカバンを担いで部屋を出て、そのまま廊下を過ぎて階段を降りていく。

 マンションのエントランスを出て、駐輪場に停めてあったヒナの自転車を押しながら、まばらな街灯の照らす道をヒナとともに歩く。

 風が出てくると夜はまだ冷える。上着持ってくればよかったと思いながら、隣のヒナの様子をうかがう。やけに静かだ。

 お互い特に言葉をかわすことなく歩き続けると、やがて明るい大通りが行く手に見えてきた。

 それと同時に、ヒナが小さく言葉を発した。


「……あのさ、タク」

「なに?」

「何でもない」


 なんなんだよ、と横にひねった首を前に戻すと、頬にふっと温かい感触が当たった。

 ヒナの唇だった。


「ここまででいいから。バイバイ」


 ヒナは俺から自転車のハンドルを奪うと、サドルにまたがった。

 大きくペダルを漕ぎ出し、振り返って一度、笑顔で俺に手を振った。

 俺はただ小さく手を上げて、それに応える。

 自転車が角を曲がるとヒナの姿はすぐに見えなくなった。

 まったく本当に……困った子だ。 

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