手遅れ
船が桟橋に着いた。私はタラップを駆けおりると、その速度を緩めることなく、翡翠館へと続く道を走っていった。一秒でも時間が惜しかった。それでも館に着くまで十五分もの時間がかかった。
館に着くと、友人の片桐雄二が私を迎えてくれた。父の片桐蔵之介が、危篤状態にある母を殺そうとしている――そう言って私をこの館に呼び寄せたのは、他ならぬ彼であった。
「わざわざ来てくれてありがとう。実は……」
雄二は言葉を濁した。それは、私が間に合わなかったことを意味していた。
「とにかく、君の父親に会おう」
雄二は無言で頷いた。片桐蔵之介の妻、片桐
雄二が扉をノックする。返事を待たずに、私たちは部屋に入った。死者を除けば、二人の人間がそこにいた。白衣を着た医師と館の主人である。
「君はたしか、雄二の友達の……」
片桐蔵之介は朗らかな表情を浮かべて、握手を求めてきた。私はそれを拒否した。
「あなたは奥さんを殺したんですか」
館の主人は動じる様子もなく答えた。
「ああ。ほんの五分前にね」
私はできるだけ毅然とした態度で言った。
「あなたの行為は殺人罪に当たります。そのことを理解していますか?」
「殺人罪?」片桐蔵之介は不思議そうな顔をした。「どうせ死ぬ運命だったんだ。私が殺さなくても、今日か明日のうちには息を引き取っていただろう。私は死期を少し早めただけだ。それでも罪になるのか?」
「当然です。出頭していただけますか」
「おいおい冗談だろ、龍平君」
こんな男に名前を呼ばれるのは、ただただ不愉快だった。彼は続けた。
「わかったわかった。ちゃんと理由を説明するから。私の話を聞けば、君も納得してくれるはずだ」
殺人犯は椅子に腰かけ、自身の物語を語り始めた。
「私は妻の全てを独占したかったんだ。彼女の肉体、彼女の心、彼女の人生――妻を構成するありとあらゆる要素を管理下に置きたかった。妻が何を食べるか、妻がどこに出かけるか、そして妻がいつ死ぬか。私にはそれを決める権利があると思った。
だから老衰で妻が死ぬのを見過ごすことはできなかった。自然死は私の管轄外だからね」
この男は妻の死を所有するためだけに、殺人を犯したのだ。私は激しい嫌悪感を覚えた。
「仕方がなかったんだよ。君も男なら、同意してくれるだろ?」
独りよがりな価値観を押し付けられるのは、まっぴらだった。世の中にはこういう男がたくさんいる。自身が正義であると疑わず、他者の痛みに無頓着な男が。
「まあ、この事実を知っているのは私と、息子と、君と、医師の安成君――この場にいる四人だけだ。外部に漏れる恐れは一切ない。君は息子の友達だ。黙っていてくれるね?」
私は無言で振り返り、寝室を去った。後ろから雄二がついてきて、詫びるように言った。
「巻きこんでしまって悪かった。君なら父を止めてくれると思ったんだ」
「謝らなくていい。悪いのは全てあの男だ」
「……警察には連絡するつもりなのか?」
「いいや。あの男を裁いたところで、何も変わりはしない。むしろ君に迷惑がかかる。沈黙を守るつもりだ」
「ありがとう。母の葬儀が終わったら、また連絡するよ」
「わかった。それでは、失礼する」
「さようなら」
「さようなら」
玄関で雄二と別れ、私は港へと向かった。この地に足を踏み入れてから、まだ一時間も経っていなかった。だが、私にできることはもうない。おとなしく退散するとしよう。
無力さを噛みしめたまま、私は船に乗った。人が本当に安らげる場所は我が家しかないのかもしれない。そんなことを考えながら、私は帰っていった。
娘と妻が待つ
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